踏み切りの音が次第に大きくなり、意識が戻る。
タタンタタン、と電車の音が振動と共に響いてくる。
それにかき消されるように、規則的な音が遠のいた。
「起きたか?」
左から聞こえた声の主を見れば、ハンドルを握るアレックス・デイルの姿があった。
癖のあるブロンドの髪に青い瞳をした白人男性。若い頃もイイ男で通っていたであろう面影の残る顔立ちをしている。本人は大分前から28歳を主張しているが、それも疑問なしには通れない年齢になった。
「ああ、悪い」
うっかり寝てしまったらしい。ウォレン・スコットは体を起こして座り直った。
「んにゃ、もうすぐだから寝とけ」
踏み切りのバーが上がり、アレックスはアクセルを踏み込む。
「ただし、タクシー料金はもらうぞ」
にっと笑うアレックスに、ウォレンは軽く苦笑した。
馴染み深い街まであと少し。
郊外の住宅街は夜で暗いが、見慣れた家並みがひっそりと佇んでいる。
全反射で自分の姿が映る窓の外を、ウォレンはどこに焦点を合わすでもなく眺めていた。
「そういえば」
ハンドルを操作しながら器用にタバコを取り出し、アレックスが思い出したように言った。
「美人さんとお知り合いになられたんだって?」
不必要に強調された言葉を耳に入れ、ウォレンはアレックスを見た。
「驚いたよ、お前最近女っ気がほとんどなかったもんな」
「あんたがありすぎるんだろ。比較の基準がおかしいだけだ」
「いやぁ、モテる男はつらいのよ」
はっはっは、と笑うアレックスにウォレンは適当な相槌を打った。
お互いに私生活については一線を画しているが、アレックスの女性関係はけっこう派手だ。何気に毎回違う女性が側にいる気がする。いや、気がするのではない。事実、そうであった。
「やっぱあれだな、俺の紳士的なオーラが魅力的なんだろうな」
1人で満足そうに頷きながらアレックスはタバコをくわえる。
会話が途切れ、静かになった車内にタイヤと地面との摩擦音が響く。
「……おいおい、ここは肯定するところだろ? なんだこの沈黙は」
「その通りの意味だ」
「つれないねぇ」
分からないやつだなぁ、とアレックスは肺を満たしていた煙を吐き出した。
「思い出してもみろ、一昨日の夜なんかだな、ほれ、スラッと背の高い美人のメリンダの熱い視線と、俺の素敵で優しい視線が、こう、絡み合ってだな、一瞬にして2人は――」
「ミランダだろ?」
1人情熱の世界に浸っているアレックスの言葉を遮ってウォレンは女性の名前に訂正を入れた。
「……ん?」
「あんたが言う、スラッと背の高い美人、の名前だ」
そう言われてアレックスはハンドルを握りながら記憶を辿る。
「……そうだったっけ?」
「そうだ」
「メリンダじゃなかったっけ?」
「ミランダ」
「ミランダ?」
「そうだ」
「って何でお前が覚えているんだ?」
「何であんたが覚えていないんだ?」
「質問を質問で返すな。さてはお前、妬いてたな?」
ははぁ、と知ったような顔をしてアレックスは意地の悪い笑みを浮かべる。
ウォレンは呆れたように外の空気よりも冷たい視線を送った。
送ったが、相手は気にも留めずに笑みを返す。
「図星だろ?」
「的外れだ」
「いやいやいや、隠すな隠すな。しかしなんだな、メランダがいくら美人だったからってそんな人の相手に横恋慕なんてするもんじゃ――」
「名前が混ざったぞ」
「メリンダ?」
「ミランダ」
「ま、とにかく名前は関係ないさ。愛さえあればそれだけで――」
語りに入るアレックスを横目にウォレンは耳に入り込んでくる大げさな表現を左から右に流した。外を見れば無関心に過ぎ去る景色が半透明な車内の絵とともに窓に映し出されている。色の少ない外の表情は、寒い空気に包まれ、閑散として見えた。
背後では相変わらずアレックスの調子のいい『独り言』が続いている。
話を素通りさせながら、どうすればそんな思考回路になれるのか、そんな疑問がウォレンの頭を過ぎる。暫くあれこれと考えを巡らせていたが、やがて考えるだけ時間の無駄だという結論に落ち着いた。
彼は彼だからこうなのだ。
そんな彼の話を聞き流しているとはいえ、耳の機能は健在である。再びアレックスの口が女性の名前を間違えたのが聞こえた。
「……健忘症か……」
ぼそりと小さく呟けば、それまで続いていたアレックスの講義がぷつりと途切れた。
「……何か言ったか?」
