IN THIS CITY

閑話2 Be A Family Again

01 .02 .03 .04

01 Yin and Yang

 季節がそうさせるのか、意識がそうさせるのか。
 夢は、時折過去の場景を伴い、予告なしに瞼の裏に映し出される。
 ほのかに不鮮明な映像から抜け出し、アンソニー・アイゼンバイスは目を開けた。太陽が顔を出すにはまだ早く、朝の光は青い色を含み、カーテンの隙間から夢の中と同じように薄暗く天井を照らしている。
 力を抜いて目を閉じ、右手で隣の台の上にある時計を探る。冷たく固い感触がし、アンソニーは目を開けるとそれを見た。
 午前6時。
 普段の起床時間と同時刻である。長年培われた習慣は、夢をも断ち切る力を持っているらしい。
 上体を起こし、軽い伸びをする。
 まだ、イエスズメの声は聞こえてこない。
 普段は忘れてしまう夢の内容だが、今朝のものは違った。恐らくは過去の映像そのものだったからだろう。やけに五感が現実味を帯びていた。
 もう3年くらい前になるだろうか。
 丁度、この季節の空気の頃。
 1人で座る夕食時に聞こえてきた、遠慮がちに叩かれた玄関のドアの音。
 ドアを開ければ、6年近くも連絡が絶えていたウォレンが立っていた。
 6年という歳月は、子供という存在を大人にさせるには十分だったらしい。風貌も雰囲気も驚くほど変化していた。だが目だけは変わらないという通説は真らしく、彼の瞳は昔の彼のまま、アンソニーを見ていた。
 夢はそこで幕を閉じた。
 回想が終わると同時に朝の寒さを感じ、アンソニーは両の腕をこすった。
 ベッドから足を下ろし、カーテンを開ける。
 年のせいか、ふとした瞬間に昔のことが思い出される。だが感傷に浸る気にならないのは、過去の事象が発散することなくきちんと現在に収束しているからだろう。
 東の方角を彩る光の色は、徐々に暖色系へと変化していった。


 朝食を済ませ、日課のジョギングを終え、家に戻るとアンソニーは戸棚からバーボンのウッドストックを取り出した。診療所を開く前に褒められる行動ではないとは分かっているものの、ついつい手が伸びてしまう。
 グラスを手に持ちつつ、パソコンの電源を入れ、メールのチェックをする。
 今朝の夢は、既に流れ去る時間に委ねていた。
 差出人の名前に、ライリー・ウィリスという名前を見つける。早くに亡くした妻の弟で、親しい間柄である。
 彼もとうとうメールを始めたか、と送られてきたそれを開いてみれば、件名と同じ『おめでとうございます』という文字が一言書いてあるだけで、後はファイルが添付されているのみだった。
 怪訝に思いながらも、とりあえず添付ファイルを開く。
 瞬間、何やら忙しそうな音を立て、パソコンの画面が真っ黒になった。
 これは、と後悔する間に、見事に彩色された花火が画面上に咲く。
「あー……」
 しまった、とアンソニーは画面を見つめた。
 迂闊であった。
 思えばライリーが、ただ『おめでとう』というためだけに慣れていないメールを使用するはずがない。電話で済む話である。そもそも、祝辞を述べられるようなことなどアンソニーの身の回りに起こっていなかった。
「う~ん。偶然だとしても差出人に知り合いと同姓同名は止めてほしいなぁ」
 1人呟くも、花火は鮮やかに続いている。
 ずっと見ていても解決するわけでなく、とりあえず強制的に電源を落とす。が、パソコンに関しては詳しくないため、今後の対処の仕方が分からない。
 誰か通じている人物を、とアンソニーは受話器を手に取った。
 短縮ダイヤルで相手を呼び出す。
「――あ、クラウス? おはよう」
 挨拶をすれば、朝に弱い息子の不機嫌な声が聞こえてくる。
