中編

The Only Hope -Precognition-

01 .02
 暗く黒く、狭く遠く。
 目を凝らしても、欲しい情報は得られない。足を動かしても、重たい感触しか得られない。
 持っている懐中電灯の光だけが頼りだ。それがなければ、自分の存在すら確認できない。
 真っ暗な闇。
 質量なんてないのに、重苦しくわたしに覆いかぶさってくる。
 ここは、ずっと以前に閉鎖された炭鉱。
 薄い酸素とともに、淀んだ空気が肺を満たす。
 無造作に放置された道具は、埃と錆には抗えず、深い沈黙を保っている。それでも、以前に人が働いていた気配は放っていた。
 どこかで、土中から漏れ出した水が、落下と共に虚ろな余韻を残す。聞きたくもないのに、耳に侵入してきてしまう。
 地面には崩れ落ちた石がごろごろ転がっていて、そのせいで歩く速度を上げられない。
 躓きそうになって手を差し出せば、むき出しの冷たい岩盤に、ざり、と皮膚を擦り減らされる。
 怖い。戻りたい。
 でも。
 ヘザー、そこにいるのか。
 ずっと、わたしを呼んでいる声。
 ヘザー、いるんだろう、お願いだ。
 わたしにしか分からない。だから、行かなければならない。
 ヘザー、と、閉塞的な炭鉱の通路に、わたしの名前が空しく響く。
 怖い。
 後ろを振り返っても、曲がりくねった廃坑は出口の光を見せてはくれず、懐中電灯の明かりは身近なところしか照らし出してくれない。
 戻れるのだろうか。
 分からない。
 分からないけれども、心のどこかでは行きたい、と感じている。同じくらい、行きたくない、と警鐘が鳴り響いているのに。でも、わたしの名前を呼ぶ人は、恐らくわたしにだけ、希望を見出している。
 だってその人の声は、きっと他の誰にも届かないから。
 深呼吸をして、足元を照らして、更に進む。
 ヘザー、そこにいるんだろう?
 反響する声が、徐々に輪郭を現し始めた。もう少しだ。近い。
 助けてくれないか。
 遠く闇に吸い込まれそうだった懐中電灯の明かりが強さを増した。壁面を照らしたのだ。突き当たりに差し掛かったということは、また曲がらなければならない。
 わたしは後ろを振り向いた。もう、自分がどこにいるのかすら分からないほど深いところにまで来てしまった。
 戻れるのだろうか。
 分からない、分からない。
 狭い空間を十分に満たす暗闇が、わたしを不安にさせる。
 ヘザー。
 でも、わたしを呼ぶ声の主が、わたしを待っている。
 行かなければならない。
 わたしは左へ折れると、新しい暗闇に足を踏み入れた。
 懐中電灯で前方を照らせば、永遠に続きそうな黒い廃坑に光が吸い込まれていった。
 足が恐怖を覚えて動きを止める。
 ヘザー。
 でも、声はすぐそこだ。
 ヘザー、そこにいるのか。
 わたしは懐中電灯で左前方を照らした。
 崩れかかった岩の壁は、坑路の幅をさらに狭いものにしていた。
 声がするのは、土と大小さまざまな石に埋もれたところからだった。
 大丈夫。声の主は、石の下敷きにはなっていない。
 ヘザー。
 私はゆっくりと近寄った。
 足元に、猫なら入れるだろうか、それくらいの黒い隙間があった。
 明かりを向けると、その隙間の中の漆黒が、より深いものになった。ともすれば、ブラックホールのように光すらも呑み込んでしまうかもしれない。頑として黒以外の色を保持しようとしなかった。
 手が、震える。
 心臓の音が大きくなって、耳にまで達しそうになる。
「……ハロー?」
 わたしの声はかすれてでてきた。
 舌が乾いていて、思うように言葉を紡げない。息をするたびに急速に乾燥域は広がって、喉にまで到達してしまった。
 何も返事は来ない。
 わたしは一歩、踏み出した。
