短編

ある初夏の日に


 三脚を適当なところに立て、ベンチに座ると、私はひとつ、大きく呼吸した。
 日陰に入れば風は涼しく、夏の始まりを合図するかのようにニイニイゼミの声が優しく届いてくる。ベンチの近くに芝生ではなく土が見えているところがあるのだろう、その香りが風に乗って通り過ぎた。
 ここは緑が栄える、広い公園の一角。
 弓道に励む妻は現在、公園の反対側の弓道場で弓を引いている。試合は絶対に見に来るな、というお達しが出ているため、それが終わるまで、私はこうしてデジタルカメラのついたスコープを片手に、公園を散策しているところだ。
 ポケットから携帯電話を取り出し、確認してみる。妻からの着信履歴がないところをみると、どうやら予選を無事に通過したらしい。『入賞したら、夕ご飯作ってね』という言葉を頂戴している以上、そろそろ献立を考えなければならないだろう。
 さて、どうしたものか、と思案している私の前を、アカボシゴマダラがひらひらと横切って行った。近くのクヌギの木に、樹液を吸いにでも行くのだろうか。その姿を目で追ったものの、木々の生い茂る方向にたゆたって行き、やがて見失ってしまった。
 視線を戻すと、私は献立について再び思案し始めた。
 思えば、もう何十年になるだろうか、今日一日だけ献立を考えればいい私とは違い、妻は毎日、温かな食卓を用意してくれている。改めて考えてみると、ありがたいことだった。
 ふと気づけば孫の顔を見るような年齢になってしまったが、これまで大きな病気もなく健康に齢を重ねられたのは、旬の食材を活かし、栄養バランスを考えてくれている妻のおかげだろう。
 健康だからこそ、こうしてデジタルカメラ、スコープ、三脚を担いで歩き回り、撮影に没頭することもできる。
 ふと、隣を見ればオオブタクサが弱い風に吹かれ、3つに分かれている若い葉を揺らしていた。オオブタクサといえば、丁度去年の今頃、妻から教えてもらった植物の名前だ。
「お前さんも、元気だな」
 額に浮かんだ汗を拭きながら呟けば、オオブタクサがまた揺れる。
 その様子に幾分か涼しさを覚えることができた。
 明るく高い声が聞こえる、と芝生のほうを見やれば、夏休みに丁度入ったのだろう、子どもたちが元気に走り回っている。
 積雲が漂っているとはいえ、日差しは強い。
 熱中症にならないか心配だが、思えば私も幼い頃は何も考えずに外を駆け回っていた。子どもは子どもなりに、日差しへの免疫というものがあるのかもしれない。
「こら拓也。虫も生き物なんだからいじめないの」
「いじめてないもん」
 不意に背後から声が聞こえ、よっこいしょ、と振り返ってみれば、帽子を手に取った男の子がクヌギの幹に向かってしきりに帽子を被せている。
「拓也」
「あ! ほら、お母さん、捕まえたよ!」
 帽子の中から緑色の昆虫を取り出し、拓也君がお母さんに見せる。
「きゃっ! もー、近づけないでよ!」
「何で? お母さんゴキブリは平気じゃないか」
「平気じゃないわよ、どっちも」
 早く逃がしなさい、といいつつも、昆虫に興味のある息子のことが好きなのだろう。お母さんは、そーっと、拓也君の手の中を覗いていた。
「この子の名前は?」
「うーん……バッタ?」
 首を傾げる拓也君が、一度昆虫を地面において帽子を被せ、図鑑を取り出す。
 まだ買ったばかりらしく、図鑑の表紙が木漏れ日を受けてきらりと光った。
「ヤブキリですね」
 気がつけば、私は彼らに対して帽子の中の昆虫の名前を告げていた。
 突然聞こえてきた私の声に驚いたのだろう、拓也君とお母さんが私を見る。
「ヤブキリ?」
 聞き返す拓也君に、私は頷いて返した。
「けっこう大人しい子だよ」
「ふーん」
 ヤブキリ、ヤブキリ、と呟きながら、拓也君は図鑑をめくった。
「あ、本当だ。こいつだ」
