IN THIS CITY

第5話 A Sense of Foreboding

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03 High-Stakes

 夜間に氷点下まで下がった外気にさらされ、排気口から白い湯気が立つ。
 風は弱いらしく、湯気は晴れたに向かって真っすぐに上がろうとしている。
 まばらにジョギングをしている人々が見かけられる公園からほど近い、ボルティモアのアパートの一室。
 セントラルヒーティングの微かな音が聞こえる中、ラップトップの画面に表示された口座に予定の金額が振り込まれる。
「確認した」
 一言、簡潔に報告すると、ウォレンは別の海外の口座へ送金する手続きに入った。
「風もあったが、見事だったな」
 近くで購入したコーヒーを片手に窓の端から外の様子を眺めつつ、イーサン・ダグラスが呟く。
「誰かの教え方が巧かったんだろ」
「私を持ち上げても報酬額は上がらんぞ」
「期待はしていない」
 送金の手続きが終わったことを見届けた後、ウォレンがラップトップを閉じ、続ける。
「騒ぎにはなっていないようだが」
「水面下での動きはあるだろうが、心配はいらない」
「そうか」
 一言だけ返し、ウォレンが立ち上がる。
「それで、決心はついたのか?」
 ダグラスの問いかけに彼と視線を合わせ、ウォレンはひとつ息をつくと小さく肯定した。
「なら会うのもこれで最後だな」
 カップからコーヒーを一口すすり、ダグラスは視線を窓の外に戻した。
 暫時の静寂の後、続く言葉がないことを知ってウォレンが怪訝そうにダグラスを見やる。
「……それだけか?」
 聞こえてきた疑問の声に、ダグラスはウォレンを一瞥すると窓から離れた。
「そうだ」
「こうすんなり辞めさせてくれると逆に不安なんだが……」
「お前の口が堅いことはお前自身が実証済みだ」
 コートをかけておいた椅子のほうへ歩を進め、ダグラスがウォレンを見やる。
「……あれは俺自身が質だったからだ」
「なるほど」
 以前ほど意識して感情を抑えこんでいないらしいことを確認すると、ダグラスは近くの棚にコーヒーカップを置いた。
「当時を振り返って分析できるまでになったか」
 返事が来ない様子を背中に受けつつ、コートを手に取る。
 傷痕は残っているだろうが、乗り越えることはできたらしい。
「万が一、質をとられたときはどうする?」
 尋ねながらダグラスがコートを羽織る。
 視線の先でウォレンがひとつ息をつく。
「俺のことは仕方がないだろうが、質については――」
 語尾を弱め、少し苦い顔をする彼の様子に、ダグラスは続きを促さずに頷いた。
「可愛い弟子の頼みだ。最善を尽くす」
「助かる」
 安心した様子のウォレンに、構わない、とダグラスが小さく返す。
 身支度を整えたところでコーヒーカップを手に取り、玄関に歩を進めようとしたダグラスだったが、ゆっくりとウォレンに向き直った。
「……これは単に私の興味本位だが、ついでに聞いておこう。どこまで調べた?」
 問いを受けてウォレンが視線を上げる。
「何のことだ?」
「とぼけるな。今のお前ならともかく、昔のお前だったら首を突っ込んでいただろう」
 対象を絞り込んだ補足ではなかったものの、何を示しているのか分かったらしく、ウォレンは頷くとソファの背に腰掛けた。
「……興味本位か」
「そうだ」
「オフレコか?」
 喉で肯定の音を出し、ダグラスがコーヒーカップを口に運ぶ。
 頷いたウォレンが、何から話せばいいのか考えるように一度視線をダグラスから逸らした。
「……19年前の誘拐事件が発端で、17年前の人身売買の捜査が決定打」
 聞こえてきた言葉に、ダグラスはコーヒーを飲む動作を中断した。
 視線を合わせてくるウォレンに対して表情を変えず、無言のまま続きを促す。
「どっちもNYで起きた事件だ。あんたが持ち込む依頼のほとんどが古い事件に関連していたが、何件かは違った」
 どう違ったのかの説明はなされなかったが、先の2件と同じような事件だったことを言っているのだろうことは察せられた。
