IN THIS CITY

閑話2 Be A Family Again

01 .02 .03 .04

03 What's Changed and What's Not

 8年以上の空白。
 突然の再会という状況が、彼らから言葉を奪う。
 時間の次元が失われる中、2人は互いを直感的に観察した。
 最後に会った時の面影はなく、大人になっている。
 室内の空気が流入してくる外気によって入れ替わるのではという長い沈黙の後、ようやく、両者が固まっていた体を動かす。が、続く言葉が見当たらず、2人とも顔ごと視線を落とした。
「なんか寒いなぁ」
 奥の書斎からアンソニーの大きな呟き声が聞こえてき、2人は目が合わない程度に顔を上げた。
 クラウスが一歩後退し、人が1人通れるくらいにドアを開ける。
 彼の右手が、声よりも先に中に入るよう促す。
「……ま、どうぞ」
 小声で勧められた後、少しの躊躇の時間を経て、ウォレンは、
「……あ、どうも」
 と呟くと室内に足を踏み入れた。
 薄く、電子的な音が部屋の中を満たしている。
 暫く視線を泳がせていたウォレンだったが、やがて人の手を借りずに仕事をしているパソコンにそれを落ち着けた。どうやら現代の機器に疎いアンソニーに代わり、クラウスが作業をしているようだ。
 玄関のドアが閉まる音がし、ウォレンは意識だけをその方向に向けた。
 近づく足音は、ソファの付近で止まった。
 片手では数え切れないほどの秒針の音が過ぎ去る。
 お互い、万が一予定外に再会してしまった際の対策は練っていたはずなのだが、いざとなると行動に移せないらしい。
 ふと、ウォレンは己の左手に重量を感じた。
 視線を落とせば、ここに来た本来の目的が思い出される。
 今のところ用事以外に考えられる会話もなく、ウォレンはバーボンのボトルを眺めるとクラウスに向き直った。
「……アンソニーに。酒、ギルから、頼まれて」
 出てきた言葉はぎこちない区切りを間に挟み、紡がれた。
「……そうか。3ブロックも、悪いな、わざわざ」
 差し出されたバーボンを受け取りつつ、クラウスも似たような調子で答える。
 続く話題を見つけ出せず、2人の言動が止まる。
 と、その時、書斎のドアが開く音がし、にこにことした表情のアンソニーが顔を出した。
「おや、ウォレンだったか。いやぁ偶然だなぁ、今夜はクラウスも丁度来ていてね。しかし3人集まるとは、また随分と久しぶりだね」
 居間にやってきたアンソニーは、ごく自然に演じようとしながらも不自然な空気を纏っていた。
 ウォレンとクラウスは揃って、現在の状況があらかじめ用意された台本に沿っていることを悟り、アンソニーを恨めしそうに見た。
 2人の視線を受け取りつつも、アンソニーは知らぬ顔を保つ。が、それもまた、不自然だった。
「……えーと。私はお邪魔のようだから、失礼するよ」
 にっこりと笑って場を取り繕い、アンソニーは踵を返そうとした。その動作を途中で中断し、思い出したように、おっと、と呟くとクラウスの元へ足を運び、彼の手からバーボンのボトルを頂戴する。
「ありがと」
 ウォレンに短く礼を言いながら、アンソニーは書斎へそそくさと身を隠した。
 残された2人は心の内でアンソニーに恨み言を呟くと、視線を書斎のドアから外し、ぎこちないながらも互いの顔を見た。
 共通する心境を明確に認識したか、それぞれ小さくため息をつき、場の緊張を解く。
「何か飲むか?」
 クラウスがウォレンに尋ねる。
「いや、長居はしないから」
 右手でも断りを示し、ウォレンはそのまま両手を上着のポケットに入れた。
「そうか」
 一言残し、クラウスはパソコンの置いてあるデスクに向かうと椅子に腰掛けた。
 足を組み、画面を見る。
 復旧作業はまだまだ時間がかかりそうだった。
「……仕事はうまくいっているのか?」
 問われ、クラウスが視線を上げる。
「知ってたのか?」
「何を?」
「俺が職に就いたことだ」
「ああ、アンソニーから聞いていたから」
