短編

老婦の画廊


 佳穂が陽菜たちと『紅葉狩り兼秋の味覚を満喫しよう』小旅行に出かけたのはつい先日のことだった。
 友達と語らいながら秋を楽しむ企画も楽しい。しかし、そうなると歩く速度も訪れる場所も友達と調子を合せなければならず、写真を撮りながら歩こうと思うと難しい。
 だから、1人でゆっくりと旅をする時間も必要だ。
 佳穂は先日新調したデジタルカメラを片手に、のんびりと自分の調子で歩を進めていた。
 午前中のひんやりとした空気がまだ残る昼過ぎ、高度の低くなった太陽からは、それでも暖かな日差しが注がれてくる。
 日向の心地よさに、佳穂が一度大きく腕を伸ばし、空を仰ぐ。
 薄い雲がところどころに存在し、その白色を背景にトビが、ピーヒョロロ、と鳴きながら輪を描いている。
 長閑な空気に、佳穂は深呼吸をした。
 視線を目の高さに落とせば、外れそうな木の戸を持つ小屋の隣、熟れた柿の実が日の光を浴びて光っているのが見えた。
 絵になる、と思い、佳穂が太陽と小屋、柿の木が入る場所を探し、カメラを構える。
 いずれ本格的なカメラを購入したいところだが、資金がない間はデジタルカメラに頼ることになりそうだ。
 露出の調整は邪道ながらフォトショップでの加工に任せることとし、撮影ボタンを押す。
 小屋と柿の木の背後に広がる田圃もまた、秋らしい雰囲気を醸し出していた。
 満足し、キョロキョロと周囲を見回した後、佳穂は柿の実を撮影するために柿の木の敷地内に入った。
 湿った土は柔らかく、そっとその香りを届けてくる。
 足を取られないように気をつけつつ、柿の木の元に辿りつく。
 下のほうになっている実は明るい橙色をしているが、上のほうの実は赤い橙色をしており、鳥が食べた痕を確認することができた。
 見上げる角度で撮影し、柿の木の幹に視線を巡らせば、カマキリを見つけた。
 ゆっくりと上に向かって足を動かしている。
 近くにカメラを持って行けば、気配を察したのだろう、カマキリが動きを止めた。
「あ、ごめんね」
 一言詫びつつも、佳穂は撮影ボタンを押す。
 カメラを離した後もカマキリは動かない。
 無言で文句を言われている気がし、佳穂は申し訳なさそうな表情をすると、ごめんね、ともう一度心の中で謝り、そっと柿の木を後にした。


 紅葉と黄葉に囲まれる散策路を歩けば、イロハモミジの葉が重なり合い、光と影が透き通った色を生みだしている。
 足を止めては撮影、を繰り返しながら歩いていたとき、佳穂がふと、前方で何かが動く気配を感じて足を止めた。
 イロハモミジの葉が落ちる中、腰の高さまでの木の看板が道脇に佇んでいる。
 その足元、手足の先とお腹が白く、トラ模様をした背中を持つ猫が、しきりに看板の端に口の端をこすりつけていた。
 猫だ、と佳穂が喜んで近寄ろうとする。
 足音に驚いたか、猫がびっくりして身構え、細い瞳孔をした丸い目を佳穂に向けた。
 いけない、と佳穂が止まる。
 逃げようとしていた猫もまた、その場に止まった。
 猫好きな佳穂だったが、アプローチの仕方が強引すぎるのか、ほぼ毎回フラれてばかりだ。今日こそは撫でてやる、と心の中で意気込みつつも、表に出す動きは謙虚に、佳穂がその場にしゃがみこみ、視線の高さを下げる。
 暫くそのままじっとしていれば、猫がようやくに警戒を解き、その場に腰を据え、貴女には興味ありません、とでもいうようにそっぽを見た。
 枯れ草が似合う虫の音が、風で擦れる木の枝の音に溶け込む。
「猫ちゃん」
 呼んでみたところ、猫が佳穂を振り返った。
 猫という単語は認識していないだろうから、声に反応したのだろう。
 首を少し傾げて微笑んでみれば、猫が目を細める。
 弱い風に吹かれて、猫の少しばかり長めの毛がふわっと立つ。
 日の光を受けて、トラ模様の背中が輝いた。
 腕を伸ばし、指を軽く動かす。
 何だろう、と上半身をわずかに前に向けたものの、猫は看板の隣に座ったままだ。
「こっちおいで」
 佳穂は指を動かし、さも食べ物をもっているかのように装った。
 じっと佳穂を見ていた猫が、危害を加えられることはないと思ったか仕方ない、と思ったか、腰を上げる。長い尻尾が看板の横手で上に向かって伸びた。
