IN THIS CITY

第2話 People Person

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10 Who Chases Who

 前方の十字路を左から右へ、一台の車がゆっくりと通過した。
 半歩先を行くジョンの後ろから、リンはその姿を確認した。
 助手席に座っていた男がこちらを振り向く。
 彼の目が2人を捉え、その視線がリンの足を止めた。
 立ち止まったリンをジョンが振り返る間に車は進み、その前半分が建物の影に隠れたところで停車した。
「何?」
 発せられたジョンの疑問の声の後ろで、先ほどの車が唸る音と共に急激にバックをする。
「――まずい」
 危険を察知すると短い単語を吐き、リンはジョンに車を確認する時間を与えずその腕を引っ張った。
 方向転換をして今まで歩いてきた路地を走り戻る。
 遠くからではあったが、助手席にいた男が携帯電話を持っていたのを確認できた。
 仲間と連絡をとっていたに違いなかった。
 急がなければ、捕まる。
「走って!」
 後方からブレーキ音が上空を覆うように聞こえ、間をおかず加速するエンジン音が地面を這うように襲ってくる。
 走りながらジョンは後ろを振り返った。
 順調に速度を上げてこちらへ向かってくる黒いバンが目に入る。
 状況に加えて路地が狭い分、脳はその大きさを誇張して認識する。
「何人いるんだよ」
 辟易した口調でジョンが呟く。それに追い討ちをかけるようにリンが口を開いた。
「少なくとももう1人」
 進路を絶つ形で行く先に男が現れる。
 ジョンとリンの姿を確認するや否や、彼が素早く拳銃を構えた。
「動くな!」
 彼の一喝にまずジョンが止まり、続いてリンも足を止め、反射的に手を上げる。その間にも近づいてきていたバンが背後で速度を急激に落とす。
 振り向けば、車が完全に止まるよりも早く助手席から男が降りようとしていた。バンとの距離はその中にいる人の顔を認識するには十分だった。
 あっとジョンが小さく声を上げる。
 助手席の男は、最初にジョンを追いかけてきた彼、デリックに間違いなかった。バンの部品が邪魔をして確認できないが、おそらく彼の手にも殺傷能力の高い武器が握られていることだろう。
 時間がない。
 リンは視線を戻し、銃口をこちらに向けながら近づいてきた男を見た。
 距離は、十分に近い。
 銃口は、額を狙っている。
 躊躇する暇すら持たず、リンは姿勢を低くすると地面を蹴った。
 突然のリンの行動に驚く男の前で、リンは勢いをつけた右手で彼の手首を掴むと間髪入れずにそれを捻り上げた。
「マーク!」
 デリックの声とともにマークと呼ばれた男から鈍いうめき声が聞こえ、拳銃を握っていた彼の手の力が弱まった。その隙を逃さず銃を奪い取り、リンは彼の膝を後ろから蹴り下げた。支点を失い、マークが地面に膝をつく。
「ジョン!」
 リンは振り返りがてらに、数秒の出来事に呆然としているジョンの名前を呼んだ。
 彼の後ろに、助手席から降りてきたデリックと停車するバンの姿が見える。
 考える間もなくリンは片手に握っている拳銃をデリックに向けた。
 異様な負荷。
 手にしただけで、何かに染められていくような……――
「走って!」
 恐ろしい概念を払いのけるように、リンは凍りついたように立ち止まっているジョンに鋭い一言を放った。
「……でも――」
「早く!」
 まだ何か言いたげなジョンの背中を押し、逃げるよう促すと、リンは想像以上に重い拳銃を両手で支えた。
 ぎこちない足音で去っていくジョンの気配を察しながら、手のひらを走る血の流れを感じる。
 鼓動が速いのは急激な運動のせいではない。
 重たい。
 見たことないわけでも触れたことないわけでもないが、今手の中にあるものはその存在だけで立場を逆転させることができる代物だった。
