IN THIS CITY

閑話2 Be A Family Again

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02 Hiatus Ended

 帰宅ラッシュも過ぎ、夜の空気が街全体を包み込む。
 営業時間を過ぎたアンソニーの診療所だが、診察室の明かりはまだ仕事をしていた。
 相変わらず整頓されていないデスクは、日毎に崩壊の危険性が高まっているようにも見える。
 3回目ともなれば診察室も見慣れたものだ。リン・ウーは雑然と積み上げられた本から左腕に視線を移した。完治するにはまだ時間がかかりそうだが、腫れは引いてきており、巻かれる包帯も薄くなった。
「順調に回復しているね。次あたり抜糸かな」
 慣れた手つきで包帯を縛り上げ、アンソニーはリンの腕を軽く叩くと彼の目を見た。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。ここに来るのも大変だろうから、消毒はもう君に任せるよ」
 正式ではないだろうがカルテらしい紙に、アンソニーは医者の使う隠語で何やら書き残す。
 リンは、分かりました、と告げると左腕の袖を下ろした。
 じんわりとした痛みは続いているものの、刺々しい痛みは姿を消そうとしている。
 多少の支障はあるが普通に生活をする上で特に不便なことはなく、職場の同僚や上司には銃創であることは気づかれていない。
 本来ならば届け出なければならないが、リンはその決まりごとを無視することにした。
 政府関係で働いている人間としてはあるまじき行為だろうことが、唯一、気にかかるところである。
「ゆっくりしていくかい、と言いたいところなんだけど、生憎今夜は息子が来る予定になっていてね」
 消毒などに使用した物々をしまいつつ、アンソニーが言った。
「構いませんよ。バーに立ち寄ろうと思っていますし」
 気持ちだけ受け取り、リンは微笑を返した。
「それじゃ、どうしようかね。来週の今日辺りにでも来てくれれば抜糸するし、また後で都合のいい時間を知らせてくれるかな」
「そうします」
 上着を羽織り、リンは診察室のドアを開ける。
「どうもありがとうございました」
「はいはい。いつでもどうぞ」
 にこやかなアンソニーに見送られ、リンは診察室を後にした。
 誰もいない待合室は電気も落とされ静かに夜に染まっている。
 小さく響く己の足音を耳に入れ、診療所の玄関を開けると外に出た。
 涼しい外気が身を包む。
 リンは短い階段を下りると、最寄のバーへと足を向けた。


 橙色の灯りが木枠のドアを一層温かみのある雰囲気に仕立て上げている。
 取っ手を掴み、ドアを開ければ、澄んだベルの音が頭上から聞こえてくる。
 客の数人がバーに入ってきたリンを一瞥し、何事もなかったように仲間との会話に戻る。
 和やかだが愛想のない彼らを他所に、リンはカウンターの隅を見やった。
 席は空いており、来ているかと思っていた人物の姿は店内のどこにも見当たらなかった。
 まぁいいか、と小さく肩を落とし、カウンターへ足を進める。
 隅に近い席に鞄を置き、腰を下ろせば、マスターであるギルバート・ダウエルが気さくな笑みを浮かべ、リンを歓迎した。
「いらっしゃい」
「こんばんは」
「また来てくれて嬉しいよ。気に入ったかな?」
 先日よりも砕けた口調で、ギルバートが親しげに声をかける。
「はい。あの、この前来ていた若い彼は、今日はまだ?」
「ウォレンのことかな?」
 ギルバートの一言に、彼とウォレンが親しい間柄であることを察しつつ、リンは肯定の返事を返した。
「今日は木曜だし、その内来るんじゃないかな。何か飲んで待つか?」
「それじゃ、ミラー・ライトを」
 注文を承り、了解、とギルバートが一旦下がる。
 店内には年代を感じさせる、だがどこかで聞いたことがある曲が流れている。
 カウンターの向こう側の棚と棚の間には、フライパンの形をした壁時計がかけられている。何気なく見れば、午後9時を少し過ぎた頃だった。
 体を包み込む暖かさに、羽織っている薄手のコートの存在感が増し、リンはそれを脱いだ。
