IN THIS CITY

第5話 A Sense of Foreboding

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17 A Sense of Foreboding

 3日ほど前に身元不明でクック・メモリアル病院に運ばれてきた男性は依然として意識が戻ってきておらず、何が起こったのか尋ねることもできない状況が続いていた。
 病院内でも彼の存在について話が出回っており、担当ではないもののクラウスの耳にも入っていた。
「身元は分かったんですか?」
 すっかり暗くなった窓の外を一瞥し、休憩室でスナック菓子のゴールドフィッシュを食べているトニー・オデールに尋ねた。
「一応な。ひと月ほど前から行方不明になっていたらしい」
 頷きつつ、事件性があることに対して一抹の不安を感じないわけでもない。
「警察も調べているところだ」
 クラウスの感情を察したか、オデールは一言そう告げるとすっとスナック菓子の袋を差し出した。
 必要ないことを目と手で告げれば、おいしいのにな、とオデールが眉を動かす。
「さて、仕事が片付いているなら帰れ。帰れるときに帰っておかないと体がもたんぞ」
 クラウスの肩を軽く叩き、残りのスナック菓子を一気に口に流し込むとオデールは近くのごみ箱に空になった袋を捨て、手を払いながら休憩室の外に出て行った。
 その姿を見送った後、ふとクラウスが壁に設置されている時計を見やる。
 20時を過ぎており、確かに比較的平穏な1日だった割には長居しすぎたように思われる。
 ミネラルウォーターを飲み干すと、ペットボトルを近くのごみ箱に捨て、クラウスもまた休憩室を後にした。


 身元不明の男性の名前はザッカリー・エヴェレットと判明したようで、病室の前にはその名前が記載されている。
 白衣を着た男がそれを確認すると、さりげなく左右の様子を窺った。
 大きな手術などはなかったのだろう、落ち着いた雰囲気の病院内は静かであった。
 昼の間に警官が様子を見に来ていたようだが、今は警護の担当といった存在はいないようであった。
 迷わずドアを開け、男が病室内に滑り込む。
 静かにドアを閉めると、廊下を歩く際に視線を下げるために手に持っていたカルテに似た書類を近くの棚の上に置き、ザッカリーが寝ている病床へと足を進めた。
 異変が起きても警報がならないよう、ナースコールなどの電源を手早く切る。
 その作業の音でもザッカリーは目を覚ますことはなかった。もっとも、意識があったとしても警察には詳細は話せない立場の人間だ、本人としてもこのままの状態が望ましいのかもしれない。
 ここ1か月問い詰めてはみたものの大した情報は得られなかったが、想定の範囲内であった。末端の人間とはいえ、やはり口は堅いか、と相手組織の人間の忠誠心の高さには感心せざるを得ない。
 昔味わった、似たような感覚が込み上げてき、次の動作に移る前に男がふと口元を緩めた。
 情報は引き出せなかったとはいえ、姉には辿り着くことができた。それだけでも収穫だろう。
 枕を手に持つとザッカリーの顔に遠慮なく押し付ける。
 僅かながら抵抗があったようにも思えたが、元々体力など相当落ちていたのだろう、余分な作業が発生することなく相手を窒息死させることに成功する。
 枕の位置を戻し、男はつい今しがた息を引き取った相手を一瞥すると、ドアのほうへと歩いて行った。
 近くに置いておいたカルテに似せたものを手に取り、僅かにドアを開け、外の様子を見る。
 相変わらずこの病室に注目している人間はいないらしい。
 素早く病室を出ると男は手元に視線を向け、予め考えていた撤退路の経路のとおりに足を進めていった。


 途中ですれ違う同僚と軽く挨拶を交わし、肩を回しながらクラウスがロッカー室に向かって歩を進める。
 右手の通路から出てきた医師にも同様に挨拶をしたが、知った顔ではなかった。それだけであれば新たに人事が動いたと受け取って終わるところだったが、彼が着ていた白衣のネームタグには見覚えがあった。
