歩道は昨夜降った雨を十分に含んでいるらしい。
食べ物でも落ちていたのだろうか、地面をつついていたイエスズメが飛び去った先の街中には、新年を祝賀する空気がまだ濃く漂っていた。
信号の色が変わり、白い息を吐く人びとが待ちかねたように歩き出す。
生み出された風を受け、一度は地面に落ち着いていた紙袋が再び転がり始めた。それはやがて道路脇の水溜りに足をとられると、観念したかのように動きを止め、ゆっくりと水分を取り込んでいった。
その向かい、小さな土地に建てられた花屋の中。
「そう急かすな。仕事探しなら時間を見つけてやっている」
携帯電話を耳に当てながらマネークリップを取り出す途中、ウォレン・スコットは気配を感じ、カウンターを振り返った。
「――いや、行っていない」
店員からの、これでいいですか、という無言の確認に、電話に答えつつ軽く頷きを返す。
「お前なぁ、人がせっかく見つけてきた仕事を……」
クック・メモリアル病院の外、道端から立ち上る白い湯気を見、羽織っていたコートを羽織り直しつつクラウス・アイゼンバイスはため息をついた。
「――専門知識なら仕事を始めてから大学に通うでもして培えばいい。とりあえず職につけ」
『真面目な会社っぽかったからな。嘘だらけの履歴書がバレないところじゃないとまずいだろ』
「嘘だらけってどういうことだ」
『ひとつ確認したいんだが、お前、一応ストレートで大学を出たんだよな?』
ウォレンの質問に怪訝な表情をし、クラウスが携帯電話を持ち直す。
「……誰の履歴を書いてんだよ」
紙幣を店員に渡し、ウォレンは花を受け取ると踵を返した。
「お前の経歴は見栄え的に優秀だからな。実際の成績は知らないが」
『……賢い戦略だな、そりゃ』
ため息交じりに聞こえてきたクラウスの声に、ウォレンは花屋のドアを開けながら感心した相槌を打つ。
「何だ、真面目に受け取らないのか。成長したな」
『バーカ』
店のドアを開け一歩踏み出したところで別の電話がかかってき、ウォレンが着信元を確認する。
エリザベス・フラッシャーの名前が表示され、タイミングの良さに感謝しつつウォレンは携帯電話を耳に戻した。
「悪いが急ぎの電話が入ったから切るぞ」
『……その様子じゃ急ぎじゃなさそうだな。エリザベスからか?』
ウォレンの使う話の切り上げの手法に幾分か慣れてきたのだろう。
「野郎と話をするのは優先度が低くてね」
クラウスの質問に答えるでもなく一言残すと、返答を待たずにウォレンは通話を終了し、エリザベスからの電話に繋げた。
「どうした?」
『あ、今からお昼をとろうかなって思っているんだけど、空いてたりする?』
「今からか」
信号待ちの人の群れの端で足を止めつつ、ウォレンは手に持っている花に視線を落とした。
「……悪いな、夜なら空いているが」
「そっか」
大学構内の陽だまりの中、エリザベスは友人のクレア・シャトナーを見、軽く首を振った。
そのジェスチャーに、クレアが残念そうな顔をする。
『急ぎか?』
「あ、ううん。確認したいことがあっただけだから。クレアが今度、チャリティー・パーティーを開催するっていうから、その話にあなたも参加して欲しいなって思って」
日当たりの良い構内で足を止めて尋ねつつ、エリザベスは隣のクレアに視線を移動させた。
『……警備がしっかりしていそうなパーティーだな』
「『メイス・レヴィンソン』なら二つ返事でOKじゃない?」
クレアに対してはウォレンはレヴィンソンの名前のほうで自己紹介をしている。エリザベスはそのことを留意しているのだろう。受話器を通して相手に伝わらない程度に、ウォレンは微苦笑した。
