IN THIS CITY

第4話 A Phone Call Away

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03 Psychological Distance

 バーから一歩外に出れば、徐々に厳しさを増してきた冷気に触れる。
「メイス、大丈夫か?」
 働き先であるサミーズ・ガレージの主、サム・ドレイクが声をかけてき、ウォレンは振り向いた。
「大丈夫だ」
「瞼、落ちそうだぜ?」
 背中を叩き、同じくサムの下で働いているドンが首に腕を回してきた。
「起きている。それに記憶もしっかりしている。あんたからまだ賭け金もらっていなかったよな?」
「ん?」
「さっきの試合のだ」
 くわえていた煙草を口から離し、ドンはウォレンの肩に回していた腕を下ろした。
「……お前そういうところは酒と一緒に忘れておこうぜ」
 仕方ない、とドンが財布を探る。
「おいおいお前ら。賭け云々は俺の目の届かないところでやってくれよ」
 サムの一言に、気にするな、とドンとウォレンが適当な相槌を返す。
 やれやれ、と苦笑し、サムは僅かながらに視線を逸らすと、上着の前を閉め、両手にポケットを入れた。
「で、メイス。帰りはどうするんだ?」 
 ドンから頂戴した紙幣を確認し、ウォレンがサムを見る。
「タクシーを呼ぶ。あんたらどうせもう一軒行くんだろ?」
「そうだな」
「明日寝坊してくんなよ」
 煙草を地面に落として靴の底で火を消し、ドンはウォレンを見るとにっと笑った。
 それを受け取り、ウォレンは軽く苦笑すると口を開いた。
「サム、俺とドンの出勤状況を教えてやってくれないか」
「お前のほうが遅刻が多いな、ドン」
 肩を竦めつつサムが答えれば、ドンが両手を半ば大げさに広げる。
「仕方ねーだろ、カミさんが『子どもがぐずる』とかギャーギャー言ってくるんだから」
「あんたがバタバタするからじゃないのか?」
「んー、ガキを持たねー奴にゃ分かんねーだろうがな、あいつらはかわいいくせにその倍以上理解不能だ。俺が動き出すと泣き始める。俺が寝だしても泣き始める。それとセットでカミさんの機嫌が――」
「分かった分かった、家庭の愚痴は次の所で聞こう」
「何だよ遮るなよな、サム」
「いや、気持ちは分からんでもないが、遮らせてもらう。若者にはまだ希望を持っていてほしいからな」
 サムの説得に、納得したのかしていないのか、ドンが口を閉じてゆっくりと頷いた。
「じゃあな、メイス」
 手を上げてふらり次の店へ一歩踏み出すドンとサムに対し、ウォレンも小さく手を上げて応えた。
 彼らを見送った後、深く息を吸い、吐く。
 途端にアルコールで刺激されたのか、頭痛がその存在を主張し始めた。
 帰るか、と踵を返すと、タクシーを呼ぶために車の流れに目をやった。


 路地傍から白く湯気のようなものが立ち上っている。
『少し休め』
 アパートへと向かいつつ、ウォレンは先日のダグラスとの会話を思い返した。
 前回の仕事の結果が世間的に少し注目されたこともあっての回答なのだろうが、今までは次の仕事の催促をすれば、ダグラスからは何かしらの前向きな答えが返ってきた。しかし、今回彼から受け取った言葉は、暫くの間おとなしくしておけ、だった。
 多少危険な状況に陥ったことは何度かあるものの、しくじったことはない。それならば、立て続けに仕事が入ってきてもいいはずだ。
『次の依頼が入ったら連絡する』
 ダグラスからの待機を促す言葉が耳の中で再生され、アパートの階段を上がりつつ、ウォレンはため息をついた。
 貪欲になると道を失うぞ、というダグラスが言わんとすることは分かっている。
 彼と初めて狩りに出かけたときにも暗に示されたものだ。
 彼が正しいということも分かっているが、思考の奥で燻っている衝動は抑えがたい。
 依頼を受けてから仕事を成し遂げるまでの間は、それ一本に集中でき、他のことを頭の中から排除することができる。
 今のように、酒に逃げようと無駄な努力をすることも、薬が必要だという欲求を押さえ込む必要もない。
 また、目覚めの悪い夢を見ることもない。 
 思考を覆う焦燥に刺激を受けたのか、過去のあの映像の一部が不意に視界を遮り、ウォレンは足を止めた。
 来る、と思った瞬間、雨の後の腐葉土の匂いが鼻を掠める。
 目を閉じ、手で押さえ、映像を振り払おうとするが効果はなく、一歩後退した足が、湿った落ち葉の感触を伝えてきた。