 拓也君が被せていた帽子を慎重に持ち上げながら、中にいるヤブキリと図鑑のヤブキリを見比べる。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 お母さんとそれに続く拓也君に、いえいえ、と私は首を振った。
「おじいさん、昆虫には詳しいんですか?」
「専門家ではありませんが、よく見かける昆虫であれば、なんとか」
「あ、そうなんですか」
 頷くお母さんに向かって、不意に拓也君が、
「わっ」
 と図鑑の1ページを開いて見せた。途端、 
「きゃっ!」
 とお母さんが悲鳴を上げ、後ずさった。
「もー!」
「たかが幼虫じゃん。ほら、ほら」
「拓也、止めなさい!」
 怒られつつも、拓也君は嬉しそうに図鑑を開いていた。
 そのページが、ふと見えた。
「おや、オオミズアオの幼虫ですか」
 名前を聞いて、拓也君が私を見る。
「じーちゃん、知ってるの?」
「こら、『じーちゃん』じゃなくて『おじいさん』でしょ」
 あ、と気づいたらしく、拓也君がしまった、という顔をし、
「おじいさん、知っているんですか?」
 と尋ね直してきた。
「いやいや、構いません。オオミズアオ、知っていますよ。先ほど向こうの道路の脇で、幼虫を見かけました」
「え、ここにいるんですか……?」
 この大きな幼虫が、とお母さんが腕をさする。
 確かに、苦手な人にとってこの幼虫は恐ろしい存在なのだろう。確かに幼虫というにはかわいげがないほど太く大きい。
「大丈夫ですよ。道を歩いていれば、気づきません。道路脇の草むらをじっくり見ていると、目に映ってしまいますが」
「でか……大きかったですか?」
 拓也君が敬語に気をつけて尋ねてくる。私はにっこり笑って、このくらい、と親指の付け根から先までを示した。オオミズアオの幼虫がここにいるわけでもないのだが、お母さんが、ひゃっと両手で目を隠した。
「すっげー! 何cmくらい?」
「うーん、6,7cmでしょうか。大きかったですよ」
「え、見たいな。お母さん、行こ!」
「えー、見たくないわよそんなのー。もう芋虫のレベルじゃないじゃない」
「いいじゃん、行こ! おじいさん、案内してくんない? ――ますか?」
「ははは。案内はいいですが、まずお母さんの許可を得なければいけませんね」
「お母さん!」
 拓也君の好奇心と熱心さが通じたのだろう、お母さんが、困ったながらも口元を緩め、息をつく。
「しょうがないわね、私は近寄らないからね?」
「じゃ、いーよ来なくて。おじいさんと行くから」
「あ、ひどい!」
「おじいさん、行こ!」
「はい、行きましょうか」
 お母さんの許可を得るため、ちらっと彼女を見れば、すみません、お願いします、と頭を下げられる。幼虫は苦手のようだが、拓也君の好奇心の邪魔はしたくないようだった。


 咲き盛りの過ぎたヌマトラノオの側を過ぎ、先ほど散策の折に見つけたオオミズアオの幼虫がいる草むらにやってきた。
 幼虫が止まっている草の名前は分からない。妻であれば、すぐに答えられるだろうが、私は植物については彼女ほどの知識は持っていなかった。
 散策に出かける度に名前を聞くのだが、どうも、この年になると覚えるのにも苦労してしまう。
「ほら、あそこですよ」
「どこどこ?」
 私の指先を辿り、拓也君が視線を上げていく。
「あ!」
 見つけた、と嬉しそうな声を拓也君が出せば、後ろから、見てはいけないものを見てしまったような呻き声に近い声が聞こえてきた。
 お母さんはかなり後ろにいるはずなのだが、苦手なものは遠目にもしっかり見えてしまうのだろう。
 私がふと振り返れば、彼女がそろっと両手の隙間からオオミズアオの幼虫がいるところを見ていた。怖いもの見たさの好奇心には負けてしまうらしい。
「すっげー、本当に、どでかい!」
 手には届かない距離のため、見守ることしかできないが、拓也君は可能な限り近づいて幼虫を眺めていた。
「お母さん、デジカメ!」