 なるほど、と呟き、クラウスは続ける。
「そうだな。……まぁ、やる事はいっぱいあるけどよ、それなりに充実してる」
 パソコン画面に視線を落とし、意味もなくマウスを動かす。
「おめーは?」
「ん?」
 返ってきた疑問に、クラウスはウォレンを見ると更に質問を重ねる。
「今、何してんだ?」
 一瞬の空白の後、ウォレンが視線を逸らした。
「……まぁ、何ていうか――」
 続ける言葉を探すように彼の右手が動く。
「……アレックスがやっているようなことか?」
 クラウスが助け舟を出せば、暫くの沈黙の後、小さく短い肯定の返事が返ってきた。
 舌打ちの混じった息をついてクラウスが視線を落とし、選ぶ話題を間違えたとウォレンは気まずそうに頭を掻いた。
 数回、秒針の音が響く。
「……まだ、やってんのか?」
 目的語のない質問に、ウォレンがクラウスを見る。
「何をだ?」
 返された疑問の後、一呼吸の間を置き、クラウスは椅子から立ち上がった。がたん、という音が空間内に広がる。早足でウォレンの元へ足を運ぶと、彼の左腕を掴み、それを伸ばしつつ手のひらを上に向けさせ、袖をめくり上げた。
 彼の肘の内側にはこれといって目立った痕跡はなかった。
 次いでクラウスがウォレンの右腕を掴もうとした時、
「やっていない」
 とウォレンが答え、自ら袖をめくると右腕の内側を見せた。
 注射針の痕は見当たらない。
「……錠剤じゃねぇだろうな」
「薬は一切使用してない」
 きっぱりと言い切るウォレンの目を暫く見た後、安堵を表わすため息をついてクラウスはゆっくりとデスクに向かった。間を置いてウォレンは袖を下ろす。
「ウォレン――」
 あさってを向いていた椅子を元に戻したが、それに座ろうとせず、クラウスは続ける。
「……何があった?」
 質問を受けたウォレンは少しの間クラウスを見ていたが、やがて視線を落とした。
「何も」
 予想通りの答えが返ってき、クラウスはため息をつきつつ手を動かす。
「……いいか、どんな状況であれ、おめーが自分から麻薬に手を出したとは考えられない」
 言葉を区切り、ウォレンを見、続ける。
「何か引き金になるようなことがあったんだろ」
 8年前の映像が、無音でクラウスの脳裏に流れる。
 突然の失踪。
 半年後、無事だという知らせを受けたときはいてもたってもいられず、彼の居場所を聞き出し、講義をそっちのけで遠いマイアミの地まで足を運んだ。
 温暖な気候の醸し出す雰囲気は、心を休ませるどころか逆に不安を駆り立てた。
 外見も廊下も整然としていたアパートだったが、記憶した部屋番号の前に立ったときは、違うものを感じた。
 アレックスの制止の声を無視して踏み込んだドアの先には、瞬時にウォレンだとは判断できない人物がいた。
 充血した目、開いた瞳孔、乾いた口、発汗した様子。
 紛れもなく麻薬の中毒症状を引き起こしていた。
「何があった?」
 再び尋ねつつ、あの時も同じ質問を繰り返していたことを思い出す。
 前方で、ウォレンが視線を逸らす。
「……まぁ、ちょっとした――」
「『ちょっと』なわけねーだろが」
 言葉を遮れば、ウォレンが、確かに、と頷く。
「少しばかり大変な――」
「茶化してんじゃねーよふざけんなこの馬鹿が」
「クラウス」
 語気の強まったクラウスを落ち着かせるように、ウォレンが両の手のひらを正面に向ける。
「嘘はつくな。何かがあった。それは確かだ。だから歯車が狂っておめーはアレックスと似たような事してんだろーが」
 全く想定していなかったわけではない。たとえ普通に生活をしていたとしても、アレックスという人物から完全に離れない限り、危険性は常に付き纏うものだった。
 だが、大学進学に向けての準備を進めるクラウスの傍らで、彼の心配を他所にウォレンもまた、さぼり気味だった学校に足を運ぶようになり、一般社会に目を向け始めていた。
 それなのに何故、という疑問がクラウスの中に沸き上がる。
「違うか?」
 疑問調だが断定的にクラウスは言った。
