短編

松に宿る猫


 私の地元は静かな住宅街である。
 都会に見られるようなコンクリートの冷たい外見の家はなく、ブロック塀よりもむしろ垣根を好む民家が立ち並んでおり、カイヅカイブキやベニカナメ、サザンカといった生垣の香りが、特に雨の日によく空気中に散在する。季節の星座を楽しむことのできる空は広々としており、淡い街灯の明かりが唯一、天の川を光の中に隠す。非常に長閑で、住み良い所である。
 中学・高校時代と、私は野球部に所属していた。決して強豪でも有名でもなかったが、部活動は充実しており、叶える事はできなかったが甲子園という夢に向かって、仲間と共に日々練習に明け暮れていた。
 高校3年生になったある日、私たち受験生は受験勉強に専念するため、夏休みの終わりを区切りに引退となった。帰宅時刻が早くなったことで新鮮に感じたのは、夕日の光により作られた自分の影を見たことだった。
 帰路上にそれを落とし、踏むように歩く。
 私と同じ動作をする影は、幼い頃の私のまま成長したようだった。
 あの頃、私が学校を出る時間は午後6時頃。
 家への帰り道、私は、私とは逆方向に歩く老人とよくすれ違った。
 非常にゆっくりとした足取りで杖も使わず静かに歩を重ねる彼の表情は穏やかで、夕日に照らされて優しく輝いていた。
 まったくの他人同士だったが、私の帰り道と老人の散歩道が方向こそ違うが同じ道筋ということもあり、お互いの存在は2人とも認識するようになっていった。
 何度目かのすれ違い際に、私たちは浅くお辞儀をし、目で挨拶を交わすようになり、更に何度目かのすれ違い際から、
「こんにちは」
 という言葉を交わすようになった。
 すれ違う場所は日によってまちまちだったが、その日課は欠かすことはなかった。
 老人は、日の入りの時刻が変化しても散歩をする時刻を変えることはなく、挨拶はいつからか、
「こんばんは」
 に変わっていた。


 私たちの通る道筋に、ベニカナメの垣根を持つ家があり、その生垣の内側に、一本の大きなアカマツが植わっていた。老齢であろうその松はYの字型に伸びており、針のような葉は少なかったが、堂々とした存在感を周囲に放っていた。
 道路側に伸ばした腕の上には、ヨモの綺麗な模様をした猫が一匹、よく止まっていた。
 雨の日以外は毎日、猫は松の上の決まった位置で目を閉じ、時には夕日に照らされ、時には夜に同化するように、まるで宿り木のように静かに止まっていた。
 キンモクセイの香りが辺りを包む頃、いつもより少し遅く学校を出た私は、その猫の宿る松の側を通るときに前方に老人の姿を見つけた。
 ベニカナメの垣根は街灯の明かりを借りてその赤さを闇に浮かばせており、猫はといえば、相変わらず松の木と一体化していた。
 それらの前を通り過ぎたところで、私は老人とすれ違った。
「こんばんは」
「こんばんは」
 歩調の違う足音が重なり、過ぎ去る。
 いつもの画であった。
 私がそのまま足を進めようとした時。
「トラ吉」
 老人の声が私の耳に届いた。
 一瞬、私が呼ばれたのかと思い、とっさに振り返った。だが、その呼びかけは私に向けられたものではなく、松の上の猫に向けられたものだった。
 老人はそれ以上言葉を続けるでもなく、ゆっくりとした足取りで歩き去っていった。
 老人が去った後、『トラ吉』と呼ばれた猫はのんびりとした伸びをし、身軽に生垣の向こうの松の下の地面に降り立った。ほんの少しの間を置いて、『トラ吉』はベニカナメの下から姿を現すと、路傍に腰を下ろし、老人の後姿を眺めた。
 ふと、私たちの視線の先で、十字路に差し掛かった老人が振り返った。
 彼の視線は先に『トラ吉』を捉え、次いで私と線分を結ぶと、再び『トラ吉』に戻った。
 彼らの行動をまだ理解していない私の前で、『トラ吉』はゆっくりと腰を上げると尻尾をピンと伸ばし、ベニカナメの垣根の内側に姿を消した。
 老人はそれを確認すると私を見、軽くお辞儀をし、十字路を右へ曲がっていった。
 後には何事もなかったかのような雰囲気の路地が残され、私はしばらく、短時間の出来事の余韻に包まれていた。


