IN THIS CITY

第2話 People Person

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03 Baltimore

 柔らかい日差しに温かさを感じるが、風はまだ肌寒い。
 風上に顔を向け、水面の上に浮かぶクロワカモメと上空を飛び交う彼らの鳴き声がのどかな雰囲気を醸し出している。
 川沿いにジョギングをする数名に追い抜かれながら、カイル・ランダースは茶封筒を片手に乗ってきた車が停まっているところへ足を運んだ。小柄ではあるが、体格の良さと落ち着いた物腰が彼を実際よりも背の高い人物に仕立て上げている。
 シルバーのレクサスのドアを開け、運転席に滑り込む。短時間の駐車ではあったが、車内は暖かい空気に包まれていた。
 無造作に封筒を助手席に放ると、静かにエンジンをかける。
 滑らかに走り出す感触をアクセルを踏む足で感じ取りながら、カイルは長く息を吐いた。
 ボルティモアの一角、比較的高い建物が林立するところにカイルは自分が経営する輸入会社のオフィスを借りている。様々な会社が入っているそのビルは、周囲の建物に溶け込むような配色ではあるが、中に入れば他よりも空間が広く感じられるものだった。
 エレベーターを使いオフィスの設置されている階まで上がる。
 静かで振動もないその空間に己の心を合わせるように、カイルは目を閉じた。
 ほんの少し体が浮く感触がし、エレベーターが到着の合図を鳴らす。
 目を開ければ、静かに開いたドアの先に見慣れた会社の名前を見つける。
 廊下を歩き、奥にある自分のオフィスに向かう。
 途中、すれ違う部下が爽やかに挨拶をしてき、無言でそれに答える。無愛想で知られているカイルだが、彼らはそのようなことは気にしていない様子だった。
 ドアを開け、オフィスに入る。
「おはようございます」
 秘書のリンジー・カーリントンがいつものように挨拶をしてきた。ブロンドの長い髪を後ろですっきりとまとめたその姿は、優秀さを巧みに自分の空気に取り込んでいる。
 そんな彼女に、カイルもまた、おはよう、と挨拶を返す。
「自室に入る前に、ここにサインをお願いします」
 整頓されたデスクから書類を取り出し、カイルに差し出す。
 無言で受け取り、カイルはさっと一読すると、必要な箇所に慣れた手つきで、カルロス・ウィンター、とサインをした。
「あ、それから」
 カイルから手渡された書類を整えながらリンジーは続ける。
「保険会社の方がお見えになっています。部屋にお通ししました」
 その言葉を聞き、カイルは自室のドアを見た。閉じられたドアからは、当然ながら向こう側の様子は分からない。
「そうか」
 小さく言いながら、来たか、と心の中で呟いた。
「具合はどうですか?」
 リンジーの声に、振り返る。
「すみません。また余計なことを聞きました」
 慌てる様子もなく、これもまた、いつものようにリンジーが言った。
 率直な態度で思ったことをすぐに口に出すが、深いところまでは入ってこない。カイルは彼女のそのようなところが気に入っていた。
「大したことない傷であるといいんだがな」
 言外の意味も含め、カイルは答えた。
 社内で彼の本業と関わっている人間は少ないが、リンジーはその中の1人である。恐らく彼女は今朝のニュースを見たのだろう。
 カイルの言葉に、リンジーは軽く微笑をした。
 それを受け取り、小さく頷くと、カイルは自室へ向かった。