 何がウォレンのベクトルの向きを変えてしまったのか。
 原因を知ったところで結果が変わるわけでもないが、どうしても気にかかる。
 8年の歳月の中で自分なりに咀嚼し消化したはずなのだが、絶縁という状況の中、肝心の相手と議論をすることがなかったせいか、時計の針は当時の点まで一気に逆回転して戻ってしまう。
 時間が解決してくれる問題ではなかったらしい。
 凍結すべきではなかった、とクラウスは、何度目になるだろう、先に立たない後悔をした。
 凍結を許すことになるその前に、もっと粘る必要があったのだ。
 当時、心身ともに荒んでいたウォレンをなんとか説得して連れて帰ろうとした。中毒症状の克服は1人で成し遂げられるものではない。明らかに人の助けが必要だった。しかし、ウォレンの断固とした強い拒絶を覆すことはできず、激化する口論に、逆にクラウスの堪忍のほうが持たなかった。
 だが、そうだったとしても、力ずくでもあの時連れて帰るべきだったのだ。
 戻れない過去に、クラウスは意識だけを飛ばす。
 そんな彼の姿が、ウォレンの目に映る。
 違う、と否定しようとウォレンは口を開きかけた。が、一蹴されるだけだと思ったのか、肯定も否定もせず口を閉じ、静かに息をついた。 
「……もう終わったことだ」
 ウォレンの一言に、クラウスは顔を上げる。
「それで済ませんのか」
「過去は過去だ」
 事もなげに言うウォレンに、クラウスは乾いた短い苦笑を投げつける。
「……随分簡単に言いやがんな……」
 騒ぐ感情が激しさを増し、クラウスはウォレンに歩み寄りつつ、続ける。
「あん時どんなに心配したか分かってんのか? 突然連絡がとれなくなる、携帯電話は『使用されていません』、アレックスなら何か知ってるだろうと思ったが奴も姿を消した。ギルバートもモーリスも何も知っちゃいなかった。――まぁ、あいつらはその『フリ』をしていただけかもしれねーけどな。心配してたのは俺だけじゃねぇ。親父なんてろくに食事も取れずに体重を激減させたんだぞ。それなのにおめーは『なんでもない』なんて下手な嘘つきやがって。数年経ってちっとは説明する気にもなったかと思えば、また――」
 書斎を指していた手をそのまま宙へ上げ、語尾を切り、首を振り、クラウスは視線をどこともなくウォレンから逸らし、手を落下させた。
 山ほどある言いたいことが複雑に蓄積されており、何からどう言葉にすればいいのかが分からなくなる。
 頭の中を整理するため、クラウスは空間の広い方へ無意識的にゆっくりと足を数歩進めた。
「……クラウス――」
 背中にかかってきたウォレンの声に触発され、クラウスは反射的に振り返り、彼の言葉を遮る。
「アレックスのせいだろ。あいつがおめーを巻き込んだ、違うか?」
 行き場のない憤りが一点に集中するのがクラウス自身にも分かった。極論かもしれないが、否定する存在は1人しかいない。矛先は全て彼に向かってしまい、止めることはできない。
「違う。彼は関係な――」
「ないってか? 関係あるのは明らかだろーが」
「いや、違――」
「脇腹に銃創を負って死にかけるよーな奴だ。ろくなことやっちゃ――」
「あいつは理由もなく動いたりは――」
「理由? はっ、裏の世界にそんなの必要ねーだろ」
「説くな。『世界』の違いは関係ない。汚い事をする奴はどこにでもいる」
「かもな。だがそういう輩の比率は裏の方が大きい」
「『大きい』、か。少数派が存在することも認めるんだな」
「認めちゃいねぇ。犯罪者は犯罪者だ。だからアレックスの肩は持つな」
「持ってはいな――」
「うるせぇ! もっと早く奴と手を切ってりゃおめーだってヤク中にはならなかっただろうしうまくいけば進学でもなんでもして今頃はフツーに生活してただろうよ」
 半呼吸、会話のテンポをずらし、ウォレンが口を開く。
「『if』の世界か?」
「悪いか?」
 ウォレンの語尾に重なるようにクラウスは強い口調で言った。
 間違っちゃいない、という彼に対し、ウォレンは無駄な間を置かず、
「いや、別に」