 くるり、振り返って拓也君が叫ぶ。
「だめ。絶っ対だめ!」
 案の定、即答でお母さんがきっぱりと断る。
「いーじゃん」
「だめ! それだけはだめ!」
「お父さんに編集してもらうし」
「だめだめ!」
「パソコンに取り込んだらすぐ消すから」
「だめだめだめ! 増殖したらどうするのよ!」
 パソコンの中で増殖も何もないのだが、お母さんは力を入れて、デジタルカメラの入ったバッグを握っていた。
「いいじゃん、かわいい息子の頼みなんだから」
 切り札の台詞を言いながら、拓也君がお母さんの側に駆け寄る。
 渋っていた彼女だったが、最終的には拓也君にデジタルカメラを渡した。
「1枚だけよ?」
「うん!」
「1枚だけだからね?」
「分かったって」
 やった、と嬉しそうに拓也君が電源を入れ、草むらに戻ってくる。
「撮れますか?」
「ちょっと、高いです」
 デジタルカメラを構えながら、えへへ、と拓也君が口元を緩める。
「では、少し近づけますね。幼虫さん、ちょっとごめんくださいよ」
「幼虫さん、ごめんください」
 私が草の丈を低くし、拓也君が腕を伸ばす。
 オオミズアオの幼虫は茎の上でじっとしたまま被写体となっていた。
「撮れた」
 拓也君がデジタルカメラの画面で撮影した写真を確認する。
「ああ、いい感じに写りましたね」
 嬉しそうに拓也君が笑って見せ、オオミズアオの幼虫に視線を向けた。
「触っても大丈夫かな」
「うーん、大丈夫だとは思いますが、運が悪いとかぶれるかもしれないですね」
「そっか……」
 残念、と拓也君が口を結ぶ。
 暫くオオミズアオの幼虫を観察した後、拓也君は、
「幼虫さん、ありがとう」
 とお礼を告げ、くるり、お母さんを振り返った。
「お母さ――」
「撮った写真見せたらもうゲームソフト買わないからね!」
 お母さんが放った一言は、非常に効果的な文句だったのだろう、残念そうに拓也君が俯くと、デジカメの電源を落とした。
「おじいさん、このオオミズアオの幼虫、持って帰って家で育てられないかな」
「うん?」
「大きくなるところ、近くで観察したいんだ。蛾になったら、すっごいきれいなんでしょ?」
 期待に膨らんだ拓也君の目に、私はふと、遠い日の自分自身を重ねた。
 子どもの好奇心は大きい。拓也君の気持ちは非常によく理解できる。
「そうですねぇ」
 どうやって答えたらよいのか思案していれば、
「……やっぱり、かわいそうかな」
 と、ぼそり、拓也君の声が聞こえてきた。
 子どもからの意外な一言に、私が彼を見る。
「持って帰りたいけど、かわいそうかな」
 がっかりした気持ちを隠すことなく、拓也君がそっと私を見上げる。
 そうですね、と呟きつつ、私は膝を折って彼と目の高さを合わせた。
「天敵も多いかと思いますが、このオオミズアオの幼虫にとっては、この広い空の下が我が家ですからね」
「……やっぱ、そうだよね」
 いよいよ残念そうに拓也君がオオミズアオを仰ぎ見る。
「狭い虫かごよりさ、産地直送の葉っぱが食べられるところがいいんだよね」
「産地直送、ですか。確かに、確かに」
 新鮮な、の代名詞に使われた単語に思わず笑いそうになったが、拓也君の気持ちの整理の邪魔をしてはいけない、と私は堪えた。
「僕、一度カブトムシ飼ったことがあるんだ。でも自然にいるカブトムシを見たらさ、自由に飛びまわれないのがかわいそうになってさ、飼いたいけど、飼っちゃ悪い気がしたんだ」
「分かりますよ」
 頷いてそう告げれば、拓也君が私を見た。
「おじいさんも、飼ったことあるの?」
「ええ、カブトムシ、ザリガニ、トンボ、他にも色々と」
「え、そんなに色々?」
「はい。子どもの頃はやはり、手元に置いておきたいと思いますからね」
 理解者がいることが嬉しかったのか、拓也君が顔を綻ばせる。
「だよね」
「はい」