「おいで」
 反応した猫が嬉しく、佳穂は指を動かした。
 遠いところからでは匂いも何もあったものではないだろうが、猫は鼻をくんくんとさせるような仕草をすると、佳穂のほうに向かって歩き始めた。
「そ。おいで」
 佳穂の言葉に、横手を見て足を止め、後ろを見て足を止め、といった動作を繰り返しながら猫がゆっくりと近くに寄ってくる。
 そのじれったい仕草に痺れを切らし、思わず佳穂が立ち上がった。
 途端、驚いた猫が佳穂を見やり、ぴゅっと横手の路地に逃げ込んだ。
「あーっ」
 残念がる佳穂だったが、驚かせてしまったものはしょうがない。
 立ち上がると肩を落とし、路地を覗いた。
 耳だけを佳穂に向けた猫が、そのまま路地の先の緩やかな坂へいそいそと足を進めていく。日陰から日向に入り、柔らかな影が地面に描かれ、その主の猫のひげが白く光った。
 息をつき、佳穂は猫が座っていたところに視線を戻す。
 看板には、『画廊「絵楽」-猫のいる風景-』との文字が丸みを帯びて書かれており、その下には鯉の絵が貼られていた。
 ふと気になり、近寄ってよくよく見てみれば、その鯉には耳が生えていることが分かった。
 あ、と佳穂が気づき、屈みこむ。
 それは、まるで鯉が泳ぐ様子をを上から見たように、歩く猫たちを上から見た様子の姿の絵だった。
 ゆらりゆらりとした猫たちの背中に惹かれ、佳穂は、何だろう、と情報を求めて看板の下のほうに目をやった。
 緩やかにたわんだ矢印は、絵の中の鯉のような猫たちが向かうほうを、そして先ほどの猫が向かった路地の坂のほうを指している。歩いて50mと書いてあるところをみると、画廊はすぐそこらしい。
 再び、絵を見る。先頭を歩くこの猫は、先ほどの猫の背中に似ていた。
 立ち寄ってみよう、と思い立ち、佳穂は路地を見た。
 猫道にでも入ったのだろうか、先ほどの猫は見当たらない。
 ひょっとしたら画廊を紹介するために現れた精霊猫かな、と幻想的な想像をしつつ、佳穂は坂に向かって歩いて行った。


 秋の終わりの日の光を浴び、時期の過ぎた金木犀や冬に咲くだろう山茶花が植わる家家は静かに佇んでいた。
 ゆとりのある空間を感じさせるのは、家と家の間が広いからだろうか、時間までもがのんびりと過ぎているように感じられる。
 緩い坂を登ったその先、佳穂は行き止まりに瓦屋根の一軒家を見つけた。
 瓦屋根ではあるが、建物の一角はモダンな雰囲気であり、サンルームの中で談笑をしている老婦の様子が目に映る。
 次いで彼女たちの足元、日の当るところに寝そべっている白い猫を見つけ、佳穂は、あ、と表情を綻ばせた。
 ふと、坂を登る人の気配を感じ取ったのだろう、談笑していた老婦が佳穂を見、あら、とその口元を動かした。それを受けて佳穂がぎこちなく会釈をすれば、老婦もまた、ゆったりと会釈を返してくれた。
 サンルームの手前には坂の下の看板と同じ看板が立てかけられており、山茶花の垣根から敷地内を覗いてみれば、『画廊「絵楽」』の文字を掲げた画廊の入り口が設けられていた。「絵楽」は、どうやら「かいらく」と読むらしい。
 その木枠のドアが開かれ、中からきれいな白髪をした老婦が出てきた。
「こんにちは」
 彼女のにこやかな挨拶に、佳穂もまた、
「こんにちは」
 と挨拶をすると、
「坂の下で看板を見かけまして」
 と付け加えた。
「あら、猫がお好き?」
「はい」
 頷いた佳穂が、あ、と思い出す。
「そういえば、看板のところでトラ模様の、手足の先とお腹が白い猫に会いました」
「トラ模様で、白い子? あ、それはきっと、松吉か梅吉ね。松吉のほうかしら」
「まつきち?」
「ええ。この子」
 老婦は頷くと、看板の鯉のような猫たちの先頭を示した。
「あ、きっとその子です」
 似ている背中だと感じたのは間違っていなかったらしい。
「おばあさんのところの猫ですか?」
「ええ」
「看板に寄り添っていて、ここを紹介してくれたのかな、とも思いました」
「あら、あの子が招き猫をしていただなんて」
 そう言うと老婦は、くすくすと笑った。
「さ、どうぞ。日が出ているけど風は冷たいでしょう?」
「あ、はい」