 靴と砂利のこすれる音が、必要以上に廃坑に響き、多方面から反射してきた。
 心臓がびくんと跳ね、わたしは思わず後ろを振り返った。
 ひっそりとしている。あるのは暗闇だけだ。
 誰もいない。
 いるはずもない。
 波打つ心臓の音が、体の中から耳に届く。
 でも、後には引けない。
 わたしは音を立てないようにゆっくりと、凸凹した壁面の下の隙間に近づいた。
 地面に膝をつく。ジーンズ越しに石の粒が膝を刺激する。
 手をつく。ひんやりとした地面。なんて冷たい感触。
 上半身を倒し、隙間を低い位置から覗き込む。
 中の様子は見えない。
 懐中電灯で照らしてみる。
 まだ、位置が高すぎる。
 少しばかり躊躇して、わたしは地面すれすれに右頬を近づけた。
 地面からの冷気が、頬を撫ぜる。
 荒い呼吸のせいで、地面に積もっていた粉塵が舞う。
 小さな小さな隙間。真っ暗で、何も見えない。
 わたしは、震える手で懐中電灯の光を隙間に水平に差し込んだ。
 何もない。
 光は漆黒に呑み込まれるばかりで何も捉えない。
「ヘザー」
 突如懐中電灯の明かりに照らされた隙間から大きな片目が現れた。その声が地面を伝わって私の右耳に入った。廃坑では有り得ない眩しい光に反応して、その片目の瞳孔が急激に縮小する。間髪入れずにわたしは恐怖と驚愕の入り混じった叫び声を精一杯に放った。
 長く長く、空間を引き裂くような悲鳴。
 それは次元を超えて神経を刺激する。やすりのような粗い声に喉を削られ、わたしは跳ね起きた。
 眩しい。
 視界に入るものを認識できずに、上半身を起こしてからもわたしは暫く叫びを続けた。
 やがて喉が限界を訴え、わたしは短く息を吐いて声を止め、慌てて息を吸った。
 口でする呼吸の度、喉が痛む。
 手に感じる感触が、柔らかい。
 わたしは視線を落とした。
 両手がぎゅっと握っていたのは花柄のブランケットで、懐中電灯でも廃坑の塵でもなかった。
 ああ、そうか。
 わたしは口を閉じて唾を飲んだ。喉に少しだけ潤いが戻る。だが喉のことなど気にもかけない肺は酸素を強く要求し、わたしは鼻と口の両方で息を吸った。呼吸のリズムに乱れが生じ、思わず咽びこむ。
 また、あの夢だったのだ。
 咳き込みながら、でも普通に呼吸ができるように、わたしは深呼吸をしようと努力した。
 また、あの夢を見てしまった。
 徐々に、呼吸の調子を掴む。吸って、吐いて、吸って、吐いて。そう、ゆっくりと、ゆっくりと。
 目を閉じて呼吸のリズムを追いかける。どくんどくんと、心臓の音が響く。
 静かに目を開けて顔を上げれば、テディー・ベアのぬいぐるみが本棚の上に置かれていた。
 にっこりと微笑んだテディー。
 ずっと一緒にいてくれる、わたしのテディー。
 ああ、大丈夫。
 ここはわたしの部屋。十分に広くて、空気もきれい。
 横を見れば明るい朝の光がカーテンを透かしていた。
 呼吸を整えがてらに、言葉にならない言葉を口から出す。
 何度目かになるあの夢。
 いつもいつも、わたしの名前を呼んで、わたしに助けを求めてくる。
 聞きたくない、見たくない、って思うのに、あの映像がわたしの夢を支配する。
 わたしは両手で顔を覆った。
 うなされ始めたのはいつからだろう。
 数ヶ月前、いや、分からない。
 いや、分からないわけでもない。
 いや、最初は分からなかった。あの夢が、何を意味するのか。
 瞼の裏に映し出される、ただの夢。
 所詮は夢なのだ、と思っていた。夢の中だけの話、夢で終わる話。
 でも、もしあの夢が現実だとしたら?
 あんなに暗い炭鉱で、1人助けを求めている。
 わたしの名前を呼んで、助けを求めている。
 もし、わたしだけが唯一の希望だとしたら?