「あのさ、お父さん、ウイルスに感染しちゃってさ。直してくれないかな」
 受話器からは面倒くさそうな声で、親父も医者だろ、と返ってくる。
「あ、いやいや、インフルエンザとかそういうのじゃなくて、パソコンが」
 一瞬の沈黙の後、何やってんだ、という一言を区切りに、アンソニーは説教が始まる雰囲気を感じ取った。
「まぁ怒らずに。今夜空いてる? ――あ、そう? なら9時頃、いや早すぎるかな、9時半でよろしく。ありがと」
 返事を聞かずに予定を組み、アンソニーは受話器を下ろした。
 これでよし、とアンソニーはパソコンを見る。文句を言いつつも彼は来てくれることだろう。口は悪いが心根は優しい息子である。
 そういえば、とアンソニーは宙に視線を浮かせた。
 このところウォレンもよくDCに滞在しているようだから、久々に3人が集まることも不可能ではない。
 問題は、2人が喧嘩をしたきり和解をしていないということであった。
 具体的なことは知らないが、8年も喧嘩をしたままというのはいささか長い。
 会うたびにそれとなく話題にしてみるものの、肝心の彼らは話を逸らすばかりだ。
 心配はしていないが、端から見ていていらいらとしないわけでもない。和解の機会を作るのもいい案だろう。
 大人になっても子供だなぁ、と思いつつ、アンソニーは好奇心の導くままに、台本を思い描いた。


 小さな積雲が空を漂い、背後の空は青く澄み渡っていた。
 車の修理工場の雑音を耳にしながら、ウォレン・スコットは日の当たる場所に設置されている椅子に腰をかけ、手に持った新聞に目を通していた。
 一面を飾ることはなかったが、そこそこに目立つゴシック体の見出しで、『モーリス・プレイガー氏、釈放』という文字が記事の中に存在していた。
「終わったぞ」
 エディー・ダンストはそういうと、顔を上げたウォレンに向かって車の鍵を放り投げた。受け取りがてらにウォレンが礼を述べる。
「しっかしあれだな、お前もとうとう『いい車』に手を出したか。やっぱ乗り心地違うだろ、な? やっぱ見た目も大事だよな。見た目と、あとブランド名、な。ナンパする時なんか効果の違いが明らか過ぎるくらい分かるもんな。俺もこの前縁あってベンツに乗ってさ、でもってこぎれいな格好してたら、もうモテモテで。あれは病みつきになるって、な」
 照笑を入れ、止まることなくエディーが続ける。
「あ、でも浮気は一切していないから、妻には内緒にしておいてくれよ。で、どこで盗んできたんだ? 防犯、厄介じゃなかったのか? あ、あれか。新しい盗みの技術を習得したとか。ま、とにかくお前もいい目を持つようになったってことだ、な。あんなボロっちい中古車なんかによく乗ってたよ、ホントに」
 ようやく区切りがついたらしく、エディーは何やら頷きつつ、汚れた手を布で拭いた。
 既に黒くなりかけているその布を一瞥するとウォレンは新聞を畳み、エディーを見上げた。
 彼の話の途中に何か質問があったはずなのだが、余計な情報に埋もれてしまいそれが何だったのかを思い出せない。
 覚えている範囲内でエディーの声を巻き戻すが、その作業は続くエディーの話によって中断された。
「ま、なんだ。次に廃車にしたときは、もうボロい車なんて盗めないぞ。いい車は癖になるからな、特に乗り心地。でもあれだな、盗むとなると、この手の車は厳しいな。買うっつっても、中古でもけっこう値が張るぞ。覚悟しとけよ」
 なんならいいブローカーを紹介しても、とエディーはにやり笑いながら付け加える。手数料を取る算段なのだろう。
 先ほどの疑問は忘れることにし、ウォレンは立ち上がった。
「……そうか、『買う』という選択肢もあったな」
