IN THIS CITY

第2話 People Person

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06 Explosion

 食料品店を出てアパートへと一歩踏み進めた瞬間、凄まじい轟音が波となって襲ってきた。
 ジョンは思わず目をつむり、反射的に腕を目の前に持ってきた。
 そのはずみで購入した品物が地面にどさっと落ち、風と塵が頬をかすめる。
 やがて大きな音が収まり、それによって消されていた音が活動し始める。
 何かが燃える音、人々の叫び声、時折聞こえる落下物の音。
 ジョンはゆっくりと目を開けた。
 建物に遮られ視界がきかないが、その建物の後方からもくもくと立ち昇る煙の上層部が見えた。
(……爆発?)
 そう思うと同時に不安が足元から頭上まで一気に駆け上がった。
 煙の見える位置は表通りから少し入ったところ。
 間違いなく、自分のアパートの付近。
「……まさか……」
 そうであってくれないでくれという希望と、確証のない、だが確実な絶望がジョンの頭の中で絡みあう。
 無意識的に動き出す足はぎこちなく、躓きそうになりながらも煙の姿を目から離さずにジョンは走り出した。
 指数関数的に呼吸が荒くなり、それに比例して周囲の音が遠くなる。
 アパートからの煙であろうそれ以外は視界から消えていく。
 呆然と道路に立ち煙を眺めている人々にぶつかるが、そんなことは気にしていられなかった。
(……ジャックが――)
 先に着いているはずだ。
 まさか、が繰り返し繰り返し頭をよぎる。
 頼むよ頼むよ、と誰に請うでもなくジョンの口から単語が漏れる。
 食料品店からアパートまでの距離はこれほど遠いものだったろうか、ジョンにはかなり長い時間が経過していたように思えた。
 ようやく辿り着いた路地の入り口には既に人だかりが出来ていた。
 どうしたんだ、炎がでているぞ、2階からだ、消防車を呼べ、何があったんだ、警察を、火事か。
 ざわめく周囲の言葉が耳に入ってくるが、今のジョンはそれを意識的に理解するのは不可能だった。
 震えるかすかな声で通り道を作ってもらい、人ごみの最前列に歩み出る。
 路地の中ほどの十字路の角に、自分のアパートが建っていた。
「……ああ、何てこった……」
 上げた視線の先に見えたものは、炎をちらつかせながらもくもくと上空に消えていく黒い煙。太陽光に照らされ、異様な明暗を見せながら勢いよく伸びている姿。背景の澄んだ青い空は皮肉なほどにそれを強調していた。アパートの2階から上の部分はその煙のせいで見ることができない。
 共同の玄関口からは少ない住人が慌てたように外に駆け出してくる。
 その中にジャックの姿を探すが、見つけることなく人の出入りが止まった。
 周辺の人ごみに目をやる。路地の北側の人垣にも、今いる側にも彼の姿は見当たらない。
 様々なものが焼ける匂いが風に乗って運ばれてくる。
 ジョンはアパートに視線を戻した。
 依然として衰えることなく煙が排出されている。
 友人はまだ、中にいる。
 助け出さなければ、という意識が体を動かし、アパートに近づこうとして一歩足を踏み出す。
「あ、おい、危ないぞ、下がって」
 隣に立っていた見知らぬ男性がジョンを制止する。
「……あ、……いや、でも、あの中に、友人が――」
 そう告げたときに再び爆発音が轟いた。
 身をかばうように頭を下げ、腕で顔を覆う。人ごみから悲鳴が上がり、人垣が全体的に数歩後退する。
 コンクリートの破片がくすぶりと共に落下してきた。
「……ああ……」
 ふらっと前に進み出るジョンを男性が引き止めた。
「君の友達の部屋なのか? でも今行ったらだめだ、炎に巻き込まれるぞ」
「そうだ、中に入るのは無理だ。じきに消防士がくるから彼らに任せよう」
 親切な人々がジョンに励ましの言葉を送る。
 呆然とその言葉を耳に入れながら、再びジョンは1階の入り口に視線を移した。誰かが出てくる気配は全くない。
「……なんてこった……」
 パニックに陥る頭を小刻みに震える両手で抱え込んだ。
 ジョンの中で言葉にならない疑問がぐるぐると渦巻いていた。


 路地裏の古びたアパートの中。
 安いソファの上でまどろみかけていた時だった。
 最初の爆発音が聞こえ、窓がビリビリと振動した。
(やっと帰ってきやがったか)
 デリックはその音を聞くや、素早くソファから起き上がると窓際へ向かい、ブラインドの隙間から外の様子を窺った。
 雨風にさらされ手入れもされていない曇ったガラス窓の向こう、通りを挟み、南側の斜め前方のアパートから炎が上がっている。
(ったくどこほっつき歩いていやがった)
 数日前にジョンのアパートに侵入し、彼が居間に入った時に爆発するよう爆弾を仕掛けておいた。配管や導線といった代物を彼の部屋に置き、爆弾を製造中に誤って爆発を起こした、そういうシナリオを用意したのだ。
 その『事故死』を見届けるために近くのアパートに忍び込み、ジョンの帰宅を待っていたのだが、日が暮れても明けても彼が帰ってくる気配はなかった。
 音沙汰のない日々が過ぎ、苛立ちが募り、しびれを切らす寸前の今日、見事に火の手が上がった。
(これでやっとこの部屋ともおさらばできるぜ)
 デリックは軽く笑うと野次馬に混じって様子を見るために、埃っぽい部屋を後にした。
 階段を下りる足音は雑音と重なりいつもよりも小さく聞こえる。
 何気ない様子でアパートを出ると、デリックは路地の北側の人垣に紛れ込んだ。煙を吐くアパートを裏側から見る形である。その黒い煙は太陽を隠すように立ち昇っている。黒い靄の合間から時折見える太陽は不気味なほどに白かった。
 広く視界をとり、人々の様子を窺う。カメラで炎上するアパートの写真を撮る者、爆発の原因をあれこれと探り合う者、携帯電話で知人に連絡を取り現状を報告する者。
「……死人がでていないといいんだけどなぁ」
「でもあれだけの炎だぜ? 中にいたらひとたまりもないや」
 ぼそぼそと交わされる会話を耳に入れながら、デリックは炎上の光景をまじまじと眺めた。
 小規模ながらも予告なしに再び爆発が起こり、周囲の人間が一層ざわめく。
 周りにつられるようにデリックも一歩後退し、腕で顔を庇った。
 少し派手にやりすぎたかな、と苦笑を漏らすが彼自身は一連の騒動を楽しんでいた。
(しっかし人間、野次馬根性だけはすげぇなぁ)
 他人事は安心して見ていられるモンだな、と辺りを見回しながら、軽く口元を歪める。
 何はともあれ、仕事は片付けた。
 これでそれなりの金額を稼ぐことができた。しばらくは景気よく気楽な生活を楽しめそうである。
(さて、おさらばするか)
 現場を去る前に、南に位置する表通り側の人垣に何気なく視線をやった時だった。
 ふと、デリックの表情が緊張したものに変わる。
 おい嘘だろ、と彼の口から思わず声が漏れそうになった。
 無理もない。彼の視線の先に、先ほどの連なる爆発で確実に仕留めたと思っていた獲物が立っていたからだ。
(……まさか……あの中を逃げたのか?)
 嫌な汗が手を濡らす。
 デリックは依然として煙を排出するアパートを見上げた。
(いや、無理だ。あの爆発から逃れることはまずできねぇ)
 再び視線をジョンに戻す。
 幽霊か、と非現実的な考えが頭を過ぎる。
 しかし両隣の人に何か言葉をもらう彼は、そうであるわけでも幻覚であるわけでもなかった。
 つい先ほど死んだはずの人間が外にいる。
 デリックにとっては不可解な事実が、彼の頭を混乱させた。
 誤爆したのだろうか。何かが勝手にスイッチを入れたのだろうか。様々な疑問が頭を過ぎるが、最終的にひとつの結論が導き出される。
 生きている以上、殺さなければならない。
 既に数日分、後れをとっている。
(……事故死に見せかけるのは、難しいな)
 周囲に聞こえないように悪態をつき、デリックはジョンを睨み据えた。


 表通り。
 いつもならば流動的である人の流れが滞り、一箇所に収束している。
 騒ぎに関心を持った車が停車し、それに対する非難のクラクションが鳴り響く。
 ウォレンとアレックスは雑然と騒ぎ立った道路わきをすり抜けた。
 先ほどよりも小さいが、再び爆発音が聞こえ、人がざわめく。
 一度ならず二度も聞こえたその音に、より多くの人間が好奇心を持ち、その足を止める。
 人々の意識が一点に集中しているとはいえ、動きのない空間であまり急いでは目立ってしまう。
 適度な速度を保ちつつ、通りすがりを装って2人は野次馬の後ろについた。
「……あらら、ひどいなぁ」
 太陽とは反対方向にアパートはあるのだが、アレックスは目の上に手をやって眩しそうに眺めた。
 黒い煙が一際存在感を誇示し、時折内部に炎をちらつかせながら上空へ急いでいた。
「ジョンのアパートだな」
「だねぇ」
 脳裏に先ほどの資料の地図を描き、位置を確認する。間違いなかった。
「……事故、か」
 呟かれたウォレンの言葉に同意するようにアレックスは頷くと手を下ろした。
「偶然を装った、ね」
 遠くから消防のサイレンが響いてくる。それに混じってパトカーと救急車の音が聞こえてきた。
「……先手を打たれたな」
「参ったねぇ」
 困り顔でアレックスは頭をかくと、言葉を続けた。
「しかしあちらさん、俺達よりも時間があったはずなのに、やけに遅い先手じゃあないか」
 ウォレンが隣で軽く同意の単語を呟く。
 一呼吸置き、何気ない動きで2人は周囲を見回した。
 ほぼ全員がアパートに関心を抱く中、意識が別の方向へ向かっている人間が目立って見える。
「……向かい側の人垣の右後方」
 注意深く、しかし自然な動作で視線を移動させながらウォレンが呟く。
「あ、ほんとだ。え~っと……」
 顔は覚えているんだけどねぇ、とアレックスは先ほどの資料を思い出す。
「デリック」
 隣でウォレンが小さな助け舟を出した。ああそうそう、とアレックスが呟く。
「女性の名前なら絶対に忘れないんだけどね」
「へぇ」
 ウォレンは冷たく相槌を打った。
「あちらさん、何だか怖い表情してるよ」
 言いながらアレックスはデリックの視線の先を確認する。彼の目は、アレックスやウォレンのいる側の人垣の先頭に向けられていた。
「……こっちの最前列に誰かいるようだね」
 アレックスが前方に注意を払い、一通り周囲を見回したウォレンもそれに倣った。
 次第に大きくなってきたサイレンが一段と音量を上げた。救急車が角を曲がり、それまで建物に遮られていた音が直接聞こえるようになったのだろう。
 同時にその音の方向へ人々が視線を移す。
 あ、とウォレンとアレックスが同時に声もなく驚いた。
 動く人垣で見え隠れするが、振り返った人間の中に見覚えのある顔があった。
「よかったな、生きているぞ」
 ウォレンの言葉に、そうだねぇ、とアレックスが呟く。
 後方が騒がしくなり、サイレンの音がひとつ止まった。
 消防車が到着したらしく、道を開けるように促す隊員の声が聞こえてくる。
 デリックよりも先に彼を確保しなければ、と2人が人ごみに分け入ろうとした時だった。
 振り返っていたジョンが視線を戻し、前方を見た。
 彼の後姿が硬直する。
 その更に前方で、まずい、という表情をしたデリックが人垣の中ほどに立っていた。
 再び、ジョンが後ろを振り返った。
 だが、そこは人で埋められており、とても通れるような状況ではない。
 一瞬の躊躇の後、ジョンが意外にも速い速度で駆け始めた。
 最前列にいた彼の目の前には人がいない。
 人垣の間を縫うよりも、前に出たほうが速いと判断したのだろう。
 野次馬陣の視線がジョンに集まる中、彼は十字路を右手に曲がり、アパートとは反対側へと消えていった。
 北側の人ごみを強引に掻き分けるようにデリックが飛び出し、同じく十字路を東へ曲がって行った。
 奇妙な行動をとった2人に対してざわめきが一層強まる中、ウォレンとアレックスは表通りの方から東へと駆け出した。


 鼓動が速まる。
 混乱する頭でも、身に迫る危険を察知することは可能らしい。
 ジョンは無我夢中で細い路地を駆けていた。
 振り返った先に立っていた男、彼の顔には見覚えがあった。
 数日前、偽装したデータを受け渡したとき、相手方の2人の男の片割れは確かに彼だった。もう1人の顔は覚えていない。ただ、今後ろから追ってきている男の顔だけは危険信号を伴った印象として頭に残っていた。
 殺意、というには大仰すぎるだろうか、しかしあの時の彼の目には不気味な光が宿っていた。
(間違いない、あいつだ)
 腕と足を懸命に動かし、ジョンは慢性的な運動不足の体を叱咤しながら走り続けた。
 何故ここに彼が、という疑問に対する答えは瞬時には出てこなかったが、直感的に爆発の原因にその男が関わっているということだけは分かった。
(やっぱりあの時も俺を殺そうとしたんだ)
 ぞっとする背中に形のない圧力がかかる。
 先日は大事をとって比較的人の多いところで取引を行った。
 気味悪い雰囲気に少なからずの不安を感じたジョンは、ケースに入った大金を受け取ると大勢の人間に囲まれるようにあの場を後にした。人ごみの中ならば襲われないと思ったからだ。
 ケースを抱き、何度も後方を確認し、尾行されていないことも確かめた。
 その後何も音沙汰がなかったので、思い過ごしだった、ということにしていたのだが。
(部屋に、仕掛けていたんだ)
 大金を持ったままアパートに帰っていれば、数日前にジョン自身が爆発に巻き込まれていたかもしれない。大きな作業のあとは『別荘』にしばらく滞在する習慣のあったジョンだ、その習慣が彼の命をここまで永らえさせたのだろう。
 だが、代わりにジャックが命を落としてしまった。
 そして、まさに今。
(……殺される)
 同じ言葉が繰り返し繰り返し頭の中で渦を巻く。
 逃げなければ、殺される。
 目と目が合ったときに感じた恐怖は紛れもなく死に対するものであった。
 自分の荒い呼吸音と速い鼓動が聴覚の機能を低下させる。
 聞こえてくる足音が誰のものなのか、そしてどこから来ているものなのか判別ができなくなる。
 不安に急き立てられるようにジョンは走りながら後方を見た。
 まだ距離はあるが、あの男が追いかけてくる姿が揺れ動く視界に入ってくる。
「……ひっ」
 一瞬にして重苦しい恐怖がジョンに覆いかぶさった。
 彼の神経系統が乱れ、足の動きにぎこちなさが現れる。
 躓きそうになり反射的に手を伸ばす。掴んだ路傍のがらくたを道端に放り、もたつく足を諌めてジョンは再び走り始めた。
 がらがらと崩れるがらくたの音が後ろから伝わってくるが、その音はジョンの耳には入るものの、情報として脳に到達することはなかった。
 路地が別の路地と交差し、ジョンは無意識的に左に曲がった。
 切れる息は荒々しく、呼吸困難に陥るかと思うくらいだった。
(……なんで、こんなことに……)
 どこをどう走っているのかも、どのくらいの時間が経っているのかも分からない。
 心の中で絶望を叫びながら、それでもジョンは死神から逃れるために必死に駆けた。
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