IN THIS CITY

第5話 A Sense of Foreboding

01 .02 .03 .04 .05 .06 .07 .08 .09 .10 .11 .12 .13 .14 .15 .16 .17

05 Binary Choice

 大学内のカフェの一角、天井に近い窓から春先の陽光が差し込んでくる。
 日向の席に座り、エリザベスは締切りが近い課題の最終確認を行いながら、カフェラテのカップに手を伸ばした。
「リジー」
 聞こえてきた声にエリザベスが顔を上げる。クレアが急ぎ足でこちらに向かってくるのが見えた。
 彼女が座るだろう椅子の前のテーブルの上を空けながら、エリザベスは笑顔でクレアを迎えた。
「間に合った感じ?」
「大丈夫よ」
 息を切らすクレアにそう告げれば、よかった、と安堵の表情をしながら彼女が息を整え、椅子に手をかけた。
「これ、ルークとエリンが担当していたところのまとめ」
 コピーしていた資料を薄手の紙のフォルダーに入れ、クレアの前に差し出す。
「ありがとう、助かる」
 座って隣の椅子に荷物を置き、クレアがフォルダーを受け取った。
「時間とれそう?」
「なんとかするわ。今夜のレターマンは録画して我慢する」
 作業量を考えるとリアルタイムでお気に入りのレイトショーを視聴できないだろうことを残念に思いながらも、課題の提出のほうが優先度が高い、とクレアが決心する。
「クレアの担当のところはみんなに共有してあるから」
 微笑みを返しながらエリザベスが伝えれば、少々不安そうな顔をしたクレアと目が合う。
「今のクレアの反応と似た感じの反応だったわよ」
「よかった、睡眠時間削った甲斐があった」
 嬉しそうにクレアが手に持っているフォルダーをぎゅっと握る。
「それで、お母さんは大丈夫?」
 エリザベスの問いに、クレアが頷く。
「大丈夫よ、ありがとう」
「そう、よかった」
「でも牛乳を持ち上げたらぎっくり腰になった、っていうのは伏せておいてね」
 私からもお願い、とクレアがエリザベスを見る。
 政治的な話ではないものの、話題のシャトナー上院議員の妻に関連する事柄とあってはゴシップ紙の格好のネタであることには変わりない。
 以前に一度、躓いたところを写真に撮られてネタにされた経験があるだけに、余計な雑音は可能な限り省きたいのだろう。
「分かった。私は何も聞いていないことにする」
「ありがとう」
 ほっとした様子のクレアに、エリザベスは口元を緩めて返すとカフェラテのカップを手に取った。
 ふと、クレアは何も飲まなくていいのか気になり、尋ねようと口を開きかけたところで彼女のほうから先に声がかかってくる。
「……お母さんっていえば、リジーのほうは?」
 遠慮がちな声色での問いかけに、エリザベスがカフェラテを飲む動作を中断し、クレアを見た。
 彼女には、昨年の夏の事件について詳細は語っていないものの、エリザベスの母親であるルティシア・フラッシャーの所在が分からない状態であることは告げてある。
 クレアの目を見ながら、エリザベスは首を横に振ってまだ見つかっていないことを伝えた。
 そう、とクレアがテーブルに一度視線を落とす。
「力になれることがあったら言ってね」
「ありがとう」
 最後に母親と会ったのはNYだ。現地の警察のほうには、あの事件以来親しくしているTJ・グラスフォード経由でも話がいっているが、恐らくルティシアは既に州を出ているだろう。
 地元のクラークスバーグのほうにもビアンカを含め相談はしているが、今のところ彼女が戻ってきたという連絡はなかった。
「きっとまた会えるわよ」
 紡ぎ出す言葉を最小限に止めつつも、寄り添ってくれているクレアの心を感じとり、エリザベスは淡い希望に頷きながら微笑みを返すとカフェラテを口に含んだ。
「そうだ、リジーにちょっと相談があるんだけど、いい?」
 フォルダーをバッグにしまい、改まってクレアがエリザベスを見る。
「何?」 
「この話はまだ公になっていないから、ここだけの話にしておいてほしいんだけど……」
 前置きをするクレアの様子に、漠然としながらもメディア等での話題が増えてきている大統領選に関することなのだろうことが察せられる。
「分かった」
 カップを置き、エリザベスもまた座り直ってクレアと向き合う。
「既にメディアが騒いでいるから驚くような話じゃないと思うんだけど――」
「……副大統領候補のこと?」
 言葉を濁すクレアに思い切って小声で尋ねてみれば、彼女が頷いて肯定した。