それで? と期待を込めるクレアの視線に、エリザベスはあらためて携帯電話を耳に当てると、
「どうかしら」
と返事を催促した。
数瞬の間を置いて、ウォレンが口を開く。
『残念ながら』
得られた回答に、首を横に振ってエリザベスがクレアに伝えれば、ダメか、と肩を落とす彼女の姿を見ることができた。
『クレアが残念そうにしてるわ』
信号待ちの人が増える中、エリザベスの声にウォレンが怪訝に眉をひそめる。
「……何で彼女が残念そうにするんだ?」
『話をしてみたいそうよ?』
エリザベスの返答にますます疑問を膨らませていれば、電話口でくすっと笑う声が聞こえてきた。
『女子の話よ、気にしないで。それじゃ、また今夜』
「パーティーの話は聞かないぞ」
『大丈夫。送り迎えをお願いするだけだから』
心得ているらしいエリザベスの答えに、そうか、とウォレンが返す。
またね、という彼女に同じように通話を終える挨拶をし、ウォレンは携帯電話を下ろした。
タイミング良く、前方を横切る車道の信号が赤になろうとしているところだった。
そこを突き進んできた1台の車が、向かいの斜め前の建物の前で急いだ様子で停車をした。
必然的に信号待ちの歩行者の注目を集めることとなったその黒い車から荷物を抱えた女性が出てき、身内であろう運転手への挨拶もそこそこに地下鉄の駅へと駆けて行く。
歩行者の1人として同じようにその様子を見ていたウォレンが、ふと、手に持った一輪の花の質量を感じ、似たような光景を思い出す。
行き交う車のことなど考えている余裕もなく、クラクションの中曲がった角の先、急停車して降ろした、1人の女性――。
記憶に残された映像が現実と重なりそうになった瞬間、周囲の歩行者が一斉に歩き出した。
その流れを受け、ウォレンはひとつ瞬きをした。
黒い車は慌ただしい空気をもたらしたことを忘れたかのように静かに車線に入り、そのままどこかへと去って行った。
ふと、左手の白い薔薇に視線を落とす。
あの時、苦渋の表情をしながらもウォレンの言に従い、振り向くことなく人混みの地下鉄の駅へ駆け去って行ったのは、他でもない、これから挨拶に行こうとしている女性だった。
信号による時間制限に引っかからないよう、ウォレンは顔を上げると足を動かし始めた。
落葉樹は高く、見上げれば青空に交差する線を描いている。
湿った落ち葉が敷き詰められている墓地の一角、黒いコートを羽織ったブロンドの男性が上体を起こし、両手をポケットに入れた。
「年明けから雪が積もったが、寒くなかったか?」
尋ねながら、アレックス・デイルは墓石に刻まれている名前を見やった。
アイリーン・ホープ、享年35歳。
添えられた白い1本の薔薇が、弱い風を受けて僅かに身じろぐ。
名前の隅を隠している濡れた落ち葉をつまみ、地面に放る。
「君は俺と同じで南部の出身だから、この寒さは堪えるだろうね」
外気にさらされて冷えた手をこすり、再びアレックスは両手をポケットに入れた。
「乾いていたなら落ち葉をかき集めて火をつけたいところだが、最近は物騒なことに敏感だからなぁ」
言いながら己の白い息が天に上がっていく様子を目を細めて追いかける。
墓地は静かで、ときどきカラ類の声が小さく耳に届いてくるのみだった。
雨の後の郊外の新鮮な空気を吸い込み、アレックスは深呼吸をする。
同時に目を瞑れば、在りし日のアイリーンの姿を瞼の裏に描くことができた。
「この前はどこまで話したかな」
膝よりも少し高く残っている古びた石垣に腰をかけながら、アレックスが尋ねる。
「ヘレナという美人さんにお目にかかれたことは言ったっけ? 最近は積極的な女性が多くて助かるよ」
軽やかに小さく笑う。
