IN THIS CITY

第2話 People Person

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17 People Person

 空が広い。
 郊外の住宅街は明かりも少なく、晴れていればそれなりに星が楽しめただろう。
「あ、その奥」
「はいよ」
 アレックスはジョンが指で示した家の前に車を走らせていくと、道路わきに停車させた。
 隣家から少し離れた一戸建ての家。
 玄関先の明かりに照らされた庭はこじんまりとしており、よく手入れされているとは言いがたいが、1人が暮らすには十分に落ち着ける環境だった。
 弁護士に会うのなら証拠も携えておいたほうが、というジョンの協力的な言葉を得て、アレックスはこうして今、彼の『別荘』の前に立っている。
「明かりがついているけど、誰か中にいんの?」
「いや、これは自動的につくようになっているんだ。人がいるように見えるだろ? 防犯設備はしていても、留守宅は狙われやすいしね」
「なるほどね」
 感心したアレックスの声を聞きつつ、ジョンは玄関横の植木鉢の下から鍵を取り出した。
 植木鉢の下、というのは鍵を隠す場所の代名詞になっているらしい。
「……なるほどね」
 声の調子を変え、ジョンに聞こえないようにアレックスは呟いた。
 ドアが開く音がし、ジョンが中に入る。
 お邪魔するよ、とアレックスも彼に続いた。
 室内灯に照らし出されたリビングには、恐らく報酬で購入したであろう大画面のプラズマテレビと立派なオーディオセットが設置されていた。天井にまで届く棚にはクラシックのCDが整頓されて並べられている。一角にはそれらに関連した書籍が整理されており、その中にはどうやら譜面もあるらしい。
 色々な意味で豊かな部屋の様子に、アレックスの口から思わず感嘆詞が漏れる。
「……コンピュータ・オタクには似合わない画だろ」
 自嘲を含んだ口調でジョンが言った。
「……いや、立派な趣味だと思うよ」
 にっこりと笑い、アレックスはジョンを見る。
 意外、という言葉で片付けられるといえば、そうなる。しかし、この部屋にはそれ以上の何かが存在するようにも感じられた。
 意図的に現実と隔離された空間。
 ひょっともすれば、ここが彼の理想の世界なのかもしれなかった。
「……君の好きなコンピュータ関係が一切ないように見えるけど」
「ああ、機械類なら2階に少しあるだけかな。本当は持ち込みたくなかったんだけど、ないと不便だから」
 アレックスはジョンの語る独特の趣向に、へぇ~、と相槌を打つ。
「で、ここに証拠が?」
 アレックスの質問に軽く頷くと、ジョンは隣の部屋に移動した。
「あいつらにも寿命はあるからね。働いて疲れて、動けなくなったら、安らかに眠れるような『墓』に持ってくるんだ。勿論、溜めてばかりはいられないから、定期的に廃棄しなきゃいけないけど」
 電気のつけられた部屋には、それらしい物がたくさん存在していた。
 床の上には数台のデスクトップが置かれ、ラックには周辺機器や内部の部品が並んでいる。
「……『墓』ってことはもう駄目なんでない?」
「まぁ、ほとんどはそうだけど、証拠に限ってはそうでもないよ。手間はかかるけど中身だけなら吸い出せるし。製作過程で一度ハードディスクがぽしゃってさ、普通に読み込めなくなって。原因は知りたかったけど、面倒くさかったからデータだけ取り出して新しいのに変えたんだ。……新しいほうはもう、多分……――」
 炎上したアパートを思い出したか、ジョンの動きが止まる。
「……この古いのは製作段階の途中までしか保存されていないけど、それなりに役に立つと思う」
 言いながらジョンは手に取ったハードディスクをアレックスに渡した。
 機械類には明るくないアレックスにはただの金属っぽいものにしか見えないが、とりあえず、有意なものであることは分かった。
「……宇宙語はよく分かんないけど、要するに大丈夫ってことだね」
 ジョンは軽く肯定し、視線を部屋の中に戻す。
 アレックスにとってはガラクタとして映ってしまう代物ばかりだが、彼にとってはかつて時間を共にした大切な仲間なのであろう。