 足を止め、クラウスが振り返る。
 名前は確かにデイヴィスであったが、顔が一致しない。
 珍しい名字ではないため偶然ということもあるが、クラウスの脳裡には先ほどオデールと話をした3日前に入院した男性について余韻が残っていた。
 ふと、デイヴィス名義の白衣を着た男が歩いてきた方向を見やる。
 ここからであれば最短距離で当該男性の病室に行けるだろう経路がすぐ思い浮かぶ。
「デイヴィス先生?」
 再び男のほうを振り向き、声をかけてみるが彼は振り返ることなく手元のカルテらしき資料に視線を落としたまま足を進めていく。
「おい」
 クラウスもまた足を動かしつつ強めに呼び止めてみるものの効果はなかった。
「待て」
 足早に後を追えば、それを察したか相手が横手の部屋に急遽折れていった。
 廊下を駆けて追い、クラウスは部屋がリネン室であることを確認し、ドアを開け、駆けてきた勢いのままに踏み込む。
 すぐに部屋の中を確認するが、男の姿はなかった。
 どこかに隠れているのか、と更に部屋の中に足を踏み入れた瞬間、不意に何か細長いものが視界を掠め、次いで強い力で首が締め上げられた。
 更なる動揺が襲う中呼吸が阻害され、状況認識にも一瞬時間がかかる。
 首を締め上げる細いコードのようなものを引きはがそうと手をやるものの、指は自身の皮膚を引っ掻くのみでコードを外すための隙間は許されていなかった。
 動く手で相手を掴もうとするが、十分な抵抗には至らない。
 相手を倒そうと蹴って抗力を得るものを探すが、背後の男はそれを察したか棚から遠くに引きずられるのみだった。
 どうする、と苦しくなる一方の状態で考えていたところ、
「アイゼンバイス先生、か」
 と背後からクラウスの首を絞めているだろう人物の声が聞こえてきた。
「珍しい名字だな」
 男の声音に何か感情めいたものが入っていることは分かったが、酸素が足りない中では熟考する余裕がない。近くに反撃材料がないか視線をやるクラウスだが、布類は頼りにならなそうであった。
「メイス・レヴィンソンと知り合いか?」
 思いもかけず聞こえてきた名前にクラウスの動きが一瞬止まる。
 再度確認を取ろうとしたが、当然ながら声は出てこない。
 振り返って男を確認しようとするがそれもままならなかった。
 だが、その反応でおおよそを察したのだろう。そうか、と男がこぼす。
「彼に免じて見逃そう」
 突然首周りのコードが緩められ、血流が再開する感覚がすると同時に久しぶりに空気が肺に流れ込む。
 床に倒れるようにして咳き込むクラウスの耳が、ノイズの入り混じる中ドアが閉まる音を拾う。
 男は去っていったのだろう、ぼやける視界を瞬きで解消しようと試みながらリネン室を見回すが、人影はなかった。
 追おうとするものの力が入らず、止まらない咳が行動力を奪う。
 聞き間違いか、と思ったがその後の男の行動を見てもそうではなかったのだろうことが分かる。
 ウォレンがどう関係しているのか不安なところではあったが、かといって男をみすみす見逃すわけにはいかない。
 体の末端まで指令が行き届くことを確認し、クラウスは近くの棚の力を借りつつ立ち上がるとドアを開けて外に出た。
 そこまで時間が経った感覚はなかったが、男の姿はない。
「アイゼンバイス先生?」
 近くを通りかかった看護師が、クラウスの状態に異変を感じ取ったか心配そうに声をかけてくる。
「デイヴィス先生、の白衣を着た男を、見かけな、かったか?」
 辛うじて繋いだ言葉だったが語尾にかけて咳を押さえきれなくなりクラウスが屈みこむ。
「デイヴィス先生の?」
 尋ね返されるところをみると彼女は何も見ていないのだろう。
「大丈――」
 看護師としてもクラウスの状態が心配だったらしい。一言確認の言葉を出しかけたところで、ふと、受付のほうから慌ただしいアラーム音が届いてくる。
 次いで看護師のペイジャーにも何か届いたらしい。
「405号室」
 一言告げて看護師がクラウスを見る。
 3日前身元不明で運ばれてきた男性の病室だった。
「行ってくれ」
 頷いて看護師が4階に向かう。
