IN THIS CITY

第5話 A Sense of Foreboding

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01 Green Rescue

 建物の明かりが夜の街を不規則に彩る。
 大通りの交通音や路地に入れば聞こえる喧騒とは縁遠い、高級ホテルの中の大広間の扉を開ければ、フォーマルな衣装に身を包んだ人々が淡い照明の中流れる音楽に耳を澄ませている。
 地元の交響楽団による演奏。
 やがて弦楽器の伸びやかな音色が最高潮を迎え、余韻を残しながら音による物語の終焉を迎える。
 観客側から拍手が沸き起こり、交響楽団員の面々が席を立つ。
 青地のロングドレスの女性が同じように彼らに拍手を送った後、大広間内を見回し、マイクの元に足を運んだ。喝采が続く中、彼女は交響楽団員に一礼を述べると、大広間のほうへ目を向けた。
 そのクレア・シャトナーと目が合い、エリザベス・フラッシャーは大広間の一角から小さく、人差し指と中指を交差させて見せた。クレアが微笑んで友人からのそれを受け取ると、ひとつ呼吸をとって口を開いた。
「ご来場の皆様、本日はチャリティー・イベントにお越しくださいましてありがとうございます。交響楽団の皆様も、この場での演奏を快諾してくださり、ありがとうございました。任せておけと力強く胸を叩いてくれた、楽団員であり、中学時代からの友人のトム・ウィリアムソンにこの場を借りてお礼を述べさせていただきます」
 ヴァイオリン演奏者の1人が手を上げて礼を受け取り、胸を張るとそれを叩いてみせた。
 大広間から笑い声が沸き起こり、エリザベスもくすっとその姿を見る。
「クレア、面白い友人が多いみたいだね」
 隣で立っていた、リン・ウーの一言に、
「ええ。彼女自身、面白いもの。天然っていうか、ユーモアセンスがあるっていうか」
 とエリザベスが返す。
「ユーモアセンスはお父さん譲りかな」
「あら、上院議員の演説の原稿はあなたも書いているんじゃないの?」
「まぁライターの1人ではあるけど、笑いが起こるところは大抵、議員のアドリブのときだからなぁ」
「そうなの?」
 見上げるエリザベスに、残念ながら、とリンが肩を落として続ける。
「僕の書いたところでは、なかなか」
 言いながら、リンは大広間の一角で娘のスピーチに耳を澄ませるジェームズ・シャトナー上院議員を一瞥した。
「私はあなたのユーモアセンス、好きよ」
 エリザベスの励ましに、リンが彼女を見る。
「それにクレアもあなたのこと楽しい人って評価してたわよ?」
「本当?」
「ええ」
「それ、上院議員にも伝わっているかな」
 考えるようなリンの呟きに、エリザベスが、ふーむ、と疑問調で前置きする。
「意外と策士だってことは、バレているかもね」
「それはまずいなぁ、僕のキャリアに悪い影響が……」
 真剣な表情でこぼすリンに、エリザベスは小さく笑った。
「さ、ちゃんと聞いていないと後でクレアに怒られるわ」
「確かに。引いては議員からお叱りを受けることになるしね」
 2人が姿勢を正して前を向いたところで、折りよくクレアがこのチャリティー・イベントの本題である奨学基金について述べ始めた。


 歓談の頃となり、一通り来賓への挨拶が終わったのだろう、クレアがエリザベスのところへ小走りに向かってきた。
「リジー、ごめん! なかなか振りほどけなくって」
「お疲れさま。いいのよ、こういうときにしっかり挨拶しておかないといけないものね」
 迎えながらエリザベスはシャンパンの入ったグラスをクレアに渡す。
「ありがと。もうね、お父さんがまたくだらない冗談で話を長引かせるからハラハラしちゃって」
「あら、議員の冗談は受けがいいって聞いたけど?」
「誰から?」
「リン」
 人名を言われ、少しクレアが考えるように左上を見る。
「ヨイショじゃない?」
「そうかも」
 奥のほうで誰か議員らしき男性と話をしているリンを一瞥し、2人はくすっと笑いを交わした。
「リジーは楽しんでる? 若い人をあんまり招待していないからちょっとつまらないかなって心配だったんだけど……」
「大丈夫よ。教授と色々と盛り上がったから」
「でも教授の場合、飼い猫がいかにかわいいか、を長々と語るだけじゃない?」
「お察しのとおり」
 少人数ゼミでも脱線してよく披露される親馬鹿ならぬ飼い主馬鹿の話題は、彼女らの教授の一種のアイデンティティーとなっているらしく、2人が再び笑い合った。
「クレア」
 ふと名前を呼ばれ、クレアが振り返る。
「あ、お母さん」
「お友達かしら?」
「そ」
 クレアの肯定に、思い当たったようにサラ・シャトナーが頷く。
「あなたがエリザベスね、クレアからよく聞いているわ」
 柔らかな物腰で手を差し伸べられ、エリザベスが握手を返す。
「母のサラです。やっと会えて嬉しいわ」
「いえ、こちらこそ光栄です」
 少々緊張したエリザベスを見て取ったのだろう、くすっとサラが微笑んだ。
「そんなにかしこまらないで。私も緊張しちゃうじゃない」
「緊張して躓いたところを、また写真に撮られるかもしれないもんね」
 以前雑誌に不意打ちで取り上げられた話題をさらりと述べたクレアに対し、サラは軽く肘で小突くふりをした。
「あれは床に段差があったことに気づかなかっただけよ」
「段差はなかったわよ?」
「そう?」
「平らな床だったもの」
「それならきっと、私にだけ分かる段差があったのよ」
 ゆったりとした口調のサラの言葉は何故か妙な説得力を持っており、エリザベスが思わず笑みをこぼす。
「ごめんなさい、クレアのお母さんだけあって、面白いなって思ってしまって」
「よく言われるのよ、母娘似ているって。でも、この子よりうっかりしていないはずだけど……」
「思うのは自由だもんね」
 クレアの言葉を、ええ、と素直に受け入れ、サラがちらっと奥のほうをみやる。
「『シャトナー夫人』という女性のイメージが世間に出回っちゃっているから困るわ。しっかりしたフリをするのって、カロリーを消費するのよね。夫だってああやって偉そうにしているけど、家に帰ればただのおじさんなのに」
「そ。写真を撮ったら高値でどこかの雑誌の編集者が買い取ってくれそうなほど」
「最近はお腹周りも心配だし」
「ホントに、もっとちゃんと運動しないとって言っているのに」
 同じようにエリザベスがシャトナー上院議員のほうを見やる。
 目元が凛々しいと感じるせいか、どうもサラやクレアから聞く『オヤジ』要素は見当たらない。
「私の目には十分立派な上院議員に見えるわ」
 振り返って告げれば、サラが微笑み、クレアが怪訝な顔をする。
「リジー優しすぎるよ、あれは建前の顔」
「あら、でも若い世代の支持を得られるのなら、嬉しいことじゃない」
「お母さんは黙ってて」
 はいはい、と頷くサラが、あ、と思い出したようにエリザベスを見る。
「お礼が遅くなってしまったわ。今日はクレアの無理を聞いて受付を受け持ってくださったのよね。本当にありがとう」
「いえ、構いません。こうやってお礼もいただいていますから」
 エリザベスがグラスを見せれば、サラが微笑む。
「この子には、私が受付をするからって言ったんだけど、『お母さんじゃ信用がない』ってきっぱり却下されちゃったの。さすがに傷ついたわ」
「だってお母さんは適当なんだから、間違って怪しい人も入れちゃうかもしれないでしょ? その点リジーは信用できるわ、しっかりしているもの」
 どこかのんびりした母親を叱咤するようなクレアの口調に、それはそうかも、とサラが僅かに頷く。
「信用してくれてありがとう。でもリンもいてくれたから緊張しすぎないで済んだわ。それに入り口でセキュリティー担当の人がまずIDの確認もしてくれていたし」
「シークレット・サービスみたいで大仰なのよね」
 そんなに警戒しなくても、とサラが僅かに肩を竦める。
「隙がないっていうの、こういうときは」
「そう?」
「お母さんはもう少し警戒してよ、特にこれからは――」
 言いかけてクレアが一度口を閉じる。
「――ともかく、安全が第一なんだから」
「それはそうかもしれないわね」
 おっとりと返事をするサラに、分かっているのかな、とクレアが小さくため息をつく。
 ふと、名前を呼ばれ、サラが奥の方を見やった。
 上院議員がグラスを小さく上げ、合図を送る。
「あらあら、忙しい人ね。それじゃ、失礼させていただくわ。あ、あちらにおいしいケーキがあったわよ。是非食べてみて」
 目ざとくケーキを頂戴していたらしい母親を見送り、いつの間に、とクレアが呟く。
「面白いお母さんね」
「よく言えばそうだけど、悪くいえばちょっとどこか抜けてるの。だから、心配なのよね」
 父親と合流する母親の姿を見ながら、クレアは手に持っていたグラスを口に近づけた。
 隣でくすっと笑うエリザベスの気配を感じ取り、彼女に視線を移す。
「何よ」
「ううん、何でも。クレアのユーモアセンスは、ご両親から受け継いだものなんだな、って思って」
「え? それどういう意味?」
「別に深い意味はないわ」
「何それ、気になるじゃない」
「気にしない気にしない。さてと、私もケーキでも頂こうかな」
「あー、話逸らしちゃって、もー。逃げられるなんて思わないでね。詳しく説明してもらうんだから」
 ケーキのテーブルに向かうエリザベスを追いつつ、クレアもちゃっかりとケーキ用の皿を手にとった。


 ホテルの近く、裏通りに面したコーヒーショップ。
 深夜に近い時間帯だがそれなりに客が入っており、店内に流れる音楽が彼らの会話のガヤの中に時折埋もれる。
 区切りがいいところで新聞から目を離し、ウォレン・スコットは腕時計を確認した。
 腕時計の針はエリザベスから知らされているチャリティー・イベントの終了時刻を十数分前に過ぎたところだった。
 再び新聞を開き、次の記事を読み進める。
 その視線の端を、店内に入ってくる新しい客の姿が掠めた。
 彼は暫く店内を見回していたが、ウォレンを見つけると声には出さずに、あ、と口の形を変え、足を進めてきた。
「何か面白い記事でもあった?」
「景気がまた悪化しているらしい。何とかしろ」
 前の席に座るリンには視線をやらず、ウォレンはコーヒーのカップを手に取り口に運んだ。
「んーまぁ何とかしようとしている最中だから勘弁してくれない?」
 これまでの経験で学んだのか、最近は真面目に回答することは止めたらしく、リンは適当に返すと店員に、僕にもコーヒーを、と注文した。
「パーティーはどうだったんだ?」
「賑やかだったよ。彼女、あ、クレアだけど、お父さんと同じで盛り上げるのが上手でさ。食事もおいしかったし、君も来ればよかったのに」
「堅苦しい場所は苦手でね」
「エリザベスからは誘われたんだろ?」
「誘われたな」
「1人で行かせるのはどうかと思うよ」
「同じ1人ならお前がいたろ」
 間髪入れずに言われて返す言葉がなく、リンが小さく呻る。
「お前は仕事に戻らなくていいのか?」
「何で?」
「いい広報のネタじゃないか。これでまた副大統領の指名に近づくな」
 先のスーパーチューズデーでは当初の大方の予想を裏切り、徐々に支持層を拡大していったマサチューセッツ州のマシュー・スミッツ上院議員が事実上、民主党の大統領候補の指名を確実にしたところだ。メディアでは早速、副大統領候補として彼と親しいシャトナー上院議員の名前も挙がっている。
それを念頭にウォレンが新聞から目を離してリンを見やるが、軽く口元を緩めているのを確認するに留まった。仕事に関しては秘密保持がうまいらしい。
 更に深く切り込むまでの興味はなく、ウォレンが再び新聞に目を落とせば、店内のざわめきが割って入る。
 そこに、店員がコーヒーを運んできた。
「一緒に出てきたんじゃないのか?」
 話題をチャリティーパーティーに戻し、ウォレンが尋ねた。
「いや『先行ってて』って追い出された。夫人と3人で何か話をしてたかな」
 そこまで言った後、ミルクを入れてかき混ぜていた手を止め、リンが顔を上げる。
「え。まさかトラブルに巻き込まれたりは――」
「いや、そこまで心配して聞いたわけじゃない」
「そう?」
「まぁ何かあったらお前のせいだろうけどな」
「……マジで?」
「マジだ」
 ウォレンの適当な声音の返答に、冗談だと理解したのだろうリンがほっと息をつく。
 暫時、丁度店内の人のざわめきも落ち着いたらしく、店内に流れる音楽が2人の間を過ぎっていく。
 なんとなく、ウォレンとリンが揃って携帯電話に着信がないかを確認した。


 会場の外、エレベーターホールには残っていた参加者がエレベーターの待ち時間を歓談で埋めているところだった。
「送っていかなくて本当にいいか?」
「ええ、大丈夫よ、トム。リジーの彼氏さんに送ってもらうから。それに、再来週のコンサートの打ち合わせも控えているんでしょ?」
 上着を羽織りつつ、クレアが踵を上げてトムとキスを交わす。
 そこに、エレベーターが到着した音が聞こえてきた。
「それじゃ、また連絡する」
「ええ。今日はありがとね」
「ああ」
 楽器を持ってエレベーターに乗り込むトムに対して手を振り、彼を見送った後、クレアは踵を返した。
 受付の後片付けを終え、クロークから上着を受け取ったエリザベスが振り返る。
「さてと、私たちも帰ろっか」
 クレアの声に、エリザベスが、そうね、と頷いて答える。
「それじゃ、テキスト入れておくわ」
 バッグから携帯電話を取り出し、エレベーターホールへ向かいながらウォレン宛にテキストを打ち始める。
「相乗りしちゃってホントにいい?」
「大丈夫よ。リンも送ってもらうって言ってたし」
「よかった」
 言いながらクレアが下へ行くボタンを押す。
 上の階で止まっていた1機が反応し、2人はその入り口のほうへ移動した。
「でもリジーの彼氏さんに会うの、なんだか緊張する」
「どうして?」
 尋ねられ、うーん、と少し考えた後、クレアが首を傾げながら口を開く。
「……母心?」
 それを聞き、エリザベスが怪訝な表情を返す。
「何それ」
「私にも分かんない」
 言いながらクレアが反対側に首を傾げる。
「ただ、どんな人かなーって。幸せそうだから、いい人なんだなって分かってはいるけどね。でも何だろう、リジーときどき――……、うーん、ちょっと心配なことがあるっていうか……」
 丁度エレベーターが到着する。
 エリザベスはクレアが言わんとしていることに当たりをつけながらエレベーターの乗り込むと、ロビーの階のボタンを押した。
「そうね、確かに心配かけちゃったこともあったもんね」
 それを聞き、クレアが思い出したように頷く。
「デュークの件ね」
 エリザベスから事の真相を大まかに聞いたのは、彼の死後、1年ほど経ってからだった。
「私も見抜けなくってごめん。そもそもパーティーに誘ったの私だったし、……反省しているわ」
「クレアは悪くないわよ。優しい言葉を真に受けたのは私なんだし」
「世間知らずにもほどがあったよね、私たち」
「ホントに。でも、あの件がなかったら、ウォレンには出会ってなかったわ」
 それに、と続けるエリザベスに、クレアが何か引っかかったような視線を送る。
 それには気づかなかった様子のエリザベスだが、続きを言いかけた口を閉じる。
 父親に関する一連の出来事と共に思い出されるのは、まだ対面してから1年も経っていない兄のショーン・ウィトモアからの電話だ。余命短いと聞いてはいたが、エリザベスとの面会が体調のほうにも功を奏したか、父のメルヴィン・ウィトモアの容態は比較的安定しているらしい。
無理強いすることではない、とショーンは前置きをした上で、次の夏休みの間にNYにオフィスを構えるショーンの関わっている会社でインターンをしないか、との誘いだった。エリザベスの専門とは違うのは彼も承知の上だろうが、メルヴィンと過ごせる時間を多く設けたいとの意向なのだろう。
 まだ、心から父親を許したわけではない。
 どのくらい時間をもらうことができれば、彼を許せるのかも分からない。
 ただ、もし許すことができなかったとしても、彼は彼なりに苦悩していたという事実は受け止められるのではないか、そうエリザベスは感じ始めていたところだった。
 申し出にはまだ回答していないところだが、引き受ける方向で考え始めているのは間違いなかった。
「――前に進むきっかけももらえたから」
 ふと過ぎった父親の影を振り払い、エリザベスが笑顔を作る。
「そう?」
 尋ねながらクレアがエリザベスの顔を覗き込むように見る。
「うーん、リジーってけっこう、大変な事を隠すの巧いからなー」
「ごめん。でもあの時はどうしたらいいか分からなかったし、クレアにも迷惑かけたくなかったし、ね」
 エリザベスはデュークの一件についての話題と捉えているらしい。暫時彼女の顔を見た後、クレアがふっと表情を和らげる。
「いいわ。その笑顔に免じて、これ以上聞かないでおくから」
 これまでに何度か感じた疑問はそのままに、クレアはドアへ視線を転じた。


 宿泊中だろう団体客が外に出て行ってから、ロビーの人気はまばらだった。
 ソファに座り、雑誌を手に持っていた女性が、エレベータの到着音を拾って顔を上げる。
 そこからロビーに出てきた人物を認め、女性がソファから立ち上がった。
 彼女の動きには気づかず、エレベータを降りた後そのまま外へと向かうエリザベスとクレアだったが、突如、
「失礼」
 と横から遮るような声をかけられ、驚いて足を止めた。
 その間に女性が2人の前に回り込んだ。
「クレア・シャトナーさん?」
 確認するような女性の声は、しかしながら疑いを持っていないようであった。
 一瞬、会ったことのある人かと思いかけたクレアだったが、やはり見覚えはない。
「えーっと――」
「クレアよね。間違いないはずよ、写真で見たことあるもの」
 確信を持ち、エリザベスには気を払わずに女性がクレアを見る。
「写真?」
「あ、私はコーリ・ホフリン。グリーン・レスキューの一員として活動しているの」
 クレアの疑問は聞こえなかったのか、コーリが手を差し出す。
「グリーン・レスキュー?」
 再び尋ね返すクレアだったが、コーリは疑問と受け取らなかったらしく、そう、と頷くと続けて息を吸う。
「あなたにお願いがあって来たんだけど――」
「あの、ちょっと待って」
 流石にこのまま好き勝手に進められるのは困る、とクレアがきつめの声音でブレーキをかける。
 用意していた言葉を口の外に出さず、コーリが驚いて彼女を見る。
「あなたは――」
「あなたはクレア・シャトナーさんよね?」
 誰ですかと尋ねようとしたところでコーリに遮られ、呆れたようにクレアが彼女を見る。
「……ええ、まぁ――」
「なら間違っていないわ。いいかしら?」
 にっこりとほほ笑みを作り、コーリが半ば強制的な許可を求める。
「申し訳ないけど、今急いでいて――」
「でもチャリティー・パーティーなら終わったんでしょ? 出席者とおぼしき人たちが続々と出てきたもの。奨学基金の援助、素晴らしい活動じゃない。シャトナー上院議員のご友人が設立した基金でしょ? その支援活動、立派だと思うわ。さすが教育方面に力を入れている上院議員の娘さんだけのことはあるわね」
 早口でまくしたてられた言葉は、恐らくコーリとしては称賛として述べたものだったのだろう。しかしそれが相手に伝わるはずもなく、クレアが眉を寄せる。
「大した皮肉ね」
「上院議員は気候変動とエネルギー問題にもよく言及しているけど、あなたも興味があるのかしら?」
 コーリの目を見、察したようにクレアが大きく頷く。
「分かったわ。そのグリーンなんとかは、クリーン・エネルギーを推進している団体なのね。気候変動自体には興味はあるけど、あなたのように押し付けがましいことをしている活動団体には興味はないの。失礼」
「グリーンなんとかじゃなくて、グリーン・レスキュー。環境保護団体よ。今はまだ規模は小さいけど、これから大きくしていく計画なの」
 逃がさないとでも言うようにコーリが足を踏み出そうとしたクレアの前に素早く重心を移動さる。
「何でもいいわ」
 意味が分かるようにクレアがため息をついて伝えるが、効果は期待できなかった。
「でもご明察。それにこのくらい押し付けがましくないと活動が進まないの。許してもらえるかしら?」
 コーリが微笑みながらチラシを取り出し、クレアに見せる。
「次の土曜日に気候変動の影響について講演会を開催するの。是非いらして。きっと勉強になるわ。それに私たちがどんな活動をしているのかも少しお話しするから」
 差し出されたチラシは受け取らず、クレアがコーリを見る。
「私に来て欲しいのは別の理由じゃないかしら?」
「別の理由って?」
「私の名前を利用したいんでしょう?」
 これまでに経験がなかったわけではないらしく、クレアが尋ねる。
 ばれてしまったか、という反応をするかと思いきや、コーリは一向に気にする様子はなく、そうね、と頷くと言葉を続けた。
