IN THIS CITY

第2話 People Person

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02 Bad News

 翌朝。
 うって変わって晴れた青空の下、雨上がりの澄んだ空気が街を包み込む。
 動き始めた人々の活動的な雰囲気に包まれた一角に、アパートが一件建っていた。
 ニュースの音声をBGMに、エリザベス・フラッシャーは沸かした湯をポットに注いだ。
 蒸気となった水が室内に拡散される様子を目で追い、そのまま視線を後方へ向けた。流し台の下にもぐりこみ、水漏れの処置のために工具を持って作業するウォレン・スコットの姿が見える。
 数日前から水漏れするようになった配管のことを、昨夜、ギルバート・ダウエルの経営するバーでそれとなく口にしたところ、アレックスとギルバートから半ばからかわれるようにウォレンが特派員として推薦された。期待していなかったわけでもないが、嫌な顔ひとつせず承諾した彼に嬉しさを覚えたものだった。
 夜遅いから明朝に、というわけで、今朝こうしてウォレンが部屋にいる。
「直りそう?」
 インスタントコーヒーの入った缶に手を伸ばしながらエリザベスは尋ねた。
「恐らく」
 ウォレンの答えにエリザベスは安堵の表情を浮かべ、視線をポットに戻した。
 作業を終え、配管の様子を懐中電灯で照らして確認すると、ウォレンは薄暗い流し台の下の空間から朝の光の差し込む室内へ脱出した。立ち上がり、試しに水を流してみる。タン、と音を立て、水が流し台に模様を描く。順調に流れるその姿から目を離し、今まで入っていた流し台の下を覗き込む。水が漏れている形跡はなかった。
「これで大丈夫だろう」
 報告をしながら再び体を起こして水の流れを止める。
 水音がなくなり、室内は再びテレビから漏れるニュースの音声に包まれた。
 丁度いいタイミングでエリザベスが入れたてのコーヒーを持ってくる。
「ありがとう」
 テーブルにカップを置きながらエリザベスは礼を言った。ウォレンが軽く返事をする。
「応急処置程度のことをしただけだから、時間があるときに一度業者に見てもらうのがいいかもな」
 ウォレンの言葉に、そうね、と頷きながら、応急処置が何度も続くのならそれもそれでいい、とエリザベスは心の内でひとりごちた。
「砂糖かミルク、必要かしら?」
 聞かれてウォレンはエリザベスの手前に視線を落とした。
 小さな、だが一人で食事を取るには十分に広い木製のテーブルの上に、洒落た取っ手を持つ白いコーヒーカップが2つ、こうばしい香りと湯気をたてながら置かれていた。
「いや、このままで。ありがとう」
 その返事に、分かったわ、と言いながら、エリザベスはブラックが好きなのではという自分の予想が当たっていたことに小さな幸せを感じた。
「あ、先に座ってて」
 席を勧めるとエリザベスは自分用に砂糖を取るために、後ろの棚へ体を向けた。
 砂糖の入っている瓶に手を伸ばしたとき、ごつん、と背後から鈍い音が聞こえてきた。
 振り返れば、流し台の側でかがんで頭を押さえているウォレンの姿が視界に入った。
「……大丈夫?」
 エリザベスの声に反応してウォレンが素早くぱっと手を頭から離す。
「ああ、大丈夫。ちょっと、ここに当たって」
 流し台の下に置き忘れた工具を取ったときに、頭をぶつけたらしい。
 平気な様子ではあるものの、けっこうな音だったことを考えると相当に痛かったのではないだろうか。
「そう?」
 軽く疑問を乗せた口調で一言投げかけると、エリザベスも何事もなかったかのようにウォレンに背を向け、用もなく戸棚の戸を開けた。
 扉の角度について無造作を装って調節し、ガラス張りの部分から背後の様子を窺う。
 痛そうに頭をさすりながら工具入れに工具をしまうウォレンの姿が映し出される。
 ゆっくりとした動作で、戸棚の戸を閉め、砂糖の入った瓶を手に取り、一呼吸置いてから体を回転させると、エリザベスはコーヒーの置いてあるテーブルに向かった。その頃には痛みも薄れたらしいウォレンが椅子を引いて腰を下ろそうとしていた。
 こぼれてくる笑みを抑え、エリザベスもウォレンと対面するところに着座した。
 暫時、ニュースの音声が空間を支配する。
「朝からありがとう。おかげで助かったわ」
「気にするな。それより時間は大丈夫か?」
「大丈夫よ。講義なら今日は午後からだから」
 エリザベスの答えに、なるほど、と相槌を打つとウォレンは洒落た取っ手を持ち、香りのいいコーヒーを口に運んだ。
 独特の癖が口全体に広がり、香りが味となってゆっくりと胃の中へ落ちていく。普段飲んでいるものよりも、心を落ち着かせるコクを持っていた。
「……苦かった?」
 時間をかけてコーヒーを飲んでいる様子を不思議に思ったのか、エリザベスが尋ねた。
「あ、いや。おいしいな、と思って」
 ウォレンは興味深げに、白いカップに入ったコーヒーを覗き込む。そこにメーカー名があるわけでもないのだが、こうばしい香りがそうさせた。
「大学の近くの専門店で買ったの。小さな店だけど、品質はいいわよ。値段も手ごろなものが多いし」
 説明を受けて、ウォレンは地理を頭に浮かべる。
「大学の近くにか?」
「裏道に沿ったところにあるから分かりづらいけど」
 へぇ、とウォレンが呟く。
 関心を示したウォレンの様子に、エリザベスは言葉を続けた。
「気に入った?」
「ああ。普段飲んでいるものよりも、香りが違うから」
「よかったら、今度案内するわよ」
 エリザベスの言葉に、ウォレンは微笑しながら、ありがとう、と答えた。
 明確な約束の形ではないものの、その返答にエリザベスは満足した。
 コーヒーの香りがあたりを包み込む中、彼女もまた白いカップに手を伸ばす。
 テレビからの音声の質が変わり、ニュースの話題が次のものへ移ったことが伝わってきた。それにつられるように、2人同時にテレビ画面へと視線を移した。アナウンサーの声に注意すれば、最近話題となっている殺人事件についてのものであることが知れた。
 緊張の含まれた音声がテレビのスピーカーから流れ、画面に当時の映像が流れる。
 5日ほど前の事件。FBI捜査官の1人が射殺死体となって発見されたあの一件についてだった。
 ちら、とエリザベスはウォレンを窺った。
 特に興味を示すでもなく画面を眺めていた彼が、視線に気づいて振り返る。
 一瞬、目と目が合った後、ウォレンがコーヒーを飲むと一言告げた。
「俺じゃない」
 その言葉に、エリザベスはカップを下ろしながら訂正を入れた。
「あ、いえ、誤解しないで、違うの。ただ――」
 慌てるエリザベスの様子に、ウォレンは、冗談だ、と微笑を返した。
 軽くからかわれたことを知り、エリザベスは緊張したそのままの姿勢でまばたきを1回した。
 ゆっくりと肩の力を抜き、何か反論をしようとしたとき、ウォレンの表情が変わり、その視線がテレビの画面を凝視した。伝えられる一語一句に全神経を注いでいるようだった。
 どうしたのか、理由を聞こうにも緊迫した雰囲気がそれを許さない。
 集中しているその姿に、エリザベスも半ばぎこちなくニュースの流れてくる方向に目をやった。
 アナウンサーからレポーターに画面が切り替わる。
 生中継らしい現場の様子が映し出される。
 あ、とエリザベスが小さく声を漏らした。
 見たことのある人物が画面上に出ている。確か、ここ数年で名前が知られるようになったインテリアデザイナーだった。フラッシュのたかれる中、彼が弁護士と思われる人物とともに建物の中に入っていく映像が流れた。
 興奮した様子で事の次第を告げるレポーターによれば、たった今、モーリス・プレイガーが、先日射殺死体で発見されたFBI捜査官、マイケル・リットマンの殺害容疑で逮捕されたという。
 本人は犯行を否定、詳細は今だ不明、どうやら犯行現場を捉えた写真があるらしい、といった基本的な情報が放送される。もっとも、マスコミのことだ。そう遠くないうちに必要以上の情報を提供してくれるだろう。
 テレビに流れる映像を見ながら、そういえば、とエリザベスは過去の記憶を思い返した。
 モーリスの過去についてはいろいろと噂がたっている。証拠がないために有耶無耶にされているが、それでも何回か大衆紙などの記事に取り上げられたことがあった。それが本当だとすれば、今回の一件もあるいは何かしらの組織と関係があるのかもしれない。
 ゆっくりと思考をめぐらせながら、エリザベスはそっとウォレンの様子を窺った。
 無駄な感情が一切省かれ、冷静な表情でニュースから情報を得ている。
 アナウンサーが同じ話を繰り返すようになり、ようやくウォレンがテレビから目を離した。
 張り詰めていた空気が緩やかに動き出す感触を肌に受け、エリザベスは小さく息を吸って言葉を発する許可を求めた。無言のサインを読み取り、ウォレンが顔を上げてエリザベスを見る。
「知っているの?」
 エリザベスはテレビの画面上にリピートされている映像を指しながら尋ねた。
「ああ」
 短く肯定して、ウォレンは続ける。
「いろいろと世話になったことがあってね」
 その言葉を聞き、エリザベスが小さく驚きの声を上げる。
 同時に、モーリスに関する雑誌の記事があながち嘘ではないのでは、と思った。
「……殺人の容疑、そんな人には見えないけど――」
 何かしらに絡んでいそうな様子ではあるが、彼の雰囲気は殺人という行為に結びつかない。
 エリザベスの言葉に同意するように、ウォレンが小さく頷く。
「無実だ」
 強く断定し、ウォレンは携帯電話を取り出した。
 その小さな電子機器を使用する前に、エリザベスに向き直る。
「……えーっと、いいかな?」
 外に出る仕草を見せながら遠慮がちに切り出した。
「ええ。構わないわ」
 エリザベスの了承を得て、ありがとう、と小さく呟くとウォレンは席を立ち、上着を手に取った。
 見送るため、エリザベスも玄関へ向かう彼の後に続いた。
 ドアノブに触れながらウォレンが振り返る。
「コーヒーありがとう。おいしかった。あと、また漏水したときのために工具は預けておく」
 エリザベスは、分かったわ、と呟き、少し間をおいて口を開いた。
「……彼、無実が証明されるといいわね」
 その言葉に難しそうな顔をしながら、ああ、とウォレンは同意した。
「それじゃ」
 言いながらウォレンはドアを開ける。
「ええ、気をつけて」
 入り込む外の空気を感じながらエリザベスは告げた。
 遠ざかる足音はドアが閉まると同時に聞こえなくなった。
 室内に戻れば、次の話題に移ったテレビ画面をよそに、一連のニュースの名残が空気の中に散在していた。
 席に着き、エリザベスは白いコーヒーカップを手に取る。
 まだ温かみの残るそれから、時間がさほど経っていないことに気づく。
 窓を見れば、そこから春先の朝の光が差し込んできていた。


 エリザベスの部屋を去った後、駆け足で車へ向かいながら、ウォレンは携帯電話の番号を押した。急いでいるときには、やはり番号は短縮でダイヤルできるようにしておくべきだと感じる。
 呼び出し音を左耳に受けながら、車のドアを開け、運転席に滑り込む。
 エンジンをかけるために鍵を挿しこんだとき、相手が電話に出た。人ごみにいるのか、様々な音が同時に聞こえてくる。
『はいよ』
 呑気なアレックスの声と対照的に、ウォレンは短く切り出す。
「ニュース見たか?」
『なんの?』
「モーリスだ。逮捕された」
『あー、もう?』
 アレックスの反応に、ウォレンはキーを回してエンジンをかけるのを止め、怪訝な表情をする。
「『もう』? 知っていたのか?」
『いやぁ、昨日あいつから呼ばれて話は聞いてはいたんだが、まさか昨日の今日とはね。あちらさんは行動が早いねぇ』
 スピーカー越しに聞こえる感心したようなアレックスの言葉を肯定も否定もせず、ウォレンは体を起こした。
「昨日?」
『そ。昨日の夜。丁度、バーで解散した後だな。まぁ、ほとんど今日に近いけど』
「なんで知らせてくれなかった?」
『だってお前、今朝に修理の出張があったろう? ん?』
 そこは気を遣ってやらないといけないだろう、と言外に恩を着せるような口調でアレックスは答えた。
 いつものパターンを察知し、ウォレンは軽く頭に手をやる。
「……アレックス、からかわれている暇はない」
『なんだ、からかわれたいのか? お前も変なシュミ持っているなぁ』
 アレックスの切り返しに、もう少し慎重に言葉を選ぶべきだった、と後悔すると同時に、何を言っても結果は同じだったろう、と諦めも生じる。
 疲労を緩和するために大きくため息をつき、これ以上それを増幅させないためにアレックスに告げる。
「あんたに連絡した俺が間違っていた。切るぞ」
 耳から携帯電話を離せば受話部から、待て待て待て、と声が聞こえてくる。
 ゆっくりと、再び携帯電話を定位置に戻した。
「……なんだ」
『怒るなよ、子供じゃないんだから』
 どっちが子供だ、とウォレンが反論をする前にアレックスが続ける。
『昼過ぎあたりに連絡しようと思っていたんだが、意外にも早く事が展開したからな。とりあえず、俺は写真を偽造した人間を探している。今のところ候補が多くて困っているが、数時間でもう少し絞りこめそうだ』
 話を聞きながら、ウォレンの脳裏に先ほど流れていたニュースが凝縮されて再生される。
「偽造か。そいつが全部仕組んだのか?」
『いや、依頼されただけだろう。後ろには別の人間がいるはずだ』
 アレックスの言葉に、ウォレンは記憶を辿り、思考をめぐらす。
「……ヒラーか?」
『モーリスも同じ人物を疑っていたよ。そして俺もだ』
「刑務所で頭冷やしてきたと思ったんだがな」
『あれ、お前知ってたの?』 
「何を?」
『あいつが出所したってこと』
「ああ、カーティスから聞いたから」
 電話越しに、ああそう、とどこか寂しげな雰囲気が伝わってきて、ウォレンは怪訝な表情をした。
「何だ?」
『んにゃ別に。とりあえず、意見は一致したね』
 多数決により、証拠も何もないがヒラーが関わっていることは間違いなさそうだ。
「個人的な恨みにしては大袈裟だな。ついでにカイルの組織のほうにも圧力をかける気か」
『だろうね』
 しばらくの間、静寂が訪れる。
 このところ大きな動きなく比較的平穏な状態が続いていたのだが、どうやらそれも終わりらしい。
 フロントガラス越しに差し込んでくる日の光を遮るように、カワラバトが一羽、上空を過ぎった。
 そのかすかな羽音が静けさに終止符を打つ。
「……他に俺が知っておいた方がいいことはあるか?」
『んにゃ。残念ながら、今のところ大した情報は持ち合わせていないから』
「悠長だな」
 言いながらウォレンは鍵を回し、エンジンをかける。
 静かな空間に粗雑な低音が入り込む。
『言うねぇ。ま、俺はこのまま偽造した奴を探すよ。とりあえず正午に一度落ち合うか』
「分かった」
『お前はこれからどうするんだ?』
 問われてウォレンが車の外に視線をやる。
 カイル関係でよく連絡を取っている相手は現在州外に出ているため詳細どころか話もまだ伝わっていない可能性がある。
「直接カイルに会ってくる。ヒラーが関わっているとしたら、何か掴んでいるかもしれないからな」
 なるほどね、とアレックスは呟いた。
『じゃ、伝言頼むよ』
「伝言?」
『人生笑いが必要だ、って』
 しみじみとした口調のアレックスに、ウォレンは無言の疑問を返した。
『だってあいつ俺の冗談に全く笑ってくれないんだよ? こんなに冴えてい――』
「切るぞ」
 アレックスが冗長な演説に突入する前に、言葉を遮りウォレンは通話を遮断した。切る直前に何か聞こえた気もするが、いつも通り、気のせい、ということにしておいた。
 ハンドルに手をかければ、日光で温かくなったその感触が伝わってくる。
 サイドブレーキを下げ、アクセルを踏み、ウォレンはモーリスの後任として組織を動かしているカイル・ランダースの元へ車を走らせた。


 不通を知らせる音を耳にしながらアレックスは吸っていたタバコの灰を灰皿に落とすと、携帯電話をポケットにしまった。
「……冷たいやつだなぁ」
 誰に言うでもなく一言漏らすと、最後の一服を深々と吸い、タバコを灰皿に押し付ける。
 斜め上に設置されているテレビを一瞥し、アレックスは朝食の代金をカウンターの上に置いた。
 混雑のピークは過ぎたとはいえ、店内にいる人の数は多かった。
 ざわざわとした会話の間をすり抜け、外に出る。
 穏やかな日差しを受けながら、アレックスはその光に目を細めた。
 道路を滑る車の走行音に混じり、先ほど朝食を取りながら見たニュースの内容が耳の奥に流れる。
(……心配しているようには見えなかったね)
 弁護士に付き添われ、建物に入る姿は、清々しいまでに堂々としていた。
(変わってないなぁ)
 ひとつ小さく息をつき、アレックスは行き交う人の中に溶け込んだ。
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