 それを確認する前にクラウスは現在位置から最短で外に出る経路を考え、その道を辿る。
 まだ首は痛み咳も出てくるが、405号室の患者に異変があったことはこれで確かだ。何か外的要因によりもたらされたものだとすれば、それは先ほど逃げて行った男に違いなかった。
 描いた経路上には男の姿はなく、外へのドアを開けて周囲を確認するが、それらしい姿は確認できなかった。
 いつもであればたったこれだけの距離で息切れすることはないのだが、今日ばかりは違った。両ひざに手を置いて咳き込み、それが落ち着いたところで再び周囲を確認する。
 が、病院内に突如沸いた慌ただしさとは裏腹に、駐車場を含め周囲はいたって静かなものだった。
 既に逃走してしまったか、とクラウスが心の内で舌打ちする。
 喉をいたわるようにさすりながら上体を起こすと、クラウスはひとつ息をついて病院内に戻っていった。


 似たような時刻、ギルバートのバーでは早速空になりかけているビール瓶を転がすように遊びながら、リンがひとつ息をついていた。
「2人とも捕まったのはいいけど、なんだかな」
 逃走中だったウォーカー・スウェインとウェスティン・ブライスを見つけて身柄を拘束したことについてはリンのほうにもミシェルから連絡があったらしい。
 ウォレンのほうにもギルバート経由で情報は入っているが、2人ともコーリの指示に従って動いただけだと主張しているとのことで、D13との関係も否定しているとのことだった。
「妹は同調しているんだろ?」
「そうだけどさ」
「わざわざ他人の罪を被るか?」
「洗脳状態なんじゃないかって」
 背もたれに体重を預け、リンが腕を組む。
 コーリの様子については彼もヴェラから聞いているため実際に彼女と会って確認したわけではない。が、そのヴェラからの話だと、コーリ自身が今回のニュートン化学工業のCEOへの環境テロを企てたと主張しているらしかった。
「まぁ、クレアへの執拗な勧誘と照らし合わせても行動に一貫性はないけどな」
「あ、でしょ」
 精神面に問題があるという話も出てきているようだが、それが吉と出るか凶と出るかはまだ見通しが立たないところだ。
 うーん、とリンが首を傾げる。
 ウォレンとしては、事は手元を完全に離れたため、あとは当事者で適当に処理してもらえれば何も言うところはないのだが、ヴェラがコーリの血縁者である以上、リンとしては放っておけないのだろう。
「……腕のいい弁護士ならお前の友人にごろごろいるんじゃないのか?」
 尋ね、ウォレンが手元のミネラルウォーターの入ったグラスから一口飲む。
「あ、うん。そこはヴェラとも相談している」
 肯定しつつ、リンが組んでいた腕を解く。
「お前も資格があるんだろうが、ここは仕事にしている奴に任せるほうがいいだろ」
「まぁね」
 分かってはいるんだけど、とリンが再び小さく息をついた。
「あ、そういえば――」
 思い出したようにウォレンを見、リンが続ける。
「――シャトナー上院議員の名前が出ないように話を通してくれたんだっけ、助かったよ」
 礼を述べるリンを一瞥し、ウォレンが軽く首を傾げる。
「俺は便宜を図ってくれと言っただけだ。話は通していない」
「まぁ細かいところはいいから」
「礼ならカルヴァートに言ってくれ」
「あ、あの時の捜査官?」
 ミシェルに連れられて以降、カルヴァートとは会っていないリンだったが、元々所属する支局が違い、あの夜はたまたまミシェルと行動を共にしていただけだったことは彼女の口から聞いていた。
「ボルティモア支局だっけ?」
「ああ」
「そんなに仲いいの?」
 聞こえてきたリンからの質問に、ウォレンが多少不愉快そうな表情をする。
「別に仲がいいわけじゃない」
 否定が返ってきたもののリンは納得していないらしく、口元を緩めながら何やら小さく頷きを繰り返していた。
「……なんだ」
「いや、やっぱ君、どっちかっていうと割と、っていうかかなりこっち側の人なのかなって」
 不可解な顔をするウォレンはさておき、リンが五月雨式にそういえばと思い出す。