 引き続き無言のまま聞く姿勢を保つダグラスを確認したか、ウォレンが続ける。
「……潤沢な資金を用意できて捜査の手に関与できる奴らが『役員』をしているんだろ。1人では無理な話だ。複数人絡んでいることは容易に想像できる」
 言いながら腕を組むウォレンを見、ダグラスはコーヒーカップを持っていた手を下げた。
「……その2件に絞り込んだ理由はそれだけか?」
「2年前から明らかに動きが鈍くなった。それで確信した」
「2年前?」
「検事の落選と資産家の逝去」
 2年前までブルックリン地区の検事だったジョージ・ワグナーと資産家のポール・グリーンのことを指しているのだろう。少なくともその2名が先に述べた2つの事件に関係があるところまでは調べたらしい。
 ウォレン自身、彼の表現するところの『役員』会で下した判断の末端の工程に関わっていたとはいえ、ダグラスが彼に渡したのは基本的に『仕事』の対象者の情報のみだ。必要がなければ判断に至った背景は全く説明しておらず、逆に聞かれた記憶もない。
 また、銃火器の取扱いについてウォレンに教えてきたのはダグラス自身だが、情報収集のいろはに関しては一切手を貸していない。こちらはどちらかといえばアレックス・デイルの得意分野だ。彼が積極的に教示したとは考えられないが、それでも過去の経緯を鑑みて最低限のことは教えていたのだろう。加えて観照力に長けているウォレンだ。身近にいたアレックスの言動から学びとったことも少なくないはずだ。
「かなり発言力のある2人だったんじゃないのか?」
 無言を貫くダグラスにウォレンが問いかけてみるが、相変わらず肯定も否定もされなかった。だがそのことに対して不満はないらしく、ウォレンは組んでいた腕を自由にさせるとソファから腰を離した。
「……まぁ、言い方は悪いかもしれないが、みんな年を取ったんだろうな」
 聞こえてきた言葉にダグラスは苦笑すると、一口コーヒーを口にした。
「あんたはあまり変わっていない気がするが……」
 言いながらウォレンがダグラスを見やる。
 ダグラスの正確な年齢は知らない。見た目は初めて会った時から確かに年を重ねた気はするが、体は常に鍛えているのだろう、壮健なところは変わっていないように感じる。
「手のかかる弟子がいたからな。そう簡単に老いるわけにはいかなくてね」
 ダグラスの言葉を受け、今度はウォレンが苦笑を返すと視線を逸らした。
 否定したいところではあるが、過去の諸々を考えれば耳が痛い。
「察しているだろうが、潮時にするなら今が好機だ」
 そう告げ、ダグラスが残りのコーヒーを飲み干す。
「お前の言うとおり、我々はいささか年を重ねすぎてね」
 視線は逸らしたまま、ウォレンが耳に入ってきた言葉を考える。
 ダグラス自身、発言力のある一人であるかのような言い方だったが、彼の過去に深く立ち入ることは避けたかった。
「……後継は考えていないんだな」
「時代は変わった。完璧ではないが捜査手法も進化している。若手はそれに頼ればいい」
「珍しく年寄りくさいこと言うな」
「否定はしない」
 空になったカップを近くの棚に置き、ダグラスが続ける。
「カリブに浮かぶ島で悠々自適な生活をしてもいい頃合いだ」
 そうか、と頷いたウォレンがダグラスに視線を戻す。
「ひとつ聞きたいんだが、何であんたらは引退後にカリブ海方面を考えるんだ?」
「『ら』?」
「アレックスもよく口にしている」
 聞こえてきた固有名詞に、ああ、とダグラスが苦笑を漏らす。
「彼の場合はビーチの露出度の高い女性たちが目当てだろう」
「まぁ、だろうな」
「一緒にされては困る」
「あんたは違うのか?」
「年を取ると寒さが身に堪える。それだけだ。お前もじきに分かる」
 玄関のほうへ体を向けてウォレンを見やれば、露骨に、じきに分かりたくない、という表情をしている様子が窺えた。
「そういえば、お前が親しくしている捜査官が年初からボルティモア支局に転属になったらしいな」
 ウォレンからの返答はなかったものの、驚いている様子でもないところをみると、明確に聞いてはいないがある程度察してはいたのだろうことが窺える。