「すっごいさ、近くで観察したいと思うんだ。だって街中じゃ見かけないしさ。でも昆虫ってさ、僕ら人間よりずっと早く死んじゃうでしょ? お母さんに、生まれてから死ぬまで、一生檻の中にいるのは嫌でしょ、って言われてさ、考えてみたらそれって本当に嫌だから、あんまり捕まえないようにしてるんだ。でもやっぱ欲しいから、ときどき捕まえちゃうんだ。でも、捕まえて観察しても、なるたけ早く自然に返してるよ?」
 うん、うん、と私が頷く。
「これあれだよね、カットーってやつだよね」
「うん?」
「欲しいけど捕まえちゃだめ、カットーっていうんでしょ?」
「はい、カットー、というやつです」
 なかなかに難しい単語を知っている、と感心する私の前で、カットー、カットー、と言いながら拓也君がオオミズアオの幼虫に向かって手を振った。
「昔話になりますが、カブトムシの幼虫を見つけて家で育てたことがありましてね」
「え、どこで見つけたんですか?」
 手を下して拓也君が尋ねてくる。
「溝に溜まった落ち葉の中にいました。しかしながら、いざ育ってみると、カナブンでした」
「えー、それかなりがっかり」
「ええ、カナブンには悪いですが、大変がっかりしました」
「そのカナブン、どうしたの?」
「勿論、外に放しました。元気に飛んで行きましたよ。青葉と青空の中へ飛んでいく様子を見送ったとき、あ、彼らにはやはり、自然が似合うな、と思いました」
 空を仰いだ私につられたのだろう、拓也君もまた、顔を上げていく。
 イメージの中で飛んでいくカナブンを見送り終えたのか、拓也君がにっこりと笑った。


「土食って虫食って渋ーい、土食って虫食ってシブーイ」
 公園の出口の手前。
 目の前をさっと過ぎったツバメの鳴き声の『聞きなし』を紹介したところ、拓也君は気に入ったらしく、先ほどからずっと、土食って虫食って、を繰り返している。
「色々と教えてくださって、ありがとうございました」
「いいえ、いいんです。自然に興味のある子どもたちを見ると、こちらも嬉しくなりますから」
 公園口、地面に降りたアカボシゴマダラを追いかける拓也君を確認しつつ、お母さんが微笑む。
「私もあの子が色々と興味を持ってくれて嬉しいんです。でも主人も私も、昆虫とかには詳しくないので、尋ねられてもなかなか答えられず……。あの子には申し訳ないな、って思っているんです」
「大丈夫ですよ。子どもの好奇心は強くて深いですから、いつの間にか、どこかしらで学んできてしまうものです」
「あ、そうなんですよね。イベントや散策に出る度に知識が増えていて、驚かされることばかりです。私も教えてもらうんですが、これがどうしてですかね、覚えられなくって」
「分かります、分かります」
 大きく同感すれば、ですよね、とお母さんが笑う。
「しかし苦手といいつつ、お母さんもちゃんと、息子さんの好奇心に付き合っているじゃないですか」
「ええ。子どもの好奇心の邪魔だけはしないでおこうと思っているんです。広い知識を培ってほしいですから。なので、虫も、何とか……」
 寒気を感じたのだろうか、過去に苦い記憶でもあるのだろうか、お母さんが腕をさすって身を竦めた。
「おじいさん! あの鳥、何? ですか?」
 身軽な足音を立て、木の上を指差しながら拓也君が戻ってくる。
「うん?」
 拓也君の視線に会わせるように腰をかがめ、私は彼が指さす木の上を見、そこから聞こえてくる囀りに耳を澄ませた。
「ああ、ホオジロのオスですね」
「え? ここから分かるんですか?」
 豆粒のようなホオジロを見上げ、お母さんが驚く。
「はい、鳴き声で分かりますよ。お嫁さんを探して囀っているんです」
「あ、カノジョボシューチューなんだ」
 目の上に手をかざして見上げる拓也君に、こら、とお母さんが叱りを入れる。
「あはは。その通りです」
 私は三脚の高さを低めにし、カメラを外したスコープを覗きながらホオジロにその焦点を合わせた。
「はい。入りましたよ」
 どうぞ、とスコープを紹介すれば、先に見なさい、とお母さんが拓也君を促す。
「失礼しまーす」
 帽子を取り、拓也君がスコープを覗きこんだ。
「あ、かわいい。上向いてボシューしてる」
「募集していますか」
「うん、してるしてる」
 拓也君はしばらくホオジロの彼女募集中を観察した後、お母さんに望遠鏡を譲った。
 三脚の足に触れないように注意しながら、お母さんが望遠鏡を覗きこむ。
「あ、本当、囀ってる。かわいいですね。すごい仰け反ってる。あれ? でも頬は白くないんですね」
 お母さんの一言に、え、と拓也君が疑問を呈する。
「何で白くないとダメなの?」
「だって、名前がホオジロでしょ? 頬が白いから『ホオジロ』なんじゃない?」
「あー」
 文字を思い描きながら、拓也君が、なるほど、と頷く。
「名前の由来は分かりませんが、確かに白くないですね。むしろシジュウカラのほうが『ホオジロ』の名前に合っているかもしれません」
「シジュウカラ?」
「はい」
 そうですね、と周囲を見回すが、生憎カラ類の声は聞こえてこなかった。
 紹介できないか、と残念に思ったが、ふと、先日撮影した写真がまだデジタルカメラに残っているのでは、と気づく。
「少し、お待ちください。確か、巣立ったヒナを撮影した記憶があります」
 ボタンを押して過去に写真を遡れば、親鳥と共に枝に止まっている、あどけないシジュウカラのヒナの写真を無事に見つけることができた。
「この鳥がシジュウカラです」
「あら、かわいい」
「あー、ヒナだ。かわいい」
「ええ、ヒナです。こちらはお母さんかな」
「性別も分かるんですか?」
「ええ、この喉からお腹の黒い筋を見れば」
 説明のため、と数枚前の写真を見せる。
「こちらがお父さんです。黒い筋、ネクタイが太ければオス、細ければメスですね」
「ネクタイしているだなんて、お洒落な小鳥」
「本当だ、お父さんは太いけど――」
 もう一度、という拓也君の希望に応え、お母さんの写真まで戻る。
「――うん、お母さんは細い。やっぱ女の人ってネクタイ嫌いなんだね」
「嫌いじゃないわよ? ネクタイをする習慣がないだけ」
「ふーん」
 分かったような分かってないような感じで頷き、拓也君がシジュウカラを覗きこむ。
「僕、この鳥見たことあるかも」
「本当? どこで?」
「えーっとね、この前学校の桜の木に来てた気がする」
 うーん、と記憶をたどりながら拓也君が答える。
「えー? そんな近くに?」
「意外と街中でも見かけますよ」
「あ、そうなんですか? 気にしていないから見えないのかな。近くにいる鳥って、スズメやカラスやハトくらいなイメージです」
「お母さんの目が悪いだけじゃない?」
 拓也君の一言に、お母さんが、違うわよ、と彼の帽子を下げた。
「ははは。慣れていないだけで、毎日気にして見ていると、だんだんと色々な声が聞こえてきたり、姿が見えてきます。私はもうこの年なので、逆にだんだんと声が聞こえなくなり、姿も見えなくなってきていますが……」
「またまた。おじいさん、ご謙遜されて。私よりもずっと聞こえていますし、見えていますよ」
「うん、僕よりもずっと若いよ、おじいさん」
 帽子をかぶり直しながら拓也君が力強く告げてくる。
「ははは。そうですか、若いですか」
 年甲斐もなく照れてしまったが、お母さんと拓也君は微笑んで受け入れてくれた。
「でも、シジュウカラの頬は白いんですね。こっちのほうが、ホオジロっぽいです」
「そうですね」
「どっちかって言うと、ホオジロは『ホオグロ』だね」
「確かに」
「ホオグロは、でも悪役っぽい名前だなー」
 呟きながら、うーん、と拓也君がお母さんを見上げる。
「ハラグロに似てるじゃん。お母さんみたい」
「あ、こら! お母さん腹黒じゃないんだから。真っ白よ、真っ白」
 お母さんが再び拓也君の帽子を深く下げる。
 えへへ、と笑いながら、拓也君は帽子をかぶり直した。