「でさ、FBIにツテがあるならやっぱ今後の選挙戦の警護に――」
「断る」
 語尾に重なるように着信があり、続くリンの言葉は右から左に流しつつ、ウォレンがポケットから携帯電話を取り出す。
 発信元の番号はクラウスのものを示していた。
 煩わしい話になってきたところで丁度いい、とウォレンがリンに離席することを軽く告げつつ足早にバーの外へ向かう。
「なんだ?」
 ひんやりとした空気を感じつつ電話に出れば、相手が反応するまでに僅かに時間があった。
『……話があんだけど、今どこだ?』
「ギルのとこだ」
『なら親父のとこで。20分くらいで着く』
「分かった」
 了解の言葉を伝えた後でクラウスの声質に気になることがあり、何かあったのか尋ねようとしたのだが、通話が終了された音が耳に届いてき、携帯電話を耳から離す。
 バーの賑わいも漏れ出てきており、気のせいである可能性もあるが、抑揚を考えても普段のクラウスとは何か違うところがあったように思われる。
 疑問に思いながらも20分後にはアンソニーの診療所に来ると言っていたため、その時に尋ねればいいと判断し、ウォレンは一旦バーの中に戻った。
「どうしたの?」
「クラウスからだ」
 彼が来るまでにはまだ時間はあるが、やはり先ほど電話越しに聞いた声の質が引っかかる。
 早めに行って待っておくか、と判断するとウォレンは座ることなく上着を手に取った。
「帰るの?」
「ああ。悪いな」
「いいよ」
 どうぞ、とリンが手でも示す。
 こうしたときに詳細を聞いてこないところは助かるな、と感謝しつつ、ウォレンは軽く口元を緩めると上着を羽織って外に向かった。


 診療所には昼間も訪れたが、アンソニーの腰痛は改善し、今はほぼほぼ問題なく日常生活を送ることができている。このまま無理せずに過ごしてもらいたいところだが、日中やたらと動き回っていたところを見ると、再発する可能性も捨てきれなかった。
 ついでに彼の様子も確認しておくか、とウォレンが考えていたところで、前方に知ったシルエットの女性の姿を見つける。
 先ほどのリンとの会話を思い返すが、待ち合わせをしているような素振りはなかった。察するに彼女のほうから相談事でも出たのだろう。
 ヴェラもウォレンの存在に気づいたらしく、顔を上げる。
 軽く挨拶を交わし、足を止める。
「バーに行くのか?」
「ええ。リンは来てる?」
「ああ」
「そう」
 よかった、とヴェラが小さくこぼす。
 先日会った時と雰囲気が違うのは疲れのせいなのだろう。相当参っていそうな様子だが、彼女の妹のことを考えれば不思議ではなかった。
「入口まで送る」
 外は割と物騒であることを知っているのだろう、ヴェラは異議を唱えず礼を述べた。
「……妹さんの件、こじれているみたいだな」
「ええ。頑固で困るわ」
 言いながらヴェラが大きく息を吐く。
「弁護士はついているのか?」
「リンから紹介してもらっているところ。あの子が首を縦に振るかはまだ分からないけど――」
 語尾の速度を緩め、ヴェラが地面に視線を落とす。
「――ブレット・ホフリンを相当信じ込んでいるみたいなの。手ごわいわ。私の言葉は一切聞き入れてくれなくて」
 そうか、とウォレンが頷く。恐らくコーリは信じたいこと以外は耳にしたくない状態なのだろう。話を聞くだけでも確かに時間がかかりそうな雰囲気だった。
「精神科医が必要ならクラウスに相談すればいい。知り合いがいるはずだ」
「ありがとう。……でもコーリが引き受けるかしら」
「まぁ断るだろうな」
 ウォレンの返答を聞き、ふっとヴェラが笑う。
「容赦ないわね」
「まぁな。だが、選択肢は用意しておいて損はないだろ」
「そうね」
 ギルバートのバーの入り口までやってき、ウォレンがドアを開ける。
 来客を知らせるベルが鳴る中、軽く礼を言ってヴェラが中に入る。
「それじゃ」
 彼女の背中に声をかければ、ヴェラが足を止めて振り返った。
「あなたは?」
「俺は別件がある」
 顎で心持ちアンソニーの診療所のほうを示しつつ答えれば、ヴェラが、なるほど、と頷いた。
「気をつけて」
