IN THIS CITY

第1話 Pilot

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02 Controlled

 日付が変わり、新しい一日が始まった早朝、ワシントンDCのビジネス街に近い住宅地。
 携帯電話の呼び出し音が、眠りの淵から現実世界へと意識を呼び起こす。
「……もしもし?」
 はっきりしない口調は眠たいことを忠実に表している。デューク・ホルムはゆっくりと上体を起こすと、開くのを拒む目に左手を当てた。
「……ああ眠いよ。俺はいつもギリギリまで寝る派なんだよ」
 不機嫌な声だ。その声を聞きながら、エリザベス・フラッシャーはブランケットを肩まで引き上げた。隣で寝ていた彼女も、この電話の着信音によって起こされたのだ。
「……分かったよ、行けばいいんだろ」
 乗り気のない返事をしてデュークは電話を切る。
「……誰から?」
「ニックからだ。こんな朝っぱらから事件があったんで出勤しろだと」
 デュークは首を1回転させると伸びをして、ベッドを下りた。
「……大変なのね」
 慌しく着替えを済ませるデュークを尻目に、エリザベスも体を起こす。
「市民の安全を守るのが刑事の役目だからな」
 言いながらにっと笑う。エリザベスもつられて微笑はしてみるが、表情はぎこちなかった。内心では、心にもないことを、と彼の言葉をあざ笑っている。
「行ってくるよ、ハニー」
 デュークは粗雑にシャツをまとうと、エリザベスの側に歩み寄って彼女の額に口付けをした。
 彼の視線を感じながらも、エリザベスは目を合わすことはしない。ただ、昨夜と同じように、嫌悪感を押し殺して、すべての感覚を麻痺させて、じわっとまとわりつくような彼の存在感と、その瞬間が一秒でも早く過ぎ去ってくれるように祈り続けた。
 空気が変わり、気配が遠ざかる。
 去っていく足音は、ドアが閉まる音と共に聞こえなくなった。
 しばらくして外で車のエンジン音がした。その音が小さくなっていってようやく、エリザベスは深いため息をついて体の強張りを解いた。
 ふ、と涙がこぼれそうになる。いつもは強気な彼女も、気を緩めるとしおらしい若い女性となる。
 一日が、また始まる。
 大学へ行く時間にはまだだいぶ余裕があった。もう一眠りしようにも、気分のいい二度寝はできそうにない。エリザベスは緩やかにくせの入った髪の毛をかきあげた。
(こんな生活……)
 途切れた緊張感を縫うように、感情が膨れ上がる。こみ上げる涙の予兆をこらえるように、天井を見上げた。
 喉に、痛みが走る。
 高校卒業と同時に母親から逃げるようにこの街に出てきた。エリザベスにとって彼女はなりたくない人間像であり、常に心の奥底では彼女を卑下していた。父親は顔すらも知らない。学費面での援助は確かにあったが、面識はなく、会いたいとも思わなかった。
 父親のことは思い出そうにもその記憶がないからまだいい。母親のことは思い出したくもないが、気持ちがめいっているときにはどうしてもその顔が嘲笑を浮かべながらまぶたの裏に現れる。
 毎晩のように男を連れ込み、酒を飲み、時には暴力も振るった母親を思い出し、エリザベスはその姿を吹き飛ばすように頭を振った。
 結局、同じ穴のむじなだ。
 DNAというもののせいにしてしまえば少しは気が楽になるのかもしれないが、そこまで割り切れるほど強くはない。
 ぼんやりと焦点の合わない目で室内を見る。心が弱っていれば、過去の記憶がどっと思考回路に流れ込んでくる。
 母親のような人生を送りたくない、その一心で勉学に励んだ。努力が実り、無事にこうして大学に通っている。奨学金を受け取り、学費を稼ぐためにアルバイトもし、夢だった大学で薬学の勉強をしている。
 充実した生活。少なくとも、一年前までは。
 田舎とは言わないまでも、郊外から街中へと越してきた、まだ都会に慣れていない頃、この街でデュークと出会った。最初はいい人だったのだ。いや、そのふりをしていただけなのかもしれない。
 助けられたことから彼との付き合いは始まった。パーティーの帰りに友人ともども数人の男たちに囲まれていたところに、警官姿のデュークがやってきた。後はよくある話、である。
 危険な状況を助けてくれたお礼を言いに彼を訪ねたところ、デュークは警官として当然のことをしたまでだよ、と笑顔をくれた。その姿勢がエリザベスの好感を買った。話をしていく内に、親しい仲になった。まだ慣れない街に戸惑いを感じていた心に、彼の言葉は優しさ以外の何物でもなく感じられたのだ。
 そんな中、母親が失踪したというニュースが飛び込んできた。エリザベスにとってそれは重要なことではなかったが、問題は母親の借金を代わりに払え、と、強面な男たちが取り立てに来たことだった。事情を知ったデュークはなんの惜しみもなく、8千ドルという金額をぽんと払って彼らを追いだした。
 彼のその金銭感覚にもびっくりしたが、同時に初めて人の優しさに触れた気がした。あんなにも献身的に自分を扱ってくれたのは彼が最初だった。今になって思えば、それはすべて、自分を引き止めるための工作だったのだろう。
 刑事などとは名ばかりだ。
 1年前、デュークが街の一角で恐喝している現場を発見した。最初は信じられなかった。あの彼がそんなことをするはずがないと。しかし、それ以来何度か同じような現場を目撃している。裏で麻薬を受け取り、それを高値で売っていることも知った。ひどいときには押収した麻薬を警察から盗み出して捌いているらしかった。
 ひとつ粗が見つかれば、似たような粗も芋づる式に出てくるものだ。女癖も悪かった。自分を含め数人と同時に関係を持っているようだった。
 ショックで呆然となる頭に、そばにいては危険、と警鐘が鳴り響く。
 信頼が音を立てて崩れ、目の前が真っ暗になった。すぐに、彼から離れようとした。話を切り出したとき、彼の表情は今までの穏やかなそれとは一変して残酷なものとなった。
 きつい口調で責め立てるエリザベスを尻目に、彼は告げた。
 君はすでに俺のものだ、逆らうことは許さない、と。
 もう逃れられないというように、彼は笑った。
 その姿を思いだし、ぞっとしてエリザベスは自身の体を抱え込んだ。法的手段に訴えようかとも考えたが、彼のつては広い。仲間に命令して仕返しをしてくるだろう。それ以前に資金がない。彼への借金は、以前と比べれば減ったものの、いまだに5千ドルは残っている。
 だが、どこかに道はあるはずだ。彼から逃れる道が。
 エリザベスは顔を上げた。
 泣き出したくなる衝動をこらえてきっと前方を睨みすえる。
 諦めてはいけない。
 ベッドの横に添えられている時計を見る。とりあえず、金銭面から清算しなければならない。
 心身ともに重たい自分を元気付け、エリザベスはベッドから下りた。
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