 車へ向かう途中でそう呟く。
「いや、あれ、ちょっと待て。なんかおかしいぞ」
 ウォレンの後ろに続きつつ、エディーは両手を広げ、説く。
「普通はそうだろ? お前みたいなのは邪道。っていうか違法。分かるか?」
「理解はしているつもりだ。が、人という存在は何かと法律を破りたがる生き物だからな」
「何だ、誰かの言葉か?」
「『人間行動学』、W.スコット」
「は~、世の中にはお前みたいな危ない思考を本にしちゃう人間もいるモンなんだな」
 エディーは感心したように首を縦に単振動させつつ納得する。
 ウォレンは車に向かって動かしていた足を止め、彼を振り返った。
「ん、何だ? どうかしたか?」
「……いや、別に」
 まぁいいか、とウォレンは気にせずに再び歩き出した。よほど信用されているのだろうが、冗談が通じないことに対し、残念に思わないでもない。
「これで足りるか?」
 車に到着し、あらかじめ束にしておいた紙幣をポケットから取り出すと、エディーに渡した。
「なんだ、小さいのばっかか。大きいのないのか? ま、いいか。えーっと、ちょっと待てよ。俺、口は速いけど計算は遅いからな」
 言いつつエディーは渡された紙幣の数字を足していく。
 その間にウォレンは運転席に乗り込み、エンジンをかけた。気の利いたエディーは車内の清掃もしてくれたらしく、余計な物が省かれた空間はBMWをそれらしく仕立て上げている。
 開けられた窓から隣を見やれば、エディーがまだ算数と格闘していた。
「計算ミスをしてくれてもいいぞ」
「ん? 少ない方にか?」
「いや、多い方に」
「なんだ、新手の詐欺の方法でも思いついたのか? お前も狡い奴だな。でもどうせ詐欺るんならもっと――」
「数えたのか?」
「んにゃ、まだ途中」
「本当に遅いな」
「お前が途中で口を挟むからだろって。ちゃんと計算してほしかったら黙って――」
 ウォレンは両手を上げて了解の意を示し、エディーを促した。
 数字を小さく声に出しつつ、彼が足し算を終える。
「ちょっと待ってろ、今釣りを考えるから。えーっと、……あれだな、電卓、どこだっけ」
「端数だろ。取っとけ」
「お、そうか? じゃ、ありがたく受け取っておくかな」
 笑顔で礼を表し、エディーは両手に分かれている紙幣の束のうち、少ない方の束をヒラヒラとさせた。
 それじゃ、と一言残してアクセルを踏むウォレンに、また来いよ、とエディーが手を上げる。
 バックミラーに彼を入れつつ、ウォレンは街の中へと車を滑らせていった。


 日に日に暖かくなる日差しに刺激されたのか、ナショナルモールの敷地内は春の花が咲き始める気配に包まれていた。休日の今日は人の数も多く、心地よい太陽の光を浴びようと芝生に寝転がっている数人の姿も視界に入る。
 エリザベス・フラッシャーは風に乗って聞こえてくる話し声を耳に流し、一緒に歩いている人物を見上げた。
「あのお店、気に入ったみたいね」
 丁度その時、公園内で遊んでいた子供がはしゃいだ声を上げながら側を通り過ぎ、ウォレンは聞き逃したエリザベスの言葉を催促するように、少し身を屈めた。
「『マリーのコーヒーショップ』。いい雰囲気のお店でしょ?」
 声が拡散せずに届くよう、エリザベスは手を添えた。
 元気な子供たちの声に紛れるように、同意の返事が聞こえてくる。
「気さくなおばさんだったしな。贔屓にさせてもらうよ」
 ウォレンはコーヒーの入った紙袋をエリザベスに見せる。
 微笑を返しつつ、エリザベスは先ほどの店内での様子を思い出した。彼は店主であるマリーを気さくだと言ったが、親しげにコーヒーについて彼女に質問をするウォレンもまた、その表現に当てはまっていた。
「……どうかしたか?」
「いえ、何も」
 エリザベスは一旦彼から視線を逸らした。
「リジー?」
 不意に、後ろから音程の高い声が聞こえてきた。
 名前を呼ばれ、エリザベスが振り返り、ウォレンも足を止めて彼女に倣う。
「クレア」
 大学の友人であるクレア・シャトナーの姿を見、エリザベスは笑顔と共に彼女の名前を呼んだ。
 やっぱりそうだ、とクレアが駆け寄ってくる。
「後姿で分かったわ。奇遇だね、外で会うなんて」
 嬉しい驚きの笑顔をするクレアに、エリザベスも、ほんとね、と返す。
「クレアも買い物していたの?」
「そ。お父さんの誕生日が近いからプレゼント探していたんだけど、結局これって思うものが見つからなくて、代わりに自分用の買っちゃった」
 白地に黒で店の名前の入ったシンプルな洋服の袋を見せて、クレアが苦笑する。
「それで、リジーは――」
 続く言葉をわざと呑み込み、クレアはウォレンの存在を意識しつつエリザベスを促す。
 あ、とエリザベスがウォレンを見上げる。彼と目が合った後、クレアに視線を戻す。
 デュークの死後、彼を善良な刑事であったと信じているクレアはエリザベスを気遣い、あまり恋愛を話題にすることがなかった。外から働きかけるより、時間をかけてでもエリザベスが自分の力で立ち直るのを待とうと思ったのだろう。
 かといって、それらしい話を全くしていなかったわけでもない。しかし、急に説明するとなると意外に難しいところがある。
「外に出たついでに、散歩しようと思って――」
 エリザベスは当たり障りのない話から紹介へ移ろうとしたのだが、途中、ウォレンの背景を思い出し、口を閉じる。咄嗟につく嘘が見当たらない。
 彼女の回答に、違うでしょ、とクレアが意味ありげに微笑み、ほんの少し顎を引いてエリザベスを見、ウォレンにも視線をやった。クレアと目が合った後、エリザベスを補助するように、ごく自然な間を置いてウォレンが口を開く。
「初めまして。クレア」
 ウォレンの穏やかな微笑に、クレアは好感を持ったらしい。友好的な笑みでウォレンに向き直る。
「こちらこそ初めまして。えーっと――」
 促すクレアに、ウォレンはエリザベスが彼女にはまだ自分の名前を告げていないことを知る。
「メイス」
 落ち着いた声で、そう名乗った。
 全くもって予想していなかった名前の音に、エリザベスがウォレンを見上げる。
「メイス、よろしくね。私、リジーと同じ大学に通っているの。もう知っていると思うけど、彼女、とてもいい子よ。大事にしてあげてね」
 ウォレンの発言を不思議に思うエリザベスには気づかず、クレアは彼女を見て、よかったね、と嬉しそうに微笑んだ。
 友人想いのクレアに、エリザベスは首をもたげた疑問を一時押さえこみ、ありがとう、と笑みを返す。
「オーケー、深くは聞かないわ。――おっと、そろそろ行かないと」
 邪魔をしては悪い、とクレアは話を切り上げ、次いでエリザベスに近づく。
「カッコいいじゃない、彼」
 小声でエリザベスに耳打ちをすると、
「それじゃ、明日の講義で」
 と告げ、2人に手を振りつつその場を後にした。
 クレアを見送った後、エリザベスは疑問を呈した顔でウォレンを見上げた。
 その先でウォレンが歩いていた方向に体を向ける。
「元気な子だな」
「『メイス』?」
 元の軌道上に歩を重ねようとするウォレンの背中にエリザベスが尋ねかければ、声が重なった。
 ウォレンは動かしかけた足を止め、ああ、と頷くとエリザベスを見た。
「メイス・レヴィンソン。一般人と会うときは大抵この名前で通している」
 聞きなれない音がエリザベスの耳に届く。
 言われた名前を記憶し、呑み込むのに時間を要した。
