01 Saving Lives, Taking Lives
テレビ画面、ニュースの映像は映画でも撮影しているかのようだった。『……現在もまだ炎が上がっており、車内に閉じ込められている人々の救助活動が続いています』
ヘリコプターのローターが回転する音を背後に、リポーターが興奮した様子で状況を届ける。
ソファに座り、その映像を見ていた女性が物音に気づき、驚いて振り返った。
「やぁ。何か面白いニュースでも?」
シャワーを浴び、ローズの香りに包まれた男性が、タオルで頭を拭きつつ妻の頬にキスをする。
「ないわ。どこのチャンネルも、交通事故の話ばかり」
驚かせないでよ、と息を吐きつつ、女性が違うチャンネルに切り替える。
しかしニュースの内容は変わらず、だが先のチャンネルの上空からの映像と違い、道路上から立ち入り禁止となっている事故現場の様子が映し出された。
激しい雨となったサンクスギビングホリデーの最終日に起きた、玉突き事故。
画面越しに届けられるのはその最後尾の現状らしかった。
「ひどい有様だな……。いつ起きたんだ?」
ソファをまたいで女性の横へ座りつつ、男性が尋ねる。
「分かんないけど、あんまり時間は経ってないみたいよ」
「何台?」
「30くらいだったかしら、確か」
痛ましそうに眉を寄せる彼女の肩を抱き、男性はリモコンをゆっくりと取り上げると電源を切った。
途端に、部屋の中に静寂が訪れ、やがて外から雨音が届いてきた。
女性が用意していたキャンドルの灯火が、温かな色を呈し始める。
「あなたのご両親から電話があったから、私たちは無事だって伝えておいたわ」
「心配してたか?」
「ええ。とっても」
そっか、と男性がソファに座りなおし、女性もまた、彼に頭を預けた。
「事故があるから、車って嫌なのよ」
「そういうなよ、立派な現代文明じゃないか」
「そうだけど、免許を取る気がなくなったわ」
「免許なら、僕が持っている。君は助手席に乗ってシートベルトを締めていればいい」
「でも、この子が生まれてきたら、私も必要になると思うの」
お腹をさすりつつ、女性が呟く。
肩に回した腕の円を縮めつつ、男性が女性の手に自身の手を重ねる。
「それなら、今日みたいな雨の日のドライブは僕に任せればいい」
「あなたが出張中だったら?」
「電話をくれれば飛んでくるよ」
額を近づけ、男性が音量を落として告げれば、女性が、くすくす、と笑う。
「頼りになるわ、スーパーマンさん」
そう囁くと女性はもう片方の手を重ね、両手でもってお腹の上の男性の手を握った。
雨音は、壁と窓に遮られて実際よりもずっと弱く届いてきている。
画面の向こうの大惨事の名残が彼らの部屋から消え去るのと同じような時間帯――。
ドアが勢いよく開かれ、ストレッチャーに乗せられた女性が運び込まれる。
「道を開けてくれ!」
前方へ声を飛ばし、クラウス・アイゼンバイスは患者を運んできた救命士へ説明の続きを促した。
「――脾臓を損傷、出血しています。心停止3回、除細動3回」
「投与は?」
「エピネフリンと生食を」
「タミー、聞こえるか?」
意識はないと分かっているが、声をかけずにはいられない。
「最初の心停止から30分以上経っています」
「だが今は動いている」
「ご家族とは連絡がとれました。旦那さんと娘さんがこちらに向かっています」
「分かった」
角を曲がり、ドアを開き、素早くストレッチャーごと搬入する。
「3でいくぞ」
用意していた台に回り込み、クラウスが声を掛ける。
タイミングを合わせ、タミーを台の上に移動させる。
仕事を終えた救命士は再び現場に向かうため部屋を去り、看護師らは無駄のない動きで立ち回る。
腹部を確認すれば、止まらない出血を目の当たりにする。
「血液型は?」
「Oマイナスです」