「……行こうか」
 十分な時を置いて告げられたアレックスの言葉に、ジョンは小さく返事をすると部屋の外へと向かい、電気を静かに消した。


 玄関口でアレックスは携帯電話に呼び出された。
 発信元が弁護士のクレイトンであることを確認して通話を開始し、適当な相槌を打ちつつ車に乗り込む。
 アレックスに続き、ジョンは戸締りをしっかり確認すると車へ向かった。
 玄関先の明かりが、道路上に彼の影を落とす。
「――悪いね、途中でちょっと寄り道しちゃって。今から向かうから。――はいよ、わざわざどうも」
 短い通話を終え、アレックスは通話を切ると、助手席に乗り込んできたジョンを見た。
「昼間、アパートで爆発が起こったろ?」
 シートベルトを締めようとしていたジョンの手が止まる。
「ローカルニュースで取り上げられていたとさ」
 話の途中の一呼吸の間に、アレックスは車のエンジンをかける。
「……君の部屋で人が倒れていたらしいけど、知り合い?」
 アレックスの質問に、無言でジョンは頷いた。
「運がいいねぇ、あの爆発の中、うまいこと助け出された、って」
「え?」
 驚いて顔を上げ、ジョンはアレックスを見た。
「……助け、出された?」
「そ」
「ジャック、……生きて?」
「集中治療室に運び込まれて、まぁ、死亡したっていう話はニュースではなかったらしいし、大丈夫なんでない?」
 情報を呑み込むのに時間がかかっているのか、ジョンは暫くの間言葉を失っていたが、やがて震える息を大きく吐き、安堵したようにゆっくりと目を閉じた。
「よかった……」
 言いながらジョンは両手を顔に持っていく。
 本来ならばあの爆発には彼が巻き込まれているところだったのだ。狙われていたのは己自身であり、また狙われることになったのも己の撒いた種が原因だった。
 昼食後の別れ際のジャックの姿が思い出される。
 一時はもう見られないと思っていた彼の元気な姿に、望みが見えた。
「……よかった、本当に」
 心からの言葉を音にして外に出す。
 彼の感情に干渉しないよう、アレックスは無言のまま、顔を正面に向けた。
 静かに車が走り出してからも、ジョンは小さく、よかった、と呟き続けた。


 客の年齢層に合わせているのか、バーの中では年代を感じさせる音楽が流れていた。
 常連客と親しげに話をするギルバートの表情には安堵の様子が窺える。
 ウォレンはいつものようにカウンターの端に座りつつ、活気づいてきた店内の雑音をBGMとして携帯電話を耳に当てていた。
 呼び出し音がする中、手に持ったグラスを少し揺らす。
 氷山を連想させる形の氷がグラスの内側に当たり、カラン、という耳触りのいい音を生み出す。
 その後すぐに、呼び出し先の相手が出た。
『終わったか?』
 先に発せられたカイルの簡潔な確認に、ウォレンは事の次第を説明するために開きかけた口を閉じた。
 彼には皆まで説明する必要はない。
「ああ。後は弁護士に任せておけばいい」
『そうだな……』
 別の問題を示唆する余韻に、ウォレンは口に運んだグラスの動きを一瞬止める。
 冷たいミネラルウォーターが口を潤し、体の内部に浸透する間、両者の間に沈黙が流れた。
 推測の域でしかないが、しかし確実に事件の背後にいるであろうニール・ヒラーの存在を感じる。
『……クレイトンがうまく事を運べば、向こうも暫くはおとなしくしているだろう』
「平和な考えだな」
『そうだ』
 カイルらしいあっさりとした返答に、ウォレンは軽く微笑した。
「……なら切るぞ」
『ああ』
 携帯電話を耳から離し、ウォレンは通話を終了した。
 彼としても波風が立たないのであればそれに越したことはない。しかしながら、カイル側にその気がなくても、いずれヒラー側が本格的に動くだろうことは目に見えている。
 面倒だな、と重い思考を抱えつつ、ふと顔を上げれば、通話が終わったことを確認したのだろう、ギルバートがウォレンのいる方へ歩んできた。
 いつとも分からない先のことを考えるのを止め、ウォレンは残っていたミネラルウォーターを一気に飲み干した。
「それでアルコールが入っていたら絵になるんだけどな」
「体質的な問題だ。仕方ないだろ」