 かけられた言葉の意味するところが分からず疑問を持ったウォレンだったが、先ほどのリンとの会話の中でヴェラがウォレンのことを何か潜入捜査中だか勘違いしているらしいことを聞いたようにも記憶している。
 まぁいいか、と流して彼女がバーの奥に進んでいく様子を見送ると、ウォレンはアンソニーの診療所へと再度向かった。


 バイクのエンジンを切り、クラウスが診療所の2階を見上げる。電話は入れたためウォレンは恐らく先に着いているのだろう、居間には電気がついていた。
 視線を落とし、暫時動作を中断し、病院内での出来事を振り返る。
 ザッカリーについては医師らが駆け付けたときには息を引き取っていたという。病室の状態とクラウスの証言から、殺人の線で捜査が開始されたところであった。
 治療と事情聴取を終えて疲労感が募っているところだが、ひとつ、明らかにしておきたいことがある。
 ゆっくりと呼吸し、クラウスはバイクから離れると外階段を使って診療所の2階に向かった。
 玄関のドアを開けて中に入る。
 足音でクラウスが来たことを察していたか、ウォレンが丁度ソファから立ち上がるところだった。
 奥のほうを見やれば、アンソニーは書斎にいるらしく明かりがドアの下から漏れ出ているのが見えた。ひとまず父親は抜きにして話をしたいと考えていたところであり、クラウスがひとつ小さく息をつく。
 その様子にやはりいつもとは何か違うことを感じ取り、ウォレンが怪訝な顔をする。
 ふと、ウォレンがクラウスの首元に視線をやる。
「――何があった?」
 尋ねられてクラウスが首に手を当てる。
 手当はされており赤く擦れた傷痕は隠されているが、怪我をしたことは明白であった。
 ひとつ大きく息をつき、クラウスがウォレンを見やる。
「ザッカリー・エヴェレット」
 名前を口に出すが、ウォレンからの反応は芳しくなく、彼が疑問の視線を返してくる。
「知ってんだろ」
 断定的な口調のクラウスに、ウォレンが眉根を寄せた。
「いや」
「とぼけんな」
「とぼけていない」
「おめーまた隠れて危ねーことしてんじゃねぇのか?」
 よからぬ疑いをかけられていることを知り、ウォレンが息を吐いて視線を瞬時逸らす。
「最近は情報すら追ってない。関わったのはお前らが持ち込んできた件だけだ」
「なら誰なんだ?」
 クラウスの頭の中では情報間で線が結ばれているのだろうが、ウォレンとしては人名のみで全体像を把握することはできず、話がつながらない。
「クラウス、何の話をしている?」
「なんであいつはおめーの名前を知っていたんだ」
 明らかにされた次の情報に、ウォレンが動きを止める。
「俺の名前?」
「メイス・レヴィンソン」
 聞こえてきた一般用のIDに嫌な感触を覚えつつも、ウォレンがメイスとしてそのザッカリー・エヴェレットに会った記憶を探る。が、やはり心当たりはなかった。
「――クラウス、悪いが順を追って話してくれるか」
 指摘を受け、やや感情的になっていたか、とクラウスが一旦視線を落とす。
「……3日前、身元不明の男が運び込まれてきた。俺は担当じゃなかったが、話によると拷問を受けた形跡があった」
「拷問?」
 嫌な記憶が一瞬脳裏をかすめるが、ウォレンが僅かに首を振り、それを去らせる。
「それがザッカリー・エヴェレットか?」
「そうだ」
 やはり知っているのか、という目での質問を受け、ウォレンは
「さっき言ったとおりだ。知らない」
 と手の動作も加えて改めて否定した。
 嘘をついている様子はないか、とクラウスが息をつく。
「つい数時間前、息を引き取った。殺された」
 弱く頭を横に振るクラウスが、ウォレンに視線を戻す。
「彼を殺した男を目撃して追いかけたらこの様だ」
 言いながらクラウスが首の傷を示す。
 詳細こそ隠されているものの、絞殺されそうになったのだろうことが分かったのだろう、ウォレンの表情が硬くなる。
「俺も殺されかけたんだけどな、おめーに免じて見逃してやると言われた。この部分は警察には言ってねぇ」
 後半部分に苛立ちが混じっていたものの、そこに構う余裕がなく、ウォレンが乾いた口を開く。
