IN THIS CITY

第5話 A Sense of Foreboding

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06 In-Between

 ギルバートのバーから3ブロックほどの距離にある診療所の近く、路肩に車を寄せて停車すると、ウォレンはエンジンを切った。
「待ってろ、今ドアを開ける」
 助手席に半ば不自然な姿勢で座っているアンソニーにそう声をかけると、ウォレンはシートベルトを外し、アンソニーからの短い礼の言葉を背中に受けつつ外に出た。
 周囲を何ともなしに見回しつつ助手席側に回り、ドアを開ける。
「降りられるか?」
「そんなに心配しなくても大丈夫だから。スティーヴンのとこでも降りたし乗ったでしょ」
「そうだったな」
 よっこいしょ、とアンソニーがまず右足を出し、次の動作の準備のために深く呼吸をする。苦い顔をしながら座席の上でゆっくりと体の向きを変えると、痛む腰を思いやりつつ、今度は左足を外に出した。
「ごめん」
「ああ」
 補助を、と伸ばされたアンソニーの腕を肩に回し、ウォレンが立ち上がる手助けをする。
「大丈夫、大丈夫。立ってしまえば問題ないから」
 バランスを取りながら車の外に出ると、アンソニーは足幅狭く移動を開始した。
「無理するな。家に入るまで肩を貸す」
「でも屈んでいるとお前の腰に負担がかかるでしょ」
「俺はまだ若い」
 ぎっくり腰とは縁がない、とウォレンは助手席のドアを閉め、鍵を閉めるボタンを押した。
 ロックがかかり、指示器が数回点滅する。
 住居も兼ねている診療所へウォレンの肩を借りながら向かう途中、
「クラウスには内緒にしておいてよ? 小言を言われるのは目に見えているから」
 とアンソニーが何度目だろうか、ウォレンに頼み込む。
 親子なだけあって遠慮のない言葉を浴びせられるのだろう。躓きそうになったところで慌てて踏ん張った瞬間に腰に痛みが走った、ということは、息子には知られてはならないらしい。
「そうだな――」
 一応の返事はしつつ、ウォレンは住居スペースのある診療所の2階部分に視線だけを向けた。明かりがついているところを見ると、どうやら無事にタクシーを見つけることができたのか、クラウスが来ているのだろう。
 間が悪いな、と思いつつウォレンがそれとなくアンソニーの様子を窺うが、彼はそのことには気づいていないらしかった。
 対クラウス用に言い訳は考えているのか尋ねようとしたところで、先にアンソニーが口を開く。
「あ、ちょっと待って。どこに向かってるの?」
「診療所の入り口だが」
「外階段でいいよ」
 自身の健康状態にはかなりの自信を持っていたアンソニーとしては、今回のぎっくり腰の件は相当いただけない事案なのだろう。あくまで普段どおりに行動したいらしい。
「……安静に、と言われたろ」
 つい先ほど聞いた、アンソニーの知り合いである整形外科医の言葉を引き合いに出しつつウォレンが指摘すれば、アンソニーが言葉に詰まった。
「治ってから動けばいい。今は昇降機の世話になれ」
 納得はいっていないものの、無言でアンソニーがウォレンの言葉に従い、1階にある診療所の玄関のほうへとゆっくり歩を進めた。


 その診療所の2階、ゲスト用の部屋の前、ドアノブに手をかけたリンがその手を下ろす。
「やっぱりやめておこう」
 ひとつ息をつき、リンは踵を返すとクラウスのいる居間へと向かった。
 意識を失った女性の意思を尊重し、警察等への連絡は控え、代替案としてこの診療所に連れてきた。彼女は今、ゲスト用の部屋で横になっている状態だ。
 身元が気になるため、彼女が持っていたバッグの中身を調べようということに一旦は落ち着いたものの、いざとなると彼女に無断で私物を調べることがどうも憚られる。
「まぁ危ない人間っぽさはないからな」
 居間のソファの背に腰掛けて告げた後、ふとクラウスがウォレンのことを思い出す。
