IN THIS CITY

第5話 A Sense of Foreboding

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16 Aftermath

 日課のジョギングに合わせて吐く息は白く、行き交う人々も朝のこの時間は厚着が欠かせないようであった。
 公園に差し掛かり、カルヴァートが足を動かしながら周囲を見回す。
 通勤ラッシュの時間にはまだ早いが、スーツ姿の人々もちらほらと行き交っている。
 ふと、朝早くから開いているカフェテリアに目をやる。
 外の席に座っている2,3人のうち、1人の背中には見覚えがあった。
 足を止めて息を整える。
 住んでいる場所については確かに話した記憶はあるが、ジョギングのコースについては話していない。少なくとも相手はカルヴァートの生活圏内にはあまり入ってきたことがない。珍しいな、と小さく息をつくと、カルヴァートは座っている相手のほうへと足を進めた。
「メイシー」
 声をかけながらテラスに上る。
「走らねぇの?」
「ここのコースは避けている」
 振り返らずにウォレンが答え、隣を過ぎるカルヴァートに視線だけをやった。
 小さく笑うカルヴァートが前の席に座る。
「しっかし色んなツテがあるんだな、お前」
 新聞から顔を上げ、ウォレンがカルヴァートを見やる。
「上院議員とも繋がりがあるとはな」
 補足情報を聞いてリンのことを示していることを知り、ウォレンがそのことか、と頷く。
「直接的じゃない」
「そうか?」
 確認してみるものの、彼がシャトナー上院議員の支持者とは考えられず、発言に嘘はないだろう。
「残念だな、これ以上の予算削減はキビシイって伝えてほしかったんだけど」
 カルヴァートの愚痴ともとれる言葉に、ウォレンがふっと笑う。
 会話の間を縫い、ムクドリモドキの囀りがどこか公園の樹木のほうから聞こえてきた。
「……先日世話になった捜査官のことだが――」
 風に揺られた新聞紙を押さえつつ、ウォレンがカルヴァートを見、続ける。
「――無事か?」
 ミシェルのことを言っているのだろうことをカルヴァートが察する。
 ニュースでも取り上げられたとはいえ、ウォレン側の連絡網から情報は彼に入ったのだろう。
 無事であることを頷いて告げると、カルヴァートは口を開いた。
「暫く耳鳴りに苛まれたらしいけどな」
 耳を指で軽く叩きながら告げれば、心なしかウォレンが安心したように見えた。それでも、表情はあまり晴れていないように感じられる。
 わざわざ朝のうちに挨拶に来た理由はこれか、とカルヴァートが納得する。当事者ではないとはいえ、ウォレンが関わっていたことに変わりはない。
「仕事だ。気にするな」
 足を組んで余裕を持たせ、カルヴァートが告げれば、予想していた言葉だったのか、ウォレンが小さく口元を緩めた。
「実行犯はアース・セイバーズのメンバーだ」
「……4年前のエコテロ未遂のか」
 つい最近思い出したことのある事件について再度記憶を辿り、ウォレンがカルヴァートを見れば、彼が頷いた。
「アース・セイバーズ自体は事実上解体していたようなもんだけどな」
 ひとつ区切りを入れ、どうしようか暫時迷った後で、カルヴァートが続ける。
「ウォーカー・スウェイン」
 人名を聞き、ウォレンが僅かに姿勢を正す。
「ブレット・ホフリンを名乗っていた奴の本名だ」
「挙げたのか?」
「いや、手配中だが、時間の問題だろうな」
 カルヴァートも協力したとはいえ、本部のほうで担当している事件である。実際に動いているのはミシェルやグラハムのいるチームだった。
「スウェインはアース・セイバーズに所属していた形跡がある。4年前からスウェイン名義での記録がほぼ途絶えてね」
 言いながらカルヴァートが一度足を組みかえる。
「同じくアース・セイバーズに所属していたウェスティン・ブライスも行方をくらましている」
 無言のまま聞いているウォレンの様子に、カルヴァートが小さく口角を上げた。
「ま、この辺はあのバーのマスターあたりから聞いてんだろ?」