「……で、嫉妬してくれてると期待していいかな?」
スキットルを取り出し、アレックスは蓋を開けて乾杯の仕草をすると一口あおった。
「心配ない、今日のために用意しただけで、普段は持ち歩いていないさ」
蓋を閉めてポケットに戻す。
ひとつ息を吐けば、白いそれが弱い風に吹かれて右へと流れて行った。
相変わらず、静かな墓地だ。
遠くに落ち葉を掃除している男性の姿は見えるもののそれ以外に人気はなく、冬の小鳥の地鳴きが時折聞こえてくるのみだった。
ふと、彼女の声が聞こえたような気がし、過去が思い起こされる。
『守ってもらった命、長く生きなきゃと思っていたけど、そろそろ限界みたい』
病床に臥したアイリーンには、出会った当初には見えず、そして隠されていた、確実な死の影が忍び寄っていた。
それでも、医師に告げられた余命よりも長く生きた。
病に冒された身には堪えただろうが、彼女は最期までその様子を見せなかった。
十分長く生きてくれた、そう伝えて握った手からは、弱々しいながらも反応があった。
『もっと早くあなたに、あなたとあの子に会っていたら、自暴自棄にならずに治療を受けて、今頃は力強く笑っていられたかも。……こんな「もしも」の話をしたら、別れが辛くなるかしら』
かすれた声でアイリーンがゆっくりと告げ、微笑む。
『ああ。少なくとも、もう1年は生きてもらわないとね』
『……厳しいのね』
握った手、彼女が親指でアレックスの手を撫でる。
『ウォレンは?』
『外にいる。気を利かせているんだろう』
ゆっくりと首を動かし、アイリーンが部屋のドアを見やる。
その際に垣間見得た彼女の表情に、アレックスは一度視線を落とした。
『……君のせいじゃない』
何度も彼女に伝えてきた言葉だ。恐らくウォレンからも、同じように言われてきただろう。
もしあの日、アイリーンの隣にいたのがウォレンではなく自分であったのなら。
そう思わずにはいられないアレックスだったが、過去は変えられるはずもなかった。
なかなか調べがつかなかった彼女の過去が分かったのもあの日と同じ日だった。もう少し早い段階で調べていれば、物事は或いは違った形で動いていたかもしれない。最も、仮定の話を考えたところで、いい方向に転じていただろうという確証は持てなかった。
ともあれ、追われる身であったのならば、彼女が一箇所に長く留まりたがらなかったのも頷けた。それを知らずこの街に引き止めたのはアレックスであり、留まることを選択したのはアイリーンだった。
あの日、彼女の追っ手はアイリーンこそ逃がしたものの、彼女への大きな手がかりを捕まえることができたのだ。
『知っていた? 私、最初はあの子に嫌われていたのよ』
アレックスのほうに顔を向け、アイリーンが尋ねる。
『知っていたよ』
『悪女には厳しいのよね、あの子』
『魅力的な悪女には優しいみたいだけどね』
返事を受け、アイリーンが目を伏せる。
『……でも、あの子もあなたと同じで、何も聞いてこなかった』
『そりゃ、俺が育てたようなモンだからね』
得意気な表情を作るアレックスに、アイリーンがくすっと笑う。
『あなたを信じて、最初から――』
『アイリーン』
彼女の言葉を途中で遮り、アレックスが手を握り直す。
『これ以上、自分を責めないでくれ』
願いと祈りの込められた声音に、アイリーンが口を閉じ、彼の瞳を見つめる。
『……あなたからも伝えて。私の死は彼のせいじゃない。私はちゃんと、彼に守ってもらえた』
旋回するカワラバトの群れの羽音にアイリーンの声が遠ざかり、アレックスは墓石から上空へ視線を転じた。
あの時崩壊した足場もようやく安定する兆しが見えてきた。