 詳しいことは一切承知していないが、銃創を負うような危ないことをしていることだけは把握している。そんな彼も傍から見ればごく普通に見えるのは確かだった。
 見た目だけでは判断できないか、と考えたところで、外の階下から物音が聞こえてき、リンとクラウスが揃ってその方向を見やる。
 室内ではテレビはついておらず、外の通りにも車は行き交っていない。
 その静かな空間の中で耳を澄ませば、外階段の下からぼそぼそと会話がなされている様子が伝わってくる。その声の質から、アンソニーのほか、ウォレンもいることが分かった。
「あ、丁度いいね」
 相談ができる、とリンが呟き、出迎えるために玄関のほうへ向かった。
 が、2人が上がってくる様子はなく、逆に外から物音がしなくなった。
「あれ?」
 疑問に思ってリンが玄関を開け、下の様子を確認する。
「どうした?」
「いや、何か2人とも診療所のほうから入ったみたい」
 リンの元まで足を運び、クラウスも同じように玄関から顔を出し、階下を見やれば無人であることが確認できた。
 暫く経った後、背後の廊下の突き当りを曲がった先から、何やらがらがらと柵を引く音が聞こえてき、2人が振り返る。
 疑問に思いながらも室内に戻るリンの隣、奥に設けられている昇降機が利用されていることにクラウスが気づく。それと同時に嫌な予感が脳裏を掠めた。
「何の音?」
 聞いたことのない昇降機の作動音に、リンが疑問を口にした。
「簡易エレベーターだ」
 言いながら玄関を閉め、クラウスが廊下のほうへと足を向ける。
 わざわざ昇降機を利用する必要があるほどの怪我をウォレンが負ったのではないか、という不安が沸き起こる。
 ふと、廊下の奥から、後は歩けるから、といった内容の声が聞こえてき、クラウスが歩みを止める。
 声質からして今の声はウォレンのものではなかった。
 やがて、普通に立って歩いているウォレンが角を曲がってき、目が合った。
 その彼の背後、居間にすでに明かりが灯っていることにようやく気付いたのだろう、クラウスがいるのか尋ねながらアンソニーが姿を現す。
 2人とも独立して足で歩いていることを確認し、クラウスが安堵の息を吐いた。
「何でまたそっちから上がってくんだ。心配させんな」
 大方重い荷物でも運んでいたのだろうとクラウスは推測したが、それにしてはウォレンもアンソニーも手ぶらである。
 加えて、アンソニーはどうやら壁と腰に手をついているらしかった。
「あ、エレベーターもあったんだ」
 知らなかった、とクラウスの隣にリンが顔を出し、同じように廊下の奥を見る。
 その姿を確認し、ウォレンがクラウスとリンを交互に見やった。
「何だ。まだ飲み足りないのか?」
 言いながらアンソニーより先に居間に入り、ウォレンは玄関脇に向かった。
「あ、いや、ちょっとしたことがあって。まぁ君が来てくれて丁度よかったっていうか」
 歯切れの悪いリンの様子に疑問を抱きながらも、ウォレンがまず預かっていたアンソニーのコートをコート掛けにかけた。
「『丁度よかった』?」
 尋ねがてらにウォレンが自身のコートを脱ぐ間に、アンソニーもまた居間へと少し近づいてきたらしい。
「おや、リン。久しぶりだね」
 その声にリンのほかにクラウスもまた振り返り、アンソニーが歩みを止める。
「それと、クラウスも。来ちゃってたか……」
 後半を小声にしつつ、可能な限り何でもない体を装いながらアンソニーはクラウスの視線が逸らされるのを待った。
 なかなか居間に入ってこないアンソニーに対して、リンが怪訝な表情をする。
「どうかしたんですか?」
 リンからの問いかけに、アンソニーは口元を上げて笑みを作ると首を横に振った。
 明らかに何かがおかしいアンソニーの様子に、逆にクラウスとリンの視線が釘付けとなる。
 その空気を察しつつも無言のまま、ウォレンはコート掛けから離れると近くのソファに座った。
「……なんでずっとそこに立ってんだ?」
