12 Action
隙のない空気が一瞬、緩んだ。マークが再び支配的な立場の言葉を口に出しかけた時。
膝を起こし、リンは素早く身を捻ると右手を使い、背後に立っていたマークの腕から拳銃を弾いた。負傷した腕にも衝撃が伝わったのだろう、彼が激痛の呻きを発する。間をおかずリンがマークの頭を勢いのついた腕で殴った。
同時にジョンもまた膝を起こしがてらに地面の土を握り、リチャードとニックに投げつけた。彼にしてみれば、上出来だと言えるだろう。
湿った土がリチャードとニックの目に入り、彼らは全くとはいかないまでも動きを制限させられた。
「行こう!」
相手方の行動に支障が出たとはいえ、数的に不利なことに変わりはない。ましてその道に生きる人間と対等に勝負できるわけもない。
逃げるが上策。
しかし武器を持たずに逃走にかかるのも危険である。
リンが、比較的近くに落ちているマークの拳銃へ向かおうとした時、
「わっ」
と彼のすぐ後ろで声が上がった。
瞬時に振り返れば、ジョンが地面に手をつくところがリンの視界に入った。
躓いた彼のズボンの裾を、凄まじい形相のマークがしっかりと掴んでいた。
「ジョン!」
彼を助け起こしざまにリンは蹴りでマークの手を払いのけようとした。
痛覚を押し殺すほどの恨みを抱いているのであろうか、マークは俊敏な動きで、仕掛けられたリンの攻撃を無事にかわすと、左手でナイフを取り出し、横に一閃した。
反射神経のいいリンがとっさに右足を引き、マークの攻撃範囲から離脱する。
その後退の隙を読んでいたのか、マークはナイフを薙ぎ払った勢いを利用し膝を立てると、地面に横たわる拳銃へ進路を変えた。
そうはさせじとリンが一歩を踏み出す。
と、その時。
「危ない!」
ジョンの動揺した叫び声に遅れることなく、乾いた音が一瞬の余韻を残して樹木間に消散した。
再び数羽の鳥が何かを叫びこの場を去ったが、彼らの声は誰の耳にも届かなかった。
リンの左腕を後ろから前に衝撃が通り抜け、激痛が残る。
撃たれた反動で体のバランスが大きく崩れ、リンはすぐ側にあった大きな幹を持つ木に肩からぶつかった。
撃たれたせいか、ぶつかった衝撃のせいか、霞む目で銃弾の走ってきた方向を見やれば、いまだ土の騒ぐ目をわずかに開け、銃口をリンに向けているリチャードの姿が見えた。視界がまだ十分に利かないのだろう、拳銃の先は不安定に振動している。
彼の隣では、ニックがまだ膝を地面について目に入った土を追い出そうとしていた。だが彼の片手にも既に拳銃が握られている。
リンは、希望の見えていた状況が急速に悪化していくのを肌で感じた。
視界に入る、大きな口を開けた地中の穴が、再び手を招く。
駆け寄るジョンの気配を察知し、一刻も早くこの場から逃れようとリンは足に力を入れた。
「逃がすか!」
リチャードの声がやけに大きく聞こえ、彼の銃口が動いた。
反射的にリンが身をかがめた瞬間、再び乾いた、だが質の違う音がその場を駆け抜けた。
同時にリチャードの右頭部から赤黒い液体が噴出し、彼の体が糸を失った人形のように脆くも地面に崩れた。
一瞬、状況が理解できず、リンとジョンの動きが止まる。
倒れたリチャードの隣で、ニックが見えない目を押さえつつ音の発生源へ銃を向けた。だが土に気を取られている分意識が分散しており、銃口は標的を捉えきれていない。
リンがその銃口の先を辿れば、路地で出くわした若い男の姿があった。
彼がリンとジョンを援護する立場にいるらしいことを察し、リンは周囲を覆っていた死の空気が遠ざかるのを感じた。
「伏せろ!」
鋭い声が矢のように通り抜け、リンは言われた言葉を実行に移した。
「ジョン!」
「……え?」
強く地面を蹴ると、リンは好転しそうな状況を把握していないジョンを道連れに、自分たちのために用意された、粗末な墓の役割を果たすはずであった穴へ飛び込んだ。
土中に入る寸前、銃声が聞こえ、膝をついていたニックが地面に突っ伏す姿がリンの視界に入った。
「……いってッ……」
ほとんど落ちるようにして入った穴の底で、ジョンが咳き込む。
背中に衝撃を受けたのだろう、体を横にするとそのまま蹲る様な姿勢をとった。
「自分から、わざわざ入るなんて……、何考えて、ッるんだよ……」
こみ上げる痛みが邪魔をするのか、ジョンが途切れ途切れに言葉を吐いた。
「大丈夫」
状況によっては、不気味なこの穴も安全な空間となり得る。
粗い痛みを生む左腕を無意識的に押さえつつ、リンはいつでも動けるように姿勢を整えた。
想像していたよりも穴は浅いが、それでも膝を曲げ、上体を少し屈めれば頭まで地面の下に納まった。
「大丈夫って、……このまま埋められたら……――」
その先を口にすることを敢えて拒み、ジョンもゆっくりと体を起こした。
急いているような銃声が4、5発、上空を走る。
驚いてジョンが頭を抱え、姿勢を低くした。
リンは斜め上を見たが、落ち葉が土に変わっていく様子が穴の土壁に見られる以外、枯れ木の枝と空しか確認できなかった。
再び忙しく一連の銃声が響き、途中で1発、場を制するような音が短い余韻を残して消えていくと、銃声が止んだ。
静寂が訪れる。
やがて雑木林を包み込む空気が静かに流れ、落ち葉を誘う風の音が小さく聞こえてきた。
暫時続いた無言の空間で、リンとジョンがゆっくりと肩から力を抜く。
「……終わったみたいだね」
リンが、ほっと胸を撫でおろす。
「……何がどうなって……?」
ジョンは若い男の姿を確認していないのだろう、助けが入ったことを理解していないようだ。
とはいえパニックに陥っていないだけでも褒めるべきことなのかもしれない。
「彼が来てくれたんだよ、やっぱり悪い人じゃなさそうだ」
味方となってくれる人物の到来に心強さを感じ、リンは久しぶりに新鮮な空気を深く取り込んだ。
「彼? って誰?」
「誰って、路地で会った、あの人」
ジョンは数時間前の記憶を辿るように宙に視線を浮かす。
その顔が徐々に青くなるや、
「……嘘だろ」
と絶望に近い、押し殺された言葉が呟かれた。
なぜ、と問うようにリンが一度瞬きをする。
「あいつ、2度も俺たちを殺そうとしたじゃないか。なんだってそんなヤツを信用するんだよ」
リンの言う人物を、ジョンはデリックと誤解していることを察し、リンは大きく首を振った。
「違う違う、2人組のほう」
「2人組?」
再び思い返し、ようやく理解したらしくジョンは頷いた。
「……あいつら、でも信用できるのか?」
「してくれないと困る」
突如上から声が落下してきた。
2人が驚いて見上げれば、枯れ木を背景として穴を覗き込むように例の若い男がそこに立っていた。
言葉が詰まって出てこないのか、ジョンが口をぱくぱくとさせながら穴の中を後ずさる。
「無事だな」
ならよかった、とウォレンは手にしていた拳銃を腰に戻した。
怯えているジョンのことは目に留まっていない様子である。
「ありがとう、おかげで助かったよ」
緊張の解けたリンがウォレンを見上げて礼を述べた。
「勘違いするな、お前は『ついで』だ。死んで困るのはそっちの奴だ」
ふい、とウォレンがジョンを見やれば彼が萎縮する。
「……あ、そう」
悪気はないだろうがさらりと言われた言葉にショックを受けたか、リンは小さく頷くとウォレンから目を逸らした。
その彼の様子を観察するようにウォレンが首を傾げる。
視線を感じ取ってリンは再び顔を上げた。
「怪我してるのか?」
ウォレンにそう言われて意識してみれば、左腕を鈍い痛みが包み込んでいた。
傷よりも他に気を取られることがあったため、違和感はあってもしばらくの間忘れていた。
一度認識するとそれまで眠っていた痛みが目を覚ます。脈拍に呼応するかのようにそれが勢力を拡大し、神経を侵していく。そっと傷口を見やれば、いつの間にか袖が赤く染まるほどの血が流れ出ていた。衣服を従えて肌に張り付くその感触は、決していいものとは言えない。
傷口を見ようと右手を動かしたとき、その腕に細長いものが落ちてきた。
一瞬、蛇かと疑ったそれは、多少よれよれになったネクタイだった。
「止血しとけ」
無造作にポケットにしまっておいたネクタイをリンに放った後、一言軽く告げるとウォレンはジョンに向き直った。
『おまけ』で助けたのでは、という皮肉がリンの喉まででかかったが、敢えて空気をまずくする必要はない。ウォレンの好意に対して短く礼を言うと、リンは片手で傷口を器用に縛り上げた。横目にジョンを見れば、いまだ警戒心の捨て切れていない目でウォレンを見上げている。
「あんたも面倒な奴だな」
ジョンに向かい、ため息混じりにウォレンがそう呟いたとき、建物のある方向から銃声が1発届いてきた。
リンとジョンの体に再び緊張が走ったが、あらかじめ知っていたのかウォレンは至って平常であった。
その後の静寂に2人が緊張を解いたとき、逆にウォレンの表情から穏やかさが消えた。