 その夜以来、私は意図的にトラ吉の指定席の前で老人とすれ違うように学校を出る時刻を調整した。
 老人は私との挨拶も欠かさなかったが、トラ吉への呼びかけも忘れることはなかった。
 そしてトラ吉のほうも、松の木から降りて路傍に出、老人を見送ることを怠らなかった。
 一度だけ、私は気まずい心を持ちつつも、老人がやってくる前にトラ吉に声をかけてみたのだが、案の定、彼は松の木に止まったまま、動く気配を見せてはくれなかった。
 やがて雪が積もる季節が来きても、一連の所作は変わることがなかった。
 強いて言えば、トラ吉が雪の積もった路傍まで出てくることがなくなり、代わりに松の木のY字の窪みで姿勢を正して座り、老人を見送るようになったことだろう。老人が振り返ると、トラ吉は腰を上げて尻尾をピンと伸ばし、松の木から降りるとそのまま夜の中へ去っていった。


 そんな中、私は徐々に受験に忙しくなり、無事に志望の大学へ進学となった後もその準備に追われ、しばらくの間、彼らの日課にお邪魔することができなかった。落ち着かない心のまま時は過ぎ、旅立ちの前日になってようやく復帰することができた。
 老人とのすれ違い際に大学へ進学することの報告をすると、彼はにこやかに微笑み、
「おめでとうございます」
 と祝辞の言葉を述べ、トラ吉にも短く、私のことについての報告をしてくれた。
 トラ吉は恐らく理解できなかったろうし、興味もなかっただろうが、私は嬉しくて、
「頑張るからな」
 とそっぽを見ているトラ吉に約束をし、老人に深々と頭を下げた。
 別れ際に、老人は穏やかな微笑を私にくれた。


 あれから4年の歳月が流れ、私は無事に大学を卒業し、地元の企業に就職を果たした。
 久方ぶりに暮らす地元の雰囲気は、目に映るものこそ変化していたが、昔のままだった。
 例年より遅く咲いたソメイヨシノの下を通り、私は例の時刻に例の路地へ足を運んでみた。そよそよとした風の中、トラ吉は相変わらず松の木の定位置に止まっており、夜の空気に身を溶け込ませつつ、目を閉じていた。
「ただいま」
 私の声にうっすらと目は開けたものの、トラ吉は動こうともせず、じっとしている。
 そんなトラ吉に満足を覚え、私は腕時計に目を落とした。
 本来なら、老人の姿をもう確認できている頃合である。
 私は30分ほどその場で老人を待っていた。トラ吉を見習って静かにしていたつもりだったのだが、彼の表情を窺うと、どうやら私は落ち着きがなかったらしい。
「おじいさん、どうしたんだろうね」
 私はトラ吉にそう呟きかけた。
 トラ吉は答えをくれず、私はもうしばらく待ってみた後、その場を去った。