 招かれて画廊の中へ入れば、木の香りが佳穂を包み込んだ。
 正面には、横に長い大きな絵が掛けられていた。
 看板に貼ってあった、鯉のような猫の絵だった。
 ゆったりとしたその様子に画廊の中が広く感じられ、佳穂はぐるり中を見回した。
 白い壁を借りて照明が室内に明るさをもたらしており、その中に、優しい色遣いの絵画が十分な間隔を置いて掛けられていた。画廊の真ん中には 背もたれのない正方形の小さなソファが3つほど並べられており、佳穂の腰あたりまでの高さの観葉植物のカポックが添えられていた。
「どうぞ、ゆっくりご覧になって。見終わったころに、お茶をお出しするわ」
「はい、ありがとうございます」
 老婦が去っていく方向を見れば、画廊からサンルームに直接つながるドアの隣にガラス張りの窓があり、その向こうでは談笑をしている数人の姿と、日の当たる棚の上
で眠っている牛模様の猫の姿が見えた。
 画廊そのものが猫のいる風景であり、佳穂は口元を緩めた。
 入り口から反時計周りに絵画を眺めることとし、最初の1枚に足を向ける。かけられている絵の横には『まどろみ』という作品名と、『長谷川サチ』という名前が書かれた小さな紙がピンで止められていた。作品名の通りまどろむような淡く温かい色に包まれて、まるで笑っているように眠っている子猫の絵。思わず肉球の部分を触ってみたくなるのを堪え、佳穂はじっと子猫を眺めた。
 絵には疎い佳穂だったが、使用されている絵の具の種類が佳穂の知っている水彩のそれとは違うことは分かった。
 ざらついた感があるものの、優しい雰囲気が出ている。
 塗っているというよりも、載っているといったほうが正しいのだろうか。
 初めて見てとった岩絵の具の感覚に興味を覚え、佳穂は次の絵に足を進める。
 『来客』。丸い障子戸から外を覗く白猫とトラ模様の猫。前足を障子戸の枠に乗せ2本の後足で背伸びをする彼らを後ろから描いた1枚。障子戸から眺める外の景色には、小さいながらも梅の花の蜜を吸うメジロの姿があった。猫であれば放っておけないのだろう。集中している2匹の猫に、佳穂はくすっと笑みを送った。心なしかお腹がぼってりしている彼らでは、メジロを捕まえることは到底不可能に思えたからだ。
 佳穂が更に足を進める。
 『今日もまた雨』。雨に濡れる鮮やかな紫陽花の側の窓。その窓ガラスの内側から紫陽花とは反対側の外を眺めるお腹の白いトラ模様の猫。これは、『松吉』なのだろう。全体的に青味がかった色合いに、どこか物憂げな松吉の表情が溶け込んでいる。外に出て思いっきり駆けまわれない梅雨空は、彼にとっては恨めしい存在なのだろう。
 『転寝』。この1枚は、夏の昼だろうか。畳の部屋でぐったり寝そべる明るいトラ模様の猫と女の子。奥の縁側に掛けられている風鈴と、外で空を仰いでいる向日葵は揺らいでおり、風は彼らが眠る和室にも吹き込んでいるのだろうことが分かる。近すぎず遠すぎずの猫と女の子の距離が、なんとも微笑ましい。
 『水遊び』。ホースの先を細めて水の勢いを強める、快活な笑顔の女の子。水が細かく噴き出たところには、虹がかかっていた。彼女の背後、縁側の下からそっと様子を窺うさび猫。猫は水が嫌いだということを聞いたことを思い出し、佳穂は避難しているさび猫に同情を寄せた。水遊びの好きな子ども、水が嫌いな猫。となれば、この絵の数分後、さび猫は果たして乾いた身体でいられただろうか。
 そして、看板に貼ってあった、この画廊に入った瞬間に目を奪う、鯉のような猫たちの絵。
 『泳ぐ猫』。大きく描かれたそれを眺めるため、佳穂は数歩下がった。
 端から端までゆらりゆらり、歩く7匹の猫たちの背中、それらは確かに泳いでいるようである。
 先頭を行く、ふさふさしたトラ模様の猫、松吉。その後ろには、同じようなトラ模様の猫。だが松吉より顔が小さく、お腹が大きい。続く白猫。僅かに色がついているようにも見えるが、長い体をしている。この2匹が先ほどの『来客』でメジロを狙っていたのだろう。彼らに続く、見上げる牛模様の猫と目が合う。心なしか、口元が綻んでいるように見えた。そのすぐ側を行くさび猫は、牛模様の猫を慕っているらしい。続くトラ模様の猫。前を行く松吉ともう1匹のトラ模様の猫よりも濃い色をしている。そしてまた、トラ模様の猫。他のトラ模様の猫たちより明るく、橙色味が強い。『転寝』に描かれていた猫だろう。上から描かれているため表情は見えないが、耳の様子から察するにどことなく不機嫌そうだった。