「……メイス・レヴィンソンにか?」
「そうだ」
 相手は確実にウォレンとクラウスが親しいことを知っている。
 誰だ、とウォレンが記憶を探るが、スコット名義ではなくレヴィンソン名義であるところがやけに大きく引っ掛かっていた。
「悪事を働いているときもそっち使ってんのか?」
 尋ねてみたものの聞こえなかったか、ウォレンから返答はなかった。
「……相手の顔は?」
 返答の代わりに質問が届き、先ほど警察にも同じことを聞かれたな、とクラウスがため息をつく。
「はっきりとは見てねーよ。まぁ、白髪交じりの髪の白人系かな」
 歩いているところは見かけたが相手は視線を落とし、かつ顔を隠すようにしていたため思い起こそうにも手がかりがない。
「身長は?」
「俺よか少し高かった気がする」
「年は?」
「50代くらいか、分かんねぇ」
 肌や髪の状態から推測するものの、クラウスとしては確かなことは言えなかった。
 脈拍が増加する中、ウォレンが記憶を辿る。
 該当する人物に心当たりがないわけではないが、感情的には可能であれば否定したいところだった。
 ふと、念頭に置いている人物が恐らく持っているだろう特徴が思い当たる。
「……右のこめかみに傷は?」
 具体的になった情報にクラウスがウォレンの目を覗き込む。
「――知ってんのか?」
 尋ねられ、ウォレンがはっとして改めてクラウスを見る。
「あいつはメイス・レヴィンソンを知っていた。お前、そっち使って悪さしてんのか?」
 アレックスがIDを場合分けして使用していることはクラウスも承知しているところだ。彼の影響が色濃いウォレンも同様に使い分けをしていると考えていたが、そうでもないのか、という疑問が頭を過る。が、
「違う」
 という否定の言葉が返ってき、クラウスが息を吐く。
「ならなんであいつはメイス・レヴィンソンを――」
 言いかけてクラウスにも思い当たる節があることに気づく。
 アンソニーやギルバート含め、モーリスと関係のある人物の前ではウォレンは本名で通していたが、あの事件があるまでは表向きには常にレヴィンソンを使っていた。
「――……10年前の件か?」
 指摘すれば否定は返ってこず、ウォレンが視線を下方に逸らして額に手をやるとクラウスに背を向けた。
 一瞬ではあったものの、顔色が変化していたようにも思われる。
 更に問いかけようとしていたクラウスだったが、その様子を見て躊躇われる。口を閉じ、暫くの間沈黙が場を支配することを許した。
 目を閉じ、ウォレンが当時の記憶を意図的に更に辿る。時折フラッシュバックとして蘇る記憶だが、10年の時間が流れ、それも大分色褪せてきたと感じていたところだった。
 体力も気力もぼろぼろになりかけていた後半の記憶は余計に曖昧だが、事の発端から収束まで半年ほどの時間があったのは確かだ。アレックスからの妨害はあったにせよ、相手方がアイゼンバイス家との繋がりまで調べ上げたことは十分に考えられる。
 なぜ今頃になって、という疑問も沸き起こるが、それよりもこれまで抱いていた希望的観測が崩れていく感覚が好ましくなかった。
「ウォレン」
 背中にかかってきた声に、ウォレンがクラウスを振り返る。
「……何があったんだ?」
 何度も尋ねられ、何度も躱してきた質問が再び蒸し返され、ウォレンが視線を逸らす。
「さっきの男が関係しているってんなら、俺にも知る権利があるんじゃないのか?」
 言葉に触発され、恐らくそうであろう人物の外郭が思い出される。
 最後に抵抗したときのことを辿れば両手に鈍い衝撃が蘇る。驚いたような顔をした彼の右のこめかみを何かが掠め、飛沫の血が舞った。そこまではかろうじて覚えているがそこからが曖昧になる。
「ウォレン――」
 思考を遮るように聞こえてきた自身の名前を呼ぶ声が煩わしく感じられ、ウォレンが息を吸う。
「2人見殺しにして1人殺した!」
 その後の、ここに戻ってくるために、という言葉は辛うじて飲み込んだ。言えばクラウスが責任を感じてしまいかねない。
