15 Opposite Direction
東の空は既に、夜に染まる支度を終えている。樹木の陰になりながらも、時折夕日を受けて伸びる車の影は長く前方に伸びていた。
疲れを認識し始めた体の力を抜き、リンは静かな走行音に浸りながら助手席に体重を預けていた。
滑らかな走り心地は、BMWであるからだろうか、それとも運転の主の腕がいいからだろうか。
ちら、と横目に運転席を見やれば、リラックスした様子でハンドルを操作するウォレンの姿があった。
これといって会話をするのを拒んでいる雰囲気もなく、それなりに運転に集中している彼は、傍から見れば、どうみても普通の人である。
車がカーブに差し掛かり、後方から車内に届いていた夕日の光が、雑然と生えている道路わきの枯れ木の群れによって遮られる。
車の中に落とされた影を区切りに、リンは視線を前方に戻した。
あまり観察しては、変な奴だと思われかねない。
しかし、そうせずにはいられない、理解しがたい人物が隣に座っている。
一連の言動から、政府機関の人間ではないことは見て取れた。かといって民間人とは考えにくい。恐らくは『その筋』に携わっている人間なのだろう。だが、想像するその世界の人間とは、纏っている空気が違った。一言で言えば、親しみやすい、だろうか。
運転している今のウォレンからは、誰も拳銃を片手に人と相対する彼の姿を想像できないだろう。
いろいろと思考を巡らせつつ、リンはふと先ほどの雑木林での彼の姿を思い出した。
全てを見ていたわけではない。しかし、ほんの少しの間彼の動きを見ただけでも、あのような状況に慣れていることだけは分かった。
穴に飛び込む寸前に見えた光景。
一瞬のためらいもなく引かれた引き金。
そして、彼の銃弾によって倒れた人影。
テレビを通して見る作り物とは違う、実際の映像。
脳裏に染み付いた画が、生々しさに深みを帯びてリンの視界によみがえる。
掻き消すように目を閉じ、リンは右手でそれを覆った。
「あいつらの死体が頭から離れないか?」
静寂を裂き、オブラートに包まれることなく言われた言葉に、弾かれたようにリンがウォレンを見る。
急激に増大した脈拍が、左腕の傷口を疼かせ聞こえぬ音を鳴らす。
前方を見ていたウォレンがリンを一瞥し、答えを聞こうとせずそのまま視線を戻した。
否定もできず、リンはぎこちなくウォレンから目を逸らした。緊張の走った体が固く感じられる。
何か答えるべきなのだろうが、言葉が口から出てこない。
過ぎる時が静寂を埋めるのを許すしかなかった。
「考えていることが顔に出ている」
付け加えられたウォレンの言葉に心の内の全てを悟られたように感じ、リンが気まずそうな表情をする。
それが顔に出たことが自分でも分かったのだろう、彼は慌てて窓の縁に右腕を乗せ、外を見、ウォレンに表情が読まれないよう取り繕った。
だが隠そうとすればするほどに、心情を相手に告げているようなものになる。
ウォレンはそんなリンを一瞥し、
「あんた、面白いまでに思考が挙動に出るな」
と半ば感心したように告げた。
まずった、というように顔をしかめ、リンは窓の外を見たままウォレンの様子を窺った。
それ以上何を追及するでもなく運転に集中しているようだが、リンが口を開けばそれに対して受け答えする用意はできているらしい。
その雰囲気に、発言することが楽になったのは事実だった。
リンは腕を窓の縁から下ろすと、フロントガラス越しに前方の道路に視線を移した。
「……銃撃戦なんて、初めてのことだったから……――」
軽く咳払いをし、言葉尻を切った。
「まぁ、普通は遭遇しないからな」
他人事のようにウォレンが呟いた。
重い気持ちを抱いているリンからしてみれば、それは非常に軽い言葉だった。心情を察してくれていたのではなかったのか、と反感を覚え、リンは敢えて、言わないでおこうと決めていた言葉を口にする。