 7匹の彼らはどこに向かって歩いて、もとい泳いでいくのだろう。
 誰かの元へ向かっているのだろうか、それとも何かを見つけたのだろうか。
 想像を膨らませながら、佳穂は彼らの赴く先へ足を進め、小さな額縁の作品の前に立った。
 『2匹の世界』。柔らかな桃色と濃い紅色が一面に咲いている。花と茎、葉の形から、コスモス畑なのだろう。その真ん中で肩を寄せ合うように、牛模様の猫と濃いトラ模様の猫がこちらに背中を向けている。まるで往年の夫婦が2人きりの旅を満喫しているようだった。
 『秋を探して』。日が傾いた淡い色合いの中で佇む柿の木と小屋。稲刈りを終えた後の田園風景が目に入ってきた瞬間、佳穂の中に郷愁の想いがこみ上げた。畦道を歩くのは、明るいトラ模様の猫だ。じっと見ていた佳穂だったが、ふと、この景色に見覚えがあることに気づく。記憶をたどれば、今日の紅葉狩りの帰りに見かけた小屋と柿の木だった。
 カメラを取り出し、撮影した画像を確認する。
 視点は違うものの、フレームに入っている山は描かれている山と形が似ていた。
 同じ場所を選んだ、という繋がりに佳穂が嬉しさを覚える。
 この猫も、佳穂と同じように秋を探しているのだろうか。
 心の内で問いかけつつ、次の絵画に足を進める。
 『雪遊び』。女の子2人がかまくらの外側を叩いている。かまくらの形は既に出来上がっているため、最終チェックでもしているのだろうか。そんな彼女たちより一足先に満喫しているのか、かまくらの中には、顔こそ見えないものの、猫の手足が描かれている。肉球が冷たくないのだろうか、と心配になるものの、女の子たちの側がいいのだろう。かまくらの中で女の子たちとくつろぐ猫を想像し、佳穂は口元を綻ばせた。
 『寄り道』。続いて掛けられている絵は、雪の上に落ちた椿の絵だった。題名と椿との関連が分からず、また珍しく猫がいない絵だと思っていた佳穂だったが、ふと、白い色の中にも明暗があることに気づく。顔を近づけてよく見てみれば、足跡のようなものが描かれていた。小さなそれは、猫のものだろう。椿の元に立ち寄り、額縁の外へ向かっていた。なるほどそれで『寄り道』か、と佳穂が頷く。冬は猫はこたつで丸くなるものとばかり思っていたが、そうでもないらしい。
 意外に思いつつ、佳穂は最後の1枚の前に立った。
 『白雪姫と7匹の猫』。見た瞬間に温かさが伝わる配色。中心に大きく、目も口も微笑んだ牛模様の猫の顔が描かれている。どこか、ふわふわした場所でくつろいでいるらしい。その猫を囲むように、左側に3匹、右側に2匹の猫が描かれていた。それぞれ目を閉じていたり、眠そうな目でこちらを見ていたりしている。数を数え、佳穂は、あれ、と首を捻った。先ほどの大きな鯉のような猫の絵では7匹を数えていたはずだ。
 もう一度、よくよくその絵を見てみれば、右側の奥にひっそりと、耳だけこちらに向ける明るいトラ模様の猫が隠れていることに気づく。
 照れ屋なのだろうか、と微笑みつつ、佳穂は全体を眺めた。
 ふと、ドアが開く音がし、佳穂がサンルームへの入り口を見る。
 老婦、この画廊の主の長谷川サチが湯呑を載せた盆を持ってゆったりと佳穂に近づき、どうぞ、と中央に並べられている小さなソファを勧めた。
「梅昆布茶、大丈夫かしら?」
「あ、はい。好きです」
「あ、やっぱり。そんな感じがしたの」
 外れたことないのよ、とサチが笑い、佳穂の隣に腰をかけた。
「ここには紅葉を見に来たのかしら?」
「はい。泊まりがけの1人旅です。写真を撮るのが好きなので」
 梅昆布茶の入った湯呑から片手を放し、佳穂はデジタルカメラを見せた。
「あら、どんな写真か拝見してもいいかしら?」
「はい」
 電源を入れ、閲覧モードにしてから佳穂がサチにデジタルカメラを渡す。
 サチは老齢ながらこの電子機器の扱いに慣れているらしく、眼鏡をかけるとボタンを押して写真をスライドさせ、佳穂が撮影した風景を眺めた。