訝しげに後ろを振り返り、建物の方向に意識を集中させる。
「……どうしたの?」
「そこにいろ」
リンの問いに彼を振り返ることなく、ウォレンは答えではない言葉を告げた。
「でも――」
更なる問いかけを予期していたのか、リンが最初の単語を発すると同時にウォレンは人差し指を立て、次いで振り返ると地面に掘られた穴の中の2人を見た。
事に深く集中しているのだろう、彼の表情は無であった。
が、静かな夜の湖のように落ち着いている彼の様子に、2人の中で不安が膨張していくことはなかった。
ウォレンの言わんとすることを理解し、リンは軽く頷くと姿勢を低くした。
彼の動きを追うように、緊張を飲み込むとジョンもまた、身を屈めた。
安全を確保した彼らから目を離し、ウォレンは再び、建物の方向へ目を向けた。
弱い風が前方を通過する。
嵐というものが来る前には、静寂が訪れるらしい。
その諺は、この状況にも当てはまるだろう。
ウォレンは拳銃を手に用意しつつ足を進めると幹の太い木の陰に身を寄せた。
「……腕が落ちたんじゃないのか、アレックス」
消え去った聞きなれた銃声に対して、ウォレンは小さく独りごちた。
数分前。
2人の始末を託した後、デリックとジョエルはケヴィンに続いて建物の中に入った。
木材とコンクリートが使用されている建物は一見したところ古びており、室内に物は多く存在していない。それでも余裕を持って暮らせるほどの設備は整っていた。
とはいうものの3人ともここを訪れることはあまりない。ケヴィンに至っては足を運ぶのすら初めてだろう。
コーヒーでも飲むか、というデリックの問いかけにジョエルが答えた以外、相変わらず会話の存在しない空気が充満している。
息苦しさを感じつつも、デリックは慣れないキッチンからインスタントコーヒーの袋を引っ張り出し、カップを一応3つ用意した。
長時間の運転に疲れたのだろう、ジョエルはソファに腰を下ろすと静かに目を閉じ、眉間に指を当てている。誰に対する遠慮とは言わないが、横になることは避けたらしい。彼の疲労の原因は別のところにもあるようだ。
一方のケヴィンは己が作り出している重たい空気を意に介すことなく、テーブルの上に無造作に放置されていた新聞を手に取ると、何か興味を引くものでもあったのか、その記事に視線を注いでいた。
ほどなくしてデリックがコーヒーを入れ終わる。
カップから立ち上る湯気ですら空気を読んでいるようだ。ぎこちない動きをしている。
「ジョエル」
声量は普段と変わらないはずであるが、意外にも大きく聞こえた。
デリックはひとつ咳払いをし、コーヒーの入ったカップをジョエルに渡す。
擦過音のみで礼を言い、ジョエルはカップを手に取ると熱い液体を飲んだ。
気が向かない足を動かし、デリックはケヴィンの座っているテーブルへ向かった。
「ここに置くぞ」
許可が下りる前にカップをケヴィンの前のテーブルに置く。
了承を伝えるような短い音が彼の口から漏れたように聞こえたが、コーヒーの存在が認識されているようには思えなかった。おそらく部屋に広がっている、インスタントだがそれなりに香ばしい匂いすら、彼の鼻には届いていないだろう。
自然と出てくるため息を隠すように、デリックは一口、苦い液体を喉に通すと、ケヴィンのいるテーブルを去り、ジョエルの前に腰掛けた。互いに顔を見合わせ、苦笑する。
微妙だが静かなコーヒーの時間が流れるはずであった時、閉じられた窓にいくらか吸収された銃声が、外から聞こえてきた。
まずは1人か、と、情景を薄く脳裏に描きながら、デリックは処刑が実行されている方角を見た。無論、建物の壁が邪魔をして現場が見えるわけではない。ただ、ケヴィンがコーヒーの入ったカップを手に取るのが見えただけだった。
再び銃声が届いた。
これで2人。仕事が片付いたことに対して深く息をついたデリックの先で、ケヴィンが新聞に落としていた視線を上げた。
ただ顔を上げただけだろう、と気に留めなかった彼の行動を、デリックとジョエルが理解したのは続く一連の銃声が聞こえてからだった。2人を殺すにしては多すぎる銃声である。
不審に思ったデリックとジョエルが腰を上げたときには、拳銃が既にケヴィンの手に握られていた。
「……妙だな」
誰に告げるでもなくデリックは一言呟くと、ケヴィンの隣に足を進めた。
ブラインドに隙間をつくり、彼は窓の端から外の様子を窺っていた。