 濁流に呑み込まれるように、一瞬で現実から幻覚に引きずり込まれる。
『驚いたな』
 実際に背後にいるのではと思うほどの現実味を帯びた声に、反射的に肘を繰り出しつつ声の主との間合いをとる。
 が、肘は空を切り、目を細めてよく見てみれば、階段の踊り場にはウォレン以外には誰もおらず、薄汚れた窓からの光が鈍く入り込んできているのみだった。
 心拍数とともに上がった呼吸数を整えつつ、ウォレンは肩から力を抜いた。
 無意識的に右手をジーンズで拭いていることに気づき、その動作を止める。だが、嫌な感触はこびりついたままだった。
 何かに集中する時間が欲しかった。
 何でもいいわけではない。欲しいのは、狙撃に関する一連の作業だ。
 過去を清算するために依頼を受けている感は否めないが、正義を主張する依頼元は共感できる存在だ。法律は許さないかもしれないが、彼らの考えは道理に適っている。人間的に、正論なのだ。
 ダグラスの仲介を経ないでも依頼を受ける手段はいくらでもあるのだろう。
 だが、彼からは『個人的な依頼は受けるな』とよく諭されている。
 その言葉に囚われているのか、ウォレンは独立した一歩を踏み出せないでいた。
 息を吐きつつ壁に寄りかかり、目を閉じる。
 一線は越えたものの、そこから更に遠くへ行く決心はまだできていないらしい。
 これからもそのつもりだろうか、と考えてみるが、明確な回答は持ち合わせていない。
 先のことをあれこれ思案できるような状態ではなさそうだ。
 ふと、表通りの生活音が耳に入ってきた。
 ずっと周囲を満たしていたのだろうが、アパートに戻ってきてから初めて聞いたように思われる。
 突発的に襲ってきた波が引いていくのを感じとれば、どっと疲れがのしかかってくる。
 壁から背を離すと、ウォレンは重たい足取りで部屋へと向かった。
 明日もサムのガレージでの仕事がある。
 熟睡し、夢を見ないためにも、睡眠薬の力に頼ることになりそうだった。
 残りは何錠だったか、ぼんやりとした頭で思い出しながら、部屋の鍵を取り出しながらドアノブに手をかける。
 その感触を不審に思い、捻ってみる。
 鍵はかけて出てきたはずだ。が、小さく金属音を発し、ドアは抵抗なく開いた。
 緊張が走り、腰の拳銃に手を伸ばす。
 一歩踏み入れてそれを取り出そうとした瞬間。
「ウォレンか?」
 聞き覚えのある声が届き、ウォレンは足を止めた。
 一瞬、そのまま踵を返して去ろうかと考えたが、すぐに居間から相手が顔を出し、機会を失った。
 何年ぶりだろうか。
「……アレックス」
 相変わらず、実年齢よりも若く見えるアレックス・デイルがそこに立っていた。
 しかしながら、最後に会ったときと同じようにどこか疲れているようだった。
 ふと、彼の視線がウォレンの右腕の先へ落ちた。
 アレックスから一度目を逸らし、何気なくウォレンは右手を拳銃から離すと、上着のポケットに入れた。
「……後ろ、何隠してんの?」
「よくここを見つけたな」
「物騒なものっぽいね」
「不法侵入だぞ」
「拳銃か?」
「用がないなら出て行け」
「何のために持ち歩いている?」
「聞こえなかったか? 出てけ」
「おいおい、聞いているのは俺のほうだ。質問に答えなさい」
 押せばたわむような柔らかい口調でアレックスが促す。
 口を閉じ、暫時ウォレンは彼を見た。
 沈黙が重苦しく空間を満たす。
「……あんたも持ち歩いているだろ」
 やがて一言と共に一瞥をくれると、ウォレンはアレックスの横を通り過ぎ、クローゼットからバッグを取り出した。
 必要なものを集めにかかるウォレンを横目に、アレックスが軽く肩を竦める。
「まぁね」
「なら何のためか分かるはずだ」
 うーん、と頷きつつ、アレックスは息をついた。
 ぐるり、生活感の薄い室内を見渡す。
 一見しただけでは、DCにいた頃となんら変わらない雰囲気だ。
「……引越しか?」
 隣の棚に置いてあるブックエンドを手に取りつつ、尋ねる。だがウォレンから返事はなく、黙々と作業する様子のみが伝わってきた。
「俺に見つかったからか?」
 再び、返事はなかった。
 ブックエンドを置き、ウォレンの側に足を運び、バッグを手元に引き寄せて作業の邪魔をする。
 苛立ちと共にウォレンがアレックスを睨んだ。
「……まだいたのか?」
「……ウォレン、確かにあの時は、お互い距離をとる必要がある、と判断した。が、間違っていた」
 話を始めるアレックスに、わざとらしくため息をつき、一時、ウォレンが作業の手を休める。 