「敬遠し続けるのが問題じゃないのか? 案外飲めるようになっているかもしれないぞ」
 にっこりと笑いながらギルバートはそれとなくウォレンの前にスコッチの入った瓶を置く。
 ウォレンはその瓶を暫く見た。
 飲んでみたいと思わないでもないが、飲めない事実はそのまま飲まない思考に直結するらしい。
「……いや」
 小さく断りを入れれば、そうか、とギルバートが了解する。
「で、今後の予定は?」
 尋ねながら、ギルバートはミネラルウォーターをウォレンのグラスに注いでやった。
 軽く礼を述べ、ウォレンはグラスを口まで運ぶ。
「当分の間は平和に過ごせるだろうな」
「じゃ、しばらくはDCに滞在ってわけか」
 にやりと笑うギルバートにそれの意味するところを察知し、ウォレンは、ほっとけ、というようにグラスをカウンターに置いた。
 しかしながら、考えてみれば確かに最近はボルティモアに滞在するよりもDCに留まることのほうが多い。年少の頃はともかくとして、以前は3日もいれば長期滞在と言えたのだが、最近は違ってきている。
 直接的な原因となっているエリザベスの姿が、ふと、グラスの中で光る氷に映し出された。
 暫く眺めていれば、ギルバートの視線が気になってくる。
「……仕事しろ」
「してるさ。酒を提供して、客の話を聞く」
 にっと笑うとギルバートはウォレンを覗き込む。
「誰のこと考えてたんだ?」
「……あんた、最近アレックスに似てきたな」
「そうか? なら一種の感染症なのかもしれないな」
 嫌味をかわされ、ウォレンは右手で軽くこめかみを押さえる。
「具体的にはどの段階まで進んでいるんだ?」
 問いかけるギルバートの顔は明らかに遊んでいた。
 返答の方法次第でその度合いが高まるのは目に見えている。ここは敢えて話題を変えるのが上策だろう。
「そっちはどうなんだ?」
「今は俺の話じゃないだろ」
 ウォレンが予想していた通り、簡単には乗ってこない。だが、乗せる道ならある。
「TJが今日、ここに来たらしいじゃないか」
 いきなりTJの名前が出てき、ギルバートの言動が暫時滞る。
「……TJ?」
 復唱された名前に、ウォレンは簡素な相槌を打ち、正確な情報を補足する。
「タリア・ジョカスタ・グラスフォード」
「分かってるさ、TJが誰を表すかくらい。タリアが『朝露』でジョカスタが『輝く月』だろ? 『朝と夜で妙な気分』って彼女言ってたかな。『どうせなら昼も付け加えて欲しかったわ』とか」
「やけに詳しいな」
 言われてギルバートがぎこちなく小さく肩を竦める。
「……まぁ、そりゃ、な、あれだ。……でもなんでここで彼女の名前が出てくるんだよ」
「俺も疎いわけじゃない。あんたが彼女に好意を抱いていることくらい、傍から見ていればなんとなく分かる」
「そうなのか?」
 やけに早口なギルバートの言葉を受け流し、ウォレンは付け加える。
「彼女もあんたのこと好きらしいしな」
「……へ~え?」
 妙な相槌を打ちながら、ギルバートは過去を手繰るように視線を泳がせた。布巾を持つ手が必要以上にカウンターを拭く。
 情報関連については相手に気取られるそぶりすら見せない彼だが、さすがの彼も自身が関わる色恋沙汰については知らぬふりができないようだ。
「少なくとも興味はあるらしい」
「なんだよその不確定要素は」
「直接聞いたわけじゃないからな。断定は無理だ」
「あ、そう……」
「残念か?」
 軽く含み笑いを見せつつギルバートを覗き込む。
「……あのな、人生折り返した大人をからかうんじゃないぞ。俺は、別に、あれだ」
 無駄に動く彼の手が、思わずボトルを倒しそうになる。
「動揺してるな」
 ウォレンの平然とした態度に、ギルバートは憎たらしそうな目を向けた。
「否。……いいか、年の差を考えてみろ。下手すると父親と娘だぞ」
「モーリスとコニーだって20はあるだろ。25だったかな」
「22。……だったはず」
 なら余裕じゃないか、とウォレンは軽く手のひらを上に向けた。
 納得したか、ギルバートは口を閉じ、少しの間考え込む姿勢を見せた。
 生まれた会話の幕間を埋めるように、店内に流れる音楽の旋律に沿って柔らかな笑い声が奥から聞こえてくる。