 息を吐き、クラウスから視線を逸らすとウォレンは隙を見て襲いかかってきそうなフラッシュバックの波の気配を抑え込んだ。
 珍しく声を荒げたウォレンに驚き、クラウスが続けようとしていた言葉を飲み込む。
 肩で息をしている様子のウォレンと一瞬目が合ったが、すぐにそれは逸らされ、彼が背を向ける。
 頭に持っていかれた手は、気のせいか震えているようにも見てとれた。
 その状態を確認した後で、遅ればせながらクラウスが今し方聞いたウォレンからの言葉を再生する。
 2人見殺しにして1人殺した、と確かに聞こえた。
 どういう状況であったか、詳細は当然ながら想像できることではない。が、音信不通になる直前に見たウォレンの姿を考えれば、酷い扱いを受けていたことは確かだった。
 何が起こっていたにせよ、それまで曲がりなりにも普通に暮らしてきた彼自身が標的であったとは考えられない。恐らくはアレックスを誘き出すための人質だったのだろうことまではクラウスも推測していた。
 もしそうだとすればアレックスがすぐに名乗り出ていれば、半年も時間がかかることはなかったのでは、とは思うものの、ウォレンがアレックスを責めるような言葉を一切吐かないところが気になる。
「……アレックスは知っているのか?」
 敢えて彼のことを責めずに穏やか問えば、ウォレンがひとつ深く息を吐いて目を閉じた。
「……全部は話していない」
 聞こえてきた返答に、ウォレンが全面的に信頼を寄せているアレックスにすら共有されていない話があることにクラウスが驚く。それと同時にまた別の不安が頭をもたげた。
「なら今まで1人で抱えていたのか?」
 呼吸を整える間を置き、ウォレンは首を振った。
「……クラウス。お前が抱えるべき問題じゃない」
 言いながらウォレンがクラウスを見やる。
 彼に詳細を話していない理由は、当時とても話せるような心境ではなかったという理由だけではなく、余計な心理的負担をクラウスに強いることになるからというのもあった。
「話を聞くくらいはできる」
「お前は巻き込めなかった」
「ウォレン」
「話をする相手はいた。そこは心配するな」
 それを聞き、弱くクラウスが頷く。
 ダグラスの存在についてクラウスは知らないが、ウォレンの失踪時に恐らくアレックスを介してモーリスも動いていたことは承知していた。
 最後のひと月あたりはクラウスが情報を入手する唯一の手段であったギルバートも不在であり、落ち着かない日々だったことを覚えている。無事だと判明した後はそれ以上の情報が入ってこなかったため、アンソニーに頼み込んでモーリスの連絡先を教えてもらい、彼からマイアミの住所を聞きだしたことは10年経っても昨日のことのように覚えていた。
「……モーリス側の人間か」
 呟くように尋ねれば、肯定も否定もしない様子でウォレンがクラウスに視線を返した。
 ひとつ息をつき、クラウスが改めてウォレンを見る。
「――で、誰なんだ?」
 クラウスからの問いに、ウォレンが僅かに首を傾げる。
「俺の首を絞めやがった奴だよ」
 多少の苛立ちを乗せて再び問えば、ウォレンが首を振った。
「本名は知らない」
 それを聞き、クラウスが失笑ともとれる息を吐いた。
「言わねー気か」
「当時名乗っていた名前なら判明しているが、今はもう使っていないだろう」
「その当時の名前ですら教えねーってか?」
「知っている情報は少ないほうがいい」
 そう切り返されると更に問いかけることが難しくなる。
 首を振り、クラウスは視線を横手に逃がした。
「……クラウス、悪かった」
 耳に入ってきたウォレンの言葉に、クラウスが視線を戻す。
「10年も経ってお前に危害が及ぶとは――……」
 語尾を切って首を振るウォレンに、ふっとクラウスが息を吐く。
「そこは心配ねぇよ」
 そう告げれば、ウォレンが怪訝な顔を返してきた。
「アイゼンバイス家はモーリスの庇護下にある」
 聞こえてきた言葉に、ウォレンが弱く頷いた。
「……知っていたのか」
「当たりめーだ」
