07 Serious Matter
視界には入っていないものの、リンは首にひんやりとしたペーパーナイフの存在を感じていた。「えーっと、ちょっと落ち着――」
「黙って」
通る声質の女性の声はやたら低く大きく、リンが、はい、と大人しく従う。
人質をとられる状況になるとはまさかに考えておらず、クラウスが戸惑った様子でゆっくりと両手を胸の高さ付近まで上げ、女性に対して害意がないことを示す。
「落ち着け。俺らはただ――」
「そこどいて」
「いや、だから――」
「どいて。刺すわよ」
説明しようとするが女性に遮られ、かつリンにペーパーナイフが突き立てられるとさすがに強く押すわけにもいかず、クラウスが、そうだな、と口を閉じる。
「……まぁ、起きたら知らない場所で、しかも面識のない男が3人もいたら落ち着いてもいられないだろ」
普段となんら変わらない口調のウォレンの声が聞こえてき、場の緊張の勾配が彼を中心にぐっと崩れる。
クラウスとリンが彼を見れば、女性もそれに倣った。
「お前なに呑気なこと言ってんだ」
多少の苛立ちを含んだ声でクラウスが告げれば、女性の視線がウォレンから逸れてクラウスに転じられる。
逆にクラウスの目は自身に向けられた状態であることを察し、顔と視線は女性を向いたままに、ウォレンがさり気なく、揃えて伸ばした人差し指と中指を己の首筋に持っていった。
女性の持つペーパーナイフはリンの頸動脈ではなく胸鎖乳突筋に当てられており、そこまで問題ではない、と示したのだが、果たしてそのことはクラウスも理解したらしい。
だが、続く彼からの、
「いや、万が一の時はどの道怪我するだろ」
という若干の焦りを含んだ小声に、そもそも『問題ない』の前提が、ウォレンは『致命傷でなければなんとかなる』ことであるのに対し、クラウスは『怪我をしない』ことであることに気づき、ウォレンが、しまったな、と横に視線を逃がすと首に当てていた手でこめかみを掻いた。
「……何こそこそ話しているの?」
警戒の度合いの上がった女性の声を耳にし、ウォレンが彼女を見る。
先ほどのリンとクラウスと女性とのやりとりの最中に彼女のバッグから見つけた名刺を見る分に、彼女自身に後ろ暗いところはなさそうである。加えてペーパーナイフの扱い方からも場慣れしていないことが観てとれる。
パニック状態に陥っているものの、彼女の行動は形だけのもので、さすがにリンに危害を加えることはないだろう。そう思いつつも、万が一のことが起こってしまっては困る。
冷静さを取り戻していない状態で彼女の意識がペーパーナイフの突きつけ方に向かうことは避けたく、また、なぜか大人しく人質になっているリンについても、安全のため一応の助け舟は出しておきたいところである。
気づかれないよう最小限の動作で女性の名刺をポケットに入れ、ウォレンが口を開く。
「ちなみに無理に玄関から出なくても廊下の右奥からも1階に下りられる」
廊下の奥を示して女性に告げれば、女性がその方向を見やった。
ペーパーナイフの向く先が、リンの首筋から外れる。
しかしながら、何かが起こるでもなく数瞬が過ぎると、女性が体の向きを元に戻してしまった。
「……お前今逃げられただろ」
ため息をつきつつウォレンがリンを見るが、彼はなんのことか瞬時に理解できなかったらしい。
先の説明の仕方から予想はしていたものの、やはりアレックスやカルヴァートらと行動を共にするときとはどうも随分と勝手が違う。
やりづらいな、と対応の仕方を再度考えるウォレンのことなど露知らず、十分な時間が経過した後、あ、とリンがウォレンの意図に気づく。
「そういうことは、事前に合図してくれないと……」
「そもそもお前なら簡単に振りほどけるんじゃないのか?」
「でも、怪我はさせたくないし……」
苦く笑いながらこぼすリンに、本気でどうにかしようとしている雰囲気を感じ取れず、ウォレンが疑問の眼差しを送る。
転瞬、リンの首筋に、先ほどまでより強くペーパーナイフが押し付けられる。
「惜しかったわね」
女性の声に、ウォレンが彼女を見る。
「いや、下りられるのは事実なんだが……」