 確定的な報道はなされていないが、やはり民主党大統領候補の指名を確実にしたスミッツ上院議員は、クレアの父親であるシャトナー上院議員を副大統領候補に考えているらしい。
「すごいじゃない」
 声量を絞りつつも、おめでとう、とエリザベスが顔を綻ばせる。
「ありがとう。それで、これから選挙戦も本格化してきて応援演説とかテレビ討論会とか入ってくるのよね」
 クレアの言葉に、おぼろげながら覚えている前回の大統領選挙のときの様子を思い出しつつ、エリザベスが頷く。
「スタッフ含めて忙しくなりそうね」
 リンのことも念頭に置きつつそうこぼせば、クレアが肯定した。
「滅多にない機会だし、次があるかも分からないから、夏休みを利用して私も選挙戦に同行しようかなって思っているの。若い顔が映れば、若い人も我が事として興味を持ってくれるかもしれないし。それで――」
 テーブルの上で少しばかり落ち着きなく遊ばせていた両手に一度視線を落とし、クレアが顔を上げる。
「――よかったら、リジーも同行してくれたら心強いかなって」
 耳に入ってきた突然の申し出に、エリザベスがクレアの目を見たまま固まる。
「あ、勿論ボランティアとしてではなくって、選挙戦のスタッフとして短期で働いてもらう形で」
 クレアの話は理解できるものの、投票以外で大統領選挙戦に自身が関わることになるとはまったく考えていなかったため、エリザベスが返答に詰まる。
 考えてみれば非常に身近なところで大きな物事が動いていたことに気づき、その渦中に友人であるクレアがいることを改めて実感した。
 心強いかな、というクレアの言葉がエリザベスの脳内で再生される。
 一緒に大はしゃぎすることもあるが、所作は落ち着いており、クレアからは同い年ながらも自立した雰囲気を感じている。良き友人であるものの、エリザベスにとっては一種の憧れを抱く存在でもあった。
 その彼女の口から初めて、不安の混ざった言葉を聞いた気がする。
「ごめんね、突拍子もないこといきなり話しちゃって」
 続くクレアの言葉に、エリザベスの思考が現実に戻ってくる。
「あ、違うの、クレア。突然のことでびっくりしただけだから」
 取り繕いながらもクレアの目を見る。
 一見したところいつもと変わらない様子ではあったが、心なしか緊張も感じ取れる気がした。
「私も初めてのことで、それにけっこう話が進むのが早くってついていけないっていうか、戸惑っちゃってて……。リジーが近くにいてくれたらほんと、助かるかなって」
 エリザベス自身が思っている以上の信頼をクレアが寄せてくれていることを知り、受諾の返事をしようとしたところで、ウィトモア家からの話がエリザベスの脳裏を過る。
 クレアからの申し出は、シャトナー上院議員の政策に自身の興味のある分野が含まれているエリザベスとしてはまたとない機会だ。また、クレアですら次の機会があるか分からないと言っている状況では、直接的な関係がないエリザベスはこの機を逃せば今後は確実に縁がない話だろう。
 かといってショーンから申し出のあった話を断れば、父親と過ごす時間はより限られたものになるだろう。
 思いもかけず2択を迫られることになり、エリザベスが手元に視線を落とす。
 可能であればどちらも引き受けたいところだが、ただでさえ贅沢な話と感じることに対して欲が深すぎるとも考えてしまう。
「ありがとう。次の夏休みについては、ちょっと別のことを考えていたから、ここで即答できなくってごめん」
 言いながら顔を上げ、クレアを見る。
 彼女には母親のことは話をしたものの、父親に関する一連の事件についてはエリザベス自身がまだ整理しきれていないこともあり、話をしていない。
 エリザベスの言葉に、いいの、とクレアが首を振って伝える。
「PCATの準備も入ってくるし、考えるにしても時間が必要よね。勿論断ってくれてもいいわ」
 でも、とクレアが姿勢を心持ち前に傾けながら続ける。
「前向きに考えてくれたら嬉しい」
 真っすぐに目を見て告げられた言葉に、エリザベスの胸が僅かに痛む。
 ええ、と何度も頷けば、クレアがいつもどおりの笑顔をこぼした。
「それじゃ、私ちょっと課題を片付けてこないと」
 一刻も早く仕上げて可能であればレイトショーに間に合わせたい、とクレアがバッグを掴む。
「クレアならすぐ終わるわよ」
「ありがとう」
 立ち上がり、それじゃまた、と椅子を元の位置に戻すクレアに、エリザベスも同じように返す。