 十分な時間が経過した後も動かないアンソニーに対してクラウスが尋ねれば、
「え? いやちょっと、えーっと、疲れちゃって」
 と説明になっているようないないような回答が返ってきた。
 不審に思っていることを隠さないクラウスが、ふとウォレンを振り返る。が、彼はソファの前のテーブルに置いてあった新聞を広げ、我関せずを決め込んでいるらしかった。
 背後で物音がし、クラウスが振り返る。
 その動作を確認し、アンソニーが再び歩みを止めた。しかしながら直前の歩き方はしっかりとクラウスの目に映ったらしい。
「……親父、なんか動きがおかしくねぇか?」
「おかしくないよ? 全然」
 壁に手をついたままアンソニーが即答する。
 沈黙の時間がぎこちなく流れる。
 未だになかなか居間に踏み込んでこようとしないアンソニーの様子に、クラウスとリンが説明を求めるようにウォレンを振り返った。
 さすがに2人分の視線を無視する気にはならなかったか、ウォレンが新聞から目を離すと彼らを交互に見た。
 アンソニーと約束をしている手前、彼の許可なく説明をするのは憚られる。
「俺には聞くな」
 2人に対して短くそう告げ、ウォレンは再び新聞に視線を落とした。
 ひとつ大きく息をついてクラウスがアンソニーを見やる。さすがにここまでくればアンソニーの身に何が起こったのかは推測できた。
「腰、痛めたのか」
「痛めてません」
「痛めたんだな」
「痛めてません」
「嘘つくな」
「ついていません」
 頑なに認めようとしない父親の姿に、呆れた様子でクラウスが息を吐き、
「だから言っただろ、親父も年取ってきてんだから注意しろって」
 と続けると、心配して損をした、とばかりに大股でソファのほうへ足を運び、八つ当たりするようにウォレンから新聞を取り上げた。
 手持無沙汰になった彼がソファにもたれかかりながら視線を上げれば、咎めるような視線を送ってくるアンソニーと目が合う。
「俺は何も言っていない」
「でもバレちゃったでしょ」
「まぁ動きが、な」
「おめーも知っていたなら連絡ぐらいしろよ」
「口止めされていたんだ」
「もう少しなんかこう、2人の注意を引き付けておいてくれたら無事に冷蔵庫まで辿り着けたんだけど」
「水くらい持っていく。途中で素直に部屋に入ればよかったろ」
「なんだ、おめーも隠し通す気だったのか?」
「いやそうは言っていない」
「何、告げ口する気だったの?」
「いや――」
 アンソニーの言葉に何かを言いかけたウォレンだったが、相反する意見をぶつけてくる2人を相手にするのがだんだんと面倒になってきたか、あからさまに鬱陶しそうにウォレンが残りの言葉をため息として消散させた。
 何も言わずにやり取りを見ていたリンが、ふっ、と笑えば、3人が揃って彼に視線を向けた。
「あーっと、ゴメン」
 およその関係性を理解したリンが、咳払いをして口を閉じる。
 無言の時間が暫く流れた後、アンソニーがひとつ息をつく。
「それじゃ、水のデリバリーは頼もうかね」
 そう告げると奥の自室へと小股に方向転換を始めた。
 その様子を見ていたクラウスが、立とうとするウォレンを制して冷蔵庫へと足を向ける。
 自室へ向かう途中、ゲストルームのところまで歩を進めたアンソニーがふと立ち止まる。
「そういえば確か患者さんが忘れて行った杖がここにあったっけ」
 言いながらアンソニーが隣のドアノブに手をかける。
「あ、そこは――」
 制止するリンの言葉は間に合わず、アンソニーがドアを開ける。
 視線を上げた彼は、薄明りの部屋の中でベッドの上に横になっている女性の存在に気づいたのだろう、動きを止めた。
 リンの声に、クラウスもまた意識を失った女性を保護していることを思い出す。
「すみません、暫くの間お借りします」
 リンの声に返事はせず、アンソニーがドアノブに手をかけたまま居間とキッチンのある方向にゆっくりと向き直った。
「……お父さん、こういうことする子に育てた記憶はないんだけど」
 アンソニーから発せられた言葉の意味を瞬時には理解できず、リンが疑問の顔を彼に向ける。
「邪推してんじゃねーよ。倒れていたから連れてきただけだ」
 キッチンのほうからクラウスの声が飛び、ここで初めてリンはアンソニーからあらぬ疑いをかけられていたことに気づいた。
「あーっと、ええ。彼女、誰かに襲われたみたいで気を失っていて、それで、偶然通りかかったのでこちらに……」
 やたらまごつきながら説明するリンに、アンソニーがまだ納得いかないらしい視線を寄こしてくる。
「いえ、本当にヨコシマな考えとかないですから」
 潔白を証明しようと躍起になるリンだが、それが逆に怪しさを増大させているのか、アンソニーの視線は外れなかった。
「不穏な話だな。警察には連絡したのか?」
 ふと聞こえてきた声に、3人が揃ってウォレンを見る。
「……何だ」
 彼らから視線以外に何の反応もないことに気づき、半ば憮然としながらウォレンが問いかけた。
「いや、その、君の口から『警察に連絡』っていう提案が出るとは思っていなかったから、つい」
 素直に口に出すリンに、ウォレンが口元だけの笑みを作って彼に返す。
「――えーっと。なんだか頭も痛くなってきちゃった。話は聞かなかったことにしていいかな」
 杖を持ち出すのは諦めたのか、アンソニーはゲストルームのドアを閉めるとゆっくりと体を回転させ、自室へと体を向けた。
「温かくしとけよ。冷えは腰に悪ぃんだから」
 言いながらクラウスが冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出し、アンソニーの後を追う。
 その彼に、分かっています、としおらしく答え、アンソニーは半歩半歩、足を進めていった。
「横になんの、手伝おうか?」
「大丈夫、それは自分でできるから」
 礼を言いながら水を受け取ったアンソニーが自室に入り、ドアが静かに閉まる。
 その様子を感じ取りつつ、ウォレンはリンに視線を転じた。
「――で、誰なんだ?」
「誰って?」
「その部屋で寝ているらしい女性だ」
「えーっと――」
「駆けつけてすぐに意識を失ったんだ。確認してねーよ」
 リンが言いかけたところで居間に戻ってきたクラウスが回答した。
「……呑気だな」
 呆れた様子でウォレンが一言投げかけ、女性が寝ているらしいゲストルームを一瞥した。先ほどはアンソニーに対して『通りがかったら倒れていた』と話していたことを考えると、少しばかり状況が違うな、と感じなくはない。が、誤差の範囲内か、と結論付けるとウォレンはゲストルームから目を離した。
「所持品は?」
「彼女の隣に置いてある。調べようと思ったんだけど、やっぱり許可とったほうがいいかなって思い直して」
「……意識が戻るまで待つのか?」
 ウォレンからの問いかけに、クラウスとリンが顔を合わせ、まぁそういうことかな、と肯定した。
 返答を受けてウォレンが数瞬を置いた後に軽く頷く。
 話を聞く分に、そう緊迫した状況ではないように感じられる。
 ひとつ息をつくとウォレンは組んでいた足を下ろし、重心を前に移動させた。
「クラウス、今夜はここに泊まるのか?」
「ん? まぁ、親父があの調子だからな」
 そうか、とウォレンはソファから立ち上がった。
「なんだ、帰るのか?」
「明日また来る。お前は仕事があるだろ」
「いや、まぁそりゃ助かるけどよ」
 尋ねた理由はアンソニーの介抱のことではない、とクラウスの手がゲストルームを示す。それを見て彼が言わんとすることを察したウォレンだったが、
「俺は関与しない」
 と一言告げると玄関へ向かった。
「え、なんで?」
「お前らが拾ってきた問題だろ」
 リンからの問いかけに、コートを手に取りながらウォレンがさらりと回答した。
「冷たいなぁ」
「俺より警察に相談しろ」
 2人が未だ警察に連絡していないことに対し疑問を持たないわけではない。直接911に電話をかけて面倒ごとを背負い込むことに躊躇しているのか分からないが、ウォレン個人が保険として繋がりを持っている当該機関の知り合いに非公式な案件としてわざわざ連絡を取るのは控えたいところだ。
 無論、ウォレンにそのような存在がいることは2人のあずかり知らないところである。
「いや、警察には連絡するな、と言われてんだ」
 それを聞き、コートに腕を通しかけたウォレンが動きを止める。
「誰に?」
「彼女に」
 クラウスからの回答に、ウォレンが怪訝な表情をする。
「意識を失う直前に頼まれた」
 言いながらクラウスがゲストルームを示す。
「……理由は?」
「妹が、と言っていたが、詳しくは聞いていない」
 疑問を持った表情はそのままにウォレンがゲストルームを見やる。
 最初は『通りがかったら倒れていた』と認識していたが、先ほどは2人から『駆けつけてすぐに意識を失った』と聞いたところだ。その時点で2人の説明に対し若干の疑問を持つところがあったが、さらに今聞いた話では『妹が』と彼女が告げる時間があったらしいことが新たに分かる。
 説明が二転三転することに対して何か一言二言文句を言いたいところだが、そこは敢えて指摘しないことにすると、ウォレンはコートを元の場所にかけ直した。
「……具体的にはどういう状況だったんだ?」
 彼の問いに、今度はクラウスとリンが不可解な顔をする。
「説明したろ」
 続いて聞こえてきたクラウスの一言に、ウォレンは軽く目を瞑ると言葉を選ぶように体の前で軽く手を動かした。
「時系列で整理してくれ」
 ウォレンからの要求に、仕方ない、と息を吐くと2人が記憶を手繰るような声を出す。
「タクシーを探していたら大きな声と音が聞こえてきて。でクラウスと一緒にその方向に走っていったら彼女が倒れていたんだ。で、僕は彼女を襲った人物を探しにいったけど見つけられなかった」
 リンの説明にウォレンが頷き、クラウスに視線を転じる。
「左側頭部に打撲はあったが、他に目立った外傷はなかった」
 そこで切られたクラウスの説明に、今聞きたいのは怪我の程度ではない、とウォレンが続きを促す。
「――で、警察を呼ぼうとしたら彼女に止められた」
「『妹』が関係しているからか?」
「いやそこまでは分かんねぇ。『妹が』とだけ言って意識を失ったからな」
 ようやく何があったのかが見え、ウォレンが、なるほど、と頷く。
 その『妹』の身に何か危険が及ぶような事件が背後にあるとすれば、このまま2人を関わらせた状態で放っておくわけにもいかず、自然とため息がこぼれる。
「……無理に起こすのは避けたほうがいいか?」
 ウォレンがクラウスを見れば、彼が頷いた。
「できればな。まぁ問題ないとは思うが、念のため検査は受けてほしい」
 そうか、とウォレンが頷く。
 その意識を失った女性からも話を聞きたいところだが、ここは2人の意見のとおり、彼女が自然と起きるのを待つしかないだろう。
「とりあえず、彼女の身元は確認するぞ」
 ウォレンの提案に、少し間を置いてクラウスとリンが頷く。
 続いて彼らがゲストルームへの道を空けた。
 それを確認したウォレンが2人を交互に見やり、彼ら自身が女性の所持品を取りに行く意思がないことを知る。
 結局自分が動くのか、と2人を再び一瞥すると、ウォレンは大きく息をつき、ゲストルームへ向かった。
 音を極力立てないようにドアを開け、中を覗く。間接照明が淡く室内を照らしている中、ベッドの上で横になっている女性の姿が視認できた。
 ゆっくりとその傍まで歩を進め、ウォレンが彼女の様子を確認する。
 手入れが行き届いているショートボブの髪が頬にかかっている。ブランド名は分からないがコートも靴もシンプルなデザインであり、上質な仕立てのものだった。
 外見から判断する分に、彼女自身に危険な点はなさそうであった。
 ふと近くの椅子に目をやれば、彼女のものらしきバッグが置かれている。
 ゆっくりとそれを手に取るとウォレンは静かに部屋を出て行った。


 カーテンの閉められた窓越しに外からの薄明かりが漏れる中、女性の手がぴくりと動く。