そう告げるが、女性があからさまに疑っている様子で目を細めるところをみると、信用はされていないらしい。
暫くウォレンを見ていた女性だったが、相手にしやすいのはクラウスと判断したか、視線を彼に転じる。
「……そこをどいて」
その彼女の様子をウォレンが改めて観察する。手元になにか違和感があると思いよく見れば、ペーパーナイフは背のほうがリンの首側にきていることが分かった。
そこもか、とウォレンが息を吐きがてらに頭を掻く。
あの状態のままペーパーナイフを横にスライドさせたところで、大した傷はつけられないだろう。
だんだんと仕組まれた茶番劇のように思えてき、1人真面目に対応しているのが馬鹿らしくなってくる。
「お前らひょっとして遊んでいるのか?」
思わず心の声が問いとなってウォレンの口から出てきた。
当然ながらウォレンは3人からの苛立ちと疑問の視線を一身に受けることとなり、圧される形で口を閉じる。
彼らとしてはこの状況を真剣に捉えているようで、先の発言は失礼だったか、とも思わないでもないが、ウォレンから見ればいささか滑稽であることは否めない。失言となってしまった問いかけだが、その問いに至った経緯を説明するのも誤魔化すために訂正するのも億劫だった。
女性の妹の存在が気になりはするものの、彼女の口から妹について一言も出ていないところを見ると、その妹に現在進行形で危険が及んでいるわけではなさそうだ。さしずめ姉妹喧嘩が大事になったのだろう。
どうするかな、と思いはするものの真面目に考える気はとうに削がれており、ウォレンが暇を持て余したようにソファのひじ掛けを軽く指で叩く。
「お友達がどうなってもいいの?」
女性からの問いかけに指の動きを止め、ウォレンが彼女を見る。
「彼は外科医だ。そいつに何かあっても対処できる」
クラウスのことを指しつつ、どうぞお好きに、とウォレンが口元を緩める。
更なる緊張の場の変化に、リンが彼を見る。
「えーっと――」
Wまで発音しかかったが、暫時の間を置き、
「――メイス」
とウォレンを呼び、続ける。
「ちょっと口を閉じててくれるとありがたいんだけど……」
万が一警察沙汰になったときのことを考えて、リンは埃が出ないIDのほうで名前を呼んだのだろう。
「考えを巡らす余裕はあるみたいだな」
感心した様子のウォレンを見、リンが失笑する。
「いや、僕けっこう今ピンチだから、刺激するような発言は控えて欲し――」
「黙って」
命令口調と共にペーパーナイフを首筋に押し付けられ、リンが、はい、と口を閉じる。
不意に、廊下のほうでドアが開く音がした。
今度はリンからペーパーナイフを離さないよう注意を払いながら、女性が背後を見る。
その動きに強制され、リンは60度ほど回転した。
「何か騒がしいけど何かあったのかな?」
奥から聞こえてきた声の持ち主を確認しようと、女性が目を凝らす。初老の男性が腰を押さえるようにしてドア口に立っている様子が窺えた。
ふと、アンソニーの目が女性のそれと合う。そのまま少し視線を下にずらせば、リンが彼女に何かを突きつけられているらしい様子を確認することができた。
不穏な状況であることを見留めたものの、ソファの背からアンソニーを覗き込んでくるウォレンが手で自室に戻るよう促してき、アンソニーはそれ以上詮索することは止めることとした。
「――まぁいいや。ものは壊さないでね」
ゆっくりとアンソニーが方向転換する。
投げかけた言葉に対する返答がないことも気になったが、腰が痛いこともあり、アンソニーは色々と見なかったことにすると自室のドアを閉めた。
暫くそれを見ていた女性が振り返る。
「何人いるの?」
急激な彼女の動作についていけなかったか、リンがよろめいて慌ててバランスをとる。
その様子を呆れたように確認したウォレンが女性を見、
「1人減る。安心しろ」
と告げるとソファから立ち上がった。
「動かないで」
「帰るだけだ」
3人に背を向け、ウォレンがコートを手に取る。
「ウォ――」
言いかけたクラウスが先ほどのリンの発言を思い出す。
「――メイス」
「無理するな。慣れているほうでいい」