「2単位、輸血の――」
不意に、耳障りな警告音が室内全体に響いた。
「心室細動」
それを知らせる音だ。耳にする度、緊張が全身に走る。
「除細動器を」
「エピを静注」
「血圧低下、50の30」
「チャージ」
瞬時に様々な対応がなされる中、除細動器がエネルギーを溜める音が高まる。
「クリア!」
タミーの胸にそれを当て、ショックを与える。
一瞬、警告音が途絶えたが、すぐにまた息を吹き返した。
だが、再び働き出して欲しいのは不穏な電子音ではない。
「もう一度!」
指示を出せば、看護師が応える。
「クリア!」
必要なエネルギーが溜まった瞬間、ショックを与えた。
動け、という願いは虚しく、不吉な音の中に消えていく。
「もう一度!」
360、と看護師が復唱する。
「クリア!」
ショックを受け、タミーの体が跳ねる。
が、何の変化も見られない。
戻って来い、と呟くが祈りは通じない。
「――バイス」
「もう一度!」
動け、と強く念じつつタミーの顔を見る。
「アイゼンバイス」
隣から突如として耳に入ってきた声に、クラウスは動作を止めて顔を上げた。
その先、医学生時代から世話になっているトニー・オデールがわずかに首を横に振る。
途端、それまで聞こえていた電子音が大きくなった気がした。
その意味するところを知り、クラウスは時計を見た。
運びこまれてからさらに8分。時間の経過が早すぎる。
共にタミーの処置に当たっていた看護師らもまた、ゆっくりと目を閉じる。
ふと、手術台の上に横たわっている女性に目線を落とす。
タミー・ドレイク、34歳。働き盛りの女性だ。
呼吸を補助する器具の下、彼女の口の周りには血の痕が乾いていた。
玉突き事故に巻き込まれた内の1人。
押しつぶされた車の中から救い出された彼女は、だがその時はまだ生きていた。
1歩、彼女から後退するクラウスの隣で、オデールが死亡時刻の宣言を行う。
目を閉じれば、ふつりと不快な音が途絶えた。
終わったのだ。
肩を叩かれて目を開ければ、オデールが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
顔を上げ、クラウスはオデールを見た。
事故現場に一番近い設備の整った病院ということもあり、ひっきりなしに重傷を負った患者が運び込まれてくる。助けを求めているのは今しがた息を引き取ったタミーだけではない。
強制的に気持ちを切り替え、クラウスは頷いた。
「大丈夫です」
「ご家族は?」
「今、ここに向かっています」
答え、クラウスは室外へ向かって歩き出した。
すぐに、次の患者を受け入れる準備に入らなければならない。留まっていては動線上の障害物となるだけだ。
ドアを開けて廊下に出れば、そこは緊急度の低い患者と家族で溢れていた。
飛び交う人の言葉が、先ほどの電子音並みに切羽詰って聞こえてくる。
「オデール先生、第2手術室にお願いします」
「分かった。デイヴィス先生は?」
「先ほど到着して、今第3手術室に入っています」
「そうか」
返した後、手が足りないな、とオデールが呟いた。
「バイス、お前も入れ」
オデールの指示に、先ほどのタミーの姿が脳裏を過ぎったが、クラウスは、了解、と強く告げた。
あれこれと考えるのは、この大惨事が落ち着いてからでいい。
そのクラウスの様子にオデールは頷きを返すと、看護師に向き直った。
「患者の容態は?」
尋ねつつ、第2手術室へのドアを開ける。
「クリス・キャンデル、18歳。2度の熱傷9%、左臀部と骨盤を損傷、右足骨折の疑い。意識はありますが、低酸素症を――」
看護師からの説明を受けながら手早く用意を済ませ、オデールとクラウスはもう1つドアを開いた。
規則的な電子音が耳に入ってくる。
丁度、クリスが手術台に移された頃だった。
スポーツに勤しんでいるのか、筋骨たくましい青年だった。彼もまた、将来のある人間だ。
「クリス、聞こえるか?」
近寄り、クラウスはまずクリスに声をかけた。
顔にも弱い熱傷を負っている彼は首を固定されており虚ろな様子だが、意識は保っているらしかった。
「大丈夫だ。俺たちが治す。だから気を強く持て」
クラウスの声に、病院に到着していることが分かったのか、わずかだが、クリスが頷いた気がした。
挿管のため、オデールがクリスの耳元に足を運ぶ。
「クリス、私はオデール、そっちの若いのはアイゼンバイスだ。もう心配いらんぞ」
安心させる声音でオデールが告げれば、今度こそ確かに、クリスが頷いた。
経験の差だろうか、贔屓目なしに、オデールは患者と接する第一歩目から見事なものだ。
力不足を感じつつも、クラウスはこれから行われる手術へと意識を集中させた。
翌日。
皮肉ともとれるような晴れた空の下、カナダガンがⅤ字を描いて悠々と下っていく。
冬の到来ともなれば、家具や日用品の乏しい室内は窓際からの冷気に侵食されやすい。
室温は低いだろうが、今朝は雨のおかげか、動きやすかった。
上着に左腕を通したとき、車の鍵を居間に置き忘れたことに気づき、ウォレン・スコットは引き返した。
音が聞こえると思えば、何ともなしテレビをつけていたことを思い出す。
車の鍵を手に取り、右腕を上着に通す。
着心地を整えている間テレビに目を向ければ、横転したトラックを上空から捉えた映像が流れていた。
リポーターからの情報に、どうやら昨夜、ハイウェイにおいて玉突き事故が起こったらしいことが分かる。
戻ったついでだ、とウォレンはソファに放り出されていたリモコンを手にとり、電源のボタンを押した。
が、映像は流れたままだった。
前の住人が残していったものというだけあり、少々年季が入っているためボタンを押すにもコツがいる。
もう一度、とリモコンの先を感部へ向けたとき、事故現場の名前が耳に入ってき、指の動きを止めた。
地理的に、怪我人を搬送するとなるとクラウスが勤めている病院が一番近いのではないだろうか。
そう考えた直後、映像の現場が、病院の前に立っているリポーターへと移った。
間違いない。
負傷者の多くが運び込まれたという病院の外観に覚えがあり、ウォレンは腕を下ろした。
画面上の様子に、昨夜は大変だったであろうことが分かる。
この時期での大きな事故。
やがて来るクリスマスなど、当事者にとっては何の意味もなくなるのだろう。
ぼんやりと考えていた中、カワラバトの羽音が聞こえ、その影が床に映り、ウォレンはその方向を見やった。
うまく足場を見つけられなかったか、しばらくの格闘の末、カワラバトは慌しい羽音とともに飛び去っていった。
暫くの間それを見送り、ふと、腕の時計に目を落とす。
針の示す時刻を見、ウォレンはリモコンをテレビに向けると、下から右へ捻るように電源のボタンを押した。
ぷつり、と映像が途絶え、ブラウン管の面が残音を弾かせるのを聞いたか聞かないか、半ば急ぎ足でウォレンもまた慌しく部屋を後にした。
大学に程近い場所に新しく開店したカフェは、しっとりとした食感のベーグルを売りに、主に女子学生の注目を集めていた。
昼休みの時間ともなれば、昼食を食べに、あるいは買いにやってくる彼女たちで列が作られる。
その混雑が少し収まった頃。
エリザベス・フラッシャーはところどころ水気の残る歩道に知った姿を発見し、微笑すると彼に向かって小さく手を振った。
「遅れてすまない」
「大丈夫。許容範囲よ」
エリザベスの言葉に、安心したようにウォレンが息をつく。
「それで、君の言っていたカフェは?」
「あそこよ」
エリザベスの示した先、若い女性たちの多い列のほか、店の内外のテーブルもほぼ埋まっているらしかった。
「賑わっているな」
「開店当初からこんな感じよ。この時間だと人気商品はもうないかも」
それを聞き、ウォレンが罪悪感を抱いたような表情をする。
「冗談」
くすりと笑い、行きましょ、とエリザベスは先に歩き始めた。
緩やかな髪が風に誘われる後姿を見、ウォレンは微笑を送ると彼女に続いた。
エリザベスもまた、列を作っている女子学生たちと同じ好奇心の持ち主なのだ。
デュークの件にしろ、メルヴィンの件にしろ、身の回りで物騒な事件は起こるものの、彼女の背中から感じられる普通の女性らしさは消えることはなく、安らぎを与えてくれるものだった。
キャラメル・カプチーノのカップを置き、エリザベスは顔を上げた。
「今日の遅刻の理由を聞いてもいい?」
質問を受け、ウォレンはどこから食べようか思案していたベーグルを皿の上に戻した。
「ニュースに気をとられていたら、な」
いつの間にか時間が、とウォレンが小さく右手を広げる。
「ニュース?」
「昨晩の玉突きの件だ」
そういえば、とエリザベスが頷く。
この時期にしては記録的となる大雨と連休とが重なり、あの事故に繋がった、とニュースでは言われていることを思い出す。
ふと、今朝の講義で、友人のクレア・シャトナーと交わした会話も思い起こされる。
「クレアも怖かったって言ってたわ」
「現場にいたのか?」
尋ねたものの、シャトナー上院議員の名前はニュースでは読み上げられていなかったな、とウォレンは思い出した。
ううん、と首を振り、エリザベスは生ハムとクリームチーズとレタスの入ったクルミ入りのベーグルを手に取る。
「もう2時間遅く帰っていたら巻き込まれていたかもって言うから、私まで怖くなって……」
区切った後でウォレンを見、続ける。
「あなたもよく運転するけど、安全運転だから、大丈夫よね」
言われ、ウォレンは、まぁな、と微笑を返した。
安全運転をしていても巻き込まれることもあり、一概に大丈夫だとはいえないのだが、そこは口には出さなかった。
運に左右されてしまう事故ほど、やるせないものはない。
今回と似たような時期の同様の事故の話が頭を過ぎり、ウォレンは一度視線を落とした。
だが、その表情はエリザベスに気づかれる前に隠した。
「裁判は終わりでいいか?」
真面目な様子でベーグルを示しつつ許可を求めれば、どうぞ、とエリザベスが笑う。
「別に責めてるわけじゃないわよ。ただ、珍しく遅れて来たから、疑問に思っただけ」
「珍しく、か。毎回遅れれば責められることもなくなるかな」
「試してみたいなら、どうぞ」
知らないわよ、とエリザベスはベーグルを頬張る。
その様子に、止したほうがよさそうだな、とウォレンもまた昼食に取りかかった。
おこぼれを期待しているのか、カワラバトやイエスズメが警戒をしながらもテーブルの近くまで足を運んできている。
「……母親の件はどうだ?」
尋ねられ、エリザベスは緩く首を横に振った。
「まったく音沙汰ないわ。NYの警察にも、見つけたら連絡してくれるように頼んだけど、どうかしら。もう州外に出ているかも」
母親であるルティシア・フラッシャーについては、NYのアパートから姿を消して以来の足取りはまったく分からなかった。
アルコールに毒されていた母親から目を離し、エリザベスがバスルームを確認している時間は短かったはずで、ルティシアはろくに荷物を整える暇もなかったろう。それを考えると何かしらの所持品を取りに戻ってきてもよさそうなものだが、娘に見つかるのを恐れているのか、エリザベスがもう一度アパートを訪れた際もそのような雰囲気は微塵も感じられなかった。
「ビアンカにも見かけたら教えてくれるように頼んだし、今できるのはこのくらいかしら」