「あら、遊歩道も随分ときれいに色づいているわね。さっき来た方も言っていたわ。今年はここ10年の中でも最高だ、って」
「今日は天気も良かったので、透き通った葉が印象的でした」
「あ、これね。ほんと、光と影が印象的」
 青空を背景に撮影したイロハモミジの1枚に、サチが頷く。
「あら。この柿の木は、あの柿の木ね」
 ふと、サチが目を細める。
「はい、同じ場所の絵を見て、私も嬉しくなっていたところです」
 佳穂が微笑めば、サチもまたにっこりと笑った。
「懐かしい風景が残っているところだものね。わたしもあの場所にはよく行くの。昔に戻った感じがするもの。でも、お千鶴が通りかかったときはびっくりしたわ。あの子あんなところまで散歩に出ているなんて」
「おちづ?」
「そう、お千鶴。あの絵の中で散歩をしている子」
 どうやら、お千鶴というのは明るいトラ模様の猫の名前らしい。
 ふふ、と笑い、サチがデジタルカメラに視線を落とす。
「あら、カマキリのお母さん。頑張っているわね」
 佳穂もまた、撮影した写真を覗きこむ。
「お母さんなんですか?」
「ほら、お腹が大きいでしょう? きっと卵を産みにいくのよ」
「あ、本当だ」
 撮影したときには気がつかなかったが、確かにお腹が膨らんでいる。
「この家の雨戸の裏にもよく卵を産んでいるわ。春になると小さなカマキリが部屋の中でも見つかるの」
 このくらいの、両手の人差し指でサチが大きさを示す。
「そのたびに外に送り出さないといけないから大変。放っておくと、猫たちの餌食になっちゃうし」
「猫、カマキリを食べるんですか?」
「動いているのをみると、叩きたくなるみたい」
 サチの答えに、なるほど、と佳穂が頷く。
 先ほどサチが示してくれたカマキリの子どものサイズを考えると、猫パンチ一撃でつぶされてしまいそうだ。
「かわいい顔して、猫ってけっこうハンターなんですね」
「ええ、本当に」
 にっこりと笑ったサチが、中央の『泳ぐ猫』を見やる。
 どうやらあの中に子カマキリつぶしの犯人が紛れ込んでいるらしい。 
「あの7匹の猫は、みんな、おばあさんの?」
 佳穂が尋ねれば、ええ、とサチが頷いた。
「ご飯のときは壮観よ。みんなね、わらわらって集まってご飯の場所に向かうの。その様子を上から見ていたら、鯉みたい、って思ってねぇ。それを絵にしたのが、あの作品」
「あ、確かに最初見たとき思いました、鯉みたいだな、って」
「でしょう? それはそれは美しい鯉の舞なのよ」
 ふふ、と笑い、サチがアルバムを手に取る。
「あの子たちの写真。見る?」
「はい、是非」
 アルバムを受け取り、佳穂が最初のページを開く。
 画廊を訪れる人のために用意したものなのだろう、7匹の猫が成長の写真とともに紹介されていた。
 『八兵衛』は牛模様をしている猫だ。
「この子は優しい子でねぇ、一緒に写っているのは、近所に住む猫ちゃんなの。お友達をよく連れてくるのよ」
 猫は一匹狼という印象を持っていた佳穂だったが、写真に写っている八兵衛とその友達は仲がいいらしく、じゃれ合っていた。
「随分長生きしているんですね」
 最初の写真の日付が15年も前であることに気づき、思わず佳穂が感嘆する。
「そうなの。最近は歯も抜けて毛並みもごわごわしてきたけれど、でもほら、まだ元気よ」
 ふと、サチがサンルームを見やる。
 佳穂もつられて視線を向ければ、棚の上で眠っている八兵衛の姿があった。
「あんなに高いところに登って。下りるときはいつも、見ているこっちがはらはらしちゃうの」
「きっと、丈夫な骨をしているんですね」
 佳穂がそう返せば、そうね、とサチが笑った。
 『お竹』は濃いトラ模様をしている猫だ。
「この子、八兵衛が連れてきたの。あら、かわいい子、と思って声をかけたら振り向いたのね。そしたら、このおヒゲが目に留まって、思わず笑ってしまったわ」
 サチが指さすお竹の写真には、白い口周りの鼻の下に茶色の模様が入っており、なるほど確かにまるでチャップリンのような口髭を蓄えていた。
「このおヒゲのせいで男の子かと思っていたけど、女の子だったのよね」
 最初は失礼しちゃったわ、とサチが肩を竦める。