 去っていく彼女の背中を見送りながら、エリザベスは先ほどクレアから聞いた話を反芻する。
 気持ちが傾いているのは否めないが、じっくり考える時間を設けたいのも事実だった。
 カフェラテのカップに両手を回し、視線を落とす。
 随分と熱さが抜けてしまったものの、まだ手を温めるだけの温度は保たれていた。


 暖かくなってきたとはいえ、日が落ちればまだ風に寒さを感じる。
 帰宅ラッシュを過ぎた時間になったのか、通りを行き交う車の量が少なくなったように感じられる。
 タイ料理店から出てきたリンが首にマフラーを巻く。店外の明かりを受け、彼の吐く息が白く可視化された。
 リンに続き、口元に手を当てながらクラウス・アイゼンバイスが店を後にする。
「もっと水飲んどきゃよかったかな……」
 クラウスのくぐもった声にリンが不思議そうに彼を見る。
「そんなに辛かった?」
「おめーは辛くなかったのか?」
 けろりとしているリンに、口の中の違和感を拭おうと何やらもごもごしながらクラウスが尋ねる。
「いや、僕は非常においしくいただいたけど……」
「確かに味は美味かったけどな」
 それでも辛いものは辛い、とクラウスが眉根を寄せる。
「砂糖でも舐めたら相殺されるんじゃない?」
「いや無理だろ」
 適当なリンの提案は却下し、クラウスは諦めたように手を口元から離すとコートのポケットに突っ込んだ。
「でもホント、助かったよ。おかげで作業部会も発足できそうだし」
「いや、俺は人を紹介しただけで何もしてねーぞ」
「橋渡ししてくれたじゃん。有識者を見つけるのも重要だから」
 国内で広く問題となっている医療用オピオイド系鎮痛剤の乱用を巡り、法案の作成などを目的として、シャトナー議員を含め党派を超えた作業部会の発足を進めているところだ。議論を進めるためには無論有識者の意見が必要であり、リンからの相談を受けて、クラウスもまた、話に興味を示した教授や医師を専門家として紹介した次第である。
「お前個人的にも力をいれてそうだな」
 これまでの打ち合わせにおけるリンの様子を思い出しつつクラウスが呟けば、まぁね、とリンが頷く。
「……過剰摂取で亡くなる人を1人でも少なくしたいから」
 言い終わった後にひとつ、リンが深く息を吸って吐いた。
「……なんかあったのか?」
 クラウスの問いかけに、リンが彼を一瞥する。
「学生時代にちょっとね。友人を亡くした」
 努めて淡々と、リンがそう告げた。
 その一件以来、応急処置ができるように携帯用のナロキソンを持ち歩いているリンだが、幸い使う機会には遭遇していない。当時も持っていれば、と思うものの、後悔は先には立たない。知識が増えて対応策を考えるのは、いつも何かが起こってからであった。
 あまり感情的にならないようにしている彼を見、そうか、とクラウスが頷く。
 クラウス自身も仕事柄、過剰摂取の患者や中毒に陥り処方箋を所望する患者の話を見聞きしないわけでもない。
 ポケットから手を出すとリンの背中を軽く叩き、クラウスが口を開く。
「またなんか必要なら話してくれ」
 そう伝えればリンから擦過音のみの礼の言葉が聞こえてきた。
 暫くそのまま歩いていた2人だったが、ふと、リンが周囲を確認する。
「タクシー、なかなか通らないね」
「そうだな」
 言いながら足を止め、クラウスもまた交通に目をやった。
 困ったな、と頭を掻くリンの脳裏に1人の候補が浮かび、クラウスを見やった。
 その視線を受けて彼が何を考えたか察したのだろう、クラウスが、ああ、と眉を動かす。
「かけてみる?」
「まぁ断られるだろうけどな」
 言いながらも携帯電話を取り出すリンを止めることはせず、クラウスはもう一度通りに視線をやった。
 彼の隣、リンが確実に飲んでいない相手に電話をかける。
「あ、ウォレン? ちょっと今、タクシーがなかなか通らなくてさ。もしDCに――」
 途中で言葉を切ったリンが暫時の間を置いて携帯電話を耳から離す。
「『断る』って」
「やっぱりか」
 ひとつ息をついて今度はクラウスが携帯電話を取り出す。
 リンと同じ番号にかけながら相手を待てば、数回の呼び出し音の後に珍しく応答があった。
「よ。DCにいんのか?」
 クラウスの問いかけから2秒ほど経った後、歩け、という声がリンの耳にも届く。
 携帯電話を下したクラウスがため息がてら、
「……聞こえたとおりだ」
 と報告する。
「やっぱダメかぁ」
「昔はTWIXで簡単に乗せられたんだけどな」
 無駄に大人になりやがって、とクラウスが残念そうに呟く。
