16 Home
瞼の上を斑に過ぎる光に、リンは眠りの淵でうろついていた意識を刺激された。目を開ければ、いつの間に街中に入ったのだろうか、活気付いた光景が広がっていた。
夜の帳の下りた繁華街は、人工の光で明るく染められている。
閉められた車の窓からは、雑音に混じり、時折人の交わす声が聞こえてくる。
「……ごめん、寝ていたみたい」
座り直りながら、リンは隣で運転しているウォレンに言った。
「気にするな」
短く返答し、ウォレンは車の流れが滞り始めた前方の道路に視線をやった。
テールライトの赤い色が眩しい。
急いでいるわけではないが、やはり渋滞に巻き込まれることだけは避けたい。
「傷の具合は?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
答えを受けつつも、ウォレンは車線を変更しがてらにリンを一瞥した。
顔が少し青く見える。
傷に加え、疲労も影響しているのだろう。
「あと10分くらいで着く」
一言、おおよその目安となる時間を告げ、ウォレンは後方を確認しつつ指示器を入れた。
車内を規則的な音が満たした。
大通りから2本ほど中に入れば、走行音は建物によって遮られ、静かな空気が周囲を包み込んでいる。
世辞にも治安はいいとはいえないが、周辺の無機物は人の世とは関わりがないとでも言うように、落ち着いた佇まいをしていた。
街灯から漏れ出す光は淡く地面を照らしている。
それが作る影に溶け込むように、ウォレンは車を路上に停車させた。
エンジンを切れば、音も消える。
「着いたぞ」
リンに一言つげ、ウォレンは運転席のドアを開けると外に出た。
日中はそこそこ暖かかったものの、やはり夜はまだ冷える。
彼に続いてリンも助手席から降りた。
背を伸ばして立てば、視界を包み込むようにノイズが入り、めまいを覚える。
長い時間座っていたせいでもあるだろうが、血が足りていないせいでもあるだろう。
「歩けるか?」
「大丈夫、ちょっとくらっときただけだから」
「そうか」
ウォレンは車の鍵を手に持ち、街灯の光を探して腕を動かした。
刻まれている文字を確認した後、小さなボタンを押してみる。
車はライトを点滅させ、また音を出して了解の意を示すと、自動的に鍵をかけた。
こうした機能を持つ車を運転したのは初めてだったのか、軽く感心したようにウォレンは上体を反らした。
「便利な世の中だ」
独り言のように呟き、ウォレンは車を後にした。
リンは休憩を取り始めた車に一度視線を送り、彼の後を追って歩き始めた。
停車位置からそう遠くないところに診療所と書いてあるらしい小さな看板が見える。
古風だが古びた様子のない建物は通りの角に建っており、南に面する1階に玄関が構えていた。東の側面にはシンプルな階段が接しており、2階の入口に続いていた。察するに1階が診療所で2階が居間なのだろう。
日はとうに暮れてしまったため、営業時間外であることは確かだった。その様子は明かりのついていない1階からも窺える。
人の気配のなさを気にする様子もなく、ウォレンは1階の玄関へ足を進めると3回ドアを叩いた。
ほどなくして室内に明かりが灯り、足音が聞こえ、ドアが開いた。
「突然悪いな」
「『突然』でないときがあったっけね」
にこやかに返答するとアンソニー・アイゼンバイスはウォレンの後ろに立つ人物を覗き込んだ。
アンソニーの視界を遮らないように、ウォレンが一歩横へ移動する。
「ま、中に入って」
ドアを大きく開いてアンソニーが下がる。
白髪が混じり始め、多少後退し始めた額の様子、そして蓄えられた白いあご髯が彼をより一層柔和な人物に仕立て上げている。
想像していた人物像と食い違い、リンは暫らく呆然と立っていた。
「先に入れ」
「……あ、ども」
ウォレンに促され、リンは診療所内へ足を踏み入れた。
右手の小さな待合室はきれいに整頓してあり、天井が高いことも加わって実際よりも広く感じさせる造りとなっている。片隅にひっそりと佇んでいる観葉植物のパキラは、空間をより心落ち着くものに作り上げていた。