「別に何も」
「言っただろう?」
「気にするな」
「健忘症だって?」
「聞こえてたのか」
「当たり前だろ。失礼なやつだなぁ」
本当にお前はかわいげがない、と呟きながらアレックスはタバコの火をもみ消す。
「せめて、若年性、をつけなさい」
諭すように発したその言葉に対するウォレンの反応を見て、アレックスは眉間にしわを寄せた。
「……その絶妙に微妙な表情は、論点が違うぞ、という意味か、若年って言ったかこのおっさん、という意味か、どっちだ?」
「安心しろ。60歳より若ければ誰でも若年性だ」
「そうなの?」
「多分」
「じゃ、若若年性、だな。俺まだ28歳だから」
「年々俺との年の差が縮まってきているのは気のせいか?」
「28だって」
「何年前からだ? 確か――」
「こらこらこら、その先は言うな」
「そろそろ自称年齢を上げるべきだな」
「何の。まだまだ」
「その内追いつくぞ」
「どうぞ追い越してくれ」
自称年齢を繰り上げる気の全くないアレックスに、やれやれ、とウォレンはため息をついた。
とはいえ、実年齢よりも若く見えるのは確かである。自己暗示というものは意外に功を奏すものなのかもしれない。
年齢を気にするのは年を取った証拠だな、とウォレンは小さく呟いた。
ちらっとアレックスが無言のまま視線を寄こす。
ハンドルを握る彼の腕が動く。
ウォレンが慣性の法則を体に感じると同時に眩しい光がフロントガラス越しに入ってきた。
トラックだ。
なぜ目の前に、という考えと同時に、はたと気づく。
この車は間違いなく対向車線に入っている。
状況を理解して驚いたようにウォレンはアレックスに向き直った。
「アレックス?」
「問題です。私は何歳でしょう?」
交通規則を無視しているとは思えないほどのほほんとした笑みを浮かべてアレックスが言った。
「何を馬鹿なことを――」
動こうとしないアレックスに代わり、ウォレンが慌ててハンドルを動かす。
乗っている車のタイヤと地面の擦れる不快な音が下から伝わり、トラックの派手なクラクション音がドップラー効果で変調していくのが聞こえた。
静けさが戻る車内で、ウォレンは通り去ったトラックから視線をアレックスに移した。
「……おい」
ハンドルから手を離し、ゆっくりとした口調で咎める。
「ちゃんと前を見て運転しろ」
「前は見てたぞ」
何も悪いことはしていないというあっけらかんとした表情のアレックスにウォレンは全身の力が抜けるのを感じた。
「……アレックス」
「28歳だと認めるまで真面目に運転しないぞ。はっはっは」
あんたは子供か、という言葉が口を出る前に、再びフロントガラス越しに明るい光とけたたましいクラクションが入ってきた。
先ほどと同じようにウォレンが助手席からハンドルを操作する。
上品な対向車に乗っていた運転手の罵声が閉じられた窓から聞こえてきた。
「……代われ。俺が運転する」
「やなこった」
「事故る気か?」
「そうだなぁ、派手にいきますかね」
「……酒でも飲んだのか?」
「いいや、シラフだよ」
はっはっは、とアレックスが笑う。
「ささ、承認しなさい」
「何を?」
「28」
「馬鹿言ってないで前見ろ、前!」
会話のBGMとして、対向車のクラクションが鳴り響く。
直線の車線でわざわざ走行距離を稼ぎながら、2人を乗せた車は走っていった。
しばらくして、蛇行をしていた車は右車線に落ち着き、そのままおとなしく夜が深まる繁華街へと溶け込んでいった。
ギルバートのバーの近くに車を止める。
外に出れば、ひんやりとした空気が身にまとわりつく。その空気はかすかに氷の香りを含んでいた。
ウォレンとアレックスは洒落た木枠の扉を開け、バーの中に入っていった。
煙で霞んだ店内をオレンジ色の電球が淡く色づけている。派手ではないが凝った造りのこのバーは、名の知れたインテリアデザイナーによってデザインされたものだった。
「やぁアレックス。元気か? まぁ、お前に対する場合、この質問は無意味だな。しかし2人そろってとはまた久しぶりだな」
事前に知らせを受けていたギルバートがにこやかに挨拶をよこしてきた。
コートを脱いでカウンターの椅子に掛けると、席に座りながらアレックスもにっこりと笑みを返す。
「若返っただろ?」
「皺が増えてるよ」
「そんな馬鹿な」
「目のあたりとか」
「そりゃあ、ギル、お前の目が悪くなったんだよ。いい眼科紹介してやろか?」