「何も殺さなくても……――」
途中、語気が思いのほか責めるような空気を孕んでいることに気づき、リンは口を噤んだ。
気まずい雰囲気になるかと思えばそうはならず、一呼吸ほどの間を置いてウォレンが答える。
「そこまでの余裕はなかったんでね」
逆に何か切り返されると予想していたリンだったが、意外にも穏やかなウォレンの返答に、緊張の色を呈していた体から力を抜いた。
力は抜いたが、彼の言葉には納得がいかない。
反論をしようとしたところで、先にウォレンが口を開く。
「言い訳だと思うか?」
彼の一言に、リンは喉まで出掛かっていた言葉を呑み込む。
リンが婉曲的に言わんとしていたことを、先にウォレンが直接的に言った。
考えることが筒抜けになっているように感じられ、リンは一種の憎らしさをウォレンに覚えた。
「……仕方がなかった、って言いたいように聞こえるんだけど」
口調は皮肉めいていたが、それを気にする余裕はリンにはなかった。
ウォレンが何かを言いかけたとき、
「殺さなければ殺されてた、って言うんだろ?」
と、先ほどの仕返しではないが、先手を打ってリンが言い放った。
だが、ウォレンはそのようなことは気にしていないらしい。
「その通り」
迷うことなく素直に答えた彼に、リンは小さなことにも引っかかりを感じた自分自身に嫌気が差した。
彼自身、現在の己の感情の向くところが理解できていない。好戦的な自分の態度にも疑問を持ちつつ、リンは輪郭のない靄に巻かれているように感じ、それを払いのけるように小さくため息をついた。次いで、右手でこめかみを押さえる。
何かがおかしい。
定まらない感情の動きにようやく気づき、リンは少しでも冷静になろうと深く息を吸った。
どんな事態にでもパニックに陥らずに対応できると踏んでいたが、その自信は脆くも崩れた。
現にこうやって、人に対して妙に刺々しい態度をとってしまう。
「……ごめん、嫌味な態度だったかも」
異様な緊張を体験したことによる疲労のせいにしてしまえば、恐らくは楽になるだろう。だが、これ以上皮肉めいた言動をすることだけは避けたい。いずれ後悔することは目に見えている。
「気にするな」
呟かれたウォレンの一言は素っ気なかったが、リンはありがたさを感じた。
リンの中で幾重にも渦巻いている感情のことすら、彼は察しているのだろう。整理の出来ていないそれは、心の内に留めておくよりも吐き出してしまったほうが楽な場合が多く、またそのことによって整頓できるものだ。
小憎らしい、とリンは再び思ったが、それが言葉通りに発展することはなかった。
静寂が流れる。
しばらく続いた日陰の道に、車内の温度が幾分か下がったようだ。
リンはこめかみから手を放した。
感情は静的不安定な状態にあり、心の内だけに保持しておくのは難しい。
口を開こうとして、一瞬ためらう。
だが、ウォレンが聞いてくれるというのならそれに甘えてみてもいいだろう。
「……『殺さなければ殺される』」
ふと呟かれたリンの言葉に、ウォレンは、そうだ、と小さく肯定の返事をした。
それ以上の反応はなく、リンは再び口を開いた。
「……確かに、あの状況ではそうだった」
認めはするものの、やはり、彼の中で何かが引っかかっている。
リンは無言のままのウォレンを見た。
「でも、だからといって、殺人が容認されることにはならない」
「……だろうな」
否定するでもなくウォレンは呟いた。
しかしそれはリンの言葉を肯定するものでもなかった。
考え込むような顔をすると、リンは焦点を合わすでもなく、視線を前方に続く道路の先に向けた。
「……たとえ理由があっても、人を殺すのは許されることじゃない」
彼の口から漏れた言葉が、誰に対してのものでもないように感じられ、ウォレンは無言のままハンドルの操作を続けた。
