IN THIS CITY

第5話 A Sense of Foreboding

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11 Standing By

 たむろしている若者が少ない一角まで進み、街路灯の明かりが届くか届かないかのところでウォレンが足を止めた。
 ゆっくりと振り返れば、角を曲がったカルヴァートがウォレンの姿を見留めた後、周囲にそれとなく注意を払う。
「あそこのプールでも稼いでいるのか?」
 奥にあったビリヤード台を思い出しながらカルヴァートが尋ねれば、まぁな、とウォレンが肯定する。
「そこまで稼げないが」
 腕のいい人間が集まっているのだろうことを知り、ここでは参加しないほうがよさそうだな、とカルヴァートが僅かに苦笑する。
「で、どっちの名前使ってんの?」
 聞こえてきた質問にウォレンが顔を上げる。
 入店の際の挙動を見る限り、カルヴァート自身がこのバーを見つけ出したとは考えられなかった。
 反対に、連れの女性は慣れた様子であり、ギルバートとも親しそうであった。察するに、彼のFBI側の知り合いの1人なのだろう。
 小さく息をつき、ウォレンが口を開く。
「……ウォレン・スコット」
 名前を聞き、そうか、とカルヴァートが頷く。
「まぁ、『普通』の客にはレヴィンソンで通しているが」
「なるほどね」
 頷きつつカルヴァートが横手のバーの壁に視線をやる。
 店内で待たせているミシェルからも、比較的協力的ではあるものの訳ありの店であることは聞いているところだ。
「マスターとは仲いいの?」
「信頼できる」
 目を覗き込んでくるカルヴァートに対し、ウォレンは簡潔に返答した。
 頷くカルヴァートの様子に、今のところそれ以上の質問はないらしいことを確認する。
「彼女の紹介か?」
 尋ねながらウォレンが壁越しにカウンターを親指で示す。
 単純な返答が言葉以上の意味を持つことはカルヴァートも理解していた。
 観照力が高いところも買ってはいるが、厄介に感じるときもあるのが正直なところだ。だが、否定したところでウォレンが信じるとは思えず、逆に単に信用を失うだけだろう。
 彼女が同僚であることが割れても彼なら売ることはしないか、と判断し、カルヴァートが口を開きかけたところで
「いい。忘れてくれ」
 とウォレンから声がかかる。
 間を置きすぎたか、とカルヴァートが頭を掻き、詮索する気はないという意思表示を受け取った。
「……で、偽名を使うバーにいるってことは何か追ってんの?」
「いや、そういうわけじゃない」
「そうか?」
 再度の確認に、ウォレンが腰に手を当てて暫時横手を見やる。
「トラブルの相談に乗っていただけだ」
 無言ながらも内容を知りたそうなカルヴァートの様子にウォレンが小さく息をつく。
「あんたの担当じゃないとは思うが……」
「話だけでも聞かせてくれや」
 興味はある、とカルヴァートが腕を組んで右手で顎を撫でる。
「お仲間には別ルートから話が届いているはずだ」
「同僚の仕事を奪う気はねぇよ」
 聞くだけだ、というカルヴァートの姿勢に、ウォレンは軽く頷くと口を開いた。
「グリーン・レスキューは知っているか?」
「グリーン……ああ、環境保護団体か」
 知っているのか、と思ったがそれは表情には出さず、ウォレンが続ける。
「そのリーダーについてだ。経歴に不明な点がある」
「名前は?」
「ブレット・ホフリン」
 ふぅん、とカルヴァートが頷く。
「そいつとなんかトラブルが?」
「いや」
 単純な返答だけでは満足しなかったらしいカルヴァートの様子に、ウォレンは一度視線を地面に落とし、体重をかける足を変えた。
「……寧ろ奥さんのほうだな。コーリ・ホフリン」
「絡まれてんの?」
 実際に絡まれているのはクレアだが、そこまでの説明は不要と判断したか、ウォレンが小さく息をつく。
「まぁな」
「なるほどね」
 頷きながらカルヴァートが先ほどバーを出る前に確認した店内の画を思い起こす。確か、窓際の奥の席にウォレンと同年代と思われる客が2,3人いたように記憶している。察するに彼らが関係しているのだろう。