 とクラウスの仮定を受理したともとれる返答をした。
 反論を返さなかったウォレンのせいで、クラウスは用意していた次の一節が言えなくなる。まくしたてるために吸った息の音だけが残り、クラウスは口を開けたまま右手人差し指を上下させると、言葉の代わりに苦笑の混じった息を吐いた。
 相変わらず勢いを削ぐのが上手い。
 視線を落とし、軽く首を振り、右手をこめかみに当てる。
 再び怒る気にもなれず、クラウスは小憎らしそうにウォレンを見た。
 平然としている姿にもまた、見覚えがある。
 下がっていく血圧に合わせ、深く息を吸い、吐いた。頭部の血流の音が、速い心拍数の合間に感じられる。
 右手を下ろし、横を見やれば徐々に室内の様子が目に映り、いつの間にか、椅子のある場所からかなり移動をしていたことに気づく。
「――クラウス、あいつは悪くない」
 減熱された場の雰囲気を確認してから、ウォレンが穏やかにそう告げた。
 少しの間を置き、クラウスがゆっくりと顔だけをウォレンに戻した。
 久しぶりに、冷静に彼の顔を見た気がする。
 次へ移る許可を暗に催促するウォレンに対し、言い分を聞いてやろう、とクラウスがテーブルに後ろ手に手をつき、体重を預ける。
「あれは俺のミスだ」
 まだ不十分な情報に、クラウスは身動きせず無言のまま先を待った。
「誰のせいでもない。子供で、その上素人だったくせに何も考えずに行動した、俺自身が招いた結果だ」
 淡々と語られる言葉に、ウォレンが敢えて記憶と感情を押さえ込もうとしている空気を感じ取り、クラウスは何があったのかもう一度聞くことを躊躇った。
 口を開き、喉の途中まで言葉を出しつつもそれを止め、代わりに視線を落とすと、そうか、と頷く。
 これ以上尋ねても、それ以上のことは言わないだろう。
 強いるべきではない。
 また言外に、知る必要はない、と告げられていることも分かっている。
 分かってはいるが、何かが腑に落ちない。
 8年前と同じ感覚だ。
 あの時、全てを吐き出して頼ってくれれば力になれる、と、『何でもない』と言い張るウォレンを何度も問いただした。
 その過度の詰問が悪かったといえば悪かったのだろう。
 口論は激しくなり、精神的な余裕がなかったことも悪く働き、結果的に絶縁状態となってしまった。
 質問の仕方もいけなかったのかもしれない。
 何があったのかを尋ねるよりも他に、閉ざされた心を開く道はあったはずだ。
 だが、こちらから働きかけずとも、ウォレンから頼ってきてくれたのならば、と思わないでもなかった。
 確かに、大学に通う自分を慮ってのことと考えることも出来る。厄介なことに巻き込みたくなかったのも事実だろう。
 だが、蚊帳の外に置くなど、あまりにも水臭い仕打ちだった。
 曲がりなりにも共に成長してきたのだ。
 兄弟のように暮らしてきた間柄ではないか。
 床を見たまま、クラウスはゆっくりと息を吐いた。
 家族同然。
 そのことは、ウォレンだって理解しているだろう。
 だからこそ、か。
 一言心の内で呟き、視線を上げた。遠くの床のどこかを焦点を合わすでもなく見やる。
 今ならば、ほんの少し視点を変えることができる。そして、当時のウォレンの心情を理解できなくもない。
 あの殺伐とした不安定な精神状態で、彼は彼なりにクラウスのことを考えていたのだ。
 理由は何であれ、ウォレンが道を踏み外したことに変わりはない。
 支えてくれる誰かを探しつつも、迷惑をかけてしまうのであれば、それはクラウスであってはならなかったのだろう。
「……分かった」
 会話に区切りをつけると同時に自分を納得させるため、クラウスは言った。
 そんな彼を暫く見た後、その心をおよそ察したのか、ウォレンは無言のまま目を伏せた。
 クラウスはテーブルから手を離し、預けていた体重を足に戻し、デスクの前の椅子へ向かった。
 ウォレンの言うとおり、過ぎてしまったことだ。
 否定しようにも塗り替えることのできない事実だ。後悔したところで、過去を変更する術など見つかるはずもない。己の非力さが導いた結果なら、受け入れるしかない。