負った傷は癒えることはないが、受け止めて抱えたまま、前に進むことができるようになったらしい。
「……あいつからは何か聞いているか?」
再び視線を墓石の名前に落とす。
「あいつもここに挨拶に来ているんだろ」
身寄りのないアイリーンの墓を参る者といえば、アレックスとウォレンくらいのものだ。花が手向けられていれば、誰がここに来たのかは容易に察することができる。
「どうなることかと一時は心配したよ。数えているか? 君に顔向けできない、と何回伝えたかな。……だが、どうやらようやく、元の道に戻ってくれそうだ」
穏やかに告げ、アレックスが微笑む。
淡く、カワラバトの羽音が上空を掠めた。
湿った落ち葉を踏んだ先。
先客がいることに気づき、ウォレンが足を止める。
樹木が植わっている側道から入ってきたせいか、彼の存在に気づくのが遅かったらしい。逆に先客の方は難なくウォレンの気配を感じ取ることができたようだ。
ひらひらとこちらを振り向かずに手を振るアレックスの姿を見、ウォレンは出直そうか迷った足を再び動かし始めた。
「邪魔したか?」
近づきながら尋ねれば、
「いいや」
と答えつつアレックスが腰を浮かした。
「……あんたはいつも、午後に来るかと思っていたが」
「たまには午前中の挨拶もいいだろうと思ってね。規則正しい生活を送っていることの証明になるからね」
白い1本の薔薇を、先客が持ってきたそれの隣に添えるウォレンを見やりつつ、アレックスは続ける。
「――それに、彼女も安心するだろう」
屈み込んだ姿勢そのままに、ウォレンがアレックスを見上げる。
「2人で挨拶するのは初めてだっけ?」
「……そうだな」
答えつつ、ウォレンは刻まれた西暦の隣にはらはらと舞ってきた落ち葉を手に取り、墓石の外に放った。
「丁度お前のことを話していたところだよ」
アレックスの言葉から暫くの間を置いた後、ひと息ついてウォレンが立ち上がる。
「話半分で聞いてやってくれ。そろそろボケが始まってきているらしい」
視線は墓石そのままに、ウォレンが顎でアレックスを示す。
「馬鹿言いなさんな、俺はまだまだ若いって」
「そろそろ新聞の文字を読むのに支障が出てくる頃合いじゃないのか?」
「いーや、今でもくっきりはっきり見えてます」
「今俺の隣に立っている奴の近況報告だが、この前ギルのバーで目を細めて新聞を遠ざけて――」
「おいおい、嘘を吹き込むのはやめなさい」
ウォレンの言葉を途中で遮るように、アレックスが膝で彼に蹴りを繰り出す。が、予想していたのかウォレンは難なくそれを避けた。
「ムキになっているところが怪しいだろ?」
手で隣の人物を示しつつ、ウォレンが刻まれたアイリーンの名前に同意を求める。
「こいつますます生意気になっているから、ここはひとつ君が叱ってやってくんない?」
俺も苦労してんのよ、と肩を竦めるアレックスの気配を隣に感じ、ウォレンは口元を緩めると風上へと視線を逸らした。
静かな場所だ。
騒いだ声もすぐに拡散し、空気が乱された様子を見せなかった。
「……時間、とろうか?」
場にそぐうようなアレックスの声音に、ウォレンが視線を戻す。
「……いや、構わない。あんたは?」
「俺は十分話した、かな」
「そうか」
2人の眼差しの先、無言のままの墓石に供えられた白いバラが、足元の弱い風を受けて花びらを揺らす。
暫くその様子を見ていたアレックスだったが、ふとウォレンの背中を軽く叩くと、また来るよ、と目でアイリーンに告げ、来た道のほうへ足先を向けた。
遠ざかって行く静かな足音を背に、ウォレンが近くに腰を下ろす。
相変わらず人気がない墓地だ。
上空の風に誘われたのだろう。数枚の葉が枝を離れ、地面へと舞い降りて行った。
了