「何、お前、マトモな生き方するんじゃなかったの?」
「仕方ないだろ。厄介事のほうが俺を見つけてくるんだ」
 自ら好んで首を突っ込んでいるわけではない、とでも言うように手のひらを広げるウォレンを見、カルヴァートが軽く肩を揺らす。
「人が好いところは相変わらずみてぇだな」
 同意はせずに、ウォレンが視線を逸らす。
「言っておくが、俺はこの件からは外れる」
「あ、そうなの?」
 カルヴァートの確認の声に、ふとウォレンが先ほど交わしたリンとの会話を思い出す。
「……まぁ、最後に関係者に少し話をしに行くが」
「これからか?」
「ああ」
 そうか、とカルヴァートが頷く。
「ならちょっとシラフでいるかな」
「そこまで大きな話じゃない」
「外からじゃ見えねぇ火の手もあっからな」
 備えておくに越したことはない、とカルヴァートが告げた。
「そもそも所管外じゃないのか?」
「本部に貸しを作れるなら大歓迎だ」
 にっと笑うカルヴァートの様子に、むしろ何かが起こることを期待しているのではないかと勘繰りたくなる。
「悪いフラグを立てる気か?」
 怪訝な顔をするウォレンの言葉を聞き、カルヴァートが近くの木製と思われる箱を3回ほど叩いた。
 その様子を含みを持った視線で見やり、ウォレンは両足に体重を戻した。
「……何かあったら連絡する」
「お、サンキュ。頼む」
 期待していた返答だったらしく、よろしく、とカルヴァートが口元を緩める。次いでウォレンの肩を軽く叩くと踵を返し、先にバーに向かった。
 去っていく彼の背中を見送りつつ、ウォレンが小さく息をつく。
 十分と思われる時間を置くと、自身もまたバーの出入り口に向かった。


 店内に戻るとウォレンはそのまま真っすぐに奥の席へと向かった。
 気配を感じて視線を寄こしてくる3人を確認し、足を止める。
「言い忘れていたが、今夜はギル持ちだ」
 カウンターのほうを意識しつつ立ったまま告げると、ウォレンはポケットに手を入れた。
「なんで?」
「まぁ気にせず飲んどけ」
 敢えて説明はせずに質問をいなし、リンを見やると間を置かずに続ける。
「どうする?」
 車の鍵を見せて尋ねれば、意図を察したらしくリンが、ああ、と暫時考える。
「フリードリンクならもう1杯――」
「行くなら俺の気が変わらないうちにしろ」
「だよね」
 そうこぼして立ちあがるリンを見る分に、余程に彼女と会って話をしたいらしい。無料の話では制止できなかったか、とウォレンは気づかれないように息をついた。
「それじゃ、運転頼むよ、メイス」
 しれっとリンが告げれば、ウォレンが口元のみの微笑を短く切り上げた。
「安全運転しろよ、メイス」
 聞こえてきたクラウスの声に、ウォレンが彼を見る。
「また後でね、メイス」
 次いでエリザベスの声も耳に届いてき、ウォレンが3人をそれぞれ見やる。
「……楽しそうだな」
 一言のみ残し、ウォレンは背を向けると歩き出した。
 リンを含め、3人がふっと笑う。
「それじゃ」
 リンの言葉にクラウスとエリザベスがそれぞれ簡潔な返事をすると、去っていく彼の姿を見送った。
 カウンターに座るカルヴァートの背後は素通りし、レイモンドとギルバートにのみ軽く目で挨拶をするとウォレンはドアに手をかけた。
 彼の後ろに続き、リンもまた2人に対し、目で礼を述べる。
 その様子を前の棚のガラス越しに見送ると、カルヴァートはドアの開閉を示すベルの音を聞き届けた。


 2人が外に出て行くのを見送ると、エリザベスはクラウスに向き直った。
「アンソニー、ぎっくり腰は本当に大丈夫?」
「ああ、まだ寝返りが厳しいらしいけど問題ない」
 クラウスの返答に、そう、とエリザベスがこぼす。
「お見舞いに行っても迷惑じゃないかしら」
「まぁ喜ぶんじゃねーかな」
 再び、そう、とエリザベスがこぼす。
 彼女の真の意図を察し、口につけたグラスを離すとクラウスは彼女を見た。
「……不都合な写真を隠す時間、くれるか?」
 その言葉に、よし、とエリザベスが自身の手を握った。