「あ、それじゃあ、八兵衛くんのお嫁さんですか?」
 コスモス畑の『2匹の世界』の絵を示しながら、佳穂が尋ねる。
「そうねぇ、そう言ってしまっていいかもしれないわ。仲がすごくいいのは確かだし。八兵衛は男の子のくせに、お竹の子育てまで手伝っていたくらいだから」
 といっても子猫と一緒に寝てあげるくらいだったけど、とサチが肩を竦める。
「あ、この『お千鶴』はね、お竹の娘なの」
 次のページを開き、サチが明るいトラ模様の猫を指差した。
「他の兄弟たちはもらわれていったんだけど、お千鶴だけが残ってねぇ」
 写真に写っているお千鶴はどれも美人猫だったが、不機嫌そうでもあった。
「不良娘で、ほとんど外で過ごしているわ。ひどい時にはご飯にも顔を出さないの。でも寒くなってくるとちゃんと帰ってくるから、一応帰る家だって認識してくれているみたい」
 『秋を探して』の絵のように、クールなお千鶴は1人旅ならぬ1猫旅が好きなのだろう。
「不思議なことにね、孫娘にだけは懐いているの。お転婆な孫だから、猫は、特にお千鶴は苦手に思うだろうと思っていたら、よく一緒に昼寝をしているからびっくり」
 サチはそう言うと、『転寝』の1枚に視線をやった。
 佳穂もまた、それに倣う。夏の暑い日に小さな女の子の隣で眠るお千鶴。
 どこか大人には見えない領域で、女の子とお千鶴は分かり合っているのだろうか。
 それを思うと佳穂は、ちょっぴりその女の子が羨ましくなった。
 『お千代』は小柄なさび猫だった。
「お千代はねぇ、いつも半目で色もまぜこぜだから、写真写りが悪いのよね」
 一番猫らしい形をしているのだけど、とサチが首を傾げる。
「孫がね、茶色、黒色、橙色の絵具をパレットに出して、ぐるっと1回筆で混ぜたような模様、って言っていたの。ひどいわぁ、と思ったけれど、言い得て妙だわ」
 くすっと笑うサチに、佳穂もつられて笑う。
「確かに、そう見えますね。でも、ふわふわしてそう」
「ええ。柔らかい毛をしているのよ」
 人見知りだというお千代は、それでも人の側が好きらしく、よくサンルームにあるソファの下に隠れて眠っているらしい。
 手足とお腹が白いトラ模様の『松吉』と『梅吉』、そして白猫の『卯吉』は兄弟だという。
「松吉は一番人懐っこい子だわ。あなたをここへ案内したのも、松吉のようね」
「ええ。誘われちゃいました」
 3兄弟の子猫の頃の写真を見、佳穂が思わず口元を綻ばせる。
「かわいいでしょう? でもね、この手乗りサイズが、こんなになっちゃったの」
 サチが指で示した写真には、成長した3兄弟が写っていた。
「松吉は辛うじて猫らしい形なんだけどね、梅吉と卯吉は中年太りしちゃって。卯吉は手足が長いから、小型犬並みの大きさなの」
 松吉と梅吉はそっくりだったが、梅吉のほうが毛が短いらしく、顔だけを見れば細身だった。が、サチの言うとおり、お腹は大きい。
「梅吉はね、皆に好かれているって確信しているの」
「確かに、どれもポーズが決まっていますね」
 左右対称の模様を堂々と魅せる梅吉の口元は、どれも自信に満ち溢れているいるようだった。
「卯吉は運動はからきしだけど、賢いのよ。洋風のドアも開けちゃうの。人間が開ける様子をじっと観察しているのね」
「このドアも開けちゃうんですね」
 すごい、と佳穂は写真を見た。
 連続して撮影されたらしい写真には、卯吉が2本足で立ってドアノブに前足をかけ、そのままドアを開けていく様子が記録されていた。
「梅吉と卯吉は特に仲がいいみたいだわ。よく一緒に寝ているし、よく一緒に外を眺めているの」
「あの絵みたいに、ですね」
 言いながら佳穂が後ろの『来客』を見る。
「ええ」
 頷くサチに、佳穂は微笑みを返した。
「でも、このお腹の大きさだと……」
「そう。メジロを捕まえるのは無理でしょうね」
 くすくすとサチが笑う。
 最後の集合写真のページには丸くなって寝ている猫たちが連なっている。
 ここまで同じ形で寝ることができるのか、と佳穂が笑えば、サチが頷いた。
「面白いでしょう? でもお千鶴だけは1匹狼を貫くのよね。集合写真が撮りづらくて」
「本当だ、6匹しかいないですね」