「こちらへどうぞ」
アンソニーに導かれるままに、リンは診察室と書かれた左手の部屋へ入った。
診察に使うデスクや医療器具はきちんと整理されているのだが、奥のデスクには書類や医学書といった紙の類が雑然と積み上げられている。
リンが室内の対照的な画に注目しているのを察知してか、アンソニーが照れくさそうに手を上げた。
「ああ、あまり奥は見ないでくれ。患者さんからも毎回注意されるんだ」
どこに何があるのかは、自分では分かっているんだけどね、とアンソニーは付け加えた。
微笑を送り、リンは更に足を進める彼の後に続いた。
外科の手術用具が見当たらないと思えば、建物の北側にもうひとつ部屋があるらしい。
診察室内に違和感なく溶け込むように設けられたドアの向こうには、簡素ながらも充実した設備を整えた手術室が設けられていた。
事前にウォレンが連絡を入れておいたからだろうか、手術用のベッドの横手には必要と思われる器具が既に用意されている。
「横になって。まず傷の状態を見てみるから」
「あ、はい」
言われた通り、ベッドの上に横になる。
背の部分が少し起こされているためリラックスできる体勢だった。
アンソニーはリンの左腕のみをベッドの外へ出し、軟らかい布の敷かれた台の上へ乗せた。
次いで、リンから左腕の傷口が見えないように、小さな幕を張った。
「……見ないほうがいいんですか?」
多少不安になり、リンはアンソニーの顔を見て尋ねた。
眼鏡をかけた大きな薄茶色の瞳がリンを見る。
「何、気になる?」
悪戯めいた口調でそう言ったアンソニーの目は笑っていた。
「いえ、別に……」
安堵すれば同時に身体から力が抜ける。
「大げさに感じるかもしれないけど、昔、傷口を見ていて気分が悪くなった人がいたからね。だろ? ウォレン」
隣の診察室に向かってアンソニーが尋ねれば、
「血を見たからじゃない」
と、声が返ってきた。
軽く肩をあげてアンソニーが微笑する。
「……え、彼がですか?」
意外に思い、リンは思わず尋ね返していた。
「うん。頑なに『俺は平気だ』といきがっていたけどね、だんだんと顔色が――」
「アンソニー」
診察室から届いてきた制止の声に、アンソニーは、おっと、と口を噤んだ。
「――ま、私が色々と『話』をしたからだろうけど」
「話?」
「丁度、勉強をし直していたときだったし、具体的な事例を、ちょっと、ね」
やけに楽しそうに語るアンソニーの言葉に、ウォレンがだんだんと気分が悪くなったという理由をおよそ察することができ、リンは苦笑をした。
「内容、聞きたい? 最近その本の新しい版が出たんだけど」
「いえ、遠慮しておきます」
「そう?」
心なしか残念そうな表情をし、アンソニーはリンの左腕に巻かれているネクタイを解いた。
圧迫感が消え去り、リンは血液が左手の指先まで届く感触を覚えた。
ちら、とアンソニーの様子を窺えば、真剣な表情で傷の様子を観察している。
次いで指先などの感覚の良し悪しを確かめられる。
全体的に重い感じはするが、痺れなどはなかった。
「抉られてはいるけど深くはないね。神経も傷ついていないみたいだし、全治2週間、といったところかな」
そう告げてアンソニーは腰を上げた。
「ちょっと待っててね。身支度するから」
部屋の片隅の清潔そうなクローゼットから手術用の色をした衣服を取り出し、それを身に着ける。
ふと、診察室からウォレンが顔を出した。
ドア枠に体重を預け、少し屈んでいるため視線の高さがアンソニーのそれと同じくらいになる。
「手伝う事はあるか?」
「いや、こっちはないよ。でもヒマならそこのデスクの整頓でも頼もうかね」
「……『あれ』のことか?」
魔境でも指すかのように指示語の示す物体を指差し、ウォレンはあからさまに嫌そうな顔をした。
「無理にとは言わないさ」
「ならよかった。ギルのところに行ってくるから、後のことは頼む。それと、支払いは――」
「分かってるさ」
マスクをつけ、アンソニーはウィンクをしてみせた。
「ありがとう」
微笑とともに礼をいい、ウォレンはリンに一度視線をやると、踵を返した。
手袋をはめ、洗浄し、アンソニーは万全の格好でリンの元に戻る。
「カルテを読んだけど、アレルギーはないみたいだね」
「入手できたんですか?」
「これでも結構顔が広いんだ。それに残念ながら、社会の裏には色々な抜け道が存在しているから」
部分麻酔の準備をしつつ、アンソニーは続ける。
「あ、でもこれは内緒だよ? 見つかったらちょっと厄介だから」
にっこりと笑ったアンソニーの目を見、リンは彼の中にウォレンの思考に近いものを見つけた気がした。
日常的な話をしている間に、無事に縫合の処置は終わった。
白い包帯を巻かれている間も、部分麻酔の効いている腕はその部分だけが別の空間にあるように感じられる。
「時間があれば明日一度顔を出してくれないかな。経過をみてみたいから」
「あ、はい。……都合のいい時間はいつ頃ですか?」
「営業時間後ならいつでも」
マスクを外してアンソニーはにっこりと笑う。
「あまり遅すぎるとアルコールが入っているかもしれないけどね」
本気ともとれる彼の冗談に、リンは微笑を返した。
縫合をしている間もずっと、アンソニーは朗らかであった。
彼の患者たちが持ってくる世間話や、彼の好きな酒の話など、他愛のない話題といえばそうなるかもしれないが、どれも時折笑いを誘い、また彼の人柄をよく表しており、心を和ませるものだった。
手際もよく、思っていたよりも短時間で処置は終了した。
いい腕を持ち、患者との接し方も文句はない。そんな彼が、ともすれば人知れず埋もれてしまいそうな場所でひっそりと診療所を構えていることが、リンにとっては不思議であった。
「さて。水でも飲むかい?」
手袋を脱ぎ捨て、帽子やマスクといったものも使用済専用の籠に入れながら、アンソニーはリンを振り返った。
「お願いします」
「じゃ、2階へ上がろうか。暫らくは麻酔が効いた状態が続くから、ぶつけないように気をつけて。――おっと、その前に、と」
思い出したようにアンソニーは手術室の隅へ向かった。
彼の姿を視界にとらえつつ、リンは上体を起こし、ベッドから足を下ろす。
ふと、アンソニーが戻ってきた。
「安静が一番だからね。嫌だったら外せばいいから」
手に持っていたのは腕を固定する器具だった。
腕を通して吊るせば、首周りにその重量がかかってくる。
麻酔とは不思議なものだ。
重さはこうして感じるのに、腕の存在自体は消えてしまったように思える。
右手で大事に左腕を抱え、リンはアンソニーの後について手術室を離れた。
通された居間も広々としており、1人暮らしをしていると思われるアンソニーには大きすぎるように感じられた。
築年数は長そうであるのに、清潔さが保たれている。
この空間だけをみれば、アンソニーは整理整頓に長けた人物のように映るだろう。
勧められるままにリンはソファへ腰掛けた。
ほどなくしてアンソニーがミネラルウォーターの入ったグラスを持ってきた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。失礼だが、私はこちらを飲ませていただくよ」
戸棚からバーボンを取り出し、アンソニーはリンと対面する位置に座ると洒落たグラスに幸せそうにアルコールの液体を注いだ。
仕事を終え、心おきなく飲めるのだろう。
リンは手に取った丁度いい水温のミネラルウォーターを口に運ぶ。
口の中が潤うと同時に、渇きを感じることをようやくに思い出したのか、喉が連続して水を求める。
この液体の存在をありがたく感じる瞬間だった。
「時間外に、わざわざありがとうございました」
「いやいいんだよ。外科についてはいつものことだから、慣れっこさ」
「今、持ち合わせがないので、治療代は明日来るときに――」
「ああ、お代はいらないよ」
驚いた表情をするリンに対して、一口、全身に行き届くアルコールを飲むと、アンソニーは続けた。
「君をここに連れてきたあの生意気な奴が『払う』とさ」