「……間違っているよ」
返事が来ないと知ってか、リンが一言付け加えた。
開けた場所に出て、徐々に弱くなりつつある夕日が、カーブと共に左手から後方へ移動する。
閉じられた空間内の光の変化に連動するように、ウォレンがハンドルを握る位置を変える。
車内に拡散した言葉の余韻が消えるには十分な呼吸を置き、ウォレンは軽く息を吸った。
「言っていることは分かる」
その声に、リンはウォレンを見た。前方を見たままが、視界の端ではリンの動きを捉えているだろう。
告げられた言葉は、最初から反論することを避けたものかもしれないが、ただそのためだけに口にしたのでもなさそうである。
「――が、所詮は理想論だ。奴らには通用しない」
穏やかに切り出されたウォレンの言葉は、だが確固たる背景を備えているようだった。
彼の言葉に重みを感じはするが、リンの心は釈然としない。
きれいごとが通じない世界であるだろうことは分かっている。分かってはいるが、実際にそうであることを認められず、また認めたくもなかった。
「でも、罪は罪だ」
「かもな」
「逃げられるものじゃない」
リンの一言に、しばらくの間を置いた後、ウォレンは再び、かもな、と呟いた。
「重ねるごとに、枷は重くなっていく」
同意とも相槌とも取れるウォレンの短い声を聞いた後、リンは続けた。
「まだ戻れる内に、償うべきだ」
「……なるほどね」
結論に至ったリンの言葉に対して一言そう呟くと、ウォレンは左手の側面をハンドルに接させたまま手のひらを上に向け、その息で、
「なら、どうする?」
と、リンを一瞥して言った。
「どう、って?」
「言っておくが、俺は自首する気は全くない」
「そんな、別に、強いているつもりじゃ……――」
「そうか?」
尋ね返され、一瞬、リンの喉で言葉が詰まる。
「……そりゃ、目撃してしまった以上、無視するわけにもいかないけど……――」
言いながら、何かが違う、とリンは感じた。
確かに、人が殺害される現場を見た。そしてその映像がいまだ尾を引いているのは分かる。また、理由はともかくとして、殺人を犯したウォレンに対して異論を持っていることも事実だ。
だが、積極的にウォレンを責めるつもりはないのだ。
それでもつい、責め立てるような言葉が口をついて出てくる。
「……違うんだ」
矛先の向くところが実際は別の方向であることが分かり、リンは思わず怪我をしている方の腕を急激に動かしてしまった。鳴りを潜めていた傷口が突如刺激され、痛覚が反応をする。反射的に激痛を訴える悲鳴がリンの口から漏れる。
大きい声ではなかったが、それに驚いたか、ウォレンがリンを見た。
「大丈夫か?」
掛けられた言葉に、リンは痛みを押し殺したような声で何ともないことを告げた。 止血はしてあるものの、適切な処置がなされていないことにかわりはない。
彼の様子を観察し、非常事態とまではいかないことを悟ったか、ウォレンは視線を道路に戻した。
「……まぁ、事実を届け出るというなら反対はしないが、そうなるとちょっと面倒なことになるんでね。できるなら控えて欲しい」
言いながら片手をハンドルから外し、ウォレンは探し物をするように自分の衣服を改め始めた。
「届け出ようとは、思っていないけど……」
隣でごそごそと動き始めたウォレンを怪訝に思いながら、リンは傷口の痛みを打ち消すように右手を添えていた。
「そうか?」
ちら、とリンを一瞥すると、ウォレンは次いでバックミラーを利用し、後方の様子を確認した。
リンもつられて、傷口が傷まないよう気をつけながら後ろを見る。
視界に入る車は小さく、車間距離は十分に空いている。
指示器で停車の合図を送ると、ウォレンはゆっくりと速度を落として滑らかに路傍に車を寄せた。