 ミシェルのほうからギルバートに情報が入っているはずであり、彼と親しいと思われるウォレンにもそれは流れているはずだ。
 が、そのことは表には出さず、ウォレンは軽く口元を緩めるに留めた。
 その様子を見やり、カルヴァートが僅かに首を傾げる。
「ずっと気になってんだけどさ、お前、なんでこんなに肩入れしてくれんの?」
 質問を受け、ウォレンが公園のほうに一度視線をやる。
「しないと後が怖いだろ」
 ため息交じりの回答に、カルヴァートがふっと笑った。あながち間違いないだろうが、どうもそれだけではないように感じられる。
「いや、冗談抜きで」
 珍しく深堀りしてくるカルヴァートを見、ウォレンが小さく息をつく。
「肩入れはしていない。折よくあんたが絡んでくるから面倒ごとを引き渡しているだけだ」
 再び遠からずな回答が返ってき、本音を言う気はないか、とカルヴァートが目を細める。
「そっちこそ、家庭があるのになんで赤の他人のために命を張れるんだ?」
 聞こえてきた言葉の意味するところを暫く考えたカルヴァートだったが、その示すところを理解し、苦く笑った。
「指輪はしてねぇんだけどな」
 自身の左手の薬指をさすりつつ、カルヴァートがそう答え、ミシェルの存在を意識する。
「まだ籍は入れてねぇ」
「そうか」
「なんで分かった?」
「なんとなく。まぁ、今ので確信した」
 薬指を触る動作を示してウォレンが答えれば、なるほど、とカルヴァートが頷いた。
 今朝の待ち伏せはミシェルの容態の確認のためだったのだろうが、それだけであればギルバートから聞くだけでいいはずであった。
 隠し通そうと思えば隠し通せたか、と思うものの、伏せておく必要のある情報ではない。ひとつ息をつくとカルヴァートは運動用の上着のポケットに手を入れた。
「ま、言ったろ。仕事だからだ」
 受けた質問を思い出しつつ回答するが、ウォレンは納得がいっていないらしい。
「お前も張っただろ」
「俺は知らない奴のために動くほどお人好しじゃない」
 回答を聞いてカルヴァートが懐疑的な視線をウォレンに送る。リーアムの件を挙げようかと思ったが、指摘しても曖昧に逸らされるだけか、と考え直す。
「そうか? 似てっと思うけどな」
 気が合うな、と目で告げれば、ウォレンが渋い顔をして視線を逸らした。
「ま、実行犯は恐らくリッチモンドやDC近郊からは出ていると思うが、何か見聞きしたら知らせてくれ」
 そう告げるとカルヴァートは組んでいた足を下した。
 再び走り出さなければ、体が冷えてきそうである。
「で、式には呼んでいいのか?」
 両足に体重を乗せ際に尋ねてみれば、ウォレンが軽く笑って首を振った。
「勘弁してくれ。胃が何個あっても足りない」
「違ぇねぇ」
 同意して立ち上がると、カルヴァートは一度、足腰の筋肉をほぐすように伸ばした。
「いい子でいろよ、メイス」
 その一言に対して頷きなどの返答はなかったが、本人も一応はその気らしいことを知っているため気に留めはせず、カルヴァートがウォレンに背を向ける。
 弱い風を受けながら徐々に走るペースを上げていくカルヴァートを見送りつつ、ウォレンはコーヒーカップに手を伸ばす。
 残っていた最後の一口を流し込むと、新聞を片手に彼自身もまたカフェを後にした。


 コーリの意識が回復したとの知らせを受けたヴェラが、急ぎ足で病室へと向かう。
「ミシェル」
 コーリの病室のドアの前に彼女を見つけて声をかければ、同じようにヴェラの名前を呼んでミシェルが挨拶をした。
「意識が回復したって本当?」
 息を整えながら尋ねるヴェラに、ミシェルは頷いて答えた。
「ごめんなさいね、あなたより先に話をさせてもらったわ」
「いいのよ。コーリをこんな目に遭わせた人を捕まえるのが先決だから」
 伝えながらもミシェルの表情が曇っていることにヴェラが疑問を抱く。が、今はそれよりもコーリの容態のほうが心配であった。
「入ってもいいかしら?」
「ええ。どうぞ」
 許可を得、ミシェルに微笑を向けると、ヴェラは病室のドアを開いた。
 その動きを視界の端に捉えたのか、コーリが寝たままゆっくりとドアのほうを見てくる様子が確認できた。