「ハラグロはいませんが、ムナグロになら会ったことがありますよ」
「え? そんな名前の鳥もいるんですか?」
「ええ」
「ムナ? ムナってどこ?」
「胸のことですね」
 ここです、と手で示せば、あ、なるほど、と拓也君が頷く。
「胸が黒いの? ですか?」
「ええ」
「へー。けっこうテキトーに名前つけられてるんだ」
 感心したように拓也君が自分の胸元をさする。
「じゃ、さっきのシジュウカラは……。シジュウカラ、シジュウカラ、シジュウ、カラ、あ! 四十、から、四十から! 四十歳からってことかな? 鳥なのに長生き?」
 拓也君が閃いたように顔を上げ、推測を発展させつつ、あ、とお母さんを見上げる。
「だとしたらお母さんそろそろじゃん」
「そろそろじゃないわよ!」
 こら、と怒るお母さんとは正反対に、拓也君は笑いながら走り、彼女のげんこつが届かない範囲へ離脱して行った。
 追いかけるのを諦めたお母さんが、肩でため息をつく。
「本当にすみません、うるさい子で」
「いえいえ」
「でも確かに、四十歳あたりの人たちに人気がありそうですね、シジュウカラ」
「ええ、そうみたいです。ちなみにゴジュウカラという鳥もいるんですよ。こちらは山の中に住んでいるので、滅多に会えないですが」
「ロクジュウカラは?」
「残念ながら。いてくれたら、喜んでファンになりますが」
 首を振って答えれば、お母さんが、さすがにいないですか、と微笑む。
 夕方の風が、近くのケヤキを撫でていく。
 緑を湛えたケヤキの葉の音のおかげか、初夏の風は涼やかに感じられた。
「あら、いけない。ついつい色々お聞きしてしまって」
 腕時計に目を落とし、お母さんが呟く。
「申し訳ありません。こんなに時間が」
 いつの間に、と思うほど、時間が過ぎていたらしい。
「おやおや」
 腕時計で確認しつつ、私も驚きの声を上げた。
「おじいさん、時間は大丈夫ですか?」
「ええ。家内からはまだ連絡がありませんから」
「あら、奥さんもこちらに来られているんですか?」
 それであれば尚更申し訳ない、というようなお母さんに、いえいえ、と首を振る。
「家内は隣接するスポーツ施設で弓道の試合に参加していまして。私はこうして、試合が終わるまでぶらぶらしているだけです」
「奥さん、弓道されているんですか? かっこいいですね」
「背が低いので、長い弓を持っている姿は見ていてなかなかに滑稽ですが」
「ま。いいんですか? そんなこと仰って」
 同じ『奥さん』の立場である彼女が、朗らかに笑う。
「応援には行かなくていいんですか?」
「はい。家内からは、絶対に来るな、ときつく念を押されていますから」
「あら。そうなんですか」
 ゆっくりと頷いたお母さんが、続ける。
「でも行くと喜んでくれると思いますよ」
 意外な言葉に、私は思わず目を丸くしてしまった。
「そうでしょうか?」
「ええ。絶対に」
 確信を持った声音で、お母さんが告げる。
「私が言うのもなんですが、女心はとっても複雑なんです」
 少しばかり照れたように笑うお母さんの雰囲気は、確かに妻に近いところがあるように思えた。
 ひょっとしたら照れくさいだけで、本当は見に来てほしいのだろうか。
 妻とは長年を共に過ごしているが、どうも、こういうことについては本心を察することができない。
 男の私には女心というものは、ついぞ、分からないだろう。
 そう思いつつも、
「そうですね」
 と答えてみれば、お母さんが、ええ、と頷く。
 どうやら彼女の言に従った方が、私の株は上がりそうだった。
 うまくいけば、夕食の担当も免除されるかもしれない、そんな下心を抱きつつ、私はスポーツ施設の方向を仰いだ。


 まだ帰りたくないという拓也君を引き連れ、電車の時刻に遅れないよう公園を去っていくお母さんを見送る。
 また、彼らとは自然観察会などで会うことがあるだろう。