「いやよかねーだろ」
言いながらクラウスがウォレンのコートを掴み、そのポケットから車の鍵を奪う。
「おい」
「事が収拾してからにしろ」
「お前ら肩書は立派だろ。自己紹介でもすれば収まるんじゃないか」
「『は』ってなんだよ」
鍵を取り返しにくるウォレンに対し、慣れた様子でクラウスが鍵を彼から遠ざける。何回かのやりとりの後、リンからの、
「あのー、ちょっと」
という何をしているのか尋ねるような短い声が届き、諦めたのかウォレンが小さく息をついてクラウスを一瞥するとポケットから女性の名刺を取り出し、彼に差し出した。
名刺とウォレンを交互に見たクラウスがそれを受け取り、文字にざっと目を走らせる。
「……ヴェラ・ダリーゴ、ジャーナリストか?」
書かれていた名前を読み上げ、クラウスがヴェラに向き直る。
「なんで――」
名前を、と問いかけてはっとし、ヴェラがソファのほうに視線を転じれば、自身のバッグが置かれているのが確認できた。
「悪いな、俺らも君が危ない人間かどうか気になってね」
ウォレンの声にヴェラが彼を見る。
「怪我の具合ならこいつに聞いてくれ。口は悪いが腕はいい」
語尾に重なるようにウォレンが俊敏な動作で車の鍵を取り返しにいく。
「おめーさっきからなんか一言多いぞ」
不愉快だと指摘しながらも間髪入れずにクラウスは素早く後退し、車の鍵を保守した。
いい加減にしろ、というウォレンの視線に、無駄なことはするな、とクラウスが牽制の視線を送り返す。確かに過去のテレビのリモコン争奪戦ではクラウスのほうが勝率が高かったことは否めない。
「あなたたち、グリーン・レスキューとは関係ないのね?」
聞こえてきたヴェラからの問いに、ウォレンが彼女を見、ついでリンを見る。
「――グリーン・レスキュー?」
反復しながら、聞いたことがある、とリンが記憶を辿る。大した時間はかからず、先日のチャリティーパーティーの後にクレアとエリザベスが話題にしていたことを思い出す。
「知っているの?」
2人の反応を見てグリーン・レスキューと関係があると判断したか、ヴェラが再び警戒した。
「あ、うん。環境保護団体だっけ?」
「ええ。……あなたたちはなんで興味を?」
「えーっと――」
「つい最近、強引な勧誘について知人から相談を受けたばかりでね」
説明しようとするリンを遮り、代わりにウォレンが返答する。
相手がジャーナリストとなると、副大統領候補として名前が挙がっているシャトナー上院議員の娘が関係していることは伏せておいたほうがいいだろう、という判断からのウォレンの行動だったが、その心機を察したらしくリンが、どうも、と彼に対して口元を緩める。
その様子を見やっていたクラウスが、ウォレンに帰る意思がなくなったのを見留め、すっと車の鍵を彼に差し出した。
動きを受けてウォレンが車の鍵とクラウスを交互に見やり、それを受けとるとコートを元に戻した。
「あの、とりあえず、解放してくれるかな」
リンからの要請に暫時迷った後、ヴェラが緊張を解いてペーパーナイフを彼から離した。
「ありがとう」
リンが礼を述べ、ヴェラに振り返りつつ距離をとる。彼女の手にペーパーナイフが握られたままなのを見、
「心配ならまだ持っていていいよ」
とリンがにっこりと告げた。
その彼の様子を観察していたヴェラが、大きく呼吸をとってペーパーナイフに視線を落とす。
「ごめんなさい。てっきり彼らかと思って……」
安全だと判断したのだろう、彼女がペーパーナイフを元の場所に戻した。
「何か調べているのか?」
ウォレンの問いかけに、ヴェラは彼を見ると
「あなたたちもかしら?」
と逆に問いかけた。
「必要ならな」
回答を受け、ヴェラがその意味を測るように目を細める。
「別に俺に言わなくていい。あんたを助けたのはこいつらだ」
言いながらウォレンがクラウスとリンを交互に示す。
「助けた?」
そういえば、とヴェラが路地裏での出来事を思い出し、鈍痛のする左側頭部に手をやる。確かに意識を失い際に誰かが声をかけてきた記憶があった。
「大きな物音がして、駆けつけたら君が倒れていたんだ。あ、僕はリン・ウー。君の手当てをしたのは彼」