「……で、念のために聞くが、その好意の程度はどのくらいなのかな」
「さて」
「お前、そこが肝心だろ」
 真剣な表情のギルバートに、ウォレンは短く微笑を返した。
「……お前も随分とアレックスに似てきたよ」
「どうも。嬉しくはないが、今はそういうことにしておこうか」
 その後も小声で独り言を呟くギルバートを漠然と視界に捉え、
「……なるほど。この感染症は面白いらしい」
 と小さく声に出し、ウォレンはグラスを口に運んだ。
 彼の言葉が聞こえたのか、お前は感染するな、とギルバートから無言の要求が入る。
 その時、入り口のドアが開いたらしく、ベルの音が響き、店の中の空気が侵入してきた風によって乱され、わずかな対流を生み出した。
 ギルバートが顔を上げ、つられてウォレンも入り口を見る。明らかに人を探しているリンの姿が彼らの視線の先にあった。
 リンの目が、来客に対する親しい笑顔を見せるギルバートを捉え、そのままウォレンへと移動した。探し人を発見した様子で彼が、あ、という表情をする。
 相変わらず分かりやすい、と思いつつ、ウォレンは彼から視線を逸らした。
「知り合いか?」
「話すと長い」
「へぇ」
 それ以上を聞くでもなく、ギルバートは一旦カウンターから離れた。
 彼が去るのと同時に、リンがウォレンの隣にやってくる。
「横、いい?」
「いや」
 短く拒否し、ウォレンはリンを見る。そのままに言葉を受け取ったらしく、困った顔をする彼が立っていた。
「冗談だ」
 付け加えれば、安心したように顔をほころばせ、それじゃ、とリンが腰を下ろす。
 ギルバートの言う通り、確実にアレックスに近づいてきているな、とウォレンは心の中で苦笑をした。
「いらっしゃい。注文は何にします?」
 さすがと言えるほど自然に営業モードに入り、ギルバートがリンに尋ねた。
「すみません。今、手術を受けたばかりで……――」
 上着を脱ぎ、吊っている左腕をさすりつつそう言いかけて、リンが慌てて口を噤む。
 銃創は届け出なければならないという規則を守っていないことが後ろめたいのだろう、何の傷の手術かを明言していないにも関わらず、しまった、という表情をしている。
 そんなリンの言動にある程度のことは読んだだろうが、ギルバートは何気ない様子で、ああ、と納得した。
「それじゃアルコールは止めておきますか。ミネラルウォーターでいいですか?」
「あ、はい、そうですね、いただきます」
 妙に改まった姿のリンに、ウォレンは軽く笑った。営業を続けているがギルバートも心の中では面白がっているに違いない。
「……何」
 ギルバートが下がるとすぐに、リンは笑われたことに対しての抗議に出てきた。
「何でもない。気にするな」
 そう告げれば、しないでいられるか、という視線が返ってくる。
「あんた、嘘をつくにしても自分から墓穴を掘るタイプだろ」
 ウォレンは確信を持って言ったのだが、リンは怪訝な顔をした。
「どうして?」
「気づいてないのか?」
「何に?」
 突拍子もないことを言われたようなリンの反応に、ウォレンは小さく頷くと勝手に断定した。
 リンが問い詰めようとしたとき、ギルバートがミネラルウォーターの入ったグラスを運んできた。
 礼を述べて受け取り、一口飲む。ほのかにレモン風味のする冷たさが口に広がった。アンソニーの家でも頂戴したが、このバーに歩くまでの間にも喉は渇いたらしい。
「……それで、何か用か?」
 グラスを片手にウォレンが尋ねる。思い出したように小さく、あ、と言うとリンは彼を見た。
「治療代についてだけど、別に君が撃った弾が当たったわけじゃないし受け取れないよ」
「……アンソニーに聞いたのか?」
「うん」
 余計なことを、とでも言うように、ウォレンが小さく息をつく。
「好意だ。素直に受け取っておけ」
「受け取れない」
「自腹を切りたいのか? 保険は効かないぞ」
 跳ね上がる値段を想像したか、リンの動きが一瞬止まる。
「……でも、助けてくれた上に治療代まで払ってもらうなんて」
「言ったろ、助けようと思ってあんたを助けたわけじゃない。『ついで』だ」
「『ついで』なのに、わざわざ?」
「そうだ。口止め料と思ってくれればいい」
 しれっと言われ、リンは表情を曇らせる。