風雨にさらされ、取り付けられて以来一度も磨かれていないだろう窓は曇っており、それに加えて雑木林の木が邪魔をして現場の状況を確認することはできない。それでもケヴィンは注視を続けた。
「尾けられていたようだな」
彼の口から発せられた言葉に、デリックとジョエルは嫌な緊張が高まるのを感じた。
尾行を許したのは彼らのミスである。咎められるのは明らかだ。
「応援に……」
責任を感じたかケヴィンの叱咤から逃れるためか、ジョエルが一言残して入り口へ向かった。
窓の外を見ていたケヴィンが、刹那の間を置いて言い放つ。
「待て!」
鋭い語気を孕んだ彼の声に、デリックは事態を察知するとドアに手をかけているジョエルの元へと床を蹴った。
「危ねぇ!」
正面のドアが開くのとほぼ同時に、デリックに腕を引かれたジョエルがバランスを崩す。コンマ1秒の間すら置かず銃声が聞こえ、部屋の中に目では捉えることのできない速度を持った弾丸が侵入し壁を抉った。
その壁から薄っすらと、細く淡い煙が揺らめく。
尻餅をついたジョエルがその様子を呆然と見つめ、ゆっくりと額に手を当てた。
デリックに腕を引っ張られた時、一瞬だったが衝撃波を伴った熱い物質が目の前をかすめた。
その感触が残っている。
未だ熱いと感じるのは単なる余韻だろうか、それとも火傷でもしたのであろうか。
どちらの場合でも、もしデリックが行動を起こしていなければ、ジョエルの命は既に途絶えていただろう。
目の前を過ぎった死の存在に、ジョエルは冷たい恐怖を覚えた。
それとともに荒い呼吸音と心臓の音が体の内部から耳に届く。
「……大丈夫か?」
かがみこんだデリックに対し、ジョエルは首をゆっくりと縦に振るのがやっとだった。
「……助かったぜ、ケヴィン」
暫時声を失っているジョエルに代わり、デリックが礼を言った。ありがたく受け取るケヴィンでないことは分かっており、また予想通り無視されたが、それでも彼の警告がなければ避けられなかった事態だ。
デリックは更に、何で分かったんだ、と尋ねようとしたが、返ってくる言葉は明らかであるため止めておいた。
ケヴィンにしても、明確な答えは持ち合わせていない。
誰の姿を見たでもなく、しいて言えば、長年の経験が告げた勘、であろうか。
「……最低で2人か」
ケヴィンが小さく呟いた。
弾層を確認し、それを愛用の銃にセットすると2人を見下ろす。
「キッチンにも出口があったな。そこから出る。デリック、お前は俺に続け。ジョエルは正面から援護しろ」
2人から了解の言葉を得る前に、ケヴィンはキッチンへ向かった。
先ほどの弾道から察するに、キッチンの出口から出たとしても敵の射程内におさまっているだろう。建物の入り口を確認しているあたり、相手もそれなりに出来るらしい。
事前に周辺をよく調べておくべきだった、と後悔の念がケヴィンの脳裏を過ぎる。だが、それは今更であった。
戸口に着き、ドアを確認する。
外開きのそれは、運よくも相手から自分の姿を隠す方向に開かれるものだった。
「ジョエル」
室内にケヴィンの声が響き、ジョエルが緊張した面持ちで彼を見る。
「俺が戸を開けたらどこでもいい、南東に向かって1発撃ち、すぐに身を隠せ。その後援護しろ」
否を許さない口調にジョエルは身を引き締めた。失敗すれば敵ではなく彼の弾で殺されるだろう。
同様にデリックもまた、目の前に立つケヴィンに対して異質な恐怖を感じ取っていた。
「いくぞ」
短くケヴィンが告げ、デリックとジョエルが態勢を整えた。
身を潜めているすぐ近くの低木の枝が、風によって音を生み出す。
建物の南東に位置する、コンクリートブロックで作られた小さな焼却炉と無造作に積み上げられた古タイヤの隙間から、アレックスは建物内の動きに注意を払った。
窓ガラスが埃っぽい上に、ブラインドが下ろされているため中の様子が窺えない。
だが雰囲気からして、相手は正面と裏口に分かれて攻撃を仕掛けてくるだろう。
過ぎたこととはいえ、やはり先ほどの一撃で1人を仕留められなかったことが悔やまれる。
「……誰かさんの文句が聞こえてきそうだねぇ」
銃声が1発しか聞こえなかったので、ウォレンも事態は察しているであろう。
先の一連の銃声から考えるに、彼のほうはうまく事が運んだはずだ。
「……何か言い訳を考えないとダメだなぁ」
アレックスは、やれやれ、と呟きつつ拳銃の感触を確かめると、緊張の高まった空気の中に身を溶け込ませた。