 ドアを開け、中に入る。
 広々とした空間に窓からの光が明るく差し込んでいた。
 その影に位置するカウチに腰掛けていた若い男が、カイルの入室と同時に席を立った。その姿を視界に入れながら、カイルは部屋の奥に構えている自分のデスクに足を運んだ。
「来たか」
 茶封筒をデスクの上に置きながら、カイルは先ほど心の内で呟いた一言をウォレンに向けた。軽く肯定の返事が返ってくる。
「期待はするなよ」
「残念だな、それは」
 そう感じているとは思えない表情のウォレンを見ながら、カイルはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
 保険会社の人間らしく、スーツ姿に身をやつしたウォレンの姿はなかなか様になっていた。この会社に来ることは滅多にないが、訪れるときは必ず建物内の人間に溶け込むような格好をしている。
「気を遣ってくれて助かるよ」
 言葉の意味を捉えそこね、疑問顔でウォレンがカイルを見た。
「いや、なんでもない」
 一言告げながらカイルは近くの椅子を指差し、ウォレンに座るように促した。
「どうも」
 礼を言い、ウォレンはカイルのデスクから適度な距離のところに椅子を移動させると腰を下ろした。
「モーリスの件だな」
「ああ」
「昨日彼から聞いたばかりだ。私は何も知らん」
 手帳を開き、予定を確認しながらカイルは告げた。
「俺は今朝のニュースで聞いたばかりだから、それ以上に知らない」
「そうなのか?」
 意外そうにカイルは言った。両の手のひらを上に向け、ウォレンは肯定する。
「……まぁ、大して差はないだろう。偽造写真が送られ、金を要求された。拒否した結果がこれだ」
「心当たりは?」
 ウォレンの問いに、少し間を置いて確信の入った口調でカイルが答える。
「ニール・ヒラーだろうな」
「やはりか」
「小細工をしてくる奴は他に考えられん」
「あんたの方には何か仕掛けてきたのか?」
「いや、何も。いろいろと嗅ぎまわっているようだがな」
 言いながらカイルは持ってきた茶封筒をウォレンに差し出した。
 ヒラーが出所して以来、こちらの動きを探るような気配がより強くなったように感じられたため、カイル側もまた密かに行動を起こしていた。
「大したことは書いていない。最近妙な動きをしていた連中についての資料だ」
 手渡された封筒の中身を取り出し、無表情にウォレンはそれらを眺めた。
「……見たことない奴らばかりだな」
 腐れ縁の相手のため、彼らの顔は大よそ見知っているはずであった。しかし、どれもピンと来ない。
「DC内で動いているやつらだ」
「なるほど」
「2人、ここ数日で姿を消している」
 聞きながらウォレンは頁を繰った。2人の名前に印がついてある。
「捜査官を殺したやつら、といったところか」
「恐らくな」
 一呼吸置き、カイルは言葉を続ける。
「それともうひとつ。1人、プロが動いているらしい」
 視線を上げ、ウォレンがカイルを見た。
「尾行していたウチの者が殺られた。正体は分からん」
「……あんたは狙われているのか?」
「私の顔は割れていない」
 なら心配ないか、とウォレンが呟く。
 彼が一通り資料に目を通す間、沈黙が流れ、紙がこすれる音だけが室内に小さく響く。
 無言の空間を気にする様子もなく、カイルはウォレンが読み終わるのを待った。
「……偽造した奴は分かるか?」
 しばらくして、ウォレンが視線は資料に落としたまま顔を上げて尋ねた。
「分からん」
「そうか……」
「残念ながら」
「いや、構わない」
 最後に、写真に写っている人物の顔を再度確認すると、ウォレンは資料を元の茶封筒の中に戻した。
「ありがたく頂戴するよ」
「役に立つことを願う」
「立てるさ」
「我々は表立って動けん。今、できることはここまでだ」
 カイルの言葉に、分かっている、とウォレンは頷いた。
「何とかなるだろう。心配ない」
「楽観的だな」
 言いながらカイルは表情を和らげた。微笑すらめったに見せない彼にとっては珍しいことといえるだろう。
「アレックスの影響だ」
 呟かれたウォレンの言葉にモーリスならば、悪い影響だな、と冗談でも言っただろうが、カイルは黙って、そうか、と頷いただけだった。
 彼の必要最小限の相槌に対して、会話が盛り上がらない、堅物だねぇ、と苦笑まじりにアレックスが呟いたことがある。だが、ウォレンはそういうカイルの性格を気にしている様子はまったくなかった。
 最小限の会話とそこから少しだけ枝を伸ばした言葉のやりとり。
 カイルにとって十分であるその形式を、ウォレンはちゃんと理解している。
 柔軟な男だ、とカイルは思った。
 正式に組織に属していないウォレンとはいえ、付き合いはそこそこ長い。軽いアレックスとの会話もうまく掛け合っており、真面目だが時折冗談も交えるモーリスとのやりとりも自然だ。そして、形容されたように堅物の自分とも気を遣うことなく対話できる。
 頼んだぞ、という言葉が柄にもなくカイルの喉から出かかった。
 だが、カイルは一度開いた口を閉じ、何事もなかったかのように座る姿勢を変えた。言わずとも相手はちゃんと分かっているからだ。
「……そのアレックスは何か掴んだのか?」
「まだ何とも言えないな。偽造した奴の候補は挙がっているが絞り込めていないらしい」
「そうか」
「正午に一度落ち合う予定だ。何か進展があったら連絡したほうがいいか?」
 一度頷きかけたが、カイルは首を横に振った。
「いや、全て終わってからでいい」
「分かった」
 ウォレンの最後の単語と重なるように電子音が鳴る。
 秘書のリンジーからの電話の音だった。
 カイルは軽く人差し指を上げて承諾を求め、受話器を取った。無言で許可を出すウォレンの姿が視界に入る。
「私だ」
『もうすぐ会議が始まります』
「分かった。すぐ行く」
 短いやりとりが終わり、カイルは受話器を下ろす。
 空気が変わり、時間が流れ始める。
「忙しいところ悪かったな」
 礼ともとれる言葉を言いながら、ウォレンは封筒と鞄を片手に席を立った。
「気にするな」
 そう言って立ち上がろうとするカイルを手で制し、それじゃまた、と一言告げるとウォレンはドアへ向かった。
 その途中、思い出したように、あ、と声を上げる。
「アレックスから伝言を頼まれてた」
 カイルは無言でウォレンを見て、続けるよう促す。
「『人生笑いが必要』」
 突拍子な言葉に対してカイルは怪訝に眉をしかめる。
「笑いがどうした?」
「さぁ。ただ、冗談に笑ってくれなかったことに対してショックを受けているらしい」
 肩をすくめながらウォレンが言った。
 その言葉を受け、過去を思い返すようにカイルの目が左上を向く。
 しばらくの間があって、ああ、とカイルが頷いた。
「あれか」
「たまには笑ってやったらどうだ?」
「あいつの冗談にか?」
「そうだ」
 ふむ、と暫く考え込み、カイルは大きな疑問を抱いてウォレンを見た。
「……おもしろいのか?」
「俺はなんとも」
「お前も笑わないんだろう」
「一度もないな」
 記憶を辿る時間をとらずにウォレンはきっぱりと言い放った。
「ならば、笑えと言うほうがおかしい」
 最もなカイルの言葉に、確かに、とウォレンが大きく頷く。
 出た結論を静寂が消化する。
「それじゃ」
 一言残し、ウォレンはドアを開けて部屋を後にした。
 カイルは椅子に座りながらその姿を見送った。