 リンの記憶のとおりの住所まで車を走らせれば、5階建てらしいアパートが建っているのが見えた。街灯に照らされているアパートは、避難用の外階段を含め外壁の手入れも行き届いているようだった。
「部屋の場所までは聞いていないんだよな」
 斜め向かいに見えるアパートの様子を窺いながらリンがぼそりと呟く。
「……まぁタクシーもそこまで乗り込めないだろうからな」
 言いながらウォレンが空いているスペースに車を寄せた。
 頷いてリンが停車の感覚を認識する。
 ふと、疑問に思うことが出てき、ウォレンを見やる。
「あれ。今のひょっとしてジョーク?」
 リンの質問を受け、サイドブレーキを踏み込んだウォレンが怪訝な顔をした。
「何がだ?」
 その様子に先ほどの発言は意図されたジョークではないことを知り、リンは僅かに頷いた。
「いや、なんでもない」
 いつものことながらジョークか否かが分かりづらいな、と思いつつも一言返し、リンが再びアパートを見やる。
「で、彼女にはどう説明する気だ?」
「何を?」
 尋ね返しつつもウォレンが何を示しているのかすぐに理解したのだろう。
「あ」
 とリンが視線を泳がせ、一度口を閉じる。
「……どうしよう?」
「知るか」
 何も考えていないのか、とため息をつき、ウォレンはエンジンを切った。
 ふと、サイドミラーに目をやる。
 ほどなくして明かりが外を過り、タクシーがアパートの近くに停車した。
 そこからタイミングよく出てきた人物を確認したか、リンが姿勢を正した後に助手席のドアノブに手をかけた。
「……偶然を装う気か?」
「あ、それいいね」
 却下される前提で提案してみたものの好意的な反応が返ってき、ウォレンはため息をついて一度シートにもたれかかった。
 止めておいたほうがいいと思うが口には出さず、助手席のドアが閉められる音を聞きながらウォレンも外に出た。
 車の往来がないことを確認し、リンが通りを横切る。
 その途中、
「ヴェラ」
 と声をかければ、意中の人物が彼を振り返った。
「あら」
 足を止めてヴェラがリンに向き直る。
「確かリンだったかしら」
 肯定の返事をしつつも、名前を憶えていたことに対しリンが嬉しそうな表情をする。
 その背後、邪魔にならないよう取り計らっているのか、簡単に目だけでウォレンが挨拶をした。
「こんなところで、何かあったの?」
「あ、えーっと、偶然通りかかって」
 リンの説明を耳にし、本当に使うとは、とウォレンが軽く目を瞑ると視線を地面に落とした。
 彼のその様子も確認しつつ、ヴェラが曖昧にゆっくりと頷く。
「……ここ、住宅街だけど」
「そうみたいだね」
「あなたも住んでいるのかしら?」
「いや、そうじゃないけど……」
「じゃ、メイスのほうかしら?」
 ウォレンを示しつつ、ヴェラが再度リンに尋ねる。
 その設定も使える、と考えたリンが振り返るが、即時的に目と手で否定するウォレンを見届けるだけだった。
 若干責めるようなリンの視線に、一応小声になるよう声量を落とし、なんだ、とウォレンが返す。
 彼らのやりとりからおおよその成り行きを察し、ヴェラがふっと笑みをこぼす。
「まぁいいわ。グリーン・レスキューの件ね?」
 彼女のほうから助け舟が出たと解釈したか、表情を整える時間を置き、リンがヴェラに振り返った。
「そう」
「進展があったの?」
「少しだけ」
 そう、とヴェラが頷く。
 暫時リンを観察するような時間が置かれた後、彼女が小さく息をついた。
「いいわ。来て」
「よろこ……あーっと、分かった」
 返事をし、ヴェラの視線が自身から外れたことを確認した後、リンが小さくガッツポーズを作る。その様子を背後で見留め、ウォレンは多少の脱力感を覚えた。
 察するに、ヴェラはリンの意図を察しているらしい。その上で許可を与えたところを見ると、一応は無害な相手と判断したのだろう。
「俺は外していいか?」
 気まずさには付き合いきれない、という感情を隠すことなく乗せてウォレンがヴェラに尋ねる。彼女からの返答に若干の期待を持ちつつ片足のつま先を車に向けたのだが、
「いえ、いてくれると助かるわ」
 というリンを意識してのヴェラの回答が返ってき、それが叶わないことを知る。