「必要ないね。年取ったとはいえ、目は健康そのものだ」
「なら目の前の人物は男前だろ?」
「あー、目は健在だが耳は悪くなったようだ。何か言ったか?」
意地の悪い笑みを浮かべてギルバートはアレックスを見る。
「……どうしてこう、俺の周りは理解のない人間が多いのかねぇ」
ため息をつきながらアレックスは遠い目をする。
「何を言ってるんだ、お前の戯言に付き合う気さくな人間、そうそういないぞ?」
そうだよな、とギルバートはウォレンに同意を求める。上着を脱ぎ、カウンターの席に腰掛けながら、その通り、とウォレンが賛成した。
「戯言じゃあないさ、事実なんだから」
真面目な顔でアレックスが主張する。
「何とでも。生温かい視線で見守ってやるよ。な、ウォレン」
「ああ」
「生、温かい?」
単語に疑問を持ちながら、ありがたいねぇ、とアレックスは苦笑をする。
「何か飲むかい?」
グラスを用意しながらギルバートは尋ねた。
「バランタイン」
「水」
ほぼ重なるようにして返ってきた答えよりも先に、ギルバートの腕は動いていた。
注文を聞くのはあくまで形式的で、最初から、彼らが飲むものはちゃんと心得ていた。
慣れた手つきで用意するギルバートの耳に、アルコールに弱いウォレンをからかうアレックスの声と、適当に受け答えするウォレンの声が入ってくる。
聞きなれたやりとりが戻ってきたことが微笑ましく、ギルバートは表情を和らげた。
「はいよ」
2人分同時にグラスを差し出す。
再び重なるようにして、短い礼の言葉が聞こえた。
どういたしまして、と無言で返すと、ギルバートはボトルを元の位置に戻しながらウォレンを見た。
「それはそうと、ウォレン。約束、覚えているか?」
「約束?」
突然のギルバートの質問に、疑問顔でウォレンは尋ね返した。
「俺とのじゃないぞ」
肩をすくめながら、ギルバートはにっこりと笑みを浮かべた。
ウォレンはグラスを口に運びながら記憶を辿る。
思い当たる節はすぐに見つかった。
「……彼女が?」
まさか、と思いつつギルバートに尋ねた。頷く彼の姿が目に映る。
「今ちょっと、用事を頼んで――」
言いかけたギルバートの言葉を遮るように、カウンターから奥に通じるドアが開いた。
「ギル、途中で名前忘れてしまって。このスコッチでよかった――」
スコッチの瓶を丁寧に持ちながら、エリザベスがカウンターに足を踏み入れた。
顔を上げるよりも早く気配で察知したか、動きが止まる。
複数の視線が彼女を捕らえたが、線を結んだのは1人のものだけだった。
一瞬の沈黙の後、エリザベスが先に言葉を発する。
「おかえりなさい」
柔らかなその言葉と表情を受け止め、ウォレンも言葉を返す。
「久しぶりだな」
穏やかな口調。
相変わらずだ、とエリザベスは感じた。
隣に立っていたギルバートがエリザベスの手からスコッチを受け取る。
軽く礼を言ってエリザベスはカウンター越しにウォレンに近づいた。
「ギルから連絡があったの。今日、ここに来るって」
真っ直ぐにウォレンの目を見て、エリザベスは続ける。
「待っていたわ」
静かに熱を帯びた声。
ウォレンはその彼女の言葉に優しく包み込まれる感覚がした。
「ありがとう」
簡潔な言葉に込めた感情。
それを受け止め、エリザベスは嬉しそうに微笑んだ。
立ち話も何だから、とウォレンはエリザベスに隣の席を勧める。
そうね、と言い、エリザベスはカウンターの席へ移動した。
彼女がウォレンの隣に座ると同時に、彼を押しのけるようにアレックスがエリザベスに話しかけ、ギルバートが彼女のためにカクテルを作る。
誇張されたアレックスの自己紹介と、それに訂正を入れるウォレンのテンポのよい掛け合いに微笑しながら、エリザベスはギルバートからカクテルを受け取り、彼が語る第三者的な見解に耳を傾けた。そのギルバートの言葉に反応し、ウォレンとアレックスが同時に短い否定の単語を言う。いっそ清々しいほどの重なり具合にエリザベスが感心すれば、ギルバートがそれに賛同し、2人が異議を唱える。
橙色の灯りに包まれたバーに、柔らかな会話が余韻を残して吸い込まれていく。
時間は彼らに気づかれないまま刻々と過ぎ去っていく。
内外の気温差により結露を生み出したガラス窓の向こう、個々独特に形づいた雪が、ひとひら、ひとひら、静かに舞い落ちていた。
了