「皆が視界に入ったのは、そうねぇ、やっぱりあの時が印象的だったわ」
 ふと、サチが顔を上げて最後に飾ってある『白雪姫と7匹の猫』を見やった。
「あ、あの作品、一番ほっこりしました」
 絵の中でにっこりと微笑む八兵衛を見ながら佳穂がそう告げる。
 佳穂に視線を戻し、サチが八兵衛と同じような表情をした。
「あれはね、寒い寒い朝に目が覚めたときに、視界に入ってきたあの子たちの1枚なの」
 サチの声音に、佳穂が彼女を見る。
「一昨年だったかしら、大雪でねぇ。雪すかしが腰に堪えたわ。痛い、痛いって思いながら寝床に就いてうとうとしていたら、予約の仕方を間違えていたみたいで、暖房が切れちゃったのよね。でも、手先足先が冷たくなってきても体は疲れて動かないし、あ、わたし、ひょっとしたらこのまま永眠しちゃうのかしら、って思ったの」
 サチが一度、手元に視線を落とす。
「長く生きているもの。娘は2人とも嫁いで家庭を築いているし、そろそろあの人に会いに行ってもいいかしら、って頭を過ぎったわ。そうしたら、ふと温もりを感じてねぇ。ついついそれに身を任せてしまって、いつの間にかこんこんと眠ってしまったの」
 不安そうな佳穂の視線を余所に、サチが、ふふ、と笑う。
「朝起きた時はびっくりしたわ。天国もこんなに庶民的な天井をしているのかしら、って。でもね、すぐに動けないことに気づいたの。あら、と思って顔だけ上げたら、あの子たちがいたのね」
 サチが『白雪姫と7匹の猫』を見る。
「ずーんと重たかったのは、八兵衛が胸の上に乗っていたからだったのね。みぃんなわたしの布団の上でお団子になっていて、あ、これは動けないわけだわ、って。卯吉の鼾はうるさいし、起き始めたと思ったらお千鶴とお千代が喧嘩を始めるし、それは賑やかな光景だったわ」
 当時を思い出すかのように、サチが目を細める。
「それじゃ、温もりを感じたっていうのは――」
「そう。あの子たちの体温」
 頷くサチに、佳穂が顔を綻ばせる。
「きっと、寒がってるって気づいて、皆で温めてくれていたんですね」
 佳穂の言葉に、そうねぇ、とサチがゆっくり頷く。
「わたしもそう思っているけれど、ひょっとしたら、自分たちが寒いから、私に暖を求めてきていたのかもしれないわ。おい、暖房が切れたぞ、入れてくれよ、って」
 困った子たち、と眉を下げながらも、サチの顔には嬉しさと愛情が表れていた。
「まるで白雪姫の気分だったわ。本当に。でも、娘にこのことを話したら、いい年して『白雪姫』はないでしょ、って言われちゃった。それでもね、7匹の猫たちに囲まれて、ついつい若い女心に帰ってしまったの。仕方ないじゃない、こんなにかわいい子たちに囲まれていたんだもの」
 照れるような顔を見せたサチが本当に若返っていくような感じがし、佳穂は大きく頷いた。
 佳穂の頷きを受け取り、サチはゆっくりと腰を上げると、『白雪姫と7匹の猫』の元へ歩を進めた。
 佳穂もまた、湯呑を横に置いてサチの隣に向かう。
「この題名を付けたときも娘たちからぶーぶー言われたけれど、でも言い訳はちゃんと用意しているの。この絵を見ている人が、『白雪姫』なんだって」
 どうかしら、とサチが佳穂を覗きこむ。
「あ、それはすっごい嬉しいです」
「でしょう?」
 ぱっと明るくなった佳穂の反応が嬉しかったらしく、サチが笑う。
「ここに来るのは猫好きの人だから、あの幸せを少しでも共有できたらいいわ、って思ったの」
 サチは絵の中の猫たちに、そうよね、と同意を求めると、佳穂に向き直った。
「この子たちに挨拶する?」
「いいんですか?」
「ええ、遠慮しないで」
「あ、それじゃあ、喜んで」
 佳穂の笑顔に、どうぞ、とサチが彼女をサンルームに案内する。
 ドアを開けた瞬間、隣のテーブルに飛び乗ってきたのは松吉だった。
 松吉は佳穂を見て一瞬、誰、という表情をしたが、サチと共に入ってきたということは安心できる人物だと判断したのだろう、散策路での警戒心はどこかに消えた様子で佳穂の匂いをくんくんと嗅ぎ始めた。
 額を近づけてごらんなさい、というサチの声に、佳穂が松吉に額を近づける。
 すると、挨拶代わりだろうか、松吉もまた、自身の額を佳穂のそれに当ててきた。
