ベンチの下のカタバミは、あれからも除草の難から逃れられたようだった。
秋の気配が訪れ、蝉の声が静まる頃。
動きやすくなった気温の中、私は公園の例の場所で、色褪せてきたカタバミの実をつついてみた。
聞こえるか聞こえないか、周囲の音に消されたけれど、カタバミが弾け、勢いよく種が方々へ散らばった。
初めて見つけた感触に誘われて、違う実をつまんでみる。
指先で、弾ける音を感じることができた。
黄色い花に、弾ける実。
普段目に留めないだけで、こんなにも近くに存在するカタバミ。
ふと、夏にここで洋光さんと言葉を交わしたときの映像が思い出される。
『パスタが食べたくなったら、またベニーチェに来てください』
別れ際に思い切ってそう告げた私に、洋光さんは黙ったまま、けれど微笑みながら、頷いてくれた。
あれから何回かこの公園に来てみたけれど、洋光さんとは会っていない。
ベニーチェでも見かけていない。
雪枝さんに先立たれた悲しみは、簡単には癒えないのだろう。
けれど、雪枝さんの思い出へとつながるカタバミを探していた洋光さんは、現実を受け入れながらも前に進もうとしているような気がした。
「洋光さん、また来てくれるよね」
雪枝さんと一緒に、毎月24日に訪れていたベニーチェにも、きっとまた、来てくれる。
私はそう信じながら、冬支度を始めるカタバミに尋ねてみた。
カタバミは、私の指先で小さな小さな種を弾けさせた。
秋も深まったある日。
お昼時の山場を過ぎ、ベニーチェの店内はお客さんの声より流れているイタリアの曲のほうが耳に届くようになっていた。
「ありがとうございました。またお越しください」
会計を済まし、外へ出て行く2人組に声をかけ、見送った。
閉まりそうなドアが開き、入ろうか、と新しいお客さんがベニーチェに足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
メニューを手に取りつつ、迎える。
若い夫妻と、小さな子どもさん。
そして、もう1人。
「おおー、親父も洒落た店知ってるんだ」
そう若い男性にそう声をかけられた老夫は、洋光さんだった。
照れたような顔をしつつ、洋光さんは、ふと、私と目を合わせて小さくお辞儀をした。
嬉しくなって、私も笑顔でそれに応えた。
「パパ、じいちゃんはおやじじゃないよ。じいちゃんだよ」
「あ、そうだよな、祐太。じいちゃんは、祐太のじいちゃんだ」
顔をめいいっぱい上げて訂正を入れた子どもさんに、膝を曲げて目線を低くしながら、洋光さんの息子さんだろう、若い男性が言った。
「お客様は4名様でしょうか?」
確認すれば、子どもさんのお母さんが、はい、と頷いた。私は、こちらにどうぞ、と足先を返した。
パキラの側の席は2人席だから、今日はそこへ洋光さんを案内することはできない。
私はカポックの隣の4人席へと藤田さん一家をお連れした。
「今、お水をお持ちします」
メニューをテーブルに置き、そう告げると、
「はい、お願いします」
と洋光さんがにっこりと微笑んだ。
息子さん夫婦と、お孫さん。
洋光さんと雪枝さんの家族。
彼らから感じられる雰囲気は、やはり家族だからだろうか、穏やかで優しいものだった。
水を4つ用意して席に運ぶ先、落ち着いた微笑みを浮かべる洋光さんの姿を見て、私は、ほっと、安心した。
「じーちゃん、オススメってある?」
「ぼくこのパフェ食べたい」
「祐太、デザートは食事の後」
「ぼくパフェがごはんでいいよ」
「それじゃ、パフェも頼もうか」
「じーちゃん、祐太に甘すぎ」
「あますぎくないよ、じーちゃんはゆうたのみかただもん」
テーブルに水を置く間にも交わされる会話に、自然と微笑みがこぼれてきてしまう。
「注文、よろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ」
お母さんの声が聞こえてき、私は注文を承る準備をした。
「じーちゃん、先に頼みなよ」
息子さんに促され、洋光さんは私を見ると小さくお辞儀をした。
「スモークサーモンのサラダと――」
「ゆうたのパフェ」
「――あ、そうだったね。えーっと、この、いちごのパフェをひとつ。あと、生ハムとモッツァレラのジェノベーゼ仕立てをお願いします」
雪枝さんの好きだったメニューが聞こえてき、私はしっかりと承った。
「俺は、――えーっと、じーちゃんどれだったっけ?」
「うん?」
「オススメ」
「ああ、これ、これ」
広げられたメニューを指差し、洋光さんが答える。
「俺はこの鶏と水菜の和風仕立てと、カルボナーラを」
「パパよくばりすぎー」
「よくばりじゃないの。祐太も食べるの」
お母さんの一言に、祐太はパフェだもん、と言うと、祐太君の興味はテーブルの上の備品に移っていった。
「ママ、サラダをもうひとつ選んで」
「何でもいいの? じゃあ――、そうね、トマトとクリームチーズのサラダと、あと真ダコとアスパラガスのペペロンチーノをお願いします」
入力を終え、私は受けた注文を繰り返し、確認を行った。
「――スモークサーモンのサラダと、生ハムとモッツァレラのジェノベーゼ仕立て。以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
かしこまりました、と私はテーブル席から離れた。
ふと、じいちゃん、ぜのべえって、誰? と尋ねる祐太君の声が聞こえてきた。
思わず微笑してしまいながら遠ざかる私の後ろで、ぜのべえじゃないわよ、ジェノベーゼ、とお母さんが訂正を入れていた。
続いて、おばあちゃんが大好きだったスパゲティーだよ、と告げる洋光さんの声が、温もりとともに耳に入ってきた。
注文を告げるために厨房に足を踏み入れると、私の様子を怪訝そうに見る父の姿が目に映った。
「お父さん、注文、入ります」
弾んだ調子で、私は父にメニューを告げた。
サラダとジェノベーゼと和風。
この3点を聞き、父は私の顔と照らし合わせると、ほんの少しの間手を休め、客席を覗きに行った。
藤田さん一家を見つけたのだろう。
口元が綻ぶ父の隣に足を運び、私もカポックの隣の席を見た。
私たちの視線の先、洋光さんは息子さん夫婦とお孫さんに囲まれ、幸せそうに微笑んでいた。
了