「誰を重ねているかは知らんが、あまり肩入れするな」
 ダグラスの言葉に彼を見やり、その意味することを理解すると、ウォレンが大きく息をついた。
「……あんたに知らないことはないのか?」
「何年の付き合いだと思っている」
「言っておくが肩入れはしていない」
「そうか?」
「腐れ縁なだけだ」
「初期に切ることもできたはずだ」
「『保険』にもなりそうだったもんでね」
「面倒ごとにも発展したようだが」
「ちゃんと片は付けた」
 あからさまに、口出ししてくるな、という雰囲気を醸し出してくるウォレンに対し、確かに踏み込みすぎたか、とダグラスが両の掌を見せる。
「まぁ、お前が素直に元の生活に戻れるか、見ものだな」
「……随分信用がないな」
「当たり前だ」
 不服そうなウォレンの様子に、少なくともその気が全くないわけではないことを確認する。
「何なら賭けるか?」
 そうダグラスが持ち掛ければ、興味を持ったらしくウォレンが腰に手をやる。
「額は?」
「500」
「戻れるほうにか?」
「なんだ、お前は損する方に賭けるのか?」
 多少挑発めいた口調で答えれば、ウォレンが軽く笑って視線を逸らした。
「今後半年、動きがなければお前の勝ちだ」
「半年か」
「無論、その後に動きがあったら倍もらおう」
「随分と易しいな」
「さて、どうかな」
 ダグラスの表情に少しばかり笑みがこぼれているのを見て取ったのだろう、ウォレンが訝しげに彼を見る。
「最後の挨拶は次の機会だな」
 一言残し、ダグラスは玄関へ向かった。
 そのドアノブに手をかけた彼が、そういえば、と振り返る。
「ランダースの件は聞いたか?」
 カイル・ランダースはボルティモアを拠点に手堅く武器の密輸組織を束ねている人物だ。ダグラスの仕事の依頼に使用する狙撃銃も元を辿れば彼から購入した代物になる。
 ボルティモア近郊でのランダースの動きについてはダグラスとしてもあまり関知していないところではあるが、ウォレンがアレックスと組んで動いていることは把握している。
 無言を保ったままのウォレンに、最近のランダース側の話については彼の耳には入っていなかったことを確認する。推測するに、アレックスのところで制限がかかっているのだろう。
 詳細を追究するか否か迷っているらしい様子のウォレンに、ふ、と笑みをこぼすとダグラスは
「聞いていないのか、それはしまったな」
 と後半を特に大げさに強調して告げた。
 それを見てウォレンが首を振りつつ苦笑をする。
「……わざと後回しにしたな」
「何のことだ」
「カイルの件だ」
「気になるのか? お前にはもう関係ないことだろ」
 違うか、と軽く眉を上げて確認をしてくるダグラスに、ウォレンは言葉の代わりに咎めるような視線を返した。
「持ち合わせがないか? ATMなら近くにあったが」
 その方角を一度見やり、ダグラスが、どうだ、とウォレンに向き直る。
「何があったのか聞いただけだ」
「聞くだけで済むのか?」
「取りやめるとは言っていない」
「そうか?」
 まったく信用していない口調のダグラスに、ウォレンが本日何度目かのため息をつく。
「……詳細を言う気はないんだな」
「そのとおりだ。知りたいならアレックスに聞け」
「いや、それは……」
 最後まで言わず、ウォレンが渋い顔をする。
 足を洗う話はアレックスとの間でも出ているのだろう。元々こちらの世界にウォレンが足を踏み入れることについて反対していたアレックスだ。一度は折れて様子見の立場になったとはいえ、この機会を逸するようなことはしないはずだ。ウォレン自身、そのことは理解しているのだろう。
 アレックスの性格から、カイル側の仕事にウォレンを関わらせる場合にはアレックス自身が仲介に入るよう取り計らっていると考えられる。
 そこを避けて情報管理の質の高いカイル側から何か引き出せるのか、または一切関与しない姿勢をとるのか、ダグラス自身、どちらに転ぶか楽しみにしていることに気づき、己に対して失笑が漏れそうになる。
「重ねて言うが、素直に元の生活に戻れるか見ものだな」
 誤魔化すようにそう告げ、ダグラスはドアノブを回した。
「ダグ」
