IN THIS CITY

第2話 People Person

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09 Guilty Road

 どこをどう走ったのか、全く記憶にない。
 息が切れ、足がもつれ、体が悲鳴を上げる。
 呼吸のたびに肺がきしみ、喉に血の味を覚える。
 脳がようやく体力の限界を悟り、休みを取れという伝令を全身に走らせた。
 胸を手で押さえながら、ジョンは金網の柵にもたれかかる。途端に体全体を疲労が覆いこみ、体重を支えきれずに膝が折れてその場に座り込んだ。
 荒い呼吸が苦しそうな音を生み出す。そのせいだろうか、実際よりも体の状態がひどく感じられた。
 暖かい日差しが今は暑い。眩しい光に目を細め、ゆっくりと頭を動かせば、間を空けずに追ってきた『カンフーの男』が心配そうにジョンを見ていた。息は切れているが軽いジョギングの後のような彼の姿に、ジョンは羨ましさを感じた。
「……どうして逃げたの? 警察の人に話をすれば、助けてもらえたかもしれないのに」
 相変わらず優しい彼の態度にジョンは少なからずの申し訳ない気持ちを抱いた。
 何か言葉を出そうとしたが、口すらも仕事をするのを拒んでいる。
 そんなジョンの様子に、リンは周囲を見回して涼しげな場所がないかを調べた。
 若者がよく利用しているのであろう、空のペットボトルや空き缶が路上に放置されている路地ではあるが、拒むほど汚い様子ではなかった。
「……とりあえず、日陰に移動を」
 ひらけた場所は太陽の光を存分に浴びており、また追跡者に簡単に見つかってしまう。
 1人はしばらく気を失ったままであろうし、あとの2人は警察が対応してくれるだろうが、隠れられるものなら身を隠しておいたほうが無難だろう。
 リンの差し出した手をとり、ジョンは重い腰を上げた。
 彼の足はまだ震えている。それが疲労によるものなのか、それとも恐怖によるものなのか、判別はできない。
 力の入らない足を引きずるように、ジョンはリンの肩を借りて移動し始めた。
「……やっぱ、すごいな、あんた。……こんだけ走っても、余裕、じゃないか」
 かすれた声が出るたびに、その振動が喉に響く。
「毎日運動してるからね」
 幾分か足に力を取り戻してきたジョンを誘導して、リンは建物の影に入った。
 路傍に放置されている木箱の上にジョンを座らせると、リンもその隣に別の木箱を引き寄せて座った。
 そう遠くない所から、人の声と共にボールが弾む音が聞こえてくる。
 バスケットボールのコートでも、近くにあるのだろう。
 涼やかな風が通り過ぎ、雑然とした路地にも穏やかな昼下がりの表情が見て取れる。
 流れる静かな時間。
 その間に呼吸と脈拍を整え、ジョンがひとつ大きな深呼吸をした。
「巻き込んでしまって、……ごめんよ」
 小さく切り出された言葉に、リンは軽く首を振る。
「気にしなくていいよ」
 その一言にジョンが顔を上げ、リンを見る。
 微笑を返すリンに、ジョンも弱々しく笑顔を作ると視線を地面に落とした。
 再び静寂が訪れ、穏やかに風が吹き抜ける。
 朝、まだ冬の空気を引きずっていると感じていたその風も、今は心地よい春風に感じられる。
 ジョンはリンから何か質問がくることを期待していたが、一向にその気配はなかった。
 おそらくジョンが自ら説明するのを待っているのだろう。
 それは理解しているのだが、なかなか切り出すタイミングを見つけることができない。
 どうするでもなく、ジョンは更に下を向いて手を遊ばせた。
「無理に話さなくてもいいよ」
 リンの一言に、落ち着き始めていたジョンの心拍数が一瞬増加した。
 弾かれたようにリンの顔を見る。
 まるでジョンの心を読んでいたかのような、しかし彼が期待していた言葉だった。
 ジョンは無言のまま再び視線を落とした。
 これでこのまま黙秘を続けることができる。
 続けることで、己がしたことを認めずに済む。
 しかし、無条件に窮地を救ってくれたリンの純粋な良心を考えると話しておくべきことのように感じられる。