 それまで『ウォレン・スコット』として認識していた人物が随分と遠く感じられる。
「……『一般人』?」
「何かと都合がよくてね」
 そう言った後で、ウォレンは慌てた様子で付け足す。
「あ、君は既に知っていたから。わざわざ偽名に訂正するのも不自然かと思って」
 彼の言葉が情報として脳に届くのに時間がかかり、少しの間を置いた後、そういえば、とエリザベスは数ヶ月前を振り返る。
 最初に知ったのは彼の顔ではなく、名前であった。
 少ない情報で思い描いていたのは危険な人物像だったが、そのイメージは彼に会った時に払拭された。
 いや、違う。
 確かに、会った最初に受けた印象は想像していたものとは異なり、穏やかなものだった。が、危険性は彼の中にしっかりと存在していた。
 忘れかけていた、遠く沖まで引いていく波に預けたはずの記憶が、再び打ち寄せる。
 躊躇うことなど無駄、とでも言うように、目の前で引かれた引き金。
 廃工場での、銃声が鳴り止んだ直後のウォレンの姿。
「……エリザベス」
 ふと、名前を呼ぶウォレンの声が聞こえてくる。
「君の他にも、一般人だが本名で通している人はいる。だから、危ない事に君を巻き込むのをよしとしているわけではない。誤解しないでくれ」
 複雑な表情で沈黙を保っているエリザベスに対し、ウォレンはゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。
 エリザベスは過去へ向いていた意識を現在に戻し、顔を上げ、ウォレンを見た。
 手を伸ばせば届く距離にある彼の目は、外の日差しのせいかいつもより明るく、灰青色をしている。
 それでも、見知っているウォレンの姿だった。
 膨張していた負の思考が動きを止める。
 確かに、時々彼を怖いと思う。
 あの日、感情を無理矢理押し殺すのではなくただ眠らせていた彼も、今、こうして偽名を使うような生活をしている彼も、不意にエリザベスに恐怖と距離を感じさせる。
 だが、そうした不安の度に思い出されるのは、鋭いながらも優しさを含んだウォレンの目だった。
 偽ることなくありのままの彼を映し出した瞳。
 ずるいとも思うが、何故だろうか、安心を覚えてしまう
 心を覆っていた隔たりが解け、エリザベスは口元を綻ばせ、戸惑っているウォレンに笑みを見せた。
「気にしてないわ」
 調子をつけて明るく言ったエリザベスに、心配していたことは思い過ごしだったと分かったのだろう。ウォレンは、そうか、と呟きがてらにほっとした息をつき、散歩を再開した。
 その背中をエリザベスは目で追う。
 陰と陽、対極する世界が見て取れた。
 風に誘われ、近くの木の上からカラ類の澄んだ声が聞こえてくる。
 エリザベスはゆっくりと瞬きをした。
 二面性を持っているのならばそれでいい。
 彼に限って、陰の面が陽の面を侵食することはないだろう。
 しかしながらその逆もまた当てはまるような気がして、エリザベスは先を歩くウォレンに追いつくよう、早足で歩き始めた。
 歩を重ねつつ、波打つ思考を定常状態に戻そうと、それまで頭の中を支配していた考えに蓋をする。
 まだ、深く考えたくない。
 考えれば考えるほど、近くにいても遠くに感じてしまう。
 たとえ彼が矛盾したものを持っていても、愛しいと想うことに偽りはない。
 今は、その事実だけで十分だった。
「――とりあえず、私は今まで通りあなたのことを『ウォレン・スコット』として認識していればいいのね」
「そうだな」
 隣に追いついてきたエリザベスに、ウォレンは軽く肯定の返事をした。
「クレアにあなたの職業を聞かれたら、どう答えたらいいかしら」
 彼女の質問に、ウォレンは少しばかり宙を仰ぐ。