「そうか?」
「顔を合わせれば彼女のことを思い出す。だから、互いに避けていた。だがな、それじゃ何の解決にもならん」
 アイリーンのことを言っているのだろう。ウォレンはアレックスから目を離した。
「……俺はこっちでうまくやっている。解決することなんてないだろ」
「イーサンと会っているな」
 尋ねつつ、アレックスは伸ばされたウォレンの手から更に遠いところにバッグを引き寄せた。
「違うか?」
「知るか」
「知らないわけないだろ。明らかな嘘はつくな」
「あんたの知ったこっちゃない」
「『イエス』と受け取るぞ」
「好きにしろ」
 一言捨てると、ウォレンは素早くバッグを掴み、強い力で手元に引き寄せた。
「……ウォレン、奴からの仕事は請けるな」
「あんたには関係ない」
「まだ間に合う。早く手を切れ」
「まだここにいる気か? いい加減出て行け」
「……お前、自分がやっていることを本当に認識しているのか?」
 手を動かすのを止め、ウォレンは薄く苦笑を呈しながらアレックスを見た。
「あんたが言うか?」
 ウォレンの言葉に、アレックスは口を閉じた。
 この切り返しは予想していたが、改めて言われると、痛いところを突かれたと感じるしかない。
 ここにいるのが自分ではなくアンソニーであれば、違う答えが返ってくるだろうか。
 そう思いつつも、アレックスは口を開いた。
「……確かに俺はお前がやっていることを頭ごなしに否定できる立場にはいない。が、お前だって本来あるべき姿ではないことくらい、分かっているだろ?」
「どうかな」
「ならなんで車の修理工場で働いている?」
 顔を上げ、ウォレンはアレックスを見た。
「調べたのか?」
「デタラメな住所を登録しているな」
「何だってわざわざ――」
「見たところ怪しい業者でもなさそうだね。唯一、安心したよ」
「アレックス。今すぐに――」
「従業員もいい人たちみたいだねぇ。ほら、エディーのとこみたいに」
「俺の生活に関わってくる――」
「世間とつながりを持っていたいから、あそこで働いているんだろ」
 視線の高さを同じにし、アレックスはウォレンの目を覗き込んだ。
「違うか?」
 一瞬の間を置き、ウォレンは目を逸らさずに答える。
「違う」
「じゃ、なんだ?」
 問われ、ふと階下で見た映像がウォレンの脳裏を過ぎり、彼の動作が止まった。
『10Gだぞ?』
 金が要るんだ、と声が再生される。
「……きれいな金が必要なだけだ」
 続けて流れそうになる映像を振り払うため、乱暴にバッグにものを詰める。
 弱い回答を受け、アレックスは首を垂れさせた。
「ウォレン、はっきり言っておく。お前には似合わない」
「口出しするな。俺が決めたことだ。NYに行くと言った時はあんたも反対しなかったろ」
「馬鹿言うな。『DCを出て働き先を探す』としか聞いていない。イーサンと組むことを知っていたら反対したよ」
「嘘は言ってない。『日雇いでも何でも働き口は探す』はちゃんと守っているだろ?」
 文句あるか、と両手を広げて現状を見せるウォレンに、アレックスは息を吐いた。
「……気休めなら止めておけ」
 がらんとした部屋の様子を見ながらアレックスは告げた。
 当人はうまく暮らしていると思っているようだが、そうでないことは雰囲気から分かる。
「気休め?」
「そうだ」
「どっちのことだ」
「どっちもだ」
 アレックスの答えを受け、ウォレンは視線を逸らした。
「……アドバイスをどうも」
 そう残しつつ踵を返し、残りの荷物を集めにバスルームへと向かう。
「ウォレン」
「10秒やるから出てけよ」
 うんざりした口調でアレックスに告げ、ウォレンはバスルームへ足を入れた。
 薄暗い中、蛇口から水滴が光って落ちていく。
 目当ての物を取るため、戸棚の扉を開ける。
 が、それが見当たらず、ウォレンは念のため棚を手探った。
 やはり、ない。
 荒々しく戸棚の扉叩きつける。居間へ向かうウォレンの背後、衝撃の反動で扉が開いた。
「――家捜ししたのか」
 確信を持った低い問いかけに、アレックスは無言のままポケットから半透明のオレンジ色の瓶を取り出した。
 じゃら、と錠剤が中で擦れ合う音がする。
「ゾルピデムか」
「返せ」
 足早に近づいてアレックスから取り上げようとする。が、ウォレンの手は空気をさらったのみで瓶には届かなかった。
 手を引いたアレックスが数歩後退し、ウォレンと距離をとる。
「睡眠に問題があるのか?」
「あんたには関係ないだろ」