 理由を話さずにいることがいたたまれなくなり、ジョンは揺らいでいた決心を固めた。
「……あいつらに頼まれて、写真の偽造をしたんだ」
 聞いてくれているリンの気配を感じ、ジョンは続ける。
「数日前の捜査官殺しの、あの一件に関わることなんだ」
 話題になっている事件のため、リンが、あ、と小さく声を上げる。
「今朝、ニュースで取り沙汰されていた――」
 ジョンは軽く二、三度頷いた。
「いい儲け話だったから、つい……」
 分かるだろ、と、同意を求めたかったのか、ジョンは苦笑しながら顔を上げてリンを見た。
 しかし、彼の表情が真剣なものだったために、ジョンは自分の顔からも笑みを消した。
「ちょっと待って、偽造って……、じゃあ、今朝捕まった人は無実なの?」
「……うん、まぁ、それは……」
「冤罪、ってこと?」
 真っ直ぐに目を見られ、ジョンは少しの間を置いて頷いた。
 暫くの間、無言の時が流れ、やがてリンが視線を地面に落とした。
「……彼に個人的な恨みでもあったの?」
 その問いに、ジョンは小さく肩を竦めた。
「ないよ」
「それなら……」
 何故、と、リンが小さく手を広げて尋ねる。
 ちょっとした彼の動作が、大きく見えた。
 力を行使されて責められているわけでも、言葉で直接責められているわけでもないが、ジョンは自分の心が戸惑っていることに気づいた。
 静かに包み込まれるような圧力を感じる。
 しかしながらそれは、重たいものではなかった。
「――それは……、いい話、だったから。それに、あいつら俺の腕を見込んで依頼してきたんだ。応えないわけには……」
 何故こんなにも動揺するのか分からず、ジョンは自分に言い聞かせるように言葉を並べた。
 その途中で、今まで全く気配のなかった罪の意識が芽生え始めたことに気づく。
 いや、ひょっとしたら、その意識は既に感じていたものなのかもしれない。
 作業していた部屋に戻らなかったのも、事件について無関心を決め込んでいたのも、つまるところ罪の意識から逃れるために無意識のうちに起こしていた行動なのかもしれなかった。
「……ジョン?」
 リンは話の途中で口を噤んだジョンを不思議そうに覗き込んだ。
 どきり、と心臓が動き、ジョンはリンを見た。
 彼の視線が、ジョンの心の裏側まで純粋に入り込んでくる。
 その目に吸い込まれるように、徐々に心の隅に押しやられていた感情がジョンの中で重みを増していった。 
 法律、という概念はとうに忘れていた。
 大学を出るまでは様々な人に接する機会があった。人付き合いは苦手でも避けられない状況というものは存在する。人と関わりを持つことで、あの頃はまだ法律を知っていた気がする。
 卒業後、一度は職に就いた。しかし長続きはせず、以来正規の仕事を持っていない。必然的に社交性はなくなり、思想が一方向に偏った人間と接することが多くなった。
 その頃からだろう、犯罪という行為を、『罪を犯す』行為として認識しなくなったのは。
 法の示す道から逸脱した世界。
 その世界がいつの間にかジョンにとっての常識となり、彼の友人との共通の概念となっていた。
 停滞し慢性化していた考え。頭の隅では悪いことだと分かっていても、それは無意識的に否定されていた。
 改めて、ジョンはリンを見た。
 新鮮な風が、忘れていた何かを運んでくる。
 それでも、まだ――。
「……でもあいつは昔、武器密輸組織と関わっていたって噂じゃないか。逮捕されても、別に……」
 必死に自分が行ったことを正当化する理由を探すが、満足のいくものは見つからない。
 混乱する頭を抱え込み、ジョンは前かがみになった。
「分からない、写真を渡して、金をもらって、それで終わるはずだったのに……。なんだってこんな……」
 全て、自らがまいた種であることは分かっている。
 分かっていても、それを認めたくはない。
 己を責める心の中に、それを拒絶する彼自身の存在がある。
 必死にもがき、現実から目を逸らそうとするも、逃げ道などそこにあるはずもなく、結局は事実の前に膝を折ることになる。