 その間にギルバートがミラー・ライトの瓶を持ってくる。
「どうぞ」
「ありがとう」
 皺がつかない程度に適当に畳んだコートを鞄の上に置き、リンは瓶を手に取ると口に運んだ。
「仕事帰りかな?」
 適度に冷えたビールで喉を潤し、リンは、そうです、と返す。
「この前見たときは学生かと思ったけど、れっきとした社会人なんだね」
 ギルバートの言葉に苦笑をし、リンは頷いた。
「友人からもよくからかわれますよ。東洋系の顔はどうやら若く見えるらしいですね」
「いいじゃないか。私は実年齢より上に見られることが多くてね」
 残念なことに、とギルバートが肩をすくめる。
「きっと口ひげのせいですよ」
 言いつつ、リンが自分の口の辺りを示す。
「これかい?」
 ギルバートは整えられた口ひげを触った。リンが頷く。
「んー。まぁ原因のひとつだろうけど、ちょっとこれだけは譲れないなぁ」
 大事そうに撫で、ギルバートが難しい顔をする。
「そうですか?」
「バーテンダーといったら、口ひげだろう」
 断定的なギルバートの意見に、そういうものなのだろうか、とリンが疑問を持ちつつも頷きを返す。恐らくギルバートの中にはバーテンダーたるべき外見というものが確立されているのだろう。
 ふと、カントリー調の曲に乗って涼やかなベルの音が聞こえてきた。
 来客を知らせるその音に、ギルバートとリンが入り口を見る。
 若い男女が視界に入る。ウォレンの姿を確認し、リンは手を上げて挨拶をしようとした。が、彼が女性と一緒に入ってくるとは思ってもいなかったので行動が遅れる。
 ウェーブがかった長いストロベリーブロンドの髪を持つ彼女は、雰囲気から推し量るに学生らしい。リンのいるカウンターの隅へと足を運びながら、にこやかに、彼女は胸の辺りで右手を小さく上げ、ギルバートに挨拶した。リンは視界の端に、彼女に応えるギルバートを捉える。
 視線を彼女の隣に移せば、ギルバートに軽く目で来店を告げるウォレンの姿が見える。彼の目がそのままカウンターにいるリンを見たが、認識されることなく視線は逸れた。あれ、と疑問に思うリンの先で、ウォレンが一度素通りしたリンをもう一度見る。忘れられていたわけではないらしい。ギルバートに対するものと同じように素っ気なく目で挨拶され、リンはカウンターについている肘をそのままに、手を広げて応えた。
 そのやりとりを見ていたか、知り合い? とウォレンに尋ねる女性の声が聞こえてくる。それに対し、まぁな、と適当な相槌を打つウォレンの声も聞こえた。
「や」
 隣まで来たウォレンに対し、リンは短く挨拶した。同じ単語が小声で返ってくる。
「お前、社会人だったのか?」
 問われ、スーツ姿であったから認識されるのに時間がかかったのか、とリンは納得した。
「まぁね」
「学生かと思ってたが」
 ウォレンの言葉に、カウンターの向こうで笑うギルバートの気配を感じる。
 リンが振り返れば、すまん、と肩を竦める彼の姿があった。
「……まぁ、よく若く見られるから」
 小さくため息をつきつつ、諦めたようにそう告げ、視線を戻す。
 ウォレンとエリザベスを交互に見たあと、リンがエリザベスを手のひらで小さく示しつつ、ウォレンに対し、軽く眉を上げた。
 ああ、とウォレンは理解したらしい。
「エリザベス」
 彼女を一瞥してリンに言い、またエリザベスにも、リンの名前を告げた。
 簡潔すぎる紹介に、それだけか、とリンがウォレンを見た。が、
「はじめまして」
 というエリザベスの言葉に彼女を見、自然と綻び出た笑顔でリンは、よろしく、と答えた。詳細は後ほど尋ねればいい。
「あっちに座る?」
 立ち話もなんだから、とエリザベスが近くの4人がけのテーブル席を指差す。
 そうだな、と呟き、ウォレンはギルバートに目で注文を伝える。すでに取り掛かっているよ、とギルバートはミネラルウォーターと、トワイライトという彼オリジナルのカクテルを見せた。
 彼の手際のよさに感心した表情をし、ウォレンはテーブル席に向かった。
 テーブル席の奥にエリザベスが座り、その隣にウォレンが腰掛ける。
 リンはミラー・ライトの瓶をまずテーブルに置き、ウォレンの正面に座ると荷物を横の椅子の上に置いた。
「それで――」