 あの声の主が頼れるのは、わたしだけなのだ。
 ほかの誰でもない、わたしだけなのだ。
 それを考えると気持ちは落ち着かないものになる。
 わたしは、どうすればいいのだろう。
「ヘザー?」
 名前を呼ばれてわたしはどきりとした。
 部屋のドア越しに聞こえたそれは、嫌なくらい聞き覚えがある。母の声だ。階下から呼んだのだろう、階段を上る足音が続いて聞こえてきた。
 こんこん、とドアが叩かれる。
 普段なら何とも感じないけれども、その音はくぐもっていた。
「ヘザー、開けるわよ。いい?」
 わたしは喉がまだ痛くて、黙っていた。
 母は少しばかりの遠慮の時間を置いた後、ドアノブを捻った。
「……どうしたの? 大丈夫?」
 とび色の瞳が心配そうにわたしを見ている。どうせなら澄んだ青色であってほしかった。
 わたしは黙ったまま頷いた。
「なんでもない」
「でも――」
「大丈夫だから。ちょっと怖い夢を見ただけ。着替えてすぐ下りるから、朝食の用意お願い」
 にっこりと笑って母を見た。
 そう、と呟いて、母はぎこちなく微笑をした。
 わたしの言葉を信じていないようにみえる。いつもそうだ。
「ママ、わたしはもう高校生だよ?」
 放任主義な父とは違って、過保護な母。苦笑を交えてちょっと非難しつつ、わたしは母を見た。
「もう子どもじゃないの」
 呆れた調子で諭すように言ってみるものの、母の表情は変わらない。
「ええ、そうね。分かっているわ」
 言葉ではそういうけど、母の言動はいつまでたってもわたしを子ども扱いしている。
 子ども扱い。
 少し、語弊があるかもしれない。母がわたしを見るその目の中にはいつも心配そうな色が浮かんでいる。でも、それが過保護から来ているのかというと、断定できない気もする。
 母の言動は、どこかいつも、ぎこちない。
 まるでわたしが腫れものであるかのように、びくびくしている。
 わたしの機嫌を伺うように、いつもいつも。
 確かにわたしはときどき、感情の起伏が激しいと言われることがある。
 だからなんだというのだろう。わたしがどんなであれ、親ならもっと、堂々としていてほしい。
「着替えるから、出てって」
 可能な限り笑顔で告げた。
 目の前の母親が、更におろおろとした動作を見せる。
 そんな調子だから父にも頭が上がらないのだ。いつも父の意見に丸め込まれている。
 情けない。
「出てって」
 ちょっとだけ強く言ってみたら、案の定母がびっくりして、でも懸命に微笑を浮かべようとしていた。
 それでも出ていこうとしないから、わたしは構わずにベッドから立ち上がった。
 母がようやく、そうね、出ていくわ、とかぶつぶつ呟きながら、わたしの視界から消えていった。


 朝食で父の姿を見ても、交わす会話なんてあるはずもない。
 彼はわたしの存在なんて気にしていない様子だし、わたしもそれはそれで別に構わなかった。
 だって、母が一生懸命明るい話題を提供しようとしているところが面白おかしいから、新聞で顔を隠している父なんてどうでもよかった。
 あの男の顔、最後に見たのはいつだろう。
 ときどきそう考える。でも、懐かしむとかそういう感覚とは違っていた。
 むしろ、父と会話をしていない期間を更新し続けることが、わたしの中では丁度いい暇つぶしのゲームだった。
 普段の生活なんて、こんな片田舎じゃ楽しみも何もあるもんじゃない。
 毎日毎日、同じことの繰り返し。
 同じ年頃の子たちは垢ぬけていなくて、そのくせ自分は大人だって信じきっている。
 つまらない。
 いつもどおりに食事を切り上げて、私は支度を整えると家を出た。
 本当に家出ができればいいのだけれど、今はまだ時期じゃない。
 起きていれば両親と顔を合わさなければならないし、眠りにつけばあの悪夢にうなされるけれど。
 それでも、わたしはまだ、この片田舎にいたいから。
 彼がいる、この片田舎にいたいから。
 玄関のドアを開けると、後ろから母が送り出す言葉を投げかけてくる。
 鬱陶しいから、家を出た後のわたしはいつも駆け足だった。
 こんな嫌な日常だけれど、大きな樫の木の近くを通る時だけは別だった。
 だって彼がいるから。
 今日も、こんなにどきどきしている。
 樫の木の隣には、保安官のオフィスが建てられている。
 朝、わたしが通る時間には、いつも彼の姿が見える。
 ほら、いた。
 背が高くて、細身だけど筋肉質で、若々しくてかっこいい彼。
 なんで彼のような人がこんな片田舎で保安官をやっているのか、わたしには理解できない。
 でも、そんなところも彼の魅力のひとつだった。
 セオドア。
 彼の名前を思い出すたびに、彼の名前を宙に描くたびに、わたしの心はこんなに満たされる。
 こんな辺鄙なところにいる、ただひとつの理由。
 セオドア、なんていい響きだろう。
 彼は優しいから、道を学校へ急ぐ子どもたちへの微笑も絶やさない。
 朝の光に、彼の茶色の髪が淡く際立つ。弱い風に吹かれながら。
 笑うとできる笑窪を眺めているだけで、わたしの世界には彼しか存在しなくなる。
 何よりも輝いている彼。
 誰よりも眩しい彼。
 でも――。
 突如としてわたしと彼の間に邪魔が入る。
 恍惚としていた光景が、一気に現実世界の色へ戻ってしまう。
 彼に駆け寄る一人の女性。
 ブロンドの長い髪をわざとらしく揺らして、スカートの裾を靡かせて、愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいて。
 ケイトとかいっただろうか、あの女。
 見ているだけでも嫌悪感を抱いてしまう。
 そんな女が、彼の婚約者だというから、尚更のこと。
 彼も彼だ。
 なんであんな女の手が自分の腕に絡むことを許してしまうのだろう。
 なんでその素敵な笑顔をあんな女に向けてしまうのだろう。
 数ヶ月前までは、こんな気持ちにならなくて済んだのに。
 あんな女なんて気配の欠片もなくって、彼だけが、わたしの朝を彩っていた。
 あんなにも美しかった朝だったのに。
 あの女が現れてから、心の中に巣くった靄は深くなるばかりだった。
 そんなわたしの心に隙ができたのか、悪夢を見るようになってしまった。
 そう、例の夢。
 何度も何度も、暗い埃っぽい炭鉱の中からわたしを呼ぶ声。
 最初は無視していたのに。
 だんだんと、声が鮮明になってきてしまったから。
 わたしにしか聞こえない声。
 わたしだけに見出された、希望。
 怖いと思った。
 なんであんな夢を見ないといけないのか。
 夢の内容は誰にもいえない。
 どうせ誰も信じないから。わたしだって最初はただの夢だと思っていた。
 でも。
 こんなに長く同じ夢を見て、それがだんだん鮮明になってくると、ひょっとしたら、と思っていたことが真実味を増してくる。
 ひょっとしたら、現実なのかもしれない。
 だってこの町には、炭鉱があるから。
 小さい頃から、行っては駄目、と教えられていた炭鉱。
 それでも子供の好奇心は強くて、無邪気に遊びに行った数人がそのまま帰らなくなったりして、大騒ぎになったこともある炭鉱。
 夢の中の炭鉱もあそこだ。
 わたしも炭鉱に探検にでかけたことのある子供だったから知っている。
 あの中でわたしの名前を呼んでいる人。
 助けを求めて、わたしを呼んでいる人。
 その人にとっては、わたしだけが、希望。
 目を背けたい。だけど、背けたらだめだ。
 でも1人の力じゃどうしようもない。
 相談したい。だけど、両親になんて、とてもじゃないけど言えない。
 母は、何を言っているの、って笑って話題を変えるだけだろうし、父はいつもどおり何も反応を示さないに違いない。
 わたしだって、狂っていると思う。わたしの頭がどうかしてしまったんじゃないかって。
 でも、見てしまうから、仕方ないじゃない。
 だんだんと鮮明になっていくから、仕方ないじゃない。
 一体誰が発信しているのか。
 何のために発信しているのか。
 必死に助けを求ていて、それを受信するのはわたし。
 これだけ長い間、あの夢を見ている。
 きっと、わたしにしか届かない声。
 わたしは顔を上げて前を見た。
 セオドア。
 町の治安を守る人。
 彼になら、話せる。
 彼なら、きっと信じてくれる。
 彼は誠実だから。
 きっと真剣に聞いてくれる。
 正義感の強い人だから、助けにいこう、案内してくれって、言ってくれるだろう。
 そうして無事に事が進めば、わたしはあの悪夢から解き放たれる。もうあの夢を見なくてよくなる。
 彼はきっと信じてくれる。
 暗くて黒くて、狭くて遠い炭鉱。
 でも、彼と一緒になら、怖くなんてない。
 へザー、とわたしを呼ぶ夢の中の声が思い出される。
 大丈夫。あなたの声は届いている。届いているわ。
 何千もある廃坑の通路だけれど、あなたの声はちゃんと届いているのよ。
 もうすぐわたしが迎えにいくから。
 何も心配しないで。
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