 柔らかい毛に覆われた小さな額の感触に、佳穂が嬉しそうな声を上げる。
 サンルームで談笑していた老婦たちがそれを見、朗らかに笑って佳穂を迎え入れる。
 少し照れていた佳穂が視線を感じて顔を上げれば、棚の上で寝ていた八兵衛が、眠そうな開かない目を開けようとしながら、新しい客人に猫語で挨拶をした。
 視線を移しても、必ず猫が視界に入る。
「さながら猫喫茶といったところかしら」
 ふふ、と笑いながらそう言い、サチがお手製のパンをテーブルに並べた。
 それを頂戴しながら、佳穂はサチや老婦らと世間話や昔話に花を咲かせた。


 1人暮らしのマンションに戻れば、途端に日常生活の空気に包まれる。
 そのせいか、相当歩いた負担が今頃になって足に出てきたらしい。突然として重たくなった足をもうひと踏ん張りさせ、佳穂は靴を脱ぐと部屋に上がった。
 旅から戻ってくる度に、掃除をしてから出かければよかった、と後悔する部屋の中の様子に、ますますもって疲労感が高まる。
 荷物を適当なところに置き、佳穂はベッドの上に倒れこんだ。
 じんわりと足が休まっていく感覚に、うっかりしていればこのまま寝てしまいかねない。
 それでも、あと5分ほど、と佳穂は布団にしがみついて目を閉じた。
 瞼の裏には、今日歩いた秋の景色、そして画廊絵楽でのサチたちとの光景が再生される。
 日が暮れようとしていることに気づき、慌てて画廊を出ようとした際、松吉は垣根のところまで見送りに出てきてくれた。ご老体の八兵衛もまた、棚の上から眠たい目で見送りをしてくれた。
 まるで人間であるかのような彼らの言動を思い出せば、今日一日の出来事がまるで夢の中での出来事のように感じられてしまう。
 ふと、布団から顔を起こし、佳穂はベッドから足を下ろすと放りっぱなしにした荷物のところへ歩を進めた。
 鞄を探ってみれば、画廊で購入した絵葉書の入った紙袋がちゃんと存在していた。
 当然のことではあるものの、安心した息をつき、佳穂がその場に座り込む。
 紙袋から絵葉書を取り出す。
 白雪姫と七匹の猫。
 中央で微笑む八兵衛に触れれば、温もりを感じられそうな雰囲気だ。
 知らずのうちに微笑んでいた佳穂が、画廊でのひと時を思い起こす。
 絵を描いて、パンを焼いて、近所の人や画廊を訪れる人たちと談笑するサチ。
 佳穂の目には、彼女は生き生きとして見えた。
『娘たちは、ちゃんと自分の道を生きてくれている。親としては喜ばしいけれども、いけないわね。この家で毎日一緒に過ごすことはもうないって考えると、やっぱり、ちょっと、寂しくなることがあるの』
 膝に乗ってきた松吉を撫でながら、サチが零した言葉。
 サチは早くに伴侶を亡くし、娘2人も嫁に出たという。
『でも大きな休みには顔を出してくれるし、元気にしているかな、と思った頃に電話がかかってくるし、孫たちもこの田舎が好きみたいだし。何よりもこの子たちが生きている間は、私も頑張らないとね』
 自分に言い聞かせるように、サチはそう言うと松吉を見た。
 意味を理解しているわけではないだろうが、その通り、と言わんばかりに松吉が微笑んだ。
「私の親は、どうなのかなぁ」
 首を傾げて絵ハガキの中の八兵衛に問う。
 娘が進学したのを機会に、休みの日はよく2人で旅行に出ているらしく、傍から見れば、佳穂が一緒に住んでいた頃よりも充実した毎日を送っているようだ。
『あら、子どもを想わない親なんていないわよ』
 ふと、サチの言葉が頭を過ぎる。
 佳穂が両親の自由気ままな様をぽろっと嘆いたときに返ってきた言葉だ。サチはそれ以上何を言うでもなく、松吉を撫でた。
 顔を上げた松吉は、佳穂に向かって微笑んだように見えた。
 絵ハガキを眺めつつ、にっこりと佳穂は笑い、よし、と机に向かうと、ペンを手に取った。
 実家の住所を書き、両親の名前を書く。
『ステキな画廊を見つけました。今度、一緒に行きましょう』
 絵ハガキの裏に一文を走らせ、最後にスマイルマークを添えると、佳穂は満足したようにペンを置いた。



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