「……嫌な言い方するなぁ」
「あんたがあれこれ言うからだ」
 不服そうな表情をしながらも、リンはこれ以上議論しても埒が明かないと判断したか、軽く眉毛を上げ、視線を手元に落とした。
「じゃ、言葉に甘えて」
 抵抗があることを含めた口調で軽く礼を述べるリンに対し、それでいい、というようにウォレンは頷いた。
 一区切りついた会話の合間を縫い、店内にいる客の会話や笑い声が側を通り抜けていく。
 リンは深呼吸をすると視線を上げ、彼らの様子を何気なく観察した。
 外の雰囲気とは違い、居心地のよさが木を主体として造られた空間内に広がっている。
「……君の行きつけのバー?」
「そんなとこだな」
「いい店だね」
 一言呟けば、そうだな、とウォレンも同意する。
「マスターに言ってやると喜ぶぞ」
 目でギルバートを指し、ウォレンは言った。
 彼の示した先を見れば、カウンターに座っている客と和やかに会話を弾ませているマスターの姿があった。一見して、店の雰囲気のよさには彼が深く関わっているだろうことがリンには分かった。
 軽く目を閉じ、暫くの間、場の空気に身を包ませる。
「大分疲れているみたいだな」
 呟かれたウォレンの声は、周囲の音に溶け込むようにリンの耳に入ってきた。
 彼自身自覚はあったが、言われてみると疲労の度合いが具体性を伴って全身に纏わりついてくる。
「……まぁ、ね」
 様々な事が今日という1日に凝縮されたように感じる。
「……ジョンとは知り合いだったのか?」
「いや、今日初めて会ったばかりだよ」
 ウォレンは、そうか、と頷きを返しつつ、やはり偶然巻き込まれたクチか、と妙に納得をした。
「……あいつと連絡を取りたければ弁護士に相談するといい」
「うん」
 短く了解の意を伝え、リンは焦点を合わすでもなく前を見た。
「……彼、大丈夫かな」
 こぼれ出たリンの言葉に、さぁ、とウォレンはさして興味ないように返す。
「他に何かしでかしていたら難しいかもな」
「え?」
「数年喰らう可能性もある」
「……そんな……」
「自業自得だろ」
 さらりと言ってのけたウォレンに対し、リンは手の動きをつけて、でも、と告げる。
「彼は、……そりゃ、違法なことをしたかもしれないけど、素直な人だよ」
「まぁ確かに根っからの悪い奴じゃなさそうだな」
 先ほどと同じように素っ気なくウォレンは言うと、言葉を続ける。
「――ここから先は弁護士の領域だ。シークレストなら悪いようにはしないだろう」
 話を締めくくり、ウォレンはグラスを口に運んだ。
 冷たい言い草をする、と思っていたリンだったが、ウォレンは第三者的な意見を述べていただけらしい。
 納得したか、リンは視線を手元のグラスに落とした。確かに、悪い方向へ事が運ばれるような予感はしない。
 ふと、隣でウォレンが腕時計に目をやる。
 つられてリンも同じ動作をした。が、吊っている左腕にはまだ腕時計をはめていないことに気づく。顔を上げれば、店内にフライパンの形をした滑稽な壁時計を発見する。手術を受けていたせいもあるだろうが、針は結構な時間を示していた。
「ついでだ。最寄の駅まで送っていく」
 リンに一言告げ、ギルバートに軽く目で挨拶しつつウォレンが席を立つ。
「……また『ついで』?」
 怪訝な表情のリンの言葉に、失言したか、とウォレンは小さく息を吐いた。
「『好意』だ」
「あ、そう」
「ありがたく受け取っておけ」
「どうせなら、家まで送ってくれるとありがたいんだけど」
 にっこりと笑いつつ、リンは代金をカウンターの上に置くと席を離れた。
「……けっこう図々しい奴だな」
「何気にそうかもね」
 他人事のように告げたリンに軽く苦笑を送り、ウォレンは入り口へ足を向けた。
「あれ。でも飲酒運転になるんじゃない?」
「なんでだ?」
「え、だって……」
 いいつつリンはカウンターの上を示す。
 彼の指の先に、グラスを片付けるギルバートの姿が見える。
「飲んじゃいない」
「ほんとに?」
「あれは水だ」
「水?」
 疑問で返しながら、リンはもう一度カウンターを見た。グラスは既に運び去られていたが、思い出せば確かに自分と同じ透明な液体が入っていたように思える。