 まだ点滴の管は取れておらず、加えて赤みを帯びて腫れている腕などが痛々しい。
「コーリ」
 それでも意識が回復し、話ができるようになったということで、安堵の息とともに名前を呼び、ヴェラがベッドの近くまで足早に歩み寄る。
「……ヴェラ」
 聞こえてきたコーリの声は弱々しかったものの、意識ははっきりしているらしいことが伝わってき、ヴェラが口元を大きく緩める。
「良かった」
 椅子に座り、コーリの手を握る。
 どうするか暫時迷ったようだが、コーリもまた、ヴェラの手を握り返してきた。
「もう心配ないから」
 自身にも言い聞かせるような感じはしたものの、ヴェラはそう告げるとコーリの髪を梳いた。
「何があったか覚えている?」
 尋ねられ、コーリが頷く。
「地下室に入ろうとしたら、爆発が」
 淡々と述べられたことに対して何か引っかかりを感じたものの、まだ実感が追いついていないだけだろうと解釈し、ヴェラが頷く。
「怖かったでしょうに」
「一瞬だったから」
「ガス漏れではないって聞いたわ」
 無言のままコーリは手元を見ているようであった。
「爆発にはブレットが関係しているんでしょう?」
 尋ねてみるものの、コーリからの反応はなく、ヴェラが疑問に思う。
 確かに捜査中の案件のためミシェルやグラハムから明確に話があったわけではないが、ヴェラとしては彼がコーリを何がしかの形で利用しようとしているようにしか見えなかった。
「コーリ?」
「ブレットじゃない」
 ヴェラの手を離し、コーリが強めに否定してきた。
「彼は私にこんなことする人じゃない」
 ヴェラを見る目にも力が入っており、彼女が姉よりも夫に信頼を置いていることが伝わってくる。
 感じ取った胸の痛みを抑えながら、ヴェラが首をわずかに傾げる。
「コーリ。ブレット・ホフリンは偽名よ。本名はウォーカー・スウェイン」
「さっき聞いた」
 外にいるミシェルを意識しながらコーリがこぼす。彼女としては長らくブレット・ホフリンとして認識していたため、捜査官とはいえ知らない人間にそうだと教えられてもいまいちピンとこないのが実感だった。
 加えて、ブレットと最後に会った時に彼の口からきいた計画のことが頭を過る。
「アース・セイバーズのメンバーだったって言うんでしょ」
「ええ」
「なら不思議じゃないわ」
 アース・セイバーズが4年前にエコテロ未遂を行ったことは知っている。未遂であったためニュースに取り上げられても数日後には忘れられるだけの事件であったのも認識していた。同じミスを繰り返さずに大事を成し遂げるためには、スウェインの名前を伏せなければならなかったのだろう、とコーリの中では結論が出ていた。
「……ニュートン化学工業のCEOを狙った爆弾があったのも聞いているわよね?」
 それを聞き、コーリが頷く。今回は爆破まではいったようだが、目的を果たしたとはいえない状況のようだった。それでも前回よりも大きな事件として扱われているのではないかと感じていた。
「知っていることがあるのなら、捜査官に全部話して」
 暫く無言のままだったコーリが、ふと、視線を上げて病室内に設置されているテレビに目をやる。意識が戻った直後ということもあり、まだ電源は入れられていなかった。
「爆発のニュースは各局でしっかり取り上げられたのよね?」
 聞こえてきた言葉に、何を見据えての質問かヴェラが理解しかねる。
「ええ」
 一応事実と違わない回答をし、コーリの様子を窺うこととしたヴェラの前で、コーリがふっと鼻で笑った。
「あの化学工業はこれで2回目よ? 汚染水を垂れ流すのが」
 テレビから視線を外し、コーリがヴェラを見る。
「1回ならまだ分かるわ。誰にだってミスはあるもの。でも2回も、だなんて、環境をないがしろにしている証拠よね」
 冷たい声色で述べられた言葉に、ヴェラが眉根を寄せる。身内として聞いても十分に、今回の爆弾事件を肯定しているように感じられたからだ。
「自分自身が痛い目に遭わないと分からないのよ、あの手の輩は。爆発に巻き込めなくて、残念だったわ」
 最後の言葉にショックを受け、ヴェラが一瞬言葉を詰まらせる。