 ウォレンは言葉の合間にギルバートからグラスを受け取り、その内カクテルの入っているほうをエリザベスに手渡す。
「――仕事は何やってるんだ?」
 リンはウォレンの質問を聞きつつ瓶を手に取る。
「議員スタッフ」
 そう言った後、ミラー・ライトを一口飲んだ。
「政府関係者だったのか?」
「関係者といえば、そうなるかな」
「誰の下でスタッフをやっているの?」
 カクテルを持ち上げ、口に運びがてらにエリザベスが尋ねた。
「シャトナー上院議員」
「シャトナー?」
 ウォレンとエリザベスから同時に発せられた声に対し、瓶に口をつけつつ、リンが、そう、と頷く。
「バージニア州のか?」
 ウォレンの確認に、再びリンが頷く。
 ジェームズ・シャトナー氏は政治家として定評があり、知名度も高いが、2人の反応がここまで強いものとは意外だった。
「……お前、俺みたいな人間と関わって大丈夫なのか?」
「何で?」
 疑問を返しつつ視線を上げれば、真面目な顔をしたウォレンがそこにいる。
 彼の背景を意識し、リンは納得した。
 牽制を含んだウォレンの言葉が、テーブル越しの距離を遠く感じさせる。
 その感触に間を置かず、
「ほんとに?」
 とエリザベスの声が聞こえてきた。
 彼女の意識は『シャトナー』という名前に注がれているらしく、ウォレンとの会話の中身には気づいていないようだ。
「えーっと、うん。まぁ、まだ働き始めて日は浅いけど」
 答えつつウォレンを見たが、彼はあれ以上何かを言うつもりはないらしく、グラスに入った水を口に運んでいる。
「私、彼の娘さんと同じ大学に通っているの」
 エリザベスの言葉に、リンは素早く彼女に視線を戻した。
「娘さんって、クレア?」
「そ」
「あの子か?」
 夕方のナショナル・モールでのことを思い出し、ウォレンが尋ねた。エリザベスはウォレンの言う人物を察し、そうよ、と返答する。
「え、彼女、君の友達?」
 驚いた様子でリンが確認をする。
「ええ。ランチもよく一緒に食べているわ。あなたは彼女とは知り合いなの?」
 だとしたら、世間は狭いわね、とエリザベスが微笑む。
「あ、いや、ただちらっと見たことがあるだけで、話したことはないんだけど。なんていうか、明るくて笑顔が可愛い子だな、と思って」
 リンが照れたように表情を崩す。
「娘目当てで父親に近づいたのか?」
 突如真正面から切り込んだ質問をされ、リンがはっと顔を上げる。
「な、不謹慎なこと言うなよ、違うよ」
 女性であるエリザベスの手前ということもあってか、彼女の様子を窺いつつ、慌てた風でリンが否定した。
「そうか?」
 ウォレンの声は確認よりも疑問のほうに比重が置かれていた。
「いや、だから――」
 ふとリンが視線をスライドさせれば、エリザベスと目が合う。
「――だから、彼女を見たのは、僕がスタッフになってからで、別にそんな、やましい理由なんか持ってないし。誤解だよ」
 むきになるリンに対し、あ、そう、とさして興味もなさ気にウォレンが相槌を打つ。
 必死に弁明したことが無駄な労力だった上、墓穴を掘ってしまったように感じ、リンは抗議の言葉をウォレンに放とうとした。が、単語が口を離れるよりも先に、
「残念だけど、彼女、彼氏いるわよ」
 とエリザベスの声が聞こえてきた。
「え?」
 間髪を入れずにリンが驚きと落胆の混じった音程の声を上げる。
 そんな彼の反応を見、エリザベスは、クレアの交際が上手くいっている事実は隠しておくことにした。
「『やましい理由』はないんじゃなかったのか?」
 ウォレンの言葉にリンが彼を見る。
「いや、ないけど――」
「女性絡みのスキャンダルで政界から追放されるなよ」
 そんなニュースは見たくない、と真剣な様子でウォレンが言った。
 ふと視線を平行移動させれば、彼の隣でエリザベスが柔らかに笑っている。
「……君って結構嫌味な奴だよね」
 視線をウォレンに戻し、小憎らしそうに呟く。軽い微笑が返ってきた。
 分かってはいたが、遊ばれていたらしい。リンは苦笑を返してやった。
「ウォレン」
 会話が一段落したのを見計らったのか、ギルバートの声が届いてきた。
 名前を呼ばれ、ウォレンが振り返る。