 問題は、これから、である。
 椅子を引き、腰をかけようとした時、
「……悪かったな」
 と声がかかってきた。
 クラウスは思考と動作を中断して顔を上げ、ウォレンを見る。
「何がだ?」
 曲がった道に進んだことに対してか、何も言わないことに対してか、長年連絡を取らなかったことに対してか、見当がつかずにクラウスは尋ね返した。
「あの時、ひどいことを言った」
 ほんの一瞬、過去の蓋を開ける表情をし、ウォレンは続ける。
「お前に対しても、アンソニーに対しても」
 クラウスは屈みかけていた体を起こし、数瞬、怪訝な顔をする。
 やがて思い当たる節を見つけ、あ、と無音の声を出した。
「――あれは本心じゃなかった。それだけは、今伝えておく」
 そう告げるウォレンの静かな声が媒体となり、クラウスの脳裏に過去の映像が音声と共に流れる。
 日中の明るい日差しを頑なに遮るカーテン。
 隙間を探し当てて侵入してきた光。
 その筋に沿って可視化され、光を鈍く散乱する埃。
 部屋は雑然としており、異様に薄明るかった。
 何度も浴びせられた、出て行け、という鋭く粗雑な声。
 その声の主の肘の内側に確認できた、変色した皮膚。
『家族面するな。所詮血は繋がっちゃいない』
 意識せずとも自然に震えてしまう腕を押さえつつ、ウォレンが放った言葉。
 ほっといてくれ、の一言が短い残響となり、フラッシュバックが終わる。
 あのことか、とクラウスは目の前にいる現在の彼を見た。
 荒んだ色は、既に姿を消し去っている。
「……『過去は過去』じゃなかったのかよ」
 穏やかに苦笑を浮かべるクラウスに、ウォレンは、そうだったな、と首を動かす。
「例外もある」
 返された言葉に、クラウスは、そうか、と小さく頷いた。
 静かな余韻が、家の中に広がる。
 強張りを解いた空気の流れに誘われ、クラウスは書斎を見た。
 ドアの下の隙間からは、書斎の中の明かりが居間のそれに溶け込むように漏れてきていた。
 時を刻む時計の秒針が聞こえてくる。
 視線は床のまま顔を戻し、クラウスが口を開きかけた時、
「何か言ってるぞ」
 と先に声が発せられた。
 顔を上げると、ウォレンがクラウスの手前下方を指差す。
 その動きにつられ、クラウスが視線を落とす。まだ作業に勤しんでいるパソコンがそこにあった。
 警告文などは全く見当たらず、順調のようである。
「何も言ってね――」
 言葉の途中に風を感じたかと思えば、バタン、と玄関のドアが閉まる音がし、クラウスが視線を戻す間にも早足で階段を駆け下りる足音が聞こえてきた。
「――おい!」
 慌てて玄関へ駆け、ドアを開けて外を見たが、ウォレンの姿は既に道路向かいの建物の影に消えようとしていた。
「ウォレン!」
 クラウスは柵に手をかけ、身を乗り出した。
 大声で呼ばれたのに対し、ウォレンはクラウスの視線の先で振り返りもせず右手を悠長にひらひらと振って見せた。
 そのちょっとした動作に、待ったをかける気力も追おうという気力も失せる。
 階段へ駆けかけた足をそのまま下ろし、柵を掴んだ手の力を抜く。
 やがて、風に乗って届けられる足音も気配もなくなり、クラウスは長い息をついた。
 どこか大通りからの車のクラクションが、耳元に伝わるまでに柔らかくなって届く。
 あんのやろう、と心の内で呟いた。
 逃げるのも相変わらず褒めたものだ。
 8年ぶりに姿を見た瞬間は変わったとも思ったが、小憎らしいところは全く持って変わっていない。
 ここにいたのは紛れもなく、クラウスの知るウォレンだった。
 春先の弱い風が、階下から緩い螺旋を描いて上昇してくる。
 目を撫でられ、瞬きをし、クラウスは柵から手を離した。
 柵に熱を奪われ、手のひらの温度が下がっている。
 その面を、随分と暖かくなってきた風が、そっと包み込んだ。
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