「何言ってるのコーリ」
 続けようとして言葉を探し、ヴェラの目が泳ぐ。
「コーリ、今回の件は紛れもない殺人未遂よ。環境問題の啓発じゃない」
「啓発よ」
 確信を持った声音で告げ、コーリが再びテレビの方向を見やる。
「事実、ニュースに取り上げられて話題になっているんでしょう?」
 ひとつ息を継ぐ間を置き、コーリが続ける。
「さっきも言ったとおり、あの化学工業は以前にも汚染水問題を起こしている。過去から全然学んでいない。少なくともトップにいる人間が変わらないと3回目が起こるのも時間の問題だわ」
 早口でまくしたて、コーリがひとつ息をついて口を閉じる。
「……あなたはこの件には関わっていないでしょう?」
 期待を込めて尋ねてみるものの、コーリからそれに対する回答はなかった。
「姉さんもジャーナリストの仲間内で話題になっていない? これを機に記事にして、もっと環境保護に力を入れるように舵を取ってくれないかしら」
 提案をしてくるコーリからは、自身が爆発に巻き込まれたことも、人が1人爆発に巻き込まれそうになったこともまるでなかったかのような雰囲気が感じ取られ、ヴェラが言葉を失う。
「あ、でもニュースで取り上げられても、またすぐに忘れ去られちゃうのかな……」
 考え込むコーリの様子に背中に不安が走り、ヴェラが思わず両腕を抱えこんだ。
「……断続的にこうしたエコテロが必要ってこと?」
「たまには正しいことを言うのね」
 微笑むコーリが知っている妹とは違う姿をしているようで、ヴェラが首を振る。
「コーリ――」
 ウォーカーと言おうとしてヴェラが言い直す。
「――ブレットに何を吹き込まれたか知らないけど――」
「何も吹き込まれていないわ。私自身が考えていることなの。今回は姉さんも、お父さんもお母さんも関係ない。私自身が考えて行動しているの」
 ヴェラの言葉を遮り、コーリが強く主張する。後半を述べたところで脈拍も増加し、軽く頭痛が神経を刺激してき、コーリは目を伏せるとひとつ深く息を吸った。
「……姉さんと話すと疲れる。ちょっと休ませて」
「コーリ、あなたは――」
「出てって」
 温色のない声に圧力を感じ取り、ヴェラが口を噤む。最後に聞いた、両親やヴェラに対する言葉が胸に突き刺さっていた。
 かけるべき言葉も見つけられず、ヴェラは、そう、と頷くのが精一杯であった。
 

 病室を出てドアを閉める。
 視線を感じて振り返れば、ミシェルがゆっくり歩み寄ってくるところであった。
「ミシェル、あの子はエコテロを企てたりはしていないはず」
 理解できる、と頷くミシェルだったが、口を開けるとまず小さく首を振った。
「彼女が否定しないの」
 それを聞いてヴェラが怪訝な顔をする。が、確かに先ほどの会話でもコーリの口から関与を否定する言葉は出てこなかったように思われる。
「でも――」
「分かってる」
 言いかけたところでミシェルから声がかかり、ヴェラが彼女を見る。
「私たちも見たことがないわけじゃないから」
 明言はされなかったものの、ミシェルらもブレット・ホフリンを名乗っていたウォーカー・スウェインが糸を引いていると考えているのだろう。
 しかしながら少なくとも彼が見つかるまではコーリへの疑いが晴れることはなさそうである。
「見たことがないわけじゃないって……?」
「余程ブレットに入れ込んでいるのね」
 再び答えになっていない答えが聞こえてきたが、ヴェラは頷くことしかできなかった。
「スウェインとブライスの行方は全力で探している。あなたは妹さんを信じて待っていて」
 ミシェルからそう告げられ、ヴェラは辛うじて、ええ、と返すと、病室のドアを見やった。
 もう一度入りたい気持ちもあったが、今の状態でコーリの考えを覆すことはできないだろう。彼女を意固地にさせないためにも、何か心を開かせ、一種の洗脳状態から救い出す方法を探したいところである。
「……何か進展があったら、連絡を」
「ええ」
 了承するミシェルを確認すると、ヴェラはもう一度病室のほうを見やり、エレベーターのほうへと足を進めていった。