 そうか、と短く息をつき、ウォレンは心持ち重たくなった足の向きを元に戻した。
 ヴェラの案内に従う途中、脈があるか否かについてこっそり聞いてくるリンに対し、適当にうざったそうに相槌を返しつつ、ウォレンは早めにどう退出するかについて早速考えを巡らせた。


 アパート全体の玄関の鍵を開け、ヴェラが2人を通す。
 一度振り返ってくるリンに対し、分かったから早く行けとウォレンが促す。
 玄関に程近いエレベーターに乗り込めば、ヴェラが5階のボタンを押した。
「それで、この問題に関心が強いのはシャトナー議員のご意向?」
 エレベーターが動き、足元から慣性力を感じる中、ヴェラが尋ねながらリンを見やる。
 前回主に応対していたのはウォレンということもあり、また上院議員の名前が出てくるとは思っていなかったか、リンの反応が遅れる。
「えーっと」
「お嬢さんが勧誘されているんでしょう?」
 返答に迷うリンにヴェラが追加で情報を告げれば、彼が驚いたような表情をした。
「グリーン・レスキューの1人から聞いたの。それに、上院議員の広報スタッフにあなたの名前があったわ」
 それを聞き、なるほど、とリンが頷く。
「調べたんだね」
「勿論」
 言いながらヴェラがウォレンに視線を転じる。
「あなたの名前はどこにもなかったけど」
 言いながらヴェラがウォレンの目を探るように覗き込んだ。
「俺はこいつの相談を受けただけだ」
 淡泊に告げれば、そう、とヴェラが一応の頷きを返す。
 相手がジャーナリストということもあり、多少の緊張感を持ってやりとりを見守っていたリンだったが、どうということでもないように、ウォレンは平然としていた。
 いい神経しているな、と感心するが、先日クレアと同席したときも彼が偽名を使用していることについてあまり神経を尖らせていなかったことを思い出す。
 偽名が明らかになったところで何とかなると考えているのか、と締めくくったところで、エレベーターが目的の階に到着したことを音で知らせてきた。
 ドアが開き、ヴェラを先頭に3人が奥のほうへ向かう。
 5部屋あるうちの4部屋目についたところでヴェラが鞄から鍵を取り出した。
「あら」
 鍵穴に鍵を入れようとしたヴェラだったが、ドアが僅かに開いていることに気づく
「鍵をかけ忘れたかしら」
 その言葉にウォレンがヴェラを見、次いで室内に意識を向けた。
 おかしいわね、とドアノブに手をかけようとするヴェラの腕をウォレンがそっと制止する。
 彼を見るヴェラがその意味を察し、顔に少しばかり緊張が走ったようだった。
 次いでウォレンがリンを振り返り、静かにするよう合図を送る。
 侵入者がいる可能性を知り、リンもまた緊張した面持ちで頷きを返した。
 ヴェラを下がらせ、2人にこの玄関口で待つように告げ、ウォレンがドアノブに手をかける。
 確かに鍵がかかっている反応はなく、押すだけで素直にドアは開いた。
 一歩踏み入れて電気をつける。
 が、部屋の中から動きがあるような反応は返ってこなかった。
 すでに侵入者が去った可能性を考慮に入れつつも、気を緩めずに室内に足を踏み入れる。
 残念ながら飛び道具は携帯していない。
 ナイフの位置を確認しつつも、玄関口の2人の存在を意識し、それを取り出すことは今のところは控えることとした。
 万が一侵入者がまだ滞在していた場合に備えて構えつつ、足を踏み出して右手の短い廊下を覗き込む。
 右手と奥のドアの下を見る分にそれらの部屋は電気がついておらず、またそれらしい音も届いてこなかった。
 奥のドアは後回しにし、先に右手のドアを開ける。
 バスルームだが人の気配はなかった。
 ふと背後で、何これ、というヴェラの声が聞こえてきた。
 声から察するに、状況が気になって室内に入ってきたらしい。
 もう少し強く伝えるべきだったかと思いつつも振り返る。制止するより先にヴェラが居間のほうへ向かったらしい。
「ヴェラ」
 まだ安全を確認していない、と短い廊下を出てウォレンが彼女を追いかける。
 その前方、居間が荒らされている様子を確認し、ヴェラが足を止めた。
 彼女の様子を見留めつつ、ウォレンが周囲をざっと確認するが動きはない。