「あ、そうか。子どもの頃からの付き合いだっけ」
 リンの問いに簡単な肯定を返すと、クラウスは再び歩き始めた。
 彼に追随して足を動かすリンが、そういえば、と思い出したように口を開く。
「彼、少なくとももう1つIDを持っているみたいだけど……」
「ID?」
「メイス・レヴィンソン」
「ああ。持っているってか、学校とかではそっちを使ってたぞ」
 クラウスの返答に、リンが意外そうな顔をする。
「そんなに昔から使ってるの?」
「少なくともこっちで生活を始めたときにはレヴィンソンを使ってたな」
 アレックスの野郎もレヴィンソン名義を使っていたっけ、とこぼし、クラウスはリンを見やった。
「それがどうかしたのか?」
「いや、別に。ただ、この前クレアとエリザベスと彼とで飲んだ時に違和感があってさ。クレアがいたからメイスで通していたんだけど、こう、しっくりこなくって――」
 飲んだ勢いで間違えないように、とエリザベスが健気にも注意を払っていた様子が見て取れてハラハラしたものだが、当の本人は偽名であることが判明しても問題ないと思っていたのか、呑気なものだった。
「――てっきり表向き用に用意したものだと思ってたから。でも子供の頃から偽名を使っているってなると……」
 その後は続けず、代わりにリンが手で表現する。
「こっちに来た時からアレックスが面倒をみていたからな。あいつの事情に合わせたんじゃねーの」
 然程気にしていないらしくさらりと述べたクラウスに、やはり一般的な感覚から少し外れているところがあるのを感じ取りつつも、リンは納得したように頷いた。
「職探しはレヴィンソンのほうを使っているらしいから、僕らもそのIDのほうで呼んだほうがいいのかな」
「まぁいいんじゃね? 親父やギルも本名のほうで呼んでるし、本人はかなりどっちでも良さげだしな」
 今更変えるのも面倒だ、と呟き、クラウスが続ける。
「ときにお前、あいつから職探しの進捗状況は聞いているか?」
「ぼちぼち、とは言ってたけどそれ以上は聞いていないかな」
「やっぱフラフラしてやがんのか」
「クラウスには相談しているって言ってたけど?」
「いや、そんな話は全く聞いていない」
 クラウスの状況を聞き、リンが僅かながらに眉を寄せる。
「ひょっとして君には――」
「お前に相談しているところだって言ってた。二枚舌を使うとは、政治方面が案外向いているかもな」
「……どうも」
 リンの声に、そういえば政治関係に携わっていたか、とクラウスが彼を見る。
「お前も二枚舌が得意なのか?」
「詭弁なら得意だけどね。ってか、そういう偏見で――」
 白い息を吐きながら歩く2人の前方より、何やら強い口調で女性の声が聞こえてき、共にその方向を見やる。
 建物の影響で反響しているのか、歩いている通りでの出来事ではないらしい。
 間をおかずに聞こえてきた、何か物が崩れるような音に反応し、クラウスとリンは顔を合わせるとその音の方向に駈け出した。
 小さな路地に差し掛かり、左右を交互に見る。
 雑多な物が脇に置かれている路地の半ばあたりを見、あ、とリンがこぼす。その方向にクラウスが視線をやれば、大型のごみ箱の側に倒れている、女性らしき人の姿を見つける。
 何がしかの事件が起こったらしいことを察し、2人は彼女の元へと急いだ。
「大丈夫か?」
 膝をつき、うつ伏せに倒れている女性にクラウスが声をかける。
 彼女の対応については医療従事者の彼に任せておいたほうがいいと判断したか、リンは路地の先を注視した。2人がいた路地のほうに誰も出てこなかったところを見ると、彼女を襲った人物は恐らくこの路地の先へ逃走したのだろう。だが、暗がりに目を凝らしてみても、それらしい人影は見当たらない。
「彼女は頼んだ」
 クラウスにそう声をかけ、ああ、という返事を確認すると、リンは路地の先へ走って行った。
「おい、聞こえるか?」
 女性を仰向けにすれば、微かに彼女が呻く。
 一見したところ出血は見当たらなかったが、仰向けになった彼女の左頭部に傷を見つける。
 彼女の傷の具合を確認するのと並行し、片手で携帯端末を取り出すクラウスの側で、女性が朦朧とした様子で目を開けた。
 その視線が端末を持つクラウスを認めた後、彼女が手を伸ばして弱いながらもクラウスの袖を掴んだ。
 それを感じ取り、ロックを外したクラウスが彼女の目を見る。
「……警察――……」
「何だ?」
「――呼ばないで……妹が……」
 か細い声で女性が確かにそう告げた。