 そのときまでには植物についても説明ができるよう、多少通じていたいものである。妻に先生になってもらうか、と考えつつ、私はスポーツ施設のほうに足を向けた。
 夕暮れ時の橙味が強くなった木漏れ日は、涼やかな風を受け、地面に揺らぐ影絵を落としていた。
 ヒヨドリの鋭い声が上空を過ぎり、やがてニイニイゼミの声の中に消えていった。
 草むらからはクビキリギリスの持続的な声が聞こえてくる。
 やがて、彼らの音の世界に矢が的を射抜く音が混じるようになった。
 更に足を勧め、弓道施設が見える頃になると、試合を終えた選手たちの談笑が柔らかに届いてきた。
 老若男女という四字熟語はこの場にふさわしい単語だ。
 礼儀正しい女子学生と、すれ違い際の簡単な挨拶を交わし、私は観客席への入り口を探すため、拍手が聞こえてきた方向に向かった。
 ひょいと覗きこんでみれば、丁度一立ちが終わり、次の立ちの選手が入ってくるところだった。
 三脚やスコープが邪魔にならないよう、私は壁のほうに身をやった。幸い、この時間になり観客の数は適度であり、私は担いでいた三脚を地面に下ろした。
 さて、妻の出番はいつだろう、と顔を上げたところ、射場で襷掛けを行っている選手の1人に見覚えがあり、目を細める。
(おやおや)
 藤色の紋付の彼女は、紛れもなく我が妻であった。
 丁度いいタイミングで観客席に入れた縁をありがたく思いつつ、私は知らずの内にカメラを構えていた。
 普段はなかなかにおしゃべり好きの妻が、その口を引き結び、静かな佇まいで己の番を待っている。
 当人にとっては何ともない所作なのだろうが、私は彼女の微動だにしない、研ぎ澄まされた集中力を保っている姿に、妻ではない誰かを見ているような錯覚に陥った。
 ふと、腰に当てていた右手を弓に添え、妻が滑らかに立ち上がった。
 ああ、と私は思い出した。
 あそこに立っているのは、妻ではない誰か、ではない。
 あれはいつの日だったろうか、図書館で初めて彼女を見かけたときに惹かれた、集中したときの横顔。なるほど確かに齢は重ねたろう。だが、彼女はあの頃からまったく変わっていない。
 妻の前の選手が響かせた快音を遠く耳にしながら、私は妻をじっと見つめていた。
 きり、と妻が弓を引く。
 場の空気と自身の気が同調したのだろう、彼女の手から、矢が放たれた。
 ターン、と、先ほどよりも透き通った音が響く。
 確認してみれば、矢は的のほぼ中心を捉えていた。
 妻は何事でもないように静かに残心を終えると、粛々と次の所作に移っていった。
 小柄な彼女が、大きく見える。
 人知れぬ森の奥の、苔のむした巌のような厳かな雰囲気が、彼女から漂っていた。
 美しい、と感じる。
 そんな私の心境など知らぬ顔で、妻は座して弓に矢を番えていた。


「惜しかったわぁ、3位だなんて」
 先ほどまでの威厳はどこへやら、私にはいはいと荷物を持たせると、妻は見慣れた小柄な体で大きく背伸びをした。
 年相応に皺の刻まれた手。この手があの弓を引いていたのかと考えると、少し不思議な気持ちになる。
「3位でも立派なものじゃないか」
「そうねぇ。入賞が目標だったから、嬉しいといえば嬉しいけれど、やっぱりダメね。人間ってついつい、欲張りになってしまうものね」
 いけないわ、と呟いた後、彼女が、あ、と思い出したように振り返る。
「そういえば、あなたこっそり試合の様子、見ていたでしょう」
「うん?」
 どきり、としつつも素知らぬ顔で妻を見る。
「私、ちらっと見ちゃったのよ。あなたがカメラを構えているところ」
 ふふふ、と妻が笑う。
「いい写真撮れたかしら? 被写体がいいもの、勿論、よね?」
 どうやら『約束通り見ていませんでした』という嘘は通らないようだ。観念しつつ、私は頷いてデジタルカメラを取り出す。
「ちょっと覗いてみたら、丁度タイミングがよくてね。見るな、と言われていたけどついつい見てしまったよ」