「職業、か。……車の保険会社の人間、でいいんじゃないか」
「保険会社?」
「似合わないか?」
 問われ、エリザベスは歩調を弱めるとウォレンを見、暫し真剣に悩む。
「……まぁ、特にこだわりはないが」
 真面目に考えられるとは思っていなかったのだろう、ウォレンは彼女から視線を逸らすと歩行速度を速めた。 
 彼の背中を見る前に、エリザベスも歩き出す。
「想像できなくはないけど、ちょっと違うかな」
「そうか?」
「今までそれで通していたの?」
「まぁな」
「へぇ」
 観察するエリザベスに、転職したほうがよさそうだな、とウォレンは呟いた。
 会話の幕間に、カワラバトの羽音が上空をかすめる。
 その音が風を連想させ、エリザベスは風上に顔を向けた。
 徐々に夕方の空気に染まっていく広場に、楽しそうに駆け回る子供たちの姿を見つける。
 笑い声を上げる彼らは、恐らく兄弟なのだろう、近くのベンチにはその様子を温かく見守る両親らしい2人が座っていた。
 羨望の眼差しを向け、エリザベスは歩を止めた。
 それに気づき、ウォレンもまた足を止める。
 一抹の寂しさを纏ったエリザベスの背中。
 彼女の視線の先に元気な子供たちの姿を確認しつつ、ウォレンはエリザベスの側に歩み寄った。
「……参加してくるか?」
 少し身を屈め、提案する。
 エリザベスは、まさか、と笑い、ウォレンを見た。
「あのエネルギーには負けるわ」
 同意の相槌を打ち、ウォレンは背筋を伸ばす。
 エリザベスは再び視線を広場へ向けた。
「……いいわね。私は一人っ子だから、一緒に遊べる兄弟が欲しい、ってよく思ったな」
 そう言った後エリザベスは、以前は口にすることを拒んでいた、孤独を認める言葉がすんなりと口をついて出てきたことに驚いた。
 理由を考える彼女の耳に、兄弟か、という呟きが聞こえてくる。
 思考を中断し、声の主を見上げ、意外なところに反応を見せたウォレンに尋ねる。
「いるの?」
 短い空白の後、ウォレンの口から肯定の言葉が小さく漏れた。
「……血は繋がっていないけどな」
 一度視線を地面に落とし、ウォレンは言った。
 疑問を持ちつつ、エリザベスは視線を彼に固定した。
 一瞬だったが、いつもと違うウォレンの表情に、それ以上の質問を控える。
 無言となった問いを汲み取り、ウォレンはエリザベスを見た。
「小さい頃はよくアンソニーの家に世話になっていてね。彼の息子と、まぁ兄弟みたいな間柄だった」
「『だった』?」
「口論してから、連絡を取っていない」
 エリザベスは、そう、と頷いたが、口論をするウォレンの姿を想像することはできなかった。
「どのくらい連絡をとっていないの?」
 問われてウォレンは、そうだな、と少しばかり宙を仰いだ。
「8年以上になるかな」
「8、『年』?」
 驚くエリザベスに驚き、ウォレンは気まずそうな肯定の返事を送る。
「……謝らなければ、と思っている間に、いつの間にか」
 時間が、と右手を小さく広げる。
「電話すれば済む話じゃない」
 エリザベスの最もな案に、そうなんだけどな、とウォレンが頭を掻く。
 機を見出せないまま時は過ぎ、現在に至っているのだろう。
 らしからぬ彼の様子に、エリザベスは小さな声と共に微笑した。
「……なんだ?」
「別に」
 何でもないわ、とエリザベスは括り、広場で遊ぶ子供たちの方へ視線を逸らした。
「あなたなら、彼らと混じっても不自然じゃないかもね」
 言葉に含まれた意味を察し、ウォレンは苦笑を浮かべると広場を見やった。
 長く伸びる影の向こうには、雲底の淡く色づき始めた積雲が浮かんでいた。
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