 人が隠れられるような収納スペースを見つけ、そちらに向かって踏み出そうとした瞬間、不意に背後で慌ただしい音がすると同時にリンの驚いたような声が届いてきた。
 振り返るウォレンが逃げる男の姿と突き飛ばされるリンを確認する。恐らく短い廊下の先の奥の部屋に潜んでいたのだろう。
 壁に背を打ちつけたらしいリンに対して大丈夫か声をかけようとしたが、その間もなくすぐにリンが体勢を整え直し、
「あ、ちょっと待った!」
 と男を追いかけた。
 体幹の良さは普段の動作にも表れていたが、咄嗟の状況にも対応できるところをみるとかなり動けるらしい。
 男を追うことは一旦リンに預けることとし、ウォレンは短い廊下を折れると男が隠れていたと思われる部屋を確認した。が、他に人の気配はなかった。
 通常の動線からの追跡はリンに任せ、ウォレンは居間へ急ぐと、窓の位置を確認した。
「失礼」
 侵入者がいたことと居間の荒らされ具合に動揺しているらしいヴェラに一言残し、許可は聞かずに奥の窓まで急ぐ。
 この部屋は建物の入り口から4室目であり、ウォレンの建物内の間取りの認識が正しければ、先ほど外から確認した外階段が奥の窓の近くに設置されているはずであった。
 上下開閉式の窓に手をかければ、手入れが行き届いているのか滑らかに開いた。
 身を乗り出して確認すれば、予想通り外階段が手の届く位置に存在した。
 上半身を先に出し、近場のとっかかりを利用して素早く足も外に出すと外階段の手すりを外側から掴む。
 壁を蹴って勢いを得、ウォレンが外階段のほうに移動すると柵を軽く乗り越えて数段飛ばしで駆け下り始めた。


 慌てた様子でヴェラの部屋から飛び出た男を追い、リンが廊下に出る。
「待ってって!」
 言っても無駄だとは思いながらも声をかけ、案の定止まらない相手を目指してリンもまた走る。
 エレベーターで降下された場合、追いつける自信がなかったが、エレベーターはどうやら違う階層に移動していたらしく、男が何か言葉を吐き捨てて階段へ向かう様子が確認できた。
 その確認作業のおかげで距離は詰められたものの、相手も必死に逃げているらしく、階段を慌ただしく降下していく間もなかなかに捕まえることができない。
 そうこうしている間に地上階についたらしく、男がアパート全体のドアを開ける音が届いてきた。
「待った!」
 リンが今一度制止の声を投げかけ、閉まりそうになるドアを押して同様に外に出る。
 右手に折れてかけていた男が突如、急激に速度を落とし、リンのほうに向き直った。が、追いつてきたリンの姿を見て一瞬足を止める。
 何が起こったのか街灯の明かりを頼りに確認するリンの目が、男の背後にウォレンがいることを捉える。
「あれ? いつの間に――」
 言い終わるか終わらないかのところで男がリンのほうに向かって駆けてくる。
「え? あ、ちょっと、こっち?」
 対応しやすいと判断されたのだろうとは思うものの、可能であればウォレンに任せておきたかったところである。
 咄嗟に重心を落として足の位置を固めると、勢いに乗って殴りかかってくる男の右腕を右手でそのままいなし、交差した左手で男の首筋に衝撃を与える。
 即座に身を翻して男の背後をとると、首筋に受けた痛みに対応している彼の膝を蹴り下げた。
 うめき声と共に男が地面に膝をつく。
 一連の行動の間に距離を縮めてきたウォレンの気配を背後に感じ、リンは攻撃をそこまでにすると彼を見た。
「やるな」
 感嘆の音は含まれていたものの、この状況に対しては特段疑問に思うことはないらしかった。
「どこから? え、飛び降りたの?」
 リンの質問に、ウォレンが背後を軽く親指で示す。
「外階段」
 短い説明に、リンが示された方向を確認する。
 確かにアパートの外に階段が存在し、2階部分から下に梯子がおろされたらしい様子が確認できた。
「あ、なるほど」
 よく確認しているな、と感心しているリンはさておき、ウォレンは男を見下ろすと、
「探し物か?」
 と咳きこんでいる男の頭に質問を落とした。
「お、俺は何もしてねぇよ」
 咳と咳の間に発声の機会を見つけ、男が手を下ろしながら答える。