自己紹介を受け、ヴェラがリンを見る。慌てて人質にとった対象ではあるものの、彼の言容は終始穏やかであった。改めて見ても人が好いのだろうことが伝わってき、ヴェラが多少の罪悪感を抱く。
そのリンの示す先を追い、ヴェラがクラウスに視線を転じる。
「クラウス・アイゼンバイス。問題ねーと思うが、念のため検査は受けてくれ」
「……そうね、保険が効いたら」
頭から手を離してヴェラがほほ笑めば、クラウスもそれに倣った。
目つきが鋭いためか言葉が少々荒いためか、少しばかり近づきがたく感じられる彼だが、途切れる直前の記憶を思い返せば、確かに彼の救護を受けていたようにも感じられる。
「――あなたは、メイス、だったかしら」
先ほど耳にした名前を思い出して尋ねながら、ヴェラがウォレンに視線を移した。
「メイス・レヴィンソン。俺はあんたの救助には関わっていない」
淡々とした口調だったが、目に温色がないわけではなかった。これまでのやり取りの中にはヴェラを気遣うような言葉が含まれており、少し突き放したところがあるがそういう性分なのだろうことが分かる。
加えてクラウスと雰囲気が似ているところがあり、先ほどの鍵の奪い合いはヴェラ自身も過去に似たような経験があるやり取りであった。
「……ここは?」
「俺の親父の家だ。君が警察には連絡するなと言ったからな。ほかに選択肢がなかった」
「私が?」
「妹が、とか言ってなかったか?」
確認してくるクラウスに、ヴェラが少しの間目を瞑る。正確に思い出すことはできないが、言ったと言われればそういう気がしないでもない。
「ええ、――そうね」
「妹さんが関係しているの?」
続くリンからの質問に、ヴェラがひとつ息をつく。
「……ちょっと口論になっただけよ」
小さい声ながらもそう伝え、ヴェラが怪我をしているところを押さえる。
彼女に怪我を負わせたのはどうやら彼女の妹らしい。そうであれば、警察沙汰にしたくなかった理由も理解できた。
「……グリーン・レスキューに関係しているのか?」
ウォレンの問いに、どうしようか迷った時間を置いて、ヴェラが肯定するように頷いた。
「差支えない範囲で教えてくれないか。また勧誘を受けたときに断る材料になる」
そうね、とヴェラが暫時考える時間を設ける。
「……いいわ。でもそっちも勧誘の内容を教えてくれるかしら」
ヴェラに視線を固定したまま、ウォレンがさり気なくリンの様子を窺えば、彼が頷いていることが分かる。
強引な勧誘を受けたのはクレアであり、今話題のシャトナー上院議員の娘である。スタッフの1人であるリンとしては、さすがにこの時期に問題を抱え込むのは避けたいはずである。
「構わない」
クレアのことは伏せつつ説明する必要があるな、と考えつつ、ウォレンがヴェラからの提案を引き受けた。必要であればリンから補足や制止の声がかかるだろう。
「俺も当事者ではないから曖昧なところがあるが、いいか?」
ヴェラが了承するのを確認すると、ウォレンが続ける。
「1週間ほど前のことだ。グリーン・レスキューに所属している女性が団体への資金提供について持ち掛けてきた」
「資金提供?」
「活動の幅を広げるために必要だそうだ」
そう、とヴェラが近くの椅子に腰かける。
「――ということは、『当事者』は資産家なのかしら」
尋ねながら彼女が顔を上げ、目にかかる髪を軽く振り払った。
「塵も積もれば、だろうな。どこまで広く声をかけているかは知らないが」
さらりと嘘とも真とも受け取れる表現で述べたウォレンの視界の端、リンが僅かに頷く。
「活動資金については困っている噂は聞いていないけど……」
「かなり押しが強かったと聞いている」
「勧誘はその一度だけかしら?」
「今のところは。その週の講演会に出席するよう求められたが拒否したから、その内また接触してくるかもな」
チャリティーパーティー以降、クレアとは接触していないウォレンだ。また、エリザベスからその後の話は聞いていない。ヴェラから視線は外さずにリンの様子を窺うが、彼から訂正といった動きがないところを見ると、今のところクレアに対して再度の勧誘はないらしい。
「……勧誘者の名前は伺っているかしら?」
「コーリ、だったかな。コーリ・ホフリン」
軽く頷くリンが視界の端に見える。
名前を聞き、ヴェラが目を閉じ、膝に肘をついて項垂れた。
「……知り合いか?」
ウォレンが尋ねれば、数瞬の間を置いてヴェラが頷く。
「妹よ」
顔を上げた彼女が、左側頭部の怪我を押さえる。
「……最近様子がおかしいとは思っていたけど、そう。資金関連の勧誘もしていたのね」
大きくため息をつき、ヴェラは座り直すと3人を見やった。
「お察しのとおり、グリーン・レスキューを調べている理由は彼女よ。団体に入る前は環境保護や気候変動の問題に強い興味を示しているだけで、我は強いけど普通の子だった」
姉であるヴェラに引け目を感じているようなところはあったものの、今ほどこじれるような姉妹仲ではなかったとヴェラは記憶している。
「活動を始めてからは生き生きとしていたわね。やっと居場所を見つけたみたいで。私も対応が必要な分野だと思っているし、怪しい活動はしていない様子だったから彼女の好きにさせていたの。ブレットと出会ってからも暫くはそんな感じだったんだけど……」
語尾を切ってヴェラが首を振る。
「ブレット?」
ウォレンからの質問に、ヴェラが彼を見る。
「グリーン・レスキューのトップよ。そしてコーリの夫」
なるほど、とウォレンが頷く。
「いつからかしらね、半年前からかな、ちょっとコーリの発言に気になることが出てきたの」
「……何か過激な発言があったのか?」
「どう捉えればいいか分からないけど、草の根運動だけでは世間の興味を引き込めない、何かが起こらないとみんな目を覚まさない、っていう言葉が引っ掛かってる」
言い終わった後で、あ、とヴェラが続ける。
「そういえば著名人を引き込まないと、とも言っていたかしら」
それを聞き、ウォレンとリンが、クレアが標的となった理由を理解した。
「もともと思い込みの激しいところとか猪突猛進なところがあったけど、最近の彼女はそれを超えているような気がしてるの。それで気になってグリーン・レスキューを調べ始めたんだけど……」
まだ何も見つかっていないのか、ヴェラが首を振る。
「……エコテロリズムを警戒してんのか?」
環境保護団体については過激派の活動といっても大抵は被害規模の大きくない話だが、爆破事件などについて聞いたことがないわけではない。4年ほど前にもリッチモンドで未遂事件が発生したことが思い出される。
クラウスからの問いに、どうかしら、とヴェラが首を傾げる。
「グリーン・レスキュー自体は若い団体だし、活動実績は害のないものばかりよ」
「じゃあ、他の過激派の団体と通じているとか?」
リンの質問にヴェラが彼を見る。
「それをコーリに尋ねたんだけど、否定しか返ってこなかった。問い詰めたら、この結果」
左側頭部の怪我を示し、ヴェラがため息をつく。
「ざっと資金の流れも調べたけど、怪しいところはなかった。でもコーリが資金に固執しているならもう一度調べたいところね」
そう告げてヴェラが立ち上がり、3人を見る。
「ごめんなさいね、姉妹揃って面倒ごとを起こしちゃったみたいで」
構わない、と3人がそれぞれ返す。
「治療代は?」
尋ねながらヴェラが頭をさする。痛みはだいぶ引いてきたものの、触るとたんこぶができていることが分かる。
「必要ない」
「そう」
ありがとう、とヴェラがクラウスに対して礼を述べる。
ソファまで足を進め、バッグを手に取るとヴェラがウォレンを見た。
「勧誘の件は断固拒否していただいて構わないわ。今のコーリの状態、普通じゃないと思うから」
「分かった」
「もし何か分かったら、共有してほしいんだけど、いいかな」
リンの声に彼を振り返り、
「そうね」
とヴェラが回答する。確約はないまでも情報共有をすることに抵抗はないらしかった。
「あ、そこの通りまで僕が送るよ」
「道筋を教えてくれれば大丈夫よ」
「でもここ、2ブロックくらい行くとちょっと治安悪くなるから」
言いながらリンがウォレンにちらっと視線を向ける。