 カウンターから3人の座っているテーブルに足を運びつつ、ギルバートは続ける。
「悪いが、配達を頼まれてくれないか?」
「配達?」
 そう、とギルバートが頷く。
「アンソニーから注文が入ってね。俺はちょっと切り盛りで忙しいし、頼む」
 言いながらバーボンのボトルを見せる。
「持っていくだけか?」
 ボトルを手に取りつつウォレンがギルバートを見る。
 ちょっとしたことなら大抵嫌がらずに承諾する彼だ。ありがたく思いつつ、ギルバートはにこやかに、それだけだ、と頷いた。
「診療所に行くの?」
「ああ」
 短く肯定し、ウォレンが席を立つ。
「それなら――」
 私も、と言いかけるエリザベスにギルバートが割ってはいる。
「カクテルの味はどうかな? 今日は少しホワイトラムを多めにしてみたんだけど」
 そう口にしながらも、ギルバートはウォレンに気づかれないように何か伝えようとしているようだった。エリザベスは疑問を持ちつつも、彼の様子からウォレンについていってはいけないことを察する。
 彼らの様子に違和感を覚えながら、リンは黙って成り行きを見守っていた。
「届けるだけだ。飲んでいればいい」
 軽めの上着を羽織ったウォレンの言葉に、エリザベスは素直に従うことにした。
 ボトルを手に持ち、ウォレンが店の入り口へと去っていく。
 涼やかなベルの音と共に、彼の姿が外へ消えた。
「……何かあるの?」
 見送った後、エリザベスは顔を上げた。リンも同じ疑問を持っていたらしく、ギルバートを見上げる。
「ん、そうだな。誇張するなら、『戦争か平和』」
 にっこりと笑うギルバートの一言に、エリザベスとリンは揃って怪訝な表情をした。


 暖かくなってきたとはいえ、水道から出てくる水はまだ冷たい。
 アンソニーはボウルに溜めた水を暫く見つめた後、スポンジに洗剤を少量たらし、流し台に置いてある2人分の食器を手に取った。
 彼の背後の居間から、あーこれはひでぇ、と少々口の悪い声が聞こえてくる。
「なんでウィルス対策入れてなかったんだよ……」
 やれやれ、というため息交じりの口調がアンソニーの耳に届く。
「お父さん、パソコン詳しくないからね」
 一言呟くと、皿に水をかけ、泡を洗い流す。その途中、汚れがまだ取りきれていないことに気づき、アンソニーは再びスポンジを手に取った。
「っつーか件名が『おめでとうございます』だなんて怪しすぎるだろ? 開くなよ、ったく」
 クラウス・アイゼンバイスは二度目のため息をつくと、ダークブロンドの短い髪をかき上げた。永遠と花火の動画を流すパソコンの電源を強制的に切り、用意しておいたCD-ROMを手に取る。
「だって仕方ないだろ? 差出人がライリーおじさんとそっくりそのまま同姓同名だったんだから」
「叔父さんはパソコンできねーだろ」
「学んだのかと思って」
 クラウスを振り返って、アンソニーは、ははっ、と笑った。
「……とにかく、今回はただのイタズラだったからよかったが、最近は個人情報を盗み出すウィルスもあるから気をつけろ」
「はいはい」
「妙な件名に妙な添付ファイルがついていたらとりあえず開けるな」
「はいはい」
「分かったのか?」
「はいはいはい」
 適当な返事をしつつ、皿洗いを続ける。
 うっかり、手が滑って皿が宙を舞った。
 慌てた声を出してアンソニーの手が皿を追いかける。掴むことは出来なかったが、幸いボウルに溜めた水の中にダイブし、周囲を水浸しにはしたが皿自体は無傷であった。
「……遊んでんじゃねーよ」
「遊んだつもりはないんだけど、遊ばれちゃった」
 眼鏡に付着した、泡が含まれた滴を拭き取りつつ、アンソニーは答える。
「食洗機はどーした?」
「故障中。最近彼らの中ではブームみたいだね」
「何が」
「故障が」
「馬鹿か」
「親に向かって馬鹿とは何だ」
 滑らせないように気をつけながら食器を手に取り、アンソニーは手洗い作業を続行した。
 背後から、その通りの意味だ、という呟きと、パソコンの起動音が聞こえてくる。
 夜の静かな空間に染み渡る、己以外の人物が生み出す音。
 夜、こうしてこの家の中に自分以外の人の気配を感じるのも随分と久しぶりのことだった。