 背中に届いてきた声に堪えきれなかったか、珍しくダグラスが笑った。
 その声がドアの閉まる音で遮断される。
 何の補足説明のないまま疑問だけが取り残され、ウォレンは口を結んだ。
 ダグラスの言うとおり、ウォレン自身は何も耳にしていない。
 カイル関連で付き合いのあるカーティス・ホルトンからも連絡はないが、彼はアレックスとより親しい間柄だ。情報の流れに制限がかけられているとすれば、尋ねてみたところで今のダグラスとのやりとりのように何も得られるものはないだろう。かといって何も把握していない状態のままカイル本人に直接尋ねに行くというのも避けたいところだ。
 明らかに意図的に最後に落とされた情報に、ウォレンは去っていったダグラスの方向を恨めし気に見やった。


 日が暮れたせいか、蛍光灯の明かりが存在感を増している。
 明るく照らされた廊下を歩きつつ、ブライデン・カルヴァートは手にした書類に難し気な視線を送っていた。
「カル」
 ふと名前を呼ばれ、カルヴァートがその方向を見やれば、転属してからの相棒であるニーナ・ペティの姿が確認できた。
「ニーナ。帰るのか?」
「ええ。今日は平和だったし」
「だな」
 速度を落として歩きながらカルヴァートが前方の部屋を見やり、続ける。
「あそこの部屋以外は」
 彼が示す方向を確認し、ああ、とペティが頷く。
「タラハシー近郊で起きた事件絡みね」
「タラハシー?」
「ええ」
「あれか、連続殺人の疑いのある事件か」
 ボーイスカウトの1人が射殺体で発見され、他にも複数、10代の少年が行方不明となっているという話はカルヴァートも耳にしている。
「こっちでも似たような事件があったっけ?」
「いいえ。ただ容疑者に似た人物の情報は出たって」
 そうか、とカルヴァートが頷く。
「明日にでも現地のチームが来るみたいよ。指揮を執るのはラリー・レイノルズだったかしら」
 名前を聞き、暫時間をおいて、カルヴァートが研修を受けていたときの講師であることを思い出す。
「知っているの?」
「ああ――」
 ペティの顔を見たカルヴァートが、研修当時レイノルズから、その昔潜入捜査中だった相棒を失った、という話を聞いたことを思い出す。
「――研修で見かけたような気がしないでもない名前だな」
 ペティとは組んでまだ日が浅い。当たり障りのない曖昧な回答をすれば、彼女がふっと笑った。
「で、ウチから応援は?」
「別の班から出るみたいね」
 なるほど、とカルヴァートが頷く。
 応援となれば当然、似た事件を扱う部署が担当するのだろう。被害者が10代ということもあり、主担当ではないにしてもカルヴァートやペティの班もアンテナを張ることになるはずで、動きは慌ただしくなりそうだ。
「それで、あなたはまだ仕事あるの?」
「ん?」
「なんか難しそうな顔していたけど」
「ああ、これは書類に目を通すときの俺のデフォルトの顔」
 手元の書類の高さを上げ、眉間を先ほどの状態に再現すれば、ふ、とペティが笑った。
「聞いていたけどホント事務処理が嫌いなのね」
「頼りにしてるぜ」
 どうかしら、とペティが首を振り、それじゃ、とエレベーターのほうへ足を向ける。
「また明日」
 軽く背中に声をかけ、カルヴァートもまた自身のデスクのある部屋へ向かった。
 持っていた書類を引き出しに入れ、背広を手に取る。
 ふと時計を見やれば、夜にはまだ時間があった。
 暇ができてから、と後回しにしていたこの近辺のバー巡りをするには丁度いい機会だろう。
 まだ残る同僚に声をかけて部屋を出ると、カルヴァートもまたエレベーターへと歩を進めた。


 西の空はまだ薄く青い色を呈しているが、街はすでに夜を迎える支度を終えているらしい。
 以前から見当をつけていたバーの近くでカルヴァートは地下鉄を降り、地上に出る。
 帰りはタクシーか、と考えながら目的地に向かい歩いていたところ、右斜め前方で信号待ちのために停車した車に見覚えがあり、ふと歩みを止めた。
 後方を確認し、通りを横切る。
 バーを梯子する手間が省けた、とカルヴァートは心持ち駆け足に前方のBMWのSUVを目指した。