荒んでいようが、必要最小限の生活を続けるだけの知恵と体力はあるらしいことだけが安心の対象だった。まさかに死亡記事に載ることはないだろう。
「不思議ね。あんなに嫌っていたのに、今は安否が気になるの」
以前はふとしたときに母親のことを思い出しては嫌悪感を抱いていたものだが、最近はそうではなく、心配に思うことのほうが多い。
「親子だからじゃないか?」
穏やかな声音で告げられ、エリザベスは口元を緩めた。
「そうね」
夢で見た、病気の自分を助けようと必死だったルティシアを思えば、この感情もなんら不自然ではないのだろう。
互いに思い違いをしていた結果、冷え切った関係となってしまったが、元を辿ればウォレンの言うとおり親子なのだ。
「この件に関しては、本当に助かったわ。ありがとね」
「気にするな」
「メルヴィンも、少なくとも春までは大丈夫だろうって」
娘との再会が変化をもたらしたか、健康面において不安定な様子はなく、かかりつけの医師からも余命が延びたのでは、という言を頂戴した。
余程、エリザベスに会えた事が嬉しかったのだろう。
もっとも、エリザベスが聞いたショーンからの報告では、メルヴィンはキースとデュモントの件について心を痛めているようではあった。
その事がエリザベスの脳裏を過ぎり、揺らいだ空気がウォレンにも伝わったか、弱い風と共に何ともなしに沈黙が訪れる。
あの日以来、この件については話題に上っていない。
特段触れないようにしているわけでもないのだが、やはり気まずくなるのは確かだ。
双方ともに場を繋ぐ単語を溢すが、その後を続けたのはエリザベスのほうだった。
「TJやコニーにも、あれからもお世話になったし――」
言いかけて、あ、とエリザベスが語尾を切る。
「この前ね、TJと食事したときに話をしたんだけど――」
カプチーノのカップを置き、聞いて、と目を合わせてくるエリザベスに、ウォレンも飲んでいたコーヒーのカップを下ろした。TJ・グラスフォードとは、あれ以来気が合ったのか、よく会っているらしい。
「――ウォレン、勿論クリスマスは空いているわよね?」
尋ねながら、エリザベスが手帳を開く。
「君が空いているのなら、そうなんじゃないかな」
答えれば、そうよね、とエリザベスは微笑んだ。
「ギルの家でパーティーを開こうって企画しているの。来てくれる?」
「酒以外の飲み物もあれば」
「心配しないで。リストに入れるわ」
にっこりと告げるエリザベスに、助かる、とウォレンは口元を緩めた。
「ギルには話してあるのか?」
「まだ。これからよ。今夜あたり一緒に頼んで欲しいんだけど、いいかしら」
「それは構わないが――、TJから頼んでもらうと話が進みやすいんじゃないかな」
「なんで?」
疑問顔のエリザベスに対し、コーヒーを口に運びつつ、眉と首をわずかに動かして伝える。
数瞬考えた後、エリザベスは、なるほど、とゆっくりと頷いた。
「じゃ、場所は問題ないわね」
「だろうな」
嬉しそうにカプチーノを飲むエリザベスに、ウォレンも笑顔を返す。
「コニーはモーリスと2人で食事するみたいだから参加できそうにないんだけど、アレックスの予定はどうかしら?」
「あいつはいつも『予定なし』だろうが、誘うのなら、俺から言うよりも君からのほうが断然効果があると思う」
それを聞き、うーん、とエリザベスが顎を引く。
「女性に弱い人たちね」
的確なコメントに、確かにな、とウォレンは頷きを返した。
「エディーは?」
「どうかな。この前会ったときは奥さんと2.5人でどこか行くとはしゃいでいたが」
「『.5』?」
「夏前には『3』になると言っていた」
意味するところを知ったのか、エリザベスが我が事のように幸せそうな表情をする。
「早く言ってくれればお祝いに行ったのに」
「まだ産まれてないぞ」