負の加速がいつの間にか消え、窓を流れる映像が静止画になり、サイドブレーキを踏む彼の動作で、車が停まったことが分かった。車内に響く停車中を示す規則的な音の背後に、追い越していく車の淡い走行音が増大し、減少する。
車を停めた意図がとれず、またこれまでの会話の内容から、嫌な予感がリンの脳裏をかすめる。
直後、ウォレンが手を腰にやった。
瞬間、反射的にリンが身構える。
急な彼の行動に、弾かれたようにウォレンがリンを見た。
「どうした?」
「何する気?」
リンが身の危険を感じていることを察知したのだろう、ウォレンは両手を挙げ、害意のないことを示す。
彼の片手には携帯電話が握られていた。
「電話」
一言告げ、そのままの格好でウォレンは片手で携帯電話を開いた。
頂点まで達していた緊張が緩み、深く息を吐きつつリンが気の抜けた表情をする。
「殺されると思ったか?」
電話番号を入力しながらウォレンはリンを一瞥した。
彼の顔に薄いながらも微笑が浮かんでいることを見て取り、リンはふと申し訳ない気持ちを抱いた。
まだ何かしらの部分でウォレンのことを警戒していたのだろう、リンは深呼吸をすると右手で目の上を押さえた。
「……安全運転なんだね」
消え去っていく警戒心に別れを言いつつ、リンは、電話をかけるために律儀にも停車までしたウォレンに対してそう呟いた。
ウォレンとしては、ただ単に走行中に片手で電話を取り出すのが難しかったために取った行動だったのだが、いいように誤解される分には文句はない。
「……見つかったら、厄介だろ?」
微妙な間を置いて一言告げ、呼び出し音の鳴る小さな機器を耳に当てた。
対向車が側を過ぎ、そろそろライトが必要な時間帯らしいことを知らされる。思えば日はとうに沈んでいた。山の向こうに隠れてからは、周囲が暗くなる速度が一段と速くなる。
相手が電話に出、ウォレンは意識を景色から耳に移した。
「アンソニー? 俺だけど」
同じように外の様子を漠然と観察していたリンが、ウォレンの声で車内に視線を戻す。
「――ああ、その件ならもう心配ない。それより頼みがあるんだが、今シラフか?」
電話の相手が誰なのか、リンにはまだ見当がつかないが、ウォレンの持つ携帯電話の小さなスピーカーから、今時分に酒は飲まん、と反発する男性の声が漏れてきた。
「なら大丈夫だな。あと40分ほどでそっちに着くが、怪我の手当てをしてほしい。――ん? いや、俺じゃない。――あー、話すと面倒だから今は聞くな」
医者と連絡を取っていることが分かったが、リンとしては先ほどの、シラフか、とウォレンがわざわざ確認した言葉が気になるところである。
「――傷の様子?」
疑問調で返しつつ、ウォレンはリンを見た。
次いで、何の前触れもなくリンの左腕、つまり怪我を負っている腕を掴んだ。
「……ッいった!」
「あ、悪い」
痛覚を刺激され悲鳴を上げるリンに対して一応は謝ったものの、その言葉の雰囲気をかけらも見せず、ウォレンは続けて、
「痛いらしいぞ」
とアンソニーに告げた。
リンの悲鳴が電話越しに相手にも聞こえたのだろう。スピーカーからは即座に、何やっているんだ、という怒声が漏れてきた。
全くだ、とリンは思った。怪我を気遣ってくれているのかそうでないのか、判断しかねる。
「銃創だな、多分かすっただけだ」
「『かすった』、『だけ』?」
膝でも擦りむいた程度の反応に、リンは己の身を案じた。
出血の量からみれば、なるほど確かに重傷といえる代物でもないが、軽く描写されるほど浅いすり傷でもない。適切な処置が施されることが願わしいが、期待していいものかどうか。
その不安を感じ取ってか、ウォレンはリンを見ると電話の通話口を少しばかり口から離した。
「心配するな。彼の腕は確かだ」
リンが、ああそうですか、と訝しげに頷く前に、スピーカーから相手の医者の声が薄っすらと聞こえてくる。
褒めても何も出ないぞ、と言っているようだった。
「――いや、別に褒めたわけじゃない」
ウォレンの正直な答えに、否定しなくてもよろしい、との声がスピーカーから漏れてきた。
「……とりあえず、治療の準備を頼む。――名前?」
質問を疑問で返しつつ、ウォレンはリンを見た。
尋ねられる理由が分からず、リンも疑問を返す。
「過去の病歴が知りたいらしい」
通話口を遠ざけ、ウォレンが説明を加えた。納得してリンは頷く。
「ルウェリン・シャンミン・ウー」
「シャンミン?」
発音を確認するようにウォレンが復唱した。
「そう。カルテなら、多分クック・メモリアル病院に。いつもそこに行っているから」
「だそうだ。聞こえたか?」
肯定の返事とともに、息子が勤めている病院だ、という声が携帯電話から聞こえてきた。
「じゃ、また後で」
返事を確認する間もなく、ウォレンは通話終了のボタンを押した。
一方的にかけ、一方的に切った。
無礼が許されるとは、よほど親しい仲なのだろう、とリンは推察した。
その表情を不安と受け取ったかウォレンは携帯電話をしまいがてらに一言付け足す。
「藪医者じゃないからな」
「……あ、はい、どうも」
ぎこちなく軽く礼を言ったリンに適当な相槌を打ち、ウォレンはサイドミラーで後方を確認した。
車影はなく、黄昏より深く群青に染まった道がひっそりと続いているのみだった。
ライトをつけるとアクセルを踏み、念のために目で後方を確認すると、ウォレンは車道に車を乗せ、走らせた。
夜の帳が下りれば、瞼もそれに倣おうとする。
周囲を包む群青の空気に、意識ごと体が溶け込んでいきそうだった。
疲労を感じつつ、リンはぼんやりと、前方に続く曲がりくねった道を見ていた。
まだ街の灯りは視界に入っていない。
ウォレンが通話を終えてからは会話もなく、車内には静寂が居座っている。
そのせいかそのおかげか、靄に覆われていたリンの思考回路が、今日の数時間の間で起こった一連の出来事の情報の概要を整理し終えた。
「……長い一日だった」
声に出すつもりはなかったが、言葉が思わず口をついて出た。
内側に留め置けば置くほどに、濁流に呑み込まれてしまいそうになる、と脳が判断したからだろう。
「だろうな」
相変わらず素っ気ない相槌を返し、ウォレンはハンドルを握る手の位置を下円部分にずらした。
焦点を合わせるでもなく、リンは横目にそれを一瞥する。
非常にリラックスした運転姿である。
無駄に口を開いて彼のハンドル捌きに支障が出ては悪い、とリンは思ったが、運転以外にも意識を集中させることが可能ならば、話を聞いてほしかった。
車内は依然として静かな空気に支配されていたが、ウォレンからは会話を拒絶するような圧力は全く感じられない。
話を切り出すことへの抵抗はなく、リンは小さく息を吸った。
「……色々と君を責め立てるようなことを言ったけど、本当に許せないのは、僕自身なんだ」
小さく口に出されたリンの言葉に対して何かしらも返答はなかったが、ウォレンからは期待したとおり、耳を傾けている様子が伝わってくる。
「彼らが死んだとき、『助かった』って思った、あの自分が許せない」
そう言った後にリンは軽く目を瞑った。
他人の命と引き換えに自分が助かろうなんて思わない、そう考えていたはずだった。
だが、実際は違った。
ウォレンの放った銃弾に倒れる彼らを見たとき、最初に感じたのは他でもない。生き残ることができたという安堵であった。
あの時、彼らの命まで考える余裕は全くなかった。
「……他人の命よりも自分の命が惜しいと思った」
瞼が熱くなるのは悔しいからだろうか。
死んでもいい人間などこの世にはいない。例えどんな理由があっても人を殺すのは許されるべきことではない、と掲げていた信念を忘れ、個人的な感情に流されてしまったという後悔の念が、明確な形を成してリンに覆いかぶさる。