 意識を浮上させた彼女が、ぼんやりと目を開ける。
 焦点がはっきりしてきた先、淡い橙色の照明の明かりが目に映る。
「…………」
 暫くそれを見ていた彼女だったが、やがて、その画が見慣れないものであることに気づく。
 ゆっくりと体を回転させる。
 頭に違和感があり、左側頭部に手を当てる。
 それと並行し、改めて今いる空間が見知らぬものであることに気づく。
 慌てて、周囲を確認する。
 上体を起こして座ったベッドのほか、棚とランプ、クローゼットがある他は目立った家具類は置かれていない。
 ふと、ドアの外から人の声が聞こえてくることに気づく。
 複数の男性のものであることを知り、女性は口元を引き締めた。
 鈍痛が残る頭を押さえ、ベッドから降りる。
 足音を立てないよう気をつけながら、女性がドアへと向かう。
 聞き耳を立てて向こう側の様子を確認する分に、すぐ外には誰もいないらしい。
 ドアノブを捻り、開いた隙間からそっと部屋の外の様子を窺う。
 左手、居間らしき空間に、黒髪の男性の姿を1人視認した。
 彼がこちらに体を向ける空気を察し、女性が音を立てないようドアを閉める。
 緊張が走る。
 辺りを見回した後、ベッドまで戻り、膝で乗り上がるとその先のカーテンを開けた。
 視界に入ってきた建物の壁に、1階ではないことが分かる。
 上下に開閉する窓を開ける。
 二重窓になっているそれは年季が入っているらしく、二枚目のガラスを開けようとしたときに手が滑った。
 同時に、ガラス窓も滑り落ちて派手な音を立てる。
 まずい、と嫌な痛みが心臓に走る。この窓から脱出することはできそうになかった。
 案の定近づいてくる足音に、女性はベッドから降りると身構えた。居間を突破し、その先にあるだろう玄関から逃げ出すしか選択肢はなさそうだ。
 頭がやたら痛い気がするが、今はそれどころではない。
「起きた――」
 ドアが開いたのと同時に、女性は入ってきた人物に体当たりを食らわせた。
「うわっ!」
 予想していなかった女性の突撃に、リンが後方に大きくバランスを失う。
 その脇をすり抜けた女性だったが、居間に踏み込んだ瞬間、別の男性2人と目が合い、思わず足を止めてしまった。
 その間に、混乱している様子の女性を落ち着かそうとクラウスがソファから立ち上がる。
 しまった、と女性が後悔する。
 足を止めずにそのまま駆け抜けていれば、今頃は玄関まで辿り着けていただろう。
 仕方なく女性が引き返そうとする。が、その先にはバランスを持ち直したらしいリンがいた。
「おい、何か勘違いしているみてーだけど――」
 事情を簡単に説明しようとするクラウスの声は女性の耳には入っていないらしい。
 逃げ場がない、と焦る中、女性がふと左手の棚を見る。
 その視線の先、封筒が入れられているボックスの側にペーパーナイフが置かれていた。
 女性が迷うことなくそれを手にする。
 2名を相手にするより、と女性は廊下にいる無防備なリンに向かった。
「あの、ちょっと落ち着い――」
 声をかけるリンに、女性がペーパーナイフを突きつける。
 驚いたように咄嗟にリンが両手を広げた。
「こっちに来て」
「え?」
「早く!」
「あ、はい」
 両手を広げたままリンが言われたとおりに女性のほうに歩み寄る。
「後ろを向いて」
「後ろ?」
 尋ねながらも素直に従ったほうがいいと判断したか、リンが手を上げたままに女性に背中を向ける。
 リンの服を掴むと、女性は彼の首筋にペーパーナイフを突きつけた。
 心拍数の増加で刺激を受けて、左側頭部の鈍痛が存在感を増す。それを堪えつつ、女性はリンを盾に居間に入った。
 前方に立っているクラウスと、ソファに座っているウォレンを交互に見やった後、
「そこ、どいて」
 と女性が一言、クラウスに対して要求した。
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