IN THIS CITY

第2話 People Person

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07 Got Involved

 穏やかに晴れた空から降り注ぐ暖かい日差しに心地よさを覚えながら、リン・ウーはイヤフォンを耳に、大通りに並行して伸びる、建物の間の路地を歩いていた。
 実年齢よりも若い服装をしている彼だが崩れた様子はなく、遊びの入った短い髪形と細身の小柄な体に似合う着こなしをしていた。
 流行の曲を耳にしながらのんびりとした調子で歩みを重ねる。
 このところ忙しい日が続いていたため、広々とした空の下を歩くのが気持ちいい。
 たまには休息も必要とういことで、以前からこの日はオフにしていた。久しぶりにゆっくりと時間をとることができ、巷で話題となっている、少しばかり値の張る店で昼食をとったその帰りだった。
 耳元で奏でられる軽快なリズムの音楽にサイレンらしい現実の音が入り込み、リンは顔を上げた。
 歩いている通りは人気がなく、それ以外に別段変わった様子はないが、ふと視線を右手に移せば煙らしきものが立ち昇っているのが見えた。
 あ、とその場に立ち止まる。
 イヤフォンを外せば、隔離された世界から現実の世界に聴覚も戻ってきた。
 サイレンの音から各機関が既に到着し、事態に対処していることが分かる。
(……怪我人が出ていないといいけどな……)
 他人事でも放っておけない性格をしている彼は、友人からも知人からも相当な『お人好し』で通っている。
 皮肉なほどに澄んだ空を仰ぎ、リンは黒い煙から最近の良くないニュースを連想すると、手元のイヤフォンからわずかに漏れている音楽を止めた。
 治安は改善の傾向にあるとはいえ、まだまだ物騒な世の中であることに変わりはない。ついこの間もFBI捜査官が射殺される事件がニュースで報道されたばかりだ。
 悪い事が起これば、連鎖反応的に次々と悪いことが起こる。
 伸び上がる黒煙が心にまで侵入してきそうで、リンはぎゅっと拳を握った。
 ふと、前方から金属がアスファルトに落ちて転がる派手な音が聞こえてきた。
 視線を空から地上に戻す。
 細い路地と交差するところから1人の男性が現れ、怯えたように後ろを確認しながらリンのいる方向へ走ってきた。
 ただ事ではなさそうなその様子に疑問を持ちながら、リンはイヤフォンを外して片付けると、とりあえずその場に留まった。
 息を切らした男性が進行方向を向く。その男性がリンの存在に気づき、急ブレーキをかける。
 彼の表情に恐怖が存在することを察知し、リンはゆっくりと歩み寄った。
「どうかしたんですか?」
 荒い呼吸をしながら、ジョンはリンの顔と服装を交互に見た。
 警戒されていると悟り、リンは適度な距離を保って柔らかな表情をすると、両手を前に持っていき落ち着くように促した。
「安心してください、僕はただの通行人です」
 緊張をほどくような口調で告げると、リンは微笑をしてみせる。
 無言のままだがジョンの警戒心が解けていく様子がリンに伝わった。
 しかし、その穏やかな空気が流れたのも束の間だった。
 ジョンが通りに飛び出てきたところと同じ場所から、別の男が同じように飛び出してきた。
 リンが最初に気づき、目をやる。次いでジョンに再び緊張が走り、彼が弾かれたように後方を見た。
 2人の視線の先で男が左右を確認し、その目が彼らを捉えた。
「……ッ」
 声にならない声を出してジョンが後ずさる。足が震えており、思うように動かないらしい。
「追われているんですか?」
 こちらに向かって駆け出す男を視界に入れながらリンはジョンに尋ねた。
 怯えた目がリンを見上げる。
 目の前に立つ男が救世主に見えたのか、ジョンが希望の眼差しを投げかけながら口を開いた。
「あんた、チャイニーズ?」
 突拍子もない質問に、リンは一瞬戸惑いながら答える。
「あ、いえ、僕は――」
 律儀にも、チャイニーズ・アメリカンです、と告げる前に遮られる。
「カンフー?」
 一種の固定観念にのっとった発言。
 一瞬、意味を理解し損ねてぽかんとするリンに対して、言葉が通じなかったと解釈したのかジョンが両腕を構える。
「カンフー?」
「へ?」
 短い疑問をジョンに投げかけるがそれもまた無視された。
「助けて、頼む!」
 まるで母国語でないかのように片言の英語でジョンはそう言うと、返答する時間も与えず、動かない足を引きずるようにリンの影に隠れた。彼としては藁をもすがる思いなのだろう。
「え、あの、ちょっ……」
 状況を理解しないままにリンは矢面に立たされた。
 事情を聞こうと口を開く前に、前方から走ってくる人物の足音が大きくなり、リンは視線をその男に向けた。
 少しばかり息を切らしたデリックが数メートル先で速度をゆるめ、ゆっくりと2人に歩み寄っていく。
 明らかに悪意のある彼の表情に、リンはどちらに味方するべきかを心に決めた。
「兄ちゃん、どきな」
 歪んだ笑いを浮かべ、デリックはリンを見下ろすように言った。
「……何かあったんですか?」
「いいから、どけ」
「理由を聞かずに『はい』とは言えません。彼をどうする気です?」
 警戒の色を強め、リンはデリックから伝わってくる圧力に負けないように姿勢を正した。
「……どうするかはこっちの勝手だ。おめぇの気にするこっちゃない」
 目の前の小柄な男が意外にも肝が据わっていることを知り、デリックは余裕のある表情を消してリンを睨み据えた。
「こ、殺すつもりだろ、そうなんだろ!?」
 リンの後ろでヒステリックな声を上げたジョンに対し、デリックは明確には答えず、軽く眉を動かし首を傾げた。
「ああもう、なんでこんなことに……」
 殺意があるのをそのままに受け取り、ジョンは絶望の極みまで到達したような声を出す。
 命すら危うい余程のことが関係しているのだろうと読めば、リンの肌が周囲の気温の急激な低下を感じ取った。
「……事情はまったく分かりませんが、彼の言っていることは本当みたいですね。だとしたら、僕は彼を放ってはおけない」
 デリックに向き直り、リンはきっぱりと告げた。
 暫時、静かな時間が流れる。
「……へっ。そうかい」
 やれやれと肩をすくめ、デリックはため息をつき、続ける。
「言っとくが、そいつさえ渡してくれりゃ、おめぇには危害は加えねぇ。これだけは約束するぜ?」
 右手を差し出し、ジョンを渡すように催促をする。
 リンは無言で拒絶を表し、脅迫を仕掛けてくる相手を見据えた。
 決心が変わらないことを知り、デリックは、分かったよ、と両手を広げてみせた。
 その緩やかな動作が一転して機敏なものに変わり、デリックは腰から拳銃を取り出すと2人に銃口を向けた。
 驚いてリンが一歩後退し、悲鳴を上げてジョンが尻餅をつく。
 目の前に突きつけられた銃口を凝視し、リンは息を呑んだ。
 紛れもなく、本物、である。
「最後の警告だぜ?」
 にやっと笑うデリックに視線を移し、リンは相手が本気であることを確認した。
 心拍数が急増し、嫌な緊張が全身を駆け抜ける。
「……一体何をしでかしたんです?」
 小声で後ろにいるジョンに尋ねたが、彼はただ首を横に振るだけだった。
「どうする?」
 余裕に満ちた表情で、デリックが催促をする。
 ほんの一瞬思考が停止したが、リンはすぐに冷静さを取り戻すと素早く考えを巡らせ、それを行動に移した。
 何かを見つけたように小さく驚きの声を上げ、デリックの後方に目をやる。
「あ! おーい、お巡りさん! 来てください!」
 手を振り、大きな声でそう叫ぶ。
 目の前のデリックの顔が強張るのが見え、続いて彼が後ろを振り返った。
 消防車などが近辺に来ていることも助けになったか、単純な嘘に乗った彼に感謝をしつつ、また生じた隙を逃さずに、リンは俊敏な動きで前に出るとデリックの持っている拳銃を高々と蹴り上げた。
「……ッ!」
 小さくうめき声を上げてデリックがバランスを失う。
 地に落ちた凶器が回転しながら道路を滑る前に、続けざまにリンはデリックの後頭部に相当な衝撃を喰らわせた。
 デリックの膝が折れ、痛みの声と共に地面に崩れる。
「ごめんよ」
 ご丁寧に一言詫びの言葉を告げると、リンは事の急展開に唖然とするジョンを引っ張る形で足早にその現場を後にした。
 悔しいがジョンの直感は当たらずとも遠からず、である。
 実践型ではないにしろ、武術における大きな大会での優勝経験もあるリンの動きは柔軟且つ鋭敏であった。
「……すごいや、映画を観ているみたいだ、あんた、やっぱり――」
「言っとくけど僕は空中とか歩けないから!」
 先ほどまで怯えていたのが嘘のように興味津々の眼差しを送ってくるジョンに対して、リンは呆れたように言葉を放った。
「でもさ、さっきの動き――」
 興奮した様子のジョンの言葉は、いきなり立ち止まったリンによって遮られた。
 同じようにジョンも足を止める。
「何?」
「……まずい、こっちに」
 リンが左手に折れ、彼の影になってジョンからは見えていなかった周囲の様子が彼の視界に入る。
 数メートル前方に立つ若い男と目が合った。
「……何だよ嘘だろ聞いてないよ仲間がいたのかよ」
「早く!」
 感情の上下振動の激しいジョンに呆れつつも、再び絶望に駆られる彼を引っ張り、リンは横手の路地に逃げ込んだ。
 厄介なことに巻き込まれた、と感じるが、今更ジョンを放り出して逃げることはできない。
 事情はともあれ、今はとにかく彼を守ることが先決である。
 どうすれば、と泣き出しそうな彼の声を背後に、リンは頭の中に周辺の地図を描いた。
 食事で訪れる店付近以外の地理については詳しくないため空白の区間が多い。
(……参ったなぁ。でもとりあえず大通りに……)
 人の多いところに出るのが一番の策だが、いい経路が頭に浮かばず、内心焦りが募る。
 一筋のルートを思い浮かべたとき、突如前方のT字路から男が飛び出てきた。
 まだ仲間がいたのか、とリンの心が若干重たくなる。
 急に立ち止まれば後ろからついてきたジョンがぶつかってくる。
「あいたっ」
 小さく声を上げたジョンを見つけ、前方の男がリンの後ろを覗き込むように身を傾かせた。
「あ、めっけた」
 その男から発せられた緊張感のない言葉に一瞬戸惑い、その分だけリンの行動が遅れる。
 走って来た道を戻り逃げようと考え後方を振り返るが、その先には路地に逃げ込む時に出くわした若い男が立っていた。
 しまった、と思ったが完全に挟み撃ちの状態だ。逃げ場がない。
 両側の建物を見るが、内部へのドアらしい場所も見当たらなかった。
 前方と後方を交互に見ながら、リンは日陰の冷たさと同時に危機的な状況を肌で感じ取っていた。


 ジョンともう1人の男を挟み、ウォレンとアレックスはゆっくりと距離を縮めた。
 互いに視線を交わし、見覚えのない男が誰かを問い合い、心当たりがないことを互いに目で告げる。
 壁際に寄るジョンとリンを頂点に三角形を作る形でウォレンとアレックスは立ち止まった。
「や、どうも。……えーっと、ジョン・マーティン?」
 アレックスがジョンを見て尋ねる。
 返答はなく、ジョンは怯えながらリンの影に隠れた。
 ジョンの様子を見る限り、彼の味方らしい若い男がヒラー側の人間ではないことが分かる。
「それと――」
 一語で区切ってアレックスはそのリンを見た。
「お前さんは誰?」
 いつも通りののほほんとした口調に言葉を乗せてリンに尋ねた。
 威圧感のないアレックスの様子に、壁際の2人が怪訝な表情をする。
 リンはアレックスから視線を外し、ウォレンを見た。
 それに対してウォレンも同じ質問を無言で投げかけた。
「……あなたたちこそ、誰?」
 見え隠れする警戒の色を素直に顔に出しながらリンは尋ね返した。
「誰、って言われてもねぇ。ちょっと一言では説明できないかなぁ」
 アレックスは穏やかな口調で、軽く肩を竦めて答えた。
「あの男の仲間ですか?」
「あの男?」
 リンの言葉を疑問で返し、アレックスはウォレンを見る。
「どの男だ?」
 直感的にデリックのことを指しているのだろうと分かったが、ウォレンもアレックスも知らぬふりをして尋ね返した。
 何も知らないという雰囲気はごく自然なもので、リンは2人の様子をそのままに受け取った。
「マーティンさんとちょっと話があるんだけど、いいかな?」
 アレックスがへりくだった様子で許可を求めた。
 攻撃される危険性がないと見て取ったのだろう、リンの警戒は大分解けてきた。が、しかし肝心のジョンのほうは未だに小刻みに体を震わせている。
「……話って?」
 アレックスを見ながらリンはゆっくりと尋ねた。その間にも目の前に立っている2人の男の分析を行う。
 30代後半だろうか、薄手のコートを着たブロンドの男性と20代と思われるダークブラウンの髪の男性。ネクタイこそ外しているものの、それなりにきちんとした身なりをしている彼らの職業を推測するのは難しく、ともすれば警察だと言われても信じてしまいそうだった。
 背後のジョンがこれほどまでに怯えていなければ、リンは警戒を完全に解いたかもしれない。
「いやぁ、古い友人が窮地に立たされていてね。マーティンさんの協力が必要なんだ」
 話の内容は秘密だと断言してしまえば再び警戒されかねない。アレックスは無難と思われる言葉を選んで相変わらずの口調でリンの質問に答えた。
「う、嘘だ! あんたらあいつらの仲間だろ!? 俺を始末するように言われたんだろ!?」
 うまく回らない舌を急がせ、ジョンが喚く。
「ジョン、落ち着いて」
 先ほど耳にした名前を呼び、リンは彼をなだめた。
「落ち着けないよ! あんた、さっきみたいに早くそいつらをやっつけてくれよ! でなきゃ殺される……!」
 悲鳴に近い声を出しながら、こいつらを信じるな、とジョンが呟く。
 完全に恐怖に駆られている姿を見ながら、ウォレンとアレックスは互いに顔を見合わせ、面倒だな、と無言で呟き合った。力ずくでどうにかなる問題ではあるが、そうなると正義感の強そうなリンをどうするかが新たに問題となってくる。
 事が事だけに荒立てては不利になる。
 あくまで穏やかに運ぼうと、アレックスが口を開きかけた時だった。
 遠くから聞こえていたサイレンであったが、遮るものがなくなったのだろう、その音が急激に大きくなり、近くで止まった。
「おい! 何をしている!」
 通りの方角から聞こえてきた大喝に一同が一斉に振り返る。
 路地の入り口に一台のパトカーが停車しており、その運転席から警察官が降りようとしていた。
 助け船が来た、とリンはほっと胸をなで下ろした。
 どうやら先ほどついた嘘が時間差で真になったらしい。
 同じように警察官に目をやりつつ、表情を変えずにウォレンとアレックスは憂鬱な感情を抱いた。面倒事が起こったときは別の面倒事も湧き上がるものだ。
 だが訪れた警察官の存在をありがたく思わなかったのは彼らだけではない。
「……まずい」
 小さく呟き、ジョンが足に力を入れる。
「よかった、これで――」
 解決できそうだ、と言いかけたリンの後ろからジョンが飛び出し、今まで震えていたのが嘘のように、回転の速い足で走り出した。
「え? あ、ちょっと、ジョン!」
 意外な彼の行動に、リンがその後ろを追いかける。
 警察官の登場によりジョンから注意が逸れていた。去っていく2人にウォレンとアレックスが倣おうとした時、後方から再び大喝が聞こえてきた。
「動くな!」
 言葉から相手が拳銃を構えていることが分かる。
 そう簡単に発砲されるような状況ではないが、これまでの経験上、職務に忠実な人間の言う通り行動した方がよいと判断し、2人は大人しくその言葉に従った。
「両手を頭の後ろに!」
 緊張がたっぷりと感じられる警察官の大きな声に、アレックスは突発的な出来事に弾かれたように、ウォレンは状況を把握できていない様子を装ってぎこちなく、それぞれ手を頭の後ろに持っていった。
「……お前さん、悪い運でも拾ったんでない?」
 警察官に気づかれないように意地の悪い笑みを浮かべ、身長差はそれほどないがウォレンを見上げるようにアレックスが言った。
「……事を面倒にするのはいつもそっちだろ」
 言葉どおりの表情をしてウォレンがアレックスを見下ろす。
 長年の付き合いではあるが、残念ながら共同作業をするときほど、物事が計画通りに進んだ試しがない。
「マイナスとマイナス、ってことかね。相性が悪いねぇ」
 ため息混じりにアレックスが呟いた。
「掛けたらプラスになるはずなんだがな」
「神様は足しちゃったんだねぇ」
 2人同時に苦笑をすると、それまでの表情を顔から消した。
 拳銃を構え、警戒しながら歩み寄ってくる警察官に向き直る。
 肩に力のはいったその様子を目に入れながら、ウォレンとアレックスは何が起こったのか理解できていない一般人を装って不安な様子を自然に演じつつ、彼を迎えた。
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