「……『見つかったら厄介』、だから?」
「いや、単に飲めないだけだ」
 一言告げると、その後の会話を避けるようにウォレンはリンに背を向けてさっさと外へ歩いていった。
 彼の後ろ姿を見送った後、意外、というようにリンは眉を上げた。
 数秒の間を置いて外に出れば、予想以上に速く先を行くウォレンの姿が見えた。
 追いつこうとするでもなく、リンは彼の後ろを歩く。
 アルコールに弱いという事実を掘り下げられたくないために早足で歩いているのだろう、と推察し、リンは小さく笑った。親しみやすさの中にもどこか一線を引いたような彼だが、案外子供っぽいだけなのかもしれない。
 けれど、とリンは笑いを表情から消す。
 それだけに、彼が裏側の世界に生きていることが、余計に気にかかる。
 リンは無意識に、冷えた外気にさらされていた右手を上着のポケットに入れた。
 何かが指先に触れ、その正体を頭が認識すると、これまでの思考が一気に失せた。
「あ」
 そう声を上げたが、距離があるため先を行くウォレンの耳に拾われることはなかった。
「あの、止血に貸してもらったネクタイだけど……」
 声を投げつつポケットから白いガーゼに包まれたネクタイを取り出す。
「なんだ、捨てておかなかったのか?」
 歩みを止めずに振り返りつつ、ウォレンが言った。
「いや、借り物だし……――」
 洗濯をすれば、と思い、アンソニーにくるんでもらったのだが、ガーゼのほうにも血が染みているところをみると、再び使い物にはなりそうになかった。
「……あー。……えーっと、ごめん、やっぱり新しいものを買ったほうがよさそう」
「気にするな。別に高価な代物じゃない」
「何?」
 進行方向を向いて発せられる声は後方には伝播しにくい。距離を縮めようとリンが歩く速度を速める。
「適当なゴミ箱にでも捨てておけ」
 言い直されたウォレンの言葉は、発信源と受信源に距離がある分、突き放したようにも聞こえた。
「もったいないじゃん」
「そうでもない。使い古しだ」
「でも――」
「あんた、結構しつこいな」
「え?」
 話をしている間に、ウォレンは車を停めていたところに辿り着く。
 キーを差し込もうとしたウォレンが動きを止め、鍵のボタンを押した。了解、と音で返事をすると車はドアにかかっていたロックを外した。
 リンも追いつき、運転席と助手席で車を挟んで2人が立つ。
「しつこい?」
「ああ」
「僕が?」
 ジェスチャーでも尋ねてくるリンに対し、ウォレンは、ほら、と示すと、
「現在進行形で」
 と付け加えた。
 不服そうだが、確かに、と認めたか、リンは両手を広げた。
「……なら、適当なゴミ箱に捨てるけど」
「そうしておけ」
 運転席のドアを開け、ウォレンが乗り込もうとする。
「……あまり趣味がいいとはいえない柄だね」
 しつこいと言われたことに対する言い返しとしてぼそりと呟かれた言葉だが、周囲が静かな分、相手に届くのも容易だったらしい。
「歩くか?」
 体を半分運転席に入れ、ウォレンが提案する。
「いい柄だと思いますよ」
 無理に笑うリンに対し、ウォレンは返す微笑を短く切り上げ、車に乗り込んだ。
 ドアの閉まる音が響く。
 リンは小さく息をつき、右手に握るしおれたネクタイに視線を落とした。
 ふと、先ほど途切れた思考が戻ってきた。
 だが、今は深い話には触れないでおこう、と彼は思った。
 まだ知り合って間もない人に対し、お世話にも軽々しく話題にすることではない。
 それにいずれまた、話す機会が得られるだろう。 
 結論を出すと同時にエンジン音が響き、出発の準備が整ったことを告げられる。
 ネクタイをガーゼにくるむと、リンは助手席のドアを開けて体を車内に滑り込ませた。
「で、あんたの家は?」
「フェアファックス」
 目的地を聞き、ウォレンが軽く了解の意を示す。
「いい所に住んでいるな」
「まぁね」
 ヘッドライトが路面を照らし、車が滑らかに滑り出す。


 フェアファックスまでの道のりの間。
 街の話題に始まり、穏やかに会話は展開されていった。



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