 使用方法をあれこれと考える暇はない。
 引き金に、指をかける。
 しかし、引いてはだめだ。
 引けば、相手が傷つき、時には死亡してしまう。
 人の命すら左右する凶器を手にしながら、リンはきっと前を見据えた。
 引き金は引かない。ただ、相手の動きさえ封じられればそれでいい。
 マークはリンに捻り上げられた右腕を押さえており、バンの運転席の男は苛立った面立ちでリンを凝視していた。この2人はまず急には動けないだろう。
 問題は顔見知りの男だった。先ほどリンにしてやられたことも気に障っているのだろう、デリックは明らかな敵意をむき出し、その手にはやはり拳銃が握られていた。
「武器を、こっちに」
 銃口をデリックに固定し、リンは努めて厳しい口調で告げた。
 普段から温厚な性格をしている彼である。声を低くしたつもりであったが、その口調からは迫力は感じられなかった。
 それでも手にしている拳銃が功を奏したのか、デリックは苦い顔つきをすると小さく悪態をついた。
 一瞬、拳銃を投げ渡そうとした彼が、その動きを止める。
 疑問に思うリンの先で、デリックが口元を歪めた。
 怪訝な表情でリンがデリックを見た時。
「武器を下ろせ」
 不意に背後から声が聞こえた。
 その声に異質なものを感じ、リンはその方向を振り返った。
 ジョンに銃口を突きつけた男が、静かに、落ち着き払った様子で立っていた。
 素人目に見ても、彼が非常に危険な人物であることはすぐに分かった。
 無言の圧力に、その場から動くことができない。
 同時に、デリックが拳銃を構えたのがリンの視界の隅に入る。
「捨てろ」
 再び男が告げた。
 人質をとられてしまってはどうしようもない、リンは腕の力を抜くと腰を屈め、手にしていた拳銃を丁寧に地面の上に置いた。
「下がれ」
 言われるままに壁際へ数歩後退する。
 同時に、銃を構えたままのデリックが前進し、リンが置いた拳銃を手に取ると元の所有者であるマークに向かって無造作に放った。
 未だ腕が痛むのだろう、彼は左手と胴体を使って拳銃を受け取るとゆっくりと立ち上がり、利き腕ではないほうでそれを握った。
 デリックがリンに向き直り、その手に力が入る。
「……ッのヤロウ!」
 恨みを込めた一撃を、拳銃の台尻を媒介としてリンに振り下ろす。
 リンは反射的に躱したが、攻撃の力の全てを無効にすることはできなかった。
 激痛が右頬を走り、瞬時に脳に振動が伝わる。
 衝撃でよろめき、後方の建物の壁にぶつかるとリンはバランスを崩して膝を折った。
 ジョンが何か叫ぶ声が聞こえてくる。
 彼の身を案じる暇もなく追撃が加わり、後頭部を殴られる。
 鈍い感触が視界を揺らし、引き際の波のように白くなっていく。その空白に溶け込むように、意識が遠のいていった。
 地面に倒れこむリンを見下ろす形で、デリックは真上から拳銃を構えた。
「待て」
 リンに対して引き金を引こうとしたデリックに、ジョンを確保している男が制止の言葉を放った。
 銃口はリンを狙ったまま、デリックは顔だけを彼に向ける。
「けどよ、ケヴィン。こいつも――」
「ここでは殺すな。始末が面倒だ」
 デリックの主張を遮り、反論を許さない口調で告げるとケヴィンは手を振り上げた。
 その手を振り下ろし、こともなげにジョンを気絶せしめ、手荒く彼を抱え上げる。
「行くぞ」
 バンの運転手に向かって一言告げるとケヴィンは右腕を負傷している男に視線をやった。
 彼に睨まれたマークが緊張した面持ちになる。
 一瞬の沈黙がその場の気温を低下させる。
「手こずらせるな」
 冷たく一言を放つと、ケヴィンは足を動かし始めた。
 ふ、と彼以外の全員が安心したような息をつく。