 空気は冷たいものの日差しの温かさは日に日に増してきているようであった。しかしながらそれを感じ取る余裕もなく、ヴェラは視線を落として停めてある自分の車へと足を速めた。
 途中、自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、一瞬遅れて脳がそれを認識する。
 顔を上げればこちらに向かってやってくるデズモンドの姿を確認することができた。
「デズ」
「コーリの意識が戻ったって聞いて」
 コーリが無事だったことを心底喜んでいる様子のデズモンドが眩しく、ヴェラが目を細める。
「ええ」
 肯定した声が掠れていたことに疑問を抱いたのだろう、デズモンドが僅かに眉を動かした。
「どうしたんですか?」
 問われ、暫くの間考える。
 コーリにぶつけられた、両親やヴェラ自身を責めるような言葉がずっと胸に引っ掛かっていた。過去を振り返れば、彼女の意見を聞くことよりも、導かなければならないといった気持ちが先行していたように思われる。
 今のコーリの状態を招いたのは自身の彼女に対する言動のもたらした結果なのかもしれない、と責任を感じると同時に、ヴェラ自身の声がコーリに届かないことのもどかしさがいかんともしがたいところだった。
「……なんでもない」
 デズモンドにそう告げると、ヴェラは努めて口元を緩めた。
「これから話に行くの?」
「ええ、勿論、コーリの体の負担にならない範囲で……」
 答えながらもヴェラの様子が普段と違うことに疑問を持ったのだろう、デズモンドの語尾が弱くゆっくりと変化していった。
「ありがとう。私よりもきっと、あなたの言葉には耳を傾けるはず」
 そう告げるとヴェラは、それじゃ、と口元を引き締め、デズモンドに背中を向けた。
 去っていくヴェラの背中に何か一言投げかけようとしたデズモンドだが、心なしか小さく見えたため、疑問が一層深まる。病院のほうを一瞥し、再びヴェラに視線をやる。姉妹関係があまりよくないことは知っていたが、そのことと関係しているのだろうか。
 考えながらもヴェラが最後に残した、デズモンドの言葉には耳を傾けるはず、という一節が頭を過る。
 もしそれが本当なのであれば、デズモンド自身にしかできない何かが待っているはずである。
(コーリ……)
 心配や不安がないまぜになった自身の心を奮い立たせ、デズモンドはひとつ息をつくと病院の入り口へと向かっていった。


 日が落ちた街中の空気は冷たく、行き交う人々の口からは白い息が上がっていく。
 アパートの前に車を停め、ヴェラがエンジンを切る。
 先日のカーチェイスに関係したD13のメンバーは逮捕されており、ヴェラが提供した資料の住所にも捜索が入ったという。ひとまずは安全と判断されたのか、帰宅の許可がようやく下りたところだった。
 暫くそのままぼんやりと前を見ていたヴェラだったが、ひとつ息をつくと外に出た。
 ふと、夕方にかかってきたデズモンドからの電話の内容を思い出す。
 彼もまた、コーリの考えを変えるには至らなかったらしい。
 ここまでくると本当にコーリ自身が計画したことなのかもしれないと思い始めてしまう。が、その度にミシェルからのコーリを信じていてほしいとの言葉が思い出される。
 捜査線上にはヴェラの知らないことも挙がっているのだろう。雰囲気から察するに、物的証拠はコーリを示しているようだが、ミシェルの言葉が捜査チームの見解なのであれば、ブレット・ホフリンを名乗っていたウォーカー・スウェインが見つかれば物事はあるいは大きく動くかもしれない。
 期待を持ちたいところだが、今は不安のほうが大きいのが実情だ。
 今後どれほどの時間を要するのかは知らないが、粘り強くコーリに話しかけていくしかないのだろう。
 ふと、前方に人の気配を感じ、ヴェラが足を止めて顔を上げる。
 相手を確認すると緊張を解き、僅かに口元を緩めた。
「また偶然通りかかったの?」
 やってきたリンに対して声をかければ、彼が気まずそうに口を結び、眉を動かす。
「えーっと、なんだろう。ひょっとしたら、事情を知っている人間が必要かなと思って」