「ま。だから最後の射、外してしまったんだわ。あなたが見に来ちゃうから」
「おいおい、人のせいにするようじゃ、まだまだ修行が足らないね」
「あらら。ごもっとも、だわ」
 くすくすと笑いながら、妻が私の手からデジタルカメラを受け取る。
「嫌だわぁ、こんなに大きく撮っちゃって」
 皺が、と気にしつつも、妻は射場に立っている自分自身の姿勢を確認しているようだった。
「いや、なかなかに堂堂とした立ち振舞いだったよ」
「そう?」
 世辞と思われているらしく、妻は疑り深い目で私を見た後に、画面上で写真を繰った。
「あら」
 思わず手を止めた妻の目には、大三に入っているときの彼女の写真が映っているようだ。
「ああ、その一枚は我ながらよく撮れたと思っているんだ」
 隣に立ち、覗きこむ。
 画面上のきりりとした視線の妻は、小柄ながらも大きい存在感を放っていた。
「ま。私こんなに真剣な顔ができるのね」
 まるで他人事のように呟いた妻が、照れたように微笑みながら私を見る。
 嬉しそうなその顔に、先ほどのお母さんの言葉があながち嘘ではないことが理解できた。なるほど、女心というものは、なかなかどうして複雑である。
「お願いというのであれば、今後の試合でも、しっかり撮影するよ」
「そう?」
 妻は再びデジタルカメラの画面に視線を落とす。
「そうね。意外に腕がいいようだから、ひょっとしたら、お願いするかもしれないわ」
「意外にとは失礼な」
 反論をする私に、くすくすと笑いながら妻がデジタルカメラを返す。
「だってあなた、いつも風景や野鳥や昆虫しか撮影していないじゃない。人間の撮影には慣れていなさそうだもの」
「なに、被写体が良ければ、きれいに撮影できるものだよ」
「またそんなこと言って。おだてても駄目ですよ、今日の夕ご飯は、あなたが作るんですからね」
「うん?」
 妻の言葉を聞き、そういえばそういう約束でもあったことを思い出す。
「入賞どころか3位だったんだもの。おめでたい、ということで、鯛でも捌いてくれるのかしら」
「うーん、魚を捌くのはちょっと、な」
「あら、それは残念」
 肩を落としつつも、仕方ないわね、と妻が呟く。
「それじゃ、そうね、久しぶりに醤油炒飯でも作っていただこうかしら? あなたの炒飯、あっさりしていてモリモリ食べれちゃうもの」
「ん、そんな普通の料理でいいのかな?」
「ええ」
 にっこりと笑うと妻は駐車場のほうへ足を向けた。
「スーパーに寄って、具材を買わないといけないわね。あなた、安全運転をよろしくね」
「はいはい。仰せの通りに」
 荷物を持ち直し、私は妻の後に続いた。
 秋のような上空の巻雲が鮮やかに色づき始めている。先を行く妻もまた、側面から夕日を浴び、小柄な体を夕焼け色に染めていた。
「あなたのほうは、今日一日楽しめたかしら?」
 歩いきながら振り返る妻に、私は頷いて答えた。
「とても仲のいい親子連れに出会ってね。ほら、この前お前が色色と植物を紹介してくれた、あの場所で」
 私はあの母子との散策の時間を思い出しながら、出会った動植物について報告した。続いてあのお母さんの助言の通り、試合を見に行ったことを告げると、あらあら、と妻が口元を押さえてくすくすと笑った。
「そのお母さんとは、いいお友だちになれそうだわ」
 夕日に照らされる妻の笑顔が眩しく、私は目を細めて微笑んだ。
 どうやら、今度あのお母さんに会ったら、ひとつお礼を述べなければならないようだ。


 駐車場に出て振り返れば、優しい風のそよぐ公園の木木に、ニイニイゼミの声が溶け込んでいる。
 後部座席に荷物を入れ、妻を助手席に乗せると、私は初夏の夕暮れに染まり行く公園に別れの挨拶をし、運転席に乗り込んだ。



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