 とりわけ、右腕を痛めているマークの安堵の気持ちが強かったらしい。目を閉じ、彼は天を仰ぐと今まだ生あることを神に感謝した。
 そのような空気を完全に無視し、ケヴィンはバンへ向かった。
 途中、彼が後方に視線をやる。
 その先には穏やかな昼下がりの路地裏が、建物の間を縫って続いていた。
 遠くから若者が戯れる声が聞こえ、近くの建物の屋根付近ではイエスズメが鳴いている。
 和やかな雰囲気を感じ取ることなく、ケヴィンは無言のまましばらくの間、辺りの様子を窺っていた。
 目撃者がいるような気配はない。
 尾行されているかと思ったが、そのような様子も今は感じ取れない。
 気のせいか、と思いつつも険しい表情は崩さなかった。
「ケヴィン?」
 リンをバンに入れたデリックが助手席のドアに手をかけながら名前を呼んだ。
 返事をせずにケヴィンは振り返ると、ジョンをバンに運んだ。
「人気のないところへ連れて行け。そこで始末する」
 彼の注文に了解の返事をすると、デリックは気づかれないよう小さくため息をついた。
 全員が乗り込み、バタンとドアの閉まる音が短く響く。
 黒いその屋根が太陽の光を受けて鈍く光る。
 エンジンの音が路地から完璧に過ぎ去った後は、何事もなかったかのように春先の空気が周囲を包み込んだ。


 信号待ちの時間、乗車中の車の走行音が消え、エンジンの稼動する音だけが車内に入り込む。
 方向指示器の定期的な音が、協和しているのかしていないのか、それに加わっていた。
 信号の色が緑に変わり、周囲の景色が動き出す。
 張り詰められた空気が充満する中、デリックは息苦しそうに眉をしかめると外を一瞥した。
 郊外に向かうハイウェイに乗りさえすれば、時間が過ぎるのも速く感じるだろう。
 動き出す感触を座席越しに確かめ、この長い無言の空間を作っている元凶の人物をバックミラー越しに見た。
 無愛想を通り越して無表情なケヴィンは、車内の空気を気にすることなく目を閉じている。
 瞑想でもしているのだろうか、声をかけづらい上に、車内での会話すら許されないような雰囲気である。
 詰まっていた息を吐き出し、デリックは隣で運転をしているジョエルを見た。
 彼もまた、ピリピリとした空気を感じ取っているらしく、前方に注意を払いながら、軽くデリックに視線をやるとそっと肩を竦めて見せた。
 前の座席ですらこれだ。ケヴィンの隣に座っているマークなどはもっと緊張しているに違いない。
 彼の姿をそれとなく確認すれば、痛めた右腕をさすり、肩に力の入った様子で外を見やっている。
 やれやれ、と苦笑交じりにデリックが首を振った。
 ケヴィンとは親しいわけでもないが面識がないわけでもない。
 仕事の関係上何度か顔を合わせる機会があったが、彼は専ら1人で行動するため深く関わることはなかった。
 久しく姿を見かけていなかったが他所で仕事でもしていたのだろう。
 先ほどの路地で突然現れたのには驚いたが、恐らくジョン・マーティンの始末にてこずっている様子を見かねて、ヒラーがケヴィンに応援を頼んだのだろう。
 デリックはひとつ小さく息をついた。
 仕事が遅れたことに対しての引け目も感じているが、何よりもこのケヴィンという男が苦手である。愛想のない上に何を考えているのか見当がつかない。
 はっきりと言ってしまえば、非情な男だ。
 郊外にあるアジトに着き次第、さっさと仕事を済ませ、ケヴィンとさよならをする。
 嫌な汗をかきそうな雰囲気の中、デリックは窓の外に目をやった。
 刻々と変化する外の景色に反して、車内はずっと会話がない。
 どれほどの時間が経っただろうか、外の景色を占める人工物の割合が格段に減り、それに代わって芽吹く日を待つ樹木の群れがアスファルトの道の横に広がるようになっていた。
「尾行はないだろうな」
 長い間の沈黙を破ったのは、それを作っていた張本人であった。