「え、でも――」
「あいつの厄介ごとに巻き込まれたんだろ? 遠慮することはないよ」
にっこりと笑うと、アンソニーはグラスを口に運んだ。
確かに、厄介ごとには巻き込まれたが、それは何もウォレンのせいではない。
断りを入れようとリンが口を開きかけたとき、制するようにアンソニーが人差し指をたてた。
「礼くらい言ってやると、喜ぶかもね」
話題に終止符を打つように切り上げられ、リンはそれ以上を言うのを止めた。
後ほど直接ウォレンに会って断ればいい。
「……彼とは付き合いは長いんですか?」
「ウォレンとかい? そうだねぇ、かれこれ18年にもなるかな」
昔を思い出すようにアンソニーが宙を仰いだ。
「ウチに泊まることも多かったからね、もう1人息子ができたようだったよ。あ、私には息子が1人いてね。今はほら、君のカルテがあったクック・メモリアル病院に勤めているんだけど、年も近いし気が合ったのか、昔はよく2人して遊んでいたよ」
アンソニーの言葉が生み出す空気に、ウォレンが意外にも身近な存在に感じられ、リンは感心したように頷いた。彼の昔を想像することは難しいが、家庭的な環境で過ごした経験があったからこそ、親しみやすい雰囲気を纏っていたのだろう。
しかし、リンの中に疑問が残る。
過去の詳細は知らない。だが、平和そうなその過去と現在とが、あまりにもかけ離れているように思えてならない。
「あの……」
言い出しにくそうに切り出せば、アンソニーが目で次を促した。
「彼が何をしているか、……ご存知なんですか?」
リンの質問を受け、アンソニーはゆっくりと瞬きをした。
「そうか。君は『現場』を見たんだね」
何の、とは言わず、アンソニーは言葉を続ける。
「具体的なことは知らないが、おおよその見当はついているよ」
言葉はグラスに視線を落としたまま紡がれた。
彼の感情を察し、リンはグラスをテーブルの上に置くと真剣な表情でアンソニーと向き合った。
「知っているのなら、どうして、黙認しているんですか?」
「うーん、まぁ一般人には迷惑をかけていないみたいだからね」
予想外のアンソニーの発言に、リンは疑問の視線を送った。
そんなリンの反応を予想していたのか、アンソニーは軽く微笑をした。
「私は一度、社会に裏切られた経験があるからね。正義の定義に関してはねじれた見解を持っているんだ」
「でも、だからって見て見ぬ振りを?」
「まぁ、突き詰めるとそうなっちゃうのかな」
「彼の心はどうなんですか? 温かい家庭を知っているのなら、人を殺して平気でいられるわけがないでしょう」
最もな理論だ、と言うように、アンソニーは頷いた。
何かしらの発言を期待していたリンだが、言葉が彼の口から出てくる気配はなかった。
無言のままゆっくりと立ち上がり、アンソニーはバーボンの置いてある戸棚へと足を運んだ。
グラスを棚の上に置き、ひとつ息をつく。
何から話そうか、また話していいものかを考えているのだろうと推察し、リンは思わず手を振った。
「すみません、ずかずかと入ってしまって……――」
「いや、いいんだ」
リンが皆まで言う前に、アンソニーが穏やかにそう告げる。
暫くの沈黙の後、やがて彼は壁に視線を向けたまま口を開いた。
「……初めて会ったのは、あいつが6歳の頃だったかな。縁があって、あいつを育てていた人の手術をしてね。彼は、まぁ言うところの『向こうの世界』に生きている人間だった」
思い当たる節を見つけ、リンは小さく、あ、と声を上げた。
「……アレックスって人?」
尋ねてみれば、アンソニーが驚いたように振り返り、しばらくして頷いた。
「彼もよくあいつの面倒をみていたが、自分の住んでいる世界からは遠ざけたかったんだろうな。私も子供が好きだったし、普通の社会であいつが自立できるように、という彼の願いの手助けをすることにしたんだ。どこか冷めたところはあったが、あいつは普通の子供だったよ。息子も弟が欲しかったらしくてね。いやぁ、あの頃は毎日、子育てがいかにエネルギーの要る仕事かを体験していたなぁ」