認めたくなかった。
死に直面していたとしても、それを言い訳に用いるべきではない。
こみ上げる罪悪感に抵抗するすべもなく、打ち負かされそうになる。
「……だが、あんたはジョンを見捨てなかったろ?」
それまで無言で聞いていたウォレンが口を開いた。
「他人の命がどうでもよかったなら、あんたは端から彼を助けようとはしなかったはずだ」
救われたようにリンが顔を上げる。しかし表情はまだ曇っている。
「でも――」
「自分が殺されそうなときに、自分を殺そうとしている奴のことを考えられるほうがおかしい」
何か言わんとしたリンを遮り、ウォレンは言葉を続ける。
「――自分を責めるのはあんたの勝手だが、お人好しも度が過ぎると単なる馬鹿じゃないのか?」
根っからの善人なんだな、と軽く呟き、ウォレンは道路を照らすヘッドライトへ視線を戻した。
その動きを見送った後、リンも前方へ目をやった。
明るく照らされるアスファルトの細かな模様が、速い速度で車体の下へと流されていく。
確かにウォレンの言うとおりに割り切ってしまえば気持ちは楽になるだろう。
しかし、見方を変えればそれは逃げ道だ。その道に一歩でも踏み出せば、殺人を肯定したことになってしまうのではないだろうか。
「……難しいなぁ」
一言吐き、リンは後頭部を座席にもたれかけさせ、右手で瞼を覆った。
車内は夜に侵食されていたため、視界の明るさは変わらなかった。
伝わってくる走行音がやけに遠く聞こえ、その静寂の波間に身を委ねれば、そのまま溶け込んでいけそうな感触だった。
「……ひとつ聞いていいかな」
かすれて出てきた声に、ウォレンが小さく、何だ、と尋ねてくる。
リンは質問することへの躊躇いを表すかのように、ゆっくりと手を瞼から離した。
「……罪悪感は……抱かないの?」
何に対する、と明言することは避けた。
聞くのも野暮な質問に、無言の返答で責められるかと思いきや、意外にも早くウォレンが口を開く。
「どっちの答えを期待している? 『はい』か『いいえ』か」
皮肉の込められた言葉に、リンは予想していたものとは違う気まずさを覚えた。
「……悪かったよ、変なこと聞いて」
「気にするな。あんたにはもう慣れた」
返された言葉にカチンとき、リンは反論しようとしたが適当な言葉が見当たらず、顔ごと横の窓へ向け、外の様子に目をやった。
青みが薄まり、黒い夜の雰囲気に包まれている。
少しの間、静けさが場を支配する。
「……時々な」
静寂に溶け込むような声で、ウォレンが呟いた。
先ほどの質問に対する答えと知り、リンが彼を見る。
暗い車内のため表情を把握することは難しかったが、前方のヘッドライトからこぼれる光を頼れば、穏やかに進行方向を見据えるウォレンの横顔が確認できた。
彼の瞳は、夜の色に同化することなく、だがそれに溶け込むような淡い青さを保っていた。
観察されていることを知ってか、ウォレンがリンを一瞥する。
「意外か?」
軽く手のひらを上に向けて聞かれ、リンは意識を戻すと視線をウォレンから逸らした。
「あ、いや、別に……」
前方に目をやれば、樹木の間から街の灯りが途切れ途切れに映し出される。
終わった会話の静かな余韻が、車内の空気の中を漂っていた。
『時々な』と答えた時のウォレンの表情が、リンの脳裏に残る。
遠くを見るような、だが後悔のない横顔。
静穏な海が、連想されるような、そんな表情だった。
自分とは正反対の確立された信念を備えた姿。
方向が間違っている、と感じたが、ここで議論しても今の自分では勝てそうにない。
リンは不安定な己の心を落ち着かせるように、ふ、と目を閉じた。
途端に疲労が襲ってくる。
瞼越しに淡い光の存在を確認し、街が近づいてきたことを感じつつ、リンは意識と共に身体も静寂に溶け込ませていった。