ヴェラを送りがてら、リンとしてはグリーン・レスキューについてもう少し情報を引き出したいのだろう。ウォレンが頷いて了解の意を伝える。
「それならお願いするわ」
口元を緩めるヴェラに、同じようにリンが微笑を返す。
「それじゃ」
クラウスとウォレンに短く挨拶をし、リンが自身のコートを手に取る。
玄関を開けてヴェラを先に送り出すと、リンは振り返ってウォレンを見た。
口の形のみで礼を述べる彼に、ウォレンが軽く口元を緩めて礼を受け取った。
その様子に、ウォレンとリンの共通の知人が先ほどの話に出た強引な勧誘の被害に遭っているのだろうことをクラウスが知る。
玄関が閉まった後も見送るウォレンとクラウスの視線の先、外階段を降りる2人分の足音が徐々に遠ざかっていった。
その音は耳から去らせつつ、ウォレンが先ほどのヴェラの話を思い返す。
彼女の妹であるコーリの性格だけの問題なのか、グリーン・レスキュー全体の問題なのかまだ正確に掴めないところはあるものの、きな臭い話であったことは否めない。
直接クレアに注意喚起するのはリンに任せるにしても、エリザベスに対しても連絡を取っておく必要があるな、と考え、腕時計を見る。課題対応が忙しいと聞いているところだ、今夜はウォレンのほうから電話することはせず、頃合いを見てテキストで情報を入れる形が望ましいだろう。
何か考えを巡らせているらしい様子のウォレンに声をかけようとしたクラウスが、ふと、
「メイス」
と呼びかけた。
クラウスからは基本的に本名のほうでしか呼ばれたことがなく、すぐに己のことだと気づかなかったウォレンが二度見するようにクラウスを振り返った。
「なんか違和感あるな」
「俺も呼び慣れてねーよ」
言いながらクラウスが腕を組む。その彼の脳裏に、数時間前にタクシーを拾うために歩いていた通りでのリンの言葉が思い出される。
「そういや何で外ではレヴィンソン名義を使ってたんだ?」
「ん?」
聞こえてきた質問に、ヴェラの話は一時保留とし、ウォレンが改めてクラウスに向き直る。
「アレックスの意向か?」
「まぁ、そうだろうな」
然程興味がないようなウォレンの様子に、クラウスが怪訝な顔をする。とはいうものの、クラウス自身、問うほどの疑問を持ったのは今日が初めてであった。
「……気になんねーのか?」
聞かれて、そうだな、とウォレンが暫時、視線を横に向ける。
「俺も幼かったからな。そういうもんだとばかり」
再びウォレンがクラウスを見るが、彼の目から疑問はまだ去っていないようであった。
「言われてみれば何でだろな」
軽い調子でもう一言付け加えれば、クラウスが息を吐きがてら、
「俺が知るかよ」
と返してきた。
あまり気にしていないようなウォレンの様子に、当本人が興味ないのなら問い詰めても無駄だろう、とクラウスが視線を落とす。粗方父子家庭への支援でも狙っていたか、と推測を働かせるとクラウスは組んでいた腕をほどいた。
クラウスからそれ以上の追究がないことを確認し、静かにひとつ息をつくとウォレンは玄関を見やった。
「……さっきの件、エリザベスが関係しているのか?」
聞こえてきたクラウスからの問いに、彼の思考がつい先ほどの話に切り替わったらしいことを知る。
「まぁ、そうだな」
断定的ではないウォレンの回答に、クラウスが彼女は当事者ではないことを察する。リンとも接点がある人物が当事者なのだろうが、エリザベス以外に該当する人物は思い当たらない。
ウォレンと関わりの深い人物でクラウスも知っているとなると限られてくるが、用心深い彼らが件の勧誘に関係しているとは考えにくかった。
「――まさかお前、シャトナー上院議員と接点あんのか?」
逆にリンの職業を思い浮かべて辿り着いたのが上院議員の存在だ。ないだろう、と考えていたものの、
「なくはないかな」
というウォレンからの回答を受け、クラウスが驚いた表情をする。
「まじか。なくねーの?」
「間接的にだが」
「……政敵の始末でも請け負ってんのか?」
小声でかつ真面目な顔をしたクラウスからの質問だったが、冗談ではあるのだろう。質が悪い、とウォレンが咎める視線を送れば、ジョークにするには早すぎたか、とクラウスが両手を広げ、詫びの姿勢をとった。
