15 Dr. Eisenbeiss
遠くからイエスズメの声が聞こえてくる。虚ろな意識の中に溶け込んでいたその声は、次第に現実味を帯び、やがて目覚めを促す。
朝。
ゆっくりと瞼を開ければ、この街に構えている居の窓から朝の光が差し込んでいた。
外は晴れているようだ。
傷口が痛まない程度にのんびりと手足を伸ばした後、ウォレンはベッドから下りた。
久々にゆっくり眠った気がするが、それでもまだ軽いだるさを覚える。どうやら左腕の傷が熱を持っているらしい。
昨夜、タクシーを拾い、エリザベスをそれに乗せた後、ウォレンはそのまま帰路についた。途中で放置されていた車を拝借し、もとい頂戴し、盗難車から普通の乗用車にしてもらうため知人のところに預けてからアパートへ戻った後、左腕に一応の応急処置を施したのだが十分ではなかったらしい。
気付けにコーヒーを入れる。
昼過ぎにはアレックスとの待ち合わせの場所に着いていなければならない。
時計を見れば、まだ朝の8時だった。場所はそう遠くはない。のんびりと出ても余裕で間に合うだろう。
カップに入っているコーヒーをぐっと一気に流し込み、ウォレンは上着と車の鍵を手に取った。
ギルバートのバーの近くに小さな診療所がある。
アンソニー・アイゼンバイスという壮年の男性が経営する小さな診療所だ。表面上内科を専門に扱っているが、外科の方の腕も確かなもので、ウォレンは昔からよく世話になっている。
「おや、ウォレン、久しぶりじゃないか。元気か? あ、元気じゃないから、ここに来るのかな」
朝から文字通り元気なアンソニーが笑顔で迎える。
「悪いな、朝早いのに」
「構わんよ。私は早起きでね。今日もひとっ走りしてきたところさね」
若いころはランナーだったという彼は、今でもジョギングを欠かしていない。
「で、どうしたね?」
「化膿止めをもらえないかな」
「また怪我かい?」
言いながらウォレンの体を見回す。
「ああ、まったく、適当に処置するからそうなるんだよ」
見ただけでどこが悪いのかわかるらしい。ウォレンをそのまま診療所に引っ張り込み、椅子に座らせた。
「処置し直すから。はい、袖まくって」
言われるがままにウォレンは左の袖をまくる。
「結構出血しただろう。縫っとくかい?」
「縫ったほうがいいのか?」
「いやぁ、個人的にね。縫いたい気分。最近、外科やってないから」
「なら遠慮しておく」
「そう?」
それならいいが、と呟くアンソニーはどこか残念そうだった。
治療を受けている間、ウォレンはぼんやりと室内を見回した。
相変わらず整頓されているのかされていないのか分からない状態である。
生活必需品はきちんと整理されているのだが、書物となるとどこに何があるのかさっぱりだ。
「おいおい、どうしたんだこの肩は」
「ん?」
聞かれて十分に肩が見えるまで袖をまくる。関節の部分が青黒く不気味な色になっていた。
「……すごい色だな、これは」
昨日の夜に見たときには電球のせいか、さほどでもないように思えたが、今改めて見てみるとかなりひどそうなことになっている。
「色に感動してる場合じゃないだろう。いつも言ってるが、もう少し怪我には気をつけたほうがいいよ。冗談抜きで体壊すから。何かあったら真っ先にここに来なさい」
「ここじゃないと駄目なのか?」
「駄目だね。私が儲からないから」
にっこりと笑うアンソニーに、ウォレンは了解の意を示す。
「ああ、そうだ。クラウスがめでたく医者になったよ」
傷の部分を消毒しながらアンソニーが言った。
「といっても、まだまだ一人前には遠いけどね」
父親を見習ってくれたのかね、とアンソニー嬉しそうな様子だった。
「街中のクック・メモリアル病院にいるよ」
アンソニーの言葉に、ウォレンは小さく、そうか、と呟いた。
「挨拶に行かないのか?」
「……いや、『おめでとう』とだけ伝えてくれ」
「なんだ、まだ喧嘩したままなのか?」
「……まぁ、な」
「長すぎないか? もう何年だ?」
言われてウォレンは計算をしてみる。
「……7、8年に、なるのかな、もう」
言いながら意外にも時間が経っていることに驚いた。和解をしようと思えば、その機会は持てたはずである。
「たまげたなぁ、よくそんなに喧嘩が続くもんだ。やはり、若いっていいなぁ。いや、あまりよさそうではないけど。まぁ、どうせつまらない意地の張り合いなんだろ?」
痛いところをつかれてばつの悪そうな表情をするウォレンに微笑を投げかけながらアンソニーは、できたぞ、と軽くその左腕を叩いた。
「一応薬も出しておくよ」
「悪いな」
薬を紙袋に入れ、アンソニーはウォレンに手渡した。
「大事にしないと駄目だよ」
紙袋と同時に言葉も受け取って、ウォレンはアンソニーを見た。
いつもの笑顔がそこにあった。
「気をつける」
微笑しながら礼を言い、治療代を払うとウォレンは診療所を後にした。
「さて、と」
ウォレンが帰った後、アンソニーは診療時間が始まるまでに一杯やっておこうと、愛用の酒が保管されているところに向かった。扉を開ける前に、昨夜のうちに空に近くなるまで飲んでしまったことに気づく。
「しまったなぁ」
大の酒好きの身としては、朝からの一杯も欠かせない。
アンソニーはどうしようか迷った挙句、ギルバートのところへ行くことに決めた。