 リンの申し出を聞き、ヴェラが不意を打たれたような顔をする。
 確かに相談できる相手はそう多くはなく、コーリに好意を寄せているデズモンドにも話しづらいところではあった。
 第三者の視点があれば、新しい希望を見出すこともできるかもしれず、ヴェラが弱いながらもほほ笑む。
「……私の行きつけのバー、高いわよ」
「――それってカードの上限、上げたほうがいいくらい?」
 真面目に受け取ったリンの質問に、ヴェラがふっと笑う。
 相手に気づかれないようにタイミングの良さに感謝しつつ、ヴェラは徒歩圏内にある行きつけのバーへと道案内を開始した。


 普段であればなんともなしに開くドアなのだろうが、体力が落ちている身体には重たく感じられた。
 何日ぶりなのかは分からない。体感的に数字は三桁を超えているようにも感じられるが、数えることはとうの昔に諦めていた。
 開けたドアの先は暗く、夜であることが分かる。
 靴のない足元は冷たく、むしろ凍てついていると表現したほうが正しいのかもしれなかった。
 街灯の光すら眩しく感じられるところをみると、昼間でなかったことに感謝するべきなのかもしれない。
 背後を振り返り、追手がいないことを確認すると、男性は外に踏み出した。
 薬のせいか長らく遠くを見ていなかったせいか、視界はぼやけており何度も目を擦りつつ、なるべく陰になるところを可能な限り足早に歩いていく。
 途中、素足で踏む細かな石が煩わしい存在であったが、今はそのような些細な事には気を払っていられなかった。
 ふと、男性が前方に電話ボックスを見つける。
 今となってはあまり使われない存在なのだろうが、撤去されていないことが今夜は救いであった。
 明かりに照らされているためあまり時間はとれないだろうが、連絡手段がすぐ見つかったことに安堵し、ひとつ深く呼吸をとった。
 背後を振り返り、追手がいないことを再度確認する。
 すでに切れかけている息だが、電話ボックスまでは持つだろう。
 ドアに手をかければ、震えていることが分かる。
 打たれた薬が何かは分からないが、連日のように薬の効果に曝されているため中毒症状のようなものが出ているのは確かだった。
 意識もはっきりしているとはいえないものの、かけたい相手の電話番号は正確に思い出せた。それもまた救いに感じられる。
 数字を口に出しつつ、男性が受話器を手に取る。
 が、硬貨の持ち合わせがないため数字のボタンを押しても不通の音が耳元で聞こえるのみであった。
 苛立ちを短く言葉で表し、男性が電話ボックス内を調べる。
 足元に目をやれば、隅のほうに古びた硬貨が落ちているのが見えた。加えて電話機の下にも数枚の硬貨があることに気づく。
 過去の使用者が落としたか、通話中に置いておいてそのままにしてしまったか、いずれにしても男性にとっては幸運なことだった。
 掴むための動作がうまく行えず硬貨を拾い上げるのに時間がかかる。
 手の震えを押さえるように呼吸を整え、硬貨を指定の箇所に入れ、再び覚えている数字のボタンを押す。
 数回の呼び出し音の後、しかしながら相手は出ず、そのまま留守番電話の受付の音声が流れる。
 それでも久しぶりに聞く姉の声に、男性は固く目を瞑り、溢れ出てきそうになる安堵の気持ちを抑え込んだ。
「姉さん? 無事だ。何も話していない。これから……――」
 言いかけたところで眩暈がし、そのまま力が抜けていく感覚に襲われる。
 受話器が手から離れ、電話機から垂れ下がると揺れた。
 電話ボックス内に倒れた男性が、その天井を仰ぎ、目を閉じる。
 音がしたことで近くにいた通行人の注意を引き付けたか、どうした、という声が聞こえたようにも思われた。が、そこで男性の意識が途切れる。
 電話ボックス内に人が倒れていることを確認した通行人が、携帯電話を取り出して911に連絡をとる。
 他にも数人が異変を察したようだが、助けに走るものと関与せずの姿勢をとるものに分かれていった。
 ほどなくして、現場に向かう救急車の音が聞こえてきた。
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