 翌日も、翌々日も、老人は姿を見せなかった。
 ほどなくして分かったことだが、彼は私が地元へ戻る直前の2月の末に、家族に見守られながら静かに息を引き取ったという。享年98歳ということだから、老人は私に会ったときには既に90歳を越えていたことになる。
 ほんの数ヶ月の知り合いであり、言葉を交わした時間を積算しても大した数字は出てこないだろうが、彼との時間は私にとって特別なひと時であった。
 何もしないでいるわけにはいかず、私は身なりを正し、彼が住んでいたという家を訪ねた。
 サザンカの垣根を越え、咲き乱れるシバザクラに迎えられながら、私は玄関のベルを鳴らした。
 はぁい、という声が家の中から聞こえ、やがて朗らかな雰囲気のおばあさんが出てきた。最近は何かと物騒なため断られることも覚悟していたのだが、私が簡潔に自己紹介をし、老人との関係を手短に説明すると、彼女はにっこりと笑って私を仏壇の前に招き入れてくれた。
 線香の落ち着いた香りが漂う中、白黒の写真の老人はあの頃の彼のまま、穏やかに微笑んでいる。
 手を合わせ、私は老人に私のことやトラ吉についての報告をした。
 その後、おばあさんに案内され、私は畳の香りのする客間へ通された。
 花鳥風月を表す木彫りの欄間は、生前の老人を彷彿させるような雰囲気を醸し出している。
 私は温かなお茶を頂き、おばあさんと少しの間会話を交わしてから、老人の住んでいた家を後にした。
 帰り道、上空は桜鼠色の雲に覆われていた。
 地面に視線を落とせば、カタバミが路肩で弱い風に吹かれている。
 黄色いその花を見ながら、私は先ほどのおばあさんの言葉を反芻した。
「口数の多い人ではありませんでしたが、父から貴方のことはよく聞いていましたよ」
 お茶を出しながら告げた彼女の笑顔は、どことなく、老人のそれに似ていた。
 老人がどんなことを彼女に話したのかは分からない。
 だが、その言葉を思い出すと私の心は嬉しさでいっぱいになり、しかしすぐに、寂しさに埋もれていった。
 目頭が熱くなったところで顔を上げれば、トラ吉が相変わらず松の木の上に宿って目を閉じていた。
 私は呼吸を整えると、足を止めた。
「トラ吉」
 名前を呼んだが、トラ吉は耳のみを私に向けただけで、夕日の見えない西の空を背に、動く気配を見せなかった。
「トラ吉――」
 続きを言おうとして、私は口を閉じた。
 トラ吉は賢い猫だから、わざわざ私が伝えなくてもちゃんと分かっているのだろう。
 私はかつて老人が歩いていった方向に足を進め、彼と同じように十字路でトラ吉を振り返った。
 トラ吉は、私に背を向けたまま微動だにしない。
 私は彼の背中に柔らかな微笑を投げかけ、家へと歩き始めた。


 その翌日から、私は老人が歩いていた散歩道を辿って帰宅するようにした。
 仕事の都合で6時に帰路に着くのは難しくなったため、時間帯は8時以降にずれこんだが、トラ吉はその時刻になっても松の木の上にいた。
 夜の帳の中、私は松の木の下で足を止め、
「トラ吉」
 と呼びかけてから再び歩き、十字路で振り返るという所作を、トラ吉のいない雨の日以外はほぼ毎日続けた。
 トラ吉は私が呼びかけた後も依然として松の木に宿ったままだったが、私はそんな彼も好きだった。


 やがて気温が下がり、冬の始まりとなったある日。
 道路は先刻降った霰にうっすらと覆われ、冷えた路傍には丸く白い粒が隙間なく敷き詰められていた。
 私は雪雲の去った星の見える空を見上げながら、いつもと同じようにトラ吉の宿る松の木の下を通りかかった。
「トラ吉」
 白い息と共に私は名前を呼び、トラ吉は耳だけを私に向ける。
 私はそのまま、松の木を後にする。
 雲から顔を出した月の光を街灯の明かりの中に感じつつ、霰の感触を靴の裏で確かめた。数時間後には消えてしまうであろうそれは、水分をたっぷりと含んでいた。それでも、もう雪の降る季節になってしまったのだ。
 十字路に差し掛かり、慣れた滑らかな動きで後ろを振り返る。
 トラ吉は、松の木の上にいた。
 だが次の瞬間、私は思わず、あっ、と声を上げそうになった。
 トラ吉は、松の木のY字の窪みで、姿勢を正してこちらを向いていたのだ。
 驚く私の視線の先で、トラ吉は腰を上げ、尻尾をピンと伸ばすと、音もなく垣根の向こうの松の木の下へと消えていった。
 静かな空間だけが残され、私は瞬きも忘れてその場に佇んだ。
 ベニカナメの赤さが、徐々に、色を取り戻す。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 自分の耳にも聞こえるくらい、私の鼓動は速まっていた。
 ふとした温もりを側に感じ、私の時間はようやく動き出した。


 冬の香りの漂う、澄んだ空気の夜だった。
 私は初めて、トラ吉に認められた気がした。



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