2人ともやんちゃでね、と笑い、アンソニーは続ける。
「息子が大学に行って、その影響でかな。あいつも社会に興味を持ち出してね。いい傾向だと思っていた矢先だった。突然、行方が分からなくなった。家出じゃあない。突然、失踪したんだ。……音沙汰のないまま数ヶ月が過ぎて、無事だという知らせを聞いてからも、あいつは姿を見せに来なかった」
見せたくなかったのだろう、とアンソニーは呟いた。
「……それからしばらくして、ひょっこり顔を見せに来てね。安心すると同時に、随分と大人になっていてびっくりしたよ。……だが、一線を越えてしまったことも瞬時に分かった」
小さく、首を横に振る。
「あの空白の期間に何があったかは知らない。何度か聞こうとしたが……――」
再び、アンソニーは首を横に振った。聞けるような雰囲気じゃなかった、と。
当時の光景が浮かんだのか、静かに目を閉じる。
「……よほどのことを体験したんだろうが、だからといって、向こうの世界に染まっていくのを放ってはおけなかった。いずれ精神的に崩壊してしまうと思ってね。君が言うように」
リンの視線の先で、アンソニーが顔を上げる。
彼の表情から、説得に失敗したことが見て取れた。同時に、車の中で見た、迷いのないウォレンの横顔が思い起こされる。
「……最初の頃は何度か話し合ったよ。激しい口論にもなったが、あいつは逃げたりしなかった。当初は復讐心があいつを突き動かしているのかと思ったが、そうじゃないらしい。憎悪の念は理性をも奪うが、あいつには理性が定在している。……厄介だよ。そのせいで、あいつの中にはしっかりとした哲学が居座っている。踏み込めない壁だ。崩そうとしても崩せなくてね。……悔しいが、それが現実だった」
言い終わった後ひとつ大きく息をつき、アンソニーは続ける。
「だから、代わりといっちゃあなんだが、せめていつでも帰ってこられる家だけでも用意してやらないとな、と思ってね」
アンソニーは手で戸棚の上をそっと撫でた。
言葉を持たない家具だが、この家が建った時から、住む人々と共に月日の流れ行く様を見てきている。
「温かい場所さえあれば、完全な黒に染まる事はまずないだろうからね」
笑顔でそう言ったアンソニーだが、どこか寂しげでもあった。
できることはこれしかない、と、彼を包む空気が告げているように感じられる。
首をもたげた疑問をそのままに、リンはそのまま遠くを見た。
こんなにも親身になって気遣ってくれる存在が身近にいる。それなのに、彼は何故、行く道を正そうとしないのだろう。
そんなリンの様子を見て取ったか、アンソニーは苦笑した。
「私のことに関しては、彼を責めないでやってくれないか?」
心の内を読まれ、リンは驚いてアンソニーを見た。
「あいつはあいつなりに私のことを考えてくれているからね」
にっこりと笑うと、アンソニーは2杯目のバーボンをグラスに注いだ。
独特の深い音が室内に染み渡る。
その音に耳を澄まし、リンはアンソニーから視線を外した。
理解するのは難しいが、彼らの間では平衡が保たれているらしい。
保たれているのならば、それでいい。
その関係に干渉する気はない。
お人好しも度が過ぎれば迷惑になるのは百も承知だが、しかしこのままウォレンを放っておくこともできそうになかった。
「……彼はもう帰ったんですか?」
「いや、ここから3ブロック東に行ったところのバーにいると思うよ」
リンは頷き、暫くしてから立ち上がった。
「今夜はありがとうございました」
「もう行くかい? じゃ、また明日。あ、そのドアから外に出られるから」
リンはアンソニーの示したドアへ足を運んだ。
ドアノブに手をかけたとき、背中に声がかかってきた。
「彼のことを考えてくれてありがとう。私からも礼を言うよ」
振り返ってアンソニーを見れば、バーボンの入ったグラスを手に持ちながらにっこりと微笑む彼の姿が見えた。
「失礼します」
微笑を残し、リンはドアを開けると外に出た。
寒さを帯びた涼やかな空気がしっとりと、彼の身体を包み込んだ。