 驚いたデリックの心臓は、他の3人と同様に心筋梗塞がいかなるものかをおよそ体験したに違いない。
「……尾行?」
 緊張を隠すためにひとつ咳払いをし、デリックが質問を質問で返した。
 返答はなく、気まずい沈黙が訪れる。
「あー、ジョエル?」
 デリック自身もサイドミラーで右後方を確認しながら運転手であるジョエルにも確認をとる。
「……ないと思う」
「確かか?」
 確信のない返事を戒めるようにケヴィンが言った。
 口ごもるジョエルをよそ目に、デリックはサイドミラーで後ろの様子を確認した。
 郊外に出てからは車の台数も少なくなってきている。
 同じように分かれ道の本数も減っている。数台の車が同じ方向へ向かうのも仕方ないといえばそうなる。
「ないな」
 ジョエルよりも自信を持った口調でデリックが答える。
 それでもケヴィンは不満そうな沈黙を寄越した。
「なんだって尾行に気を遣うんだ? あいつはただのコンピュータ野郎だろ?」
 尾行などという重々しい行為をする人間がジョンの側にいるとは考えられない、とデリックが肩をすくめる。
 ケヴィンに対して異論を唱えた彼を、ジョエルとマークははらはらとした面持ちで一瞥した。
「勘だ」
 緊張が漂う空気の中、短い返答をするとケヴィンは窓の外を眺めた。
「勘、ってことは、あんたも100%確かじゃあないんだろ?」
 気にしすぎだ、と言外の意味を含めてデリックが言った。
 表には出さないが、ジョエルもマークも心の中で同意する。
「……そうだな」
 一言告げるとケヴィンはそれとなく窓の外に視線をやった。
 後方に4台。
 さすがに路地を出たときから同じ進路を辿っている車はない。それに全ての車が、距離は変動するものの郊外に出たときから一緒になって一本の道を走っている。
 不確かな何かを彼の第六感が感じ取っているが、デリックの言うとおり、気のせいである可能性も捨てきれない。
 視線を車内に戻し、ケヴィンは再び目を閉じた。
 何か、割り切れない。
 説明することは出来ないが、強いてするとすれば、長年の勘が何かを感じ取っている。
(ランダース側の人間か)
 ヒラーは、カイル側に目立った動きはない、と言っていた。
 確かに、数日前にケヴィンの後を尾けてきた男を始末して以来、静かなものだった。
 しかしケヴィンにしてみれば、そこが気に食わないのである。
(前線の人間を下げたか)
 モーリスとは違い、表立って組織を動かすことのないカイルの人相は依然として掴めていない。
 彼の部下は大体把握している、とヒラーは言うが、組織のトップですら霧の中だ。その下にもまた、顔の知られていない連中が多く存在するに違いない。
 甘い、とケヴィンはヒラーに対して舌打ちした。
 規模的には小さいものではあるが、カイルの組織は統率がとれている。動きにほとんど無駄がない。
 モーリスという男も、優れた采配を取っていた。そんな彼の後任に座った男だ、カイルもまた、上に立つものとして有能なのだろう。
 それに比べて、とケヴィンは表情を変えず難しい顔をした。
 刑期につく以前からどこか狂っているところのあったヒラーではあるが、刑務所を出て以来、更に拍車がかかったように思える。
 腕は悪くないのだが、このままではボルティモアやDC内での組織立った機能は低下するだろう。
(……しばらくは、様子をみるか)
 ヒラーの後ろに立つマフィアから派遣された身として、ケヴィンは静かに情勢を見守ることを決めた。
 だがその前に、このいざこざを片付けなければならない。
 目を開け、ケヴィンは道路沿いの雑木林に視線をやった。
 傾き始めた日が、樹木間の光と影の明暗の差をまばらに作り上げていた。
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