 カイルの部屋のドアを閉め、ウォレンは体の向きを変える。
 秘書のリンジーが顔を上げた。
 目と目が合う。
「お帰りですか?」
 一瞬の沈黙の後にリンジーが口を開いた。
 ウォレンは軽く肯定の返事をした。
「事前に連絡を入れず、突然訪ねてきて申し訳ありませんでした」
「いえ、今日は予定が空いていましたので、お気になさらず」
「ありがとうございます」
「次からはいつものようにアポイントを取ってくださいね」
 リンジーは言いながらにっこりと笑った。
 分かりました、とウォレンが答える。
「失礼」
 目と目で丁寧な挨拶が交わされ、ウォレンは出口へ向かい、リンジーは仕事に戻った。
 面識は片手に数えるほどしかない。ウォレンの目には彼女は秘書として、リンジーの目には彼は車の保険会社の人間として映っていた。
 だが、カイルを中心とした互いの存在について、双方とも薄々気づいている様子ではあった。


 ウォレンが去っていった後、カイルは何を考えるでもなくしばらくその場に立っていた。
 名も知らぬ1羽の鳥がかすかな羽音と共に窓の外を過ぎり、室内に流れ星のような影を描いて消えた。
 動きを与えられ、カイルは机の引き出しを開けると中から葉巻の箱を取り出す。
 デスクの上に置き、蓋を開けて中から1本、手に取った。
 モーリスが愛用しているものとは種類が異なり、その味の違いについて彼と幾度か議論に及んだことを思い出す。それにつられるように昨日の電話の内容が頭の中によみがえる。
 すまんな、と彼は告げた。
 苦笑をする姿が電話越しに伝わってきた。
 迷惑をかける、の一言に、カイルはいつも通りの淡白な口調で、気にするな、と返した。数年前まで組織を束ねていた彼の実績を思えば、このような問題など大したものではなかった。
 ヒラーとの対立は最近のことではない。モーリスがこの地に拠点を置いて以来の腐れ縁である。
 時には血を見るようなこともあったが、モーリスが引退し、カイルが指揮を取るようになってからは撃ち合いのような派手な騒ぎは減り、冷戦状態のような緊張関係が続いていた。
 相手方がおとなしくなった理由は、ヒラーが格子の向こう側に入ってしまったところにあるだろう。
 しばらくは出てこないものと考えていたが、月日というものは案外速く過ぎ去るものだ。
(厄介といえば厄介か)
 問題が起こるのは、時期的にあまり好ましいとはいえない。
 ロシアの組織との大きな取引が数週間後に控えている。
 ヒラーは、このことをどこからか知り、出所したてのめでたい時期に、わざわざこのような騒動を引き起こしたのかもしれない。
 モーリスも十分に恨まれているが、カイルの組織も目障りなのだろう。
 まだ何も仕掛けてきていないところをみると、今回はモーリスへの復讐だけとも考えられる。
 だが、一種の警告がその裏に含まれていることは感じ取れた。
 ひとつ、カイルはため息をついた。
(最悪の場合、延期せざるをえないか)
 葉巻を遊ばせながら、難しい顔をさらに難しくする。
 しばらくの間、デスクの上を見つめていたが、ふとそこから目を離し、窓の冊子が室内に描く影に視線を移した。
(……ま、心配はいらんだろうがな)
 楽観的といっては語弊があるかもしれないが、事態が悪い方向へ進むことはない、と彼の直感が告げていた。
 葉巻を箱に戻し、その箱を引き出しにしまう間に、彼の頭の中で状況と考えがうまく整頓される。
 カイルは必要な書類を手際よくかき集めると、会議に出席するため光と静寂に包まれた部屋を後にした。
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