 一瞬何を言っているのか分からなかったクラウスだったが、すぐに怪訝そうに女性を覗き込む。
「どういう――」
 尋ねようとした矢先、女性の目が閉じ、手が袖口から離れた。
「――おい!」
 再び声をかけてはみるものの、女性の目は閉じられたままだった。


 氷点下の空気が肺に入り込む。
 別の路地と交差するところまで走ってきたリンが、左右を確認した。
 それらしい人影は見当たらない。
 逃げる人間であれば、人気のない路地を縫うよりも交通の便と人ごみを真っ先に考えるだろうか。暫時迷った後、リンは大通りのほうへと駈け出した。
 外気に冷やされて白く立ち上る排気された湯気をくぐり、明るい大通りまで出た瞬間、人とぶつかりそうになった。短く詫びの言葉を述べ、リンは人の流れを眺めた。
 寒い気温ではあるものの、歩いている人の数は多い。その中で急いている人は、しかしながらリンしか該当しないようであった。
 外れか、とリンが引き返す。
 時間を食ってしまった分、路地のほうを確認しても無駄であろうことは分かっていたが、それでも念のために足を運んだ。
 大通りよりも格段に人通りが少ない。
 近くの駐車スペースにて、メーターに料金をいれている老人を見つけたものの、女性を襲ったのが彼である可能性は低かった。
 周囲を見回す。リンの行動に振り返り怪訝な目を向ける人が数名いるものの、つい先ほど女性に危害を加えたような雰囲気の人影は見当たらなかった。
 ため息をつき、リンは仕方なくクラウスの元へと戻ることにした。


 見たところ女性の外傷の度合いは深刻なものではない。
 一時的に意識を失っただけだろうが、それでも放っておくという選択肢はなかった。
 手元の端末を見るが、時間が立っていたらしく画面は黒い。
 再びロック画面を表示させたものの、コード入力の半ばでクラウスが手の動きを止める。
 確かに彼女は、警察は呼ばないよう告げた。
 どういう事情があるのかは知らないが、続く妹という単語を考えると、彼女の意思を尊重し、呼ばないでおくのが妥当のようにも感じられる。
 一方で、危害を加えられるような事情があるのは間違いない。彼女の希望はさておき、素直に警察に連絡したほうがいいのではという考えも捨てきれない。
 警察は呼ばないまでも救急車は呼ぶべきだろう、とクラウスが再び端末のボタンを押す。が、搬送されるとなると事情を説明するしかない。意識がない以上、女性の口から説明することは無理だ。必然的にクラウスとリンが見た状況をそのまま説明することになるだろう。そうなると『呼ばないで』との彼女の希望に反し、警察沙汰になることは察することができる。
 逡巡している間に足音が近づいてき、クラウスが顔を上げてその方向を見やった。
「ごめん。それらしい人は見つからなかった」
「そうか」
「彼女の具合は?」
「気を失ったらしい。頭部に打撲を受けているが、心配はねーだろ」
「そっか」
 安心したのだろう、リンが呼吸を整えるのに合わせてほっと一息つく。
「救急車は?」
 リンの問いかけに、今度はクラウスが小さく息を吐いた。
「それなんだけどな……」
「呼んでないの?」
 確認しながらリンは自身の携帯電話を取り出すため手をポケットにやった。
「待て。彼女が呼ぶなと言っていた」
 その声に途中で動きを止め、リンがクラウスを見る。
「……何?」
「意識を失い際に、警察は呼ぶなと残した」
「どういうこと?」
「知るか」
 深くため息をつき、クラウスが女性に視線を落とす。
「――救急車だけでも呼んだほうがいいんじゃない?」
「それは考えた。けど搬送先で色々尋ねられるだろうからな」
「……だろうね」
 困ったなぁ、とリンが頭を掻く。
「……聞き間違いじゃないからな。呼ぶべきなのかもしれないが、ここは親父んとこに連れていくか」
 ここに置いておくわけにもいかず、どこかで静養させようと考えれば、場所はアンソニー・アイゼンバイスの診療所しか思い当たらない。
「そうだね」
 仕方ない、とリンがクラウスの意見に同意する。
「ってことはやっぱタクシー見つけないといけないか」
「悪ぃ、頼む」
 クラウスを残し、リンが足早に大通りの方面へと向かう。
 小さくなっていく足音聞きながら彼を見送り、クラウスは再び女性に視線を戻した。
 診療所で安静にさせ、意識が戻ったところで事情を聴くことになる。素直に話してくれるかは分からないが、今のところそうするしかなさそうだった。
Page Top