 子供はいずれ自立し、家を巣立っていくもの、と分かっていたが、いざそうなってみると、やはりどこか一抹の寂しさというものが親の心には残るらしい。その心に更に拍車をかけるのが、賑やかさが消えた静かな家の中、であった。たまに立ち寄りはするものの、クラウスも既に自立し、仕事も軌道に乗り始めたところである。親子水入らずの時間をとるのも難しくなってきていた。
「仕事はどう? うまくやってるのか?」
「めちゃ忙しい。ま、こんなもんじゃねーの、最初の頃ってのは」
「……仕事場でもその言葉遣いじゃないだろうね」
「あん?」
「言葉遣い」
「ああ、心配すんな。場はわきまえてるって」
「そう? だといいけど」
 大丈夫だろうとは思ってはいるものの、やはり気になる部分である。どこでどう間違えてしまったのか、クラウスの口の悪さだけはアンソニーの頭を悩ませるものだった。
「……お父さん、子育てに自信がなくなっちゃった」
「もう終わったろーが」
「一応ね」
「あとは老けるのを待つだけだろ」
「寂しいこと言うなぁ」
「人間、老いだけはどうしようもねーからな。あ、でも健康的に老けてくれよ」
 面倒みんのは嫌だからな、とクラウスは付け足した。
「『親孝行』って言葉、知ってる?」
「よく聞く単語だな」
「…………」
 眉を上げ、小さく首を横に振りつつアンソニーはクラウスに背を向けた。
 ほどなくして、洗い物がひと段落つく。
 アンソニーは蛇口を閉めるとキッチンの水気を拭き取った。布巾を棚に干し、手を拭くと居間へ足を運ぶ。
「手術中?」
 尋ねれば短い肯定の返事が返ってくる。どうやら人手は必要ないらしい。
 アンソニーは壁掛け時計を見た。
 そろそろ、時間である。
「……父親っていうのも色々と大変だなぁ」
 ぼそりと呟いた言葉は、しっかりとクラウスの耳に拾われていた。
「逆だろ」
 椅子の背に体重を預け、見ろ、というようにクラウスが手を広げる。一所懸命、カリカリカリ、と音を立てて自らの修復に取り組んでいる健気なパソコンがそこにあった。
「いや、そうじゃなくてね」
 アンソニーは頭を掻くと続ける。
「とりあえず、音痴な人間は必要ないみたいだし、書斎にいるから終わったら呼んで」
「無責任だな」
「孝行息子を持てて幸せだよ」
「乗せられねーぞ、俺は」
 一言告げ、クラウスは鞄の中から医学雑誌を取り出した。
 この場を去る許可を得た、とアンソニーは踵を返す。
 書斎のドアが閉められ、アンソニーの足音が消える。
 壁時計の秒針が時を刻む音と、パソコンの作業音以外に音がなくなる。
 雑誌のページをめくれば、乾いた余韻を残して紙の擦れる音が室内に拡散していく。
 静かな時間の流れだ。
 多忙な毎日の中にも、このような時間を持てるのか、とクラウスは我が家の存在を改めてありがたく感じた。
 ふと、外の階段を上る足音が聞こえ、その後玄関のドアが3回叩かれた。
 急な来客に、クラウスは玄関を一瞥すると怪訝な表情をした。
 この時間帯に階下の診療所はもとより2階の玄関に訪れる客など珍しすぎる。
「あー、ギルかな。ちょっと出てくれないか?」
 アンソニーに尋ねようとしたところ、書斎にいる彼から小さく声がかかってきた。何故小声なのか、理由を聞こうとしたところで再び玄関のドアがノックされる。
「ったく」
 小さく吐き、雑誌をテーブルの上に無造作に置くとクラウスは玄関へ足を運んだ。
 鍵を開け、ドアを開ける。
「親父なら……――」
「アンソニ……――」
 声が重なる。
 ドアの外に立つ人物を見、クラウスは言葉尻を切った。
 ドアの外の声の主も、同じように言葉を途切れさせた。
 室内の電気と玄関の電気に照らされた2人が、互いに目を合わせる。
 クラウスの前には黒い上着を羽織った男が、ウォレンの前には白いシャツを着た男が、共に驚いた表情で立っている。
「……ウォレン」
「……クラウス」
 予想だにしていなかった人物を目の前にし、2人ともかつて兄弟のように接していた互いの名前を口にするのがやっとだった。
 その場だけ時間が流れを止めたような中、弱い風が足元を通り過ぎた。
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