「どう受け取っていただいても構わないわ。でも一昨年公開された『不都合な真実』のおかげで今世間の注目を集めているところだし、その波に乗りたいの。それに活動を広めるには当然、資金が必要なの」
「やっと本音が出たわね」
「話を察してくれる人でよかったわ。後ろ盾になってくれるかしら?」
「お断りします」
「どうして? 奨学基金と同じくらい社会のためになることなのに」
「残念だけど、あなたの態度を見ていると、ただ声高に表面上耳にいい響きのことを叫んでいる団体にしか見えないもの。得体の知れない団体との関係はお断りします」
「詳しい話も聞かずに判断するなんて、失礼な人ね」
「ご自由に受けとっていただいて結構。リジー、行きましょ」
 コーリを押しやり、エリザベスに声をかけてクレアがエントランスを目指す。
「あら、ご友人も聞いてくれていたのね。あなたからも是非、勧めてくれないかしら?」
 初めてエリザベスの存在に気づいたような調子のコーリに、どう答えるのが適当かエリザベスが逡巡していたところ、ロビーで繰り広げられている何がしかのやり取りの長さが気になったのだろう、どうしました、とホテルのスタッフが声をかけながら足を運んできた。
 その方向を見やり、潮時と判断したか、コーリが一旦口を結ぶ。
「そろそろ失礼するわ。講演会には来てくださいね」
 にっこりとした笑いを残し、コーリは講演会のチラシを無理矢理にエリザベスに押し付けると去っていった。
「何かお困りのことが?」
 去っていくコーリを見つつ、足早にやってきたホテルのスタッフがクレアに声をかける。
「ありがとうございます。おかげ様でその原因は去っていきました」
 コーリとの会話の調子が抜け切っていないらしいクレアの言葉に、スタッフが僅かに笑みをこぼす。
「もし必要でしたら、然るべき機関に連絡をとりますが」
「いえ、そこまでの必要はないです」
「そうですか?」
 スタッフはどうやらクレアが上院議員の娘であることを知っているらしい。何かが起こっては一大事、との意識があるのだろう。問いかけはどちらかといえば警察等に相談するべきとのトーンが強かった。
「今後また困ることがあれば考えますが、今のところ大事にはならないと思います」
 クレアの最後の言葉に納得したか、スタッフは、そうですか、と頷いた。
「ご心配、ありがとうございます」
「いえ。何かお役に立てることがあれば何なりと」
 まるで証言台にでも立ちますと言わんばかりにスタッフが胸を張る。
 その様子に微笑を投げかけ、クレアはエリザベスに向き直るとエントランスへと足を向けた。
 歩き始めてから暫くして、エリザベスは自身の手の中にチラシがあることに気づく。
「ごめん。彼女の勢いに負けちゃったみたい」
「ビリビリっと引き裂くなら手伝うわよ?」
 クレアの言葉に、ふと小さくエリザベスがため息をつく。
「何だか気圧されちゃって、全然動けなかったわ」
「いいのよ。私もあの予想の斜め上を行く調子に、逃げる時期を逸しちゃったから」
「これ、どうしよう」
「言ったでしょ? 八つ裂き」
 振り払えない苛立ちをなんとかして発散したいらしく、クレアが執行する刑を強調して告げる。無言でエリザベスがチラシを渡せば、待っていました、とクレアがそれを半分に引き裂くのを繰り返した。
 苛立っているにも関わらず、そして苛立ちが伝わってくるにも関わらず、丁寧に引き裂いていく彼女の様子に、エリザベスが微笑みをかみ殺す。
「ゴミ箱は?」
「確か近くの通りにあったはず」
 ひととおり引き裂き終わった今、一刻も早く両手からチラシを手放したいらしい。刑の執行が早すぎた、とクレアが後悔しているのが見て取れる。
「ごみ箱が見つかるまで、預かるわよ?」
「ありがとう。でも最後まで責任持って私が始末するわ」
 微笑みながらも残骸を握る手に力を込めるクレアに、エリザベスは、そう、と差し出した手を引っ込めた。
 エントランスの自動ドアが開き、2人は足早に外に出た。
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