「おめでたよ? 前祝も必要じゃない」
「そういうものなのか?」
「そうよ」
ウォレンの鈍い反応に、エリザベスはひとつ息をつくと、再び参加者の話題に戻った。
「クレアに聞いたんだけど、当日はシャトナー上院議員とスタッフで家族を呼んで、パーティーを開くみたい。だからリンも来られないかもしれないけど、一応聞いてくれるかしら?」
「俺が聞いてもいいが、あいつも――」
「女性に弱い?」
ウォレンが短く肯定を返せば、分かったわ、とエリザベスが肩を上げた。
「あと、アンソニーと、彼の息子さんも誘ってくれる?」
アイゼンバイス家の名前が出てき、ウォレンは一瞬、動きを止めた。
「それはいいが――……」
ふと、昨夜の事故のニュースのことが再び思い出される。
家族水入らずの行事の前の、交通事故。
パーティーに誘うにしても、アンソニーはともかく、クラウスはどうだろうか。
「仲直りはしたのよね?」
即答されなかったことについて、エリザベスは違う理由が原因だと考えたらしい。
問題はそこではないが、と思いつつ、ウォレンは言葉を探す。
「また喧嘩したの?」
質問に含まれる形で、語尾が濁ったままの状態に対して疑問が呈されるが、ここで敢えて理由を説明する必要はなく、ウォレンは、いや、と続ける。
「聞いておく」
返事をすれば、よかった、と力を抜き、
「お願いするわ」
とエリザベスが微笑した。
確認事項は全て終えたのか、何かメモをした後、彼女が手帳を閉じる。
「講義、時間は大丈夫か?」
コーヒーを口に運びつつ尋ねれば、腕時計に目を落としたエリザベスが、あ、と慌ててキャラメル・カプチーノを飲み干す。
「学生の身分も忙しそうだな」
ウォレン自身は、仕事はさておき普段の生活で時間的制約は全くなく、平日においては連日規則性が求められる学生生活が大変そうに思われる。
「そうね。特に自分の書いた分厚い教科書を押し売りして、無駄にレポートを求めてくる教授の講義なんて、頭がおかしくなりそう」
口元を拭くエリザベスに、ここは片付けるから、とウォレンが手で示す。
「ありがと」
バッグを肩にかけると、
「それじゃ、また今夜」
と笑顔を残し、エリザベスは腕時計を見やりながらテーブルを後にした。
彼女の後姿を見送っていたウォレンだったが、足元から不意に飛び去ったカワラバトの気配に誘われ、そのほうへ視線を移動させた。
羽音が消えていく先、いつのまに太陽高度が低くなったのか、この時間でも夕方のような淡い色合いの空だった。
縮れた白い雲が浮かび、地上の風とは違う方向へ流れていく。
視線を下げて通りを見れば、並木から色あせた葉がひらはらと、歩道を行き交う人々の合間に落ちていった。
何気ない日常の一場面だ。
そういえば、以前この街で暮らしていたときも、多少の振幅はあったにせよ、同じように平和に時が流れていた気がする。
一度離れて以来、忘れてしまっていたらしいが、悪くはない感覚だ。
通りから目を離し、ウォレンはテーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばした。
その奥には、つい先ほどまでエリザベスが座っていた椅子が見える。
残りのコーヒーを飲み干し、ひとつ息を吐く。
この環境場に戻ることを視野に入れた以上、イーサン・ダグラスから「春までに」と依頼された仕事が最後になるよう、動いていかなければならない。
一度踏み入れた世界だ。抜けるのは難しいだろう。
ふと、再び周囲を見回せば、静かな街並みの中に、人の笑い声、車の走行音が溶け込み、日差しの温もり、通り過ぎる風を感じる。
難しいだろうが、努力するだけの価値はありそうだ。
視線を落とし、暫く経った後、ウォレンは2人分のトレイを重ねると、席を立った。