 ジョンは手を外して上体を起こし、空を仰ぎ見た。
 しかし、その澄んだ青色がジョンの目に留まることはなかった。
「……あいつら、俺を殺しに来たんだ。だから、部屋を爆発させて……」
 首を振るジョンの脳裏に炎上する自分のアパートの姿が思い起こされる。
「爆発って……、さっきの火事のこと?」
 少しの間を置いて、ジョンが数回首を縦に振る。
「彼らの仕業なの?」
 顔全体を手で多い、ジョンが首を横に振る。
「分からない、それは分からない。でも、ジャックが……、友達が中にいたんだ。本当なら、俺が……」
 なんでこんなことに、とジョンは肘を膝の上に乗せた。
 1時間ほど前までは元気だった友人の姿。
 一時的に封じられ、堰きとめられていた感情が一気に溢れ出す。
「なんであいつが……」
 かすれた声と共に、その肩もまた、小刻みに震える。
「……俺のせいで……」
 間違っていたんだ、分かっていたんだ、とジョンは小さく繰り返す。
 呟かれる詫びの言葉は、誰でもない、友人へのものだろう。
 いたく小さく見えるジョンの背中に、リンは言葉をかける代わりに手を置いた。
 加害者側に立つ彼が、今は被害者の立場にいる。
 弱々しいが、素直に感情を表に出す彼は、根は悪くない人間なのだろう。
 彼の震えが治まるまで、リンは静かに待った。
「……ジョン、友達のことは本当に気の毒だと思う。責任を感じるのも分かるよ」
 優しくかけられた言葉に、ジョンは顔を覆っていた手を下ろし、視線を地面にやった。
「……でももう1人、気にかけないといけない人がいる」
 気にかけなければならない人間。
 それが誰なのか、ジョンはすぐに理解できた。
 湧き上がる罪の意識とそれを認めたくない心が渦を巻く。
「君にとっては難しい選択かもしれないけど、このままにしておくと無実の人が罪を背負わないといけなくなる」
 何をせよとは言わず、リンは穏やかに切り出した。
「でも――」
 ジョンはそう呟きかけて口を閉じた。
 法的な罰を受けるのは明らかだった。自分が関わっているという証拠がない以上、できることならこのまま知らぬ存ぜぬで通したい。
 しかし、芽生えた罪の意識をずっと抑えていることができるだろうか。
 正当化する理由で塗り固めたとしても、自分自身には隠し通せるものではない。
 それに、捜査線上に浮かんでいなくても『彼ら』には知られている。
 『彼ら』が何をするのかは、明白だった。
 逃げたとしても、逃げ切れる自信はない。
 それならば、いっそのこと――。
 しばらくの間を置いて、ジョンは再び口を開いた。
「――そうかもしれない。……全部、話してしまった方が安全そうだ」
 ひとつ呼吸をいれ、それに、と続ける。
「胸の内も、スッキリしそうだし」
 そう、自分に区切りをつけるとジョンは視線を落としたまま弱々しく笑った。
 これでいいのだろうか、と思う道よりも、これでいいのだろう、と思える道の方が、歩きやすい。
 心を決めたらしい彼の肩を、リンは軽く叩いた。
「僕が助けになるよ」
 その言葉に驚いたようにジョンが顔を上げる。
「大丈夫だよ。自ら出頭すればそれなりの考慮はしてくれるだろうし」
 ジョンが感じているであろう不安を察し、リンは安心させるために言葉を紡いだ。
「あ、いや、そうじゃないんだ」
 ジョンが首を振り、リンが疑問の眼差しを送る。
「……助けに、なってくれるのか?」
 何の見返りも期待せず、無条件に差し伸べられた手。
 不思議そうな顔をするジョンに、リンは微笑を返す。
「知ってしまった以上、君を放ってはおけないよ」
 当然のことのように告げられた言葉に、ジョンはただ、ぽかんとした表情を続けた。
「どうしたの?」
 リンの声に我に返り、ジョンは数回まばたきを繰り返す。
「……いや、なんでもないんだ。ただ――」
 一呼吸置き、信じられない、と首を横に振る。
「――ありがとう」
 意識せずとも口からこぼれた言葉。
 他人がこれほどまでに優しく見えたのは、初めてのことだった。
 ジョンがその一言に込めた感情を悟り、リンは軽く肩を上げ、にっこりと笑って見せた。
「僕ってけっこう、お人好しらしいから」
 幾分か癒された心に、ジョンも表情を和らげた。
 日差しの温かさを、肌が再び認識し始める。
「さ、じゃあ、行こうか」
 リンが先に腰を上げ、軽く伸びをする。
 脅迫されるのでも急かされるのでもなく、ジョンは頷いて同意すると自ら立ち上がった。
 前に立つリンの背中から力強さを感じる。
 人の存在というものを特別に意識したのは、ジョンにとってはこれが初めてであった。
「……あんた、やっぱすごいな」
「そう?」
 何に対して『すごい』と言われているのか見当つかず、リンは疑問を声に乗せた。
 そうだよ、とジョンが頷く。
「感心しているところ申し訳ないんだけど……」
 言いつつリンは肩を竦め、
「ここ、どこかな。この辺の地理には詳しくなくて」
と苦笑をしながら続けた。
 そんな彼をしばらく見た後、ジョンはふっと笑いをこぼした。
「俺は知ってるから大丈夫」
「じゃ、君についていくよ」
 互いに軽く微笑を交わし、2人は直線的に伸びる路地を歩き始めた。
 足取りは軽いとはいえないが、気分は重たいものでもなかった。
 聞こえていたボールの弾む音が徐々に遠ざかる。
「ジョン、最初に君を追いかけてきた男と、後の2人は仲間なの?」
 リンの質問に、顔を思い出すようにジョンが空中の一点を見つめる。
「最初の奴は金を貰ったときにいたけど、後の2人は見たことないよ。何で?」
「いや、別に大したことじゃないんだけど。ただ、雰囲気が違ったから、気になって」
 友人が窮地に、とブロンドの髪の男性が言っていたことを思い出す。
 それが正しいのだとしたら、その友人というのはおそらくは――。
 ふと、リンは後方を振り返った。
 バスケットコートからの声がわずかに聞こえる以外、人の姿も足音もなかった。
 視線を進行方向に戻す。
 丁度その時、前方の十字路を一台の車がゆっくりと通過した。


 入り組んだ路地裏はおそらく、夜になればどこもかしこも同じに見えるだろう。
 すれ違う人の数はまばらであった。
 アレックスは適度な速度を保ちつつ直感の誘導するところへと足を運んでいた。
 それとなく周囲を見回すのだが、それらしき人影はまだ見当たらない。
 途中、不意に前方のT字路を1人の男が過ぎった。
 相手はアレックスの姿に一瞬足を止めたように見えたが、何気なく顔を確認しただけでそのまま通り過ぎて行った。
 それだけならば、アレックスが彼に対しての注意を払うことはなかったかもしれない。
 しかし彼からは足音がしなかった。
 何かが引っかかる。そしてこの手の感触はまず間違いないものだ。
 アレックスは慎重に足を速めてT字路に辿りつくと、建物の側に足を運び、後方に人影がないことを確かめた後、男が去っていった路地を、壁と一体化するように身を寄せながらそっと覗いた。
 男の後ろ姿を確認する。
 携帯電話に呼び出されたのか、路地の前方を行く男がポケットからそれを取り出し、耳に当てた。
 少しの間を置いて、その先の建物の上空から車のブレーキ音が空に溶け込むように伝わってきた。
 同時に、長年の経験により磨きのかけられたアレックスの直感が警報を出す。
 反射的に身を引けば、男が素早く振り返る寸前の映像が建物の壁に隠れた。
 なかなかに、油断ができない。
(……面倒だね、こりゃ)
 軽く息をつくと、適当と思われる時間を置いて、アレックスは再び建物の影から路地の様子を窺った。
 路地の中ほどに立っている男が方角を確認するように右前方の上空を仰ぎ、次いで携帯電話を切ると軽やかに走り出した。
 進行方向に身を隠す場所を何点か確認し、これから尾行する相手との間の適切な距離を計算すると、アレックスは建物の影から飛び出した。
 行動開始とともに携帯電話を取り出し、ウォレンにつなぐ。
「あ、ウォレン? 『足』、持ってこれる?」
 場所を告げて短い通話を終えると、アレックスは角を曲がって消えていった男の後を追っていった。
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