「盗みじゃないだろ」
 アパートについては住人に続いて全体の玄関から入り込んだのだろうが、ただの物取りが最高階まで上がり、わざわざ部屋の鍵をこじ開けて侵入するとは考えにくい。
 察するに、どうやらヴェラはグリーン・レスキューについて不都合となる情報を入手したらしい。
「何を探していた?」
 同じ質問を落とすが回答はなく、二、三の息をついた男が不意に膝を立ててナイフを繰り出してきた。
 危ない、と言いかけたリンだったが、ウォレンは男の動きを予想していたか、彼が男のナイフを持っている手を脇に挟んで無理な方向に力を入れると次いで腹部に空いている拳を繰り出した。
 男の短い悲鳴が届いてき、痛みの度合いを理解したリンが顔を顰める。
「手加減してあげたほうが……」
 倒れ込んだ男の所持品を漁っていたウォレンがリンの声を聞いて彼を見る。
「したろ?」
 返答を受けてリンが再度男の様子を確認するが、肘を痛めたことは確からしく、左手で関節部分を押さえつけていた。
「そっか」
 一応の同意の相槌を落としつつも、リンとしてはウォレンの存在が心強いのか怖いのかいまいち判断しかねるところだった。
 ふと、人の気配を感じてリンが振り返る。
 背後でウォレンが何か作業していたが、それよりもアパートから出てきた人物のほうにリンの意識は向けられていた。
「ヴェラ」
 リンの言葉にウォレンが顔を上げ、彼女が下りてきたことを確認する。
「知ってる顔か?」
 ウォレンが男を無理矢理立たせれば、彼が苦痛に呻いた。
 襟の後ろを掴んでヴェラのほうを向かせるが、彼女は首を振って否定した。
「とりあえず警察を」
「待って」
 携帯電話を取り出そうとしたリンを制止し、ヴェラが2人を交互に見る。
「……何も盗まれていなかったから」
 明確ではない言葉だったが彼女の言わんとすることを察し、ウォレンが怪訝な顔をする。
「……いいのか?」
 質問を受け、ヴェラがウォレンを見やる。
「ええ」
「いい判断とは思えないが」
 再度の確認に、ヴェラが暫時、間を置く。
「……いいの」
 彼女の返答を受け、そうか、とウォレンは頷くと男を離した。
 自由になり、男が右肘を押さえつつ二、三歩後退する。
「いいの?」
 リンの声に男が彼を見る。
 決定が覆るかどうか不安な様子だが、ヴェラが頷くのを見、更に後退するとウォレンを見た。
 行け、とでも言うようにウォレンが男の折り畳み式のナイフを差し出す。
 警戒しながらも男がそれを奪うように受け取る。
 取り戻したナイフを早速使うことも彼の頭を過ったようだが、ウォレンの視線が自身から外されないことを知り、断念したらしい。男は最後にヴェラとリンに一瞥をくれると右肘を押さえながら背を向けて走り始めた。
 それを見送り安全を確信した後、ウォレンがポケットから携帯電話を取り出した。
 途中、リンから疑問の目が向けられていることに気づき、彼を見やる。
「彼女の希望だ」
 警察に連絡をとるわけではない、と一言告げればリンがヴェラを見た。
 携帯電話に視線を落とし、ウォレンが二言三言入力して先ほど撮影した男のIDの画像をギルバートに送信する。
「……妹さんが関係しているから?」
 リンのヴェラあての質問が耳に入ってき、ウォレンが顔を上げる。
「ええ」
 小さな声で答える彼女を確認し、ひとつ息をつくとウォレンは携帯電話をしまった。
「面倒ごとになっても知らないぞ」
 いつも以上に温度のない声色だったためか、リンが僅かに眉を寄せる。
「そうキツく言わなくても……」
「いいの。気にしないで」
 好ましくない選択をしたことは認識している、とヴェラが弱く笑みを作り答えた。
「……何か入手したのか?」
 ウォレンの問いに、ヴェラが一度口を結ぶ。
「入手はしたけど、どう解釈すればいいかまでは――」
 言いかけてひとつ息をつく。
「――……あなたたちには共有すべきね」
 言い終わるとヴェラは、着いてきて、とアパートのほうへ踵を返し、自身の部屋へ2人を誘導した。
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