その姿を見留め、聞かなかったことにすると、ウォレンは一度口を結んだ。
面倒見のいいクラウスだ、先ほどのヴェラの話を聞いている以上、何かできることはないか協力を申し出てくるだろう。気になることは把握したい性格をしているため、誰が関係しているのか知りたいらしい。
可能であればリンの意向を汲んで、クレアへの勧誘の件を知る人数は最小限に抑えておきたいところだが、クラウスであれば外に漏らすことはないだろう。
小さく息をつくとウォレンは口を開いた。
「……娘さんとエリザベスが友人関係だ」
ぼそり呟くように言われた簡潔な説明に、そういうことか、とクラウスが理解する。最近のメディアの動向を考えれば、リンが気にかけているのも無理はない。
また、できうる限り内密にするべきとの考えでリンが動いていることを察し、クラウスはそれ以上の詮索は控えることとした。
その様子を見、さて、とウォレンが腰に手を当てる。
「で、おめーの職探しはどうなんだ?」
帰ろうとしたところで面倒な話が持ち上がり、ウォレンが、しまったな、と短く目を瞑る。
「そう急かすな」
「未練があるとか言うなよ」
指摘されればないとは言い切れず、ウォレンが曖昧な返事をする。
「お前なぁ……」
「短期の仕事から始める予定だ」
説教が始まりそうな予感に、クラウスの言葉を遮ってそう告げるとウォレンが彼を見た。
「本当だろうな」
「経験はある」
その言葉に、クラウスが驚いたようにウォレンを見る。
「真面目に働いたことがあんのか?」
安心したようなクラウスの表情に、そうだな、とウォレンが視線を横に逃がす。
その気があって真面目に仕事をしていたわけではないが、経験が活きないわけではなさそうだ。
クラウスもそう尋ねながら、確かにエディーの整備工場で、当時取り仕切っていたエディーの父親の許可を得てウォレンが手伝いをしていたことがあったか、と記憶を辿る。まだウォレンが小さかったこともあり、給料というよりもスプライトなどで支払われていた気もするが、まともな労働に対しての抵抗はなさそうではある。
「ちなみにIRSにもきちんと報告している」
心配するな、とウォレンが念を押せば、クラウスからは懐疑的な視線が返ってきた。が、特段の補足などはしないこととし、ウォレンは踵を玄関のほうへ向けた。
「それじゃ」
「帰んのか」
「ギルのところに寄る」
そうか、とクラウスが頷く。ギルバートが情報通であることはクラウスも知っている。恐らくグリーン・レスキューについて何か把握していないか相談するのだろう。
「明日は頼む」
「ああ」
短く了承の言葉が返ってき、ウォレンが外に出た。
続けて階段を下りる足音が聞こえてくる。
不穏な空気は漂っているものの、ウォレン自身は前に進む決心がついたらしい。そのことが確信できただけでも大きな安心である。
自然と口元が綻び、クラウスは軽く首を振ると居間のソファに向かって足を進めた。
その直後、遠ざかっていったはずの外階段の足音が大きくなり、クラウスが玄関を振り返る。
ドアを開けたウォレンが片足のみ室内に踏み入れ、立っていたクラウスに無言で口のみ動かして挨拶すると、隣のコート掛けから自身のコートを取り、外に踏み出た。
その動作を中断し、ウォレンが再び室内に顔を入れると、
「鍵、閉めとけよ」
とひとつ言い残した。
玄関のドアが閉まる。
足早に去っていく音を聞きながら、クラウスは彼が忘れ物を取りに来ただけであることを認識した。
昔から妙に肝が据わったところがあったものの、年下ということもあってかどこか脇が甘いというか抜けている面がクラウスの記憶に残っており、かつ今の行動もまた、その補強材料でしかないように思える。
(……あいつよく生き延びてんな)
銃創を負ったところに遭遇はしたものの、実際に危ない状況に陥っているところを見たわけではない。
ウォレンがアレックスと似たような物騒なことをしているところは全く想像できず、クラウスはため息をつくと言われたとおりに玄関の鍵を閉めた。