 信号が黄色になり、前を走っていた車が速度を上げて交差点を渡っていく。
 ついて行くことも可能ではあったが、急ぐこともない、とウォレンはブレーキを踏んだ。
 目の前を通る車の様子を見るでもなく見ていたウォレンだったが、不意に助手席の窓を叩く音がし、驚いてその方向を見やる。
 その窓の外、見知った顔をした男がにこやかに、よ、と声をかけながら手を振っていた。
「――カル?」
 言いながらウォレンが助手席の窓を開ける。
「メイシー。偶然だな」
 下がる窓の速度を遅いと感じたのか、窓枠に手を乗せながらカルヴァートが車内を覗いてきた。
「あんたここで何してるんだ?」
「ん? 散歩」
 返ってきた答えに質問の意図が伝わらなかったのを知り、ウォレンが表現を変える。
「出張か何かか?」
「いや、転属だ。言ってなかったっけか?」
 多少探るような視線を感じつつも、初耳であるかのようにウォレンは頷くと、あ、と思いついたように改めてカルヴァートを見た。
「左遷……」
「バカ。ちげーよ」
 言いながら窓から車内に腕を入れ、カルヴァートが助手席のドアの鍵の場所を探る。
「なら顔が割れたか?」
「いいや」
 詳細は話さず、カルヴァートが鍵の位置を探り当てる。
 開けようとしたところでウォレンがブレーキから足を離したらしく、車が動く。
「うおっ、危ねっ」
 思わず腕を引っ込めれば、車はそのまま加速し、いつの間にか青になっていた交差点を直進していった。
 それに向かって腕を広げたカルヴァートだったが、交差点の先で停車をするらしい様子を見、慌てて追いかける。途中、左折の車が走り出てきたカルヴァートに気づいてブレーキをかけた。次いで窓が開けられて何か一言二言声をかけられたが、簡単に、悪い、と返答をするとカルヴァートは数メートル先の道路脇に停車したウォレンの車まで軽いフットワークで駆け寄った。
「いきなり発車するなよ殺す気か?」
 ゆっくりと開く窓を急かしつつ、カルヴァートは車内を覗き込むと運転手に文句を垂れた。
「交通の流れの邪魔をしたくなくてね」
「後ろ誰もいなかったろ」
「そうだったか?」
 改めて助手席の窓からドアの鍵の位置を探るカルヴァートに、開いてるぞ、とウォレンが顎を上げて示す。
 その意味を理解したらしく、カルヴァートが外側からドアノブを引いた。ドアが開く音がし、カルヴァートがひとつため息をつく。
「早よ言え」
 助手席に乗り込むカルヴァートの重さで車体が若干揺れる。
「乗るなら、1マイル4ドルだが」
「何。金とんの?」
 ドアを閉めながら渋そうな顔をする隣の人物に、そうだな、とウォレンが首を傾げる。
「そういえば前回のビリヤードの賭け金をまだもらっていなかったような……」
 ウォレンの視線を受け、そのまま流れるようにカルヴァートが窓の外に自身の視線を逃がした。
 停車中を知らせる規則的な音が車内にも響く中、カルヴァートの手がおもむろに腰に向かう。
 転瞬、金属音がすると同時にカルヴァートがウォレンの右腕を掴もうとした。が、間髪入れずにウォレンが右手を安全圏に避難させる。
「同じ手は食わない」
 以前、酔っぱらったカルヴァートに不意をつかれ、ハンドルと右手を固定された経験のあるウォレンが、そう言いながら取り出された手錠をしまうよう、目で促す。
 その節はビリヤードの勝負でカルヴァートから巻き上げた、もとい獲得した金額を白紙の状態にすると確約するまで鍵は外されなかったため、相当警戒しているらしかった。
「何、まだ怒ってんの?」
「いや。負けると分かっていて勝負を仕掛けてくるのが理解できないだけだ」
 ウォレンの言葉を聞き、ふふん、とカルヴァートが笑みを返す。
「……何だ」
「驚くなよ」
 自信がありそうなカルヴァートの様子に、ウォレンが軽く眉根を寄せる。
「下手さに磨きをかけたのか?」
「驚くなよ」
 重ねて伝えられた自信の声に、そうか、と軽く返すと、ウォレンはもう一度にやついているカルヴァートを見、右手でギアを変更した。
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