 アンソニーはモーリスと深い関りがあるものの、彼はクラウスに同じ道を歩ませる気はなく、クラウスもまた同じ姿勢であったことは間違いない。このためアイゼンバイス家の安全の確保のためにモーリスが何かと手配していることは、クラウスは知らないものとウォレンは思っていた。
 どこで認識したのか、と考えを巡らせ、ふと嫌な予感が胸をかすめ、ウォレンが顔を上げる。
「……10年前に何かあったのか?」
 尋ねてみたものの、どうかな、とクラウスは曖昧に首を傾げるだけだった。
「そこははっきりしねぇ」
 答えながら当時を振り返る。特に後半にかけて、ウォレンに近しい人物として警護対象となり監視下に置かれていたようにも思われるが、実際に確認したわけではない。
「まぁ、名前はともかくとして、あいつはおめーに免じて、と言っていた。気が変わらない限り俺は殺されないだろ」
 努めて平静を装った口調でそう告げれば、納得はしないまでもそこまで警戒するべきではないと判断したか、ウォレンが弱く頷いた。
「……何かあったらすぐ連絡してくれ」
 小さく一言残し、ウォレンが玄関へと向かう。
「おめーはどうすんだ?」
 すれ違い際にクラウスが尋ねてみるが、ウォレンからの返答はなかった。
 半年の間に何があったのかは分からないが、先ほどの言葉を思えば苦しい選択を迫られる場面が多々あったのだろうことは想像に難くなかった。
 またその繰り返しを選ぶのか、と不安が頭を過り、
「ウォレン」
 と強めの口調でクラウスが名前を呼べば、相手が振り返った。
 その表情を見、クラウスが続けようとしていた言葉を静かに去らせる。
「……あの頃何があったにしても、お前は今、無事にここにいる。俺にはそれで十分だ」
 代わりに出てきた言葉はこれまで言語化されていなかった感情だった。
 伝わったのか、暫時の間を置き、ウォレンが僅かに口元を緩めたように見えた。
「俺もだ」
 一言残すと、ウォレンは上着を手に取り外に出、静かに玄関のドアを閉めた。
 外階段を下りていく足音を耳にしつつ、クラウスが目を閉じるとゆっくりと息を吐く。
 当時と同じで、クラウスにできることはないのだろう。
 そのことは10年前と同様にやるせないものだったが、あの時ほど打ちのめされる感覚はなかった。
 ふと、書斎のほうを振り返る。
 できることは戻ってくる場所をなくさないことだ、とのアンソニーの言が思い出される。当時は何を呑気なことを、と反発しないでもなかったが、今であれば父親である彼の言葉が理解できるように思われた。


 携帯電話を閉じ、アレックスがため息をつく。
 新しく耳に入ってきた話は雲行きが怪しく、どうも嫌な空気がまとわりついて離れない。
(あいつに隠し通すのも難しくなってきたか……)
 車から出て自身のアパートに向かいつつ、ふと足を止める。
 照明は消してきたはずだが、部屋の窓からは明かりがついている様子が窺えた。
 物取りの線などを考えるものの、消去していけば可能性はひとつに絞られてくる。
 アパートに入り、念のために腰の銃を意識しつつ、自身の部屋のドアの様子を窺う。僅かに開いているところからも、侵入者は自身の存在を隠す気はないようであった。
 ドアを開けて中の様子を窺えば、すぐに予想していた人物が視界に入った。
「あれ。鍵の位置教えていたっけ?」
 尋ねてみれば、ウォレンがピッキングの道具を見せてきた。
 なるほどね、とアレックスが頷く。
「器用だねぇ」
 感心したように述べ、背後で玄関のドアを閉める。
 何をしに来たのかはおおよそ察しがついていた。クック・メモリアル病院での一件について、恐らく既に情報を得ているのだろう。
「遺体は揚がっていないんだよな」
 ふと聞こえてきた声に、アレックスが一瞬動作を止め、ウォレンの目を見る。
 誰のことを示しているか明確に示されなかったものの、アレックスには1人の人物が瞬時に浮かんだ。
 こちらについてもこれ以上、隠し通すことはできないだろう。
「そうだ」
 アレックスは短く、肯定の回答を返した。



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