「で、こっちはモダフィニルか。逆の作用だねぇ」
「返せっつってんだろ」
「他にも見つけた」
 手品師ぶっているのか、指の間に器用にはさんで見せ、アレックスは続けた。
「……まだ抜けきれていないのか?」
 問いの声に、中毒時にはアレックスには何かと迷惑をかけていたことを思い出し、ウォレンは一瞬動きを止めた。
「……必要なときだけだ」
 今度は無事に取り返しつつ、呟くようにそう告げる。
 瓶をバッグに入れ、ウォレンはそれをかつぐと玄関へと向かった。
「ウォレン」
「俺には構うな」
 背後に向かって一言を投げ、ウォレンはドアノブに手をかけた。
「5年だ」
 聞こえてきたアレックスの声に、ウォレンが足を止める。
 何から5年が経ったのか、聞かなくても分かっていた。
「……そんなに経つのか」
 小声でこぼし、ウォレンはドアを開いた。
「お前がアイリーンの命日には彼女の墓に来ていることは知っている」
 ゆっくりと近づいてくる足音に、ウォレンは振り返るとアレックスを見た。
「……だがな。そろそろ、お互い前に進むべきじゃないのか」
 彼女の話をするとき、アレックスの表情からいつもの呑気さが消え、代わって哀愁の色が浮かび上がる。
 5年の歳月が経っても、それは変わっていなかった。
 息を引き取る間際の彼女を思い出し、ウォレンは視線を床に落とした。
 アレックスとの間に他人行儀な雰囲気ができたのは、彼女の死後だ。
 顔を合わせれば、彼女や一連の事件のことがどうしても思い起こされ、自然と互いに距離をとるようになっていった。双方とも、1人になる時間が欲しかったのだ。
 距離をとれば当然、それぞれの道を進んでいくことになる。
「……俺はここで新しい生活を送っている。引きずっているのはあんたのほうだろ」
 言いながらアレックスに視線を戻すが、納得させるだけの力はなかったようだ。
 確信持った口調で告げることができなかったのは、無意識的にそれが嘘であると分かっていたからだろう。
「あんたの助けはいらない。もう1人でやっていける。だから探すな」
 半ば誤魔化すように付け加えると、ウォレンは踵を返した。
「見つかりたくないのなら、なんで『メイス・レヴィンソン』のIDを使っている?」
 廊下へ足を出し際に背中に質問が届く。
 『メイス・レヴィンソン』は幼い頃、アレックスに連れられてDCで新しい生活を始めたときから使用している公式のIDだ。 
 どうしようか暫時迷った後、ウォレンは振り返るとアレックスを見た。
「……生存確認ができるだろ」
 そう残すと、ウォレンは足早に廊下を去っていった。
 彼から告げられた言葉を受け取っていたせいか、後を追うのが数瞬遅れる。それでもアレックスは廊下に体を出した。
「また見つけるぞ」
 早くも見えなくなったウォレンの背中に投げかけたが返事はなく、聞こえてくる階段を下りる足音が徐々に小さくなっていった。
 静けさが訪れ、アレックスは力を抜いた。
 息を吐きつつ、ドア枠に背を持たれかけさせる。
 ここの住所はダグラスから聞き出した。
 会えたとしても逃げられるだろう、と予言されたが、果たして、当たった。
(無事なのはいいが……)
 ふと、部屋の中へ視線をやる。
 物が少ないのは相変わらずだが、錠剤があったのが気になった。
 見たところ、以前のようなひどい中毒症状は起こしていないようだった。しかし、精神状態はいいとは言えず、いつまた暗転してもおかしくない。
(……アンソニーだったら、もう少し違う返事が返ってきたかねぇ)
 思いつつも、無理にでも連れて帰ろうとしていた数時間前の気力がなくなっていることに気づき、アレックスは頭を後方のドア枠へ預けた。
 諦めたわけではない。が、ウォレンの現状にどうアレックス自身が介入すればいいのか、その方法が見えないでいる。
 どうすればいい、と、5年前に去っていった女性に問いかける。
 思い出される彼女の顔は微笑んでいたが、答えは返ってこなかった。


 適当に車を走らせてどのくらい経っただろう。
 移動距離はそれなりのものになったと思われるが、あてもなく右折左折を繰り返しており、アパートからはそれほど離れたようには感じられなかった。
 このまま遠くまで逃げないのは、アレックスは追ってこないだろうという勘が働いているのと、働き先の主であるサムへの挨拶なしに去ることに若干の抵抗があるからだった。
 我ながら律儀だな、と思いつつも、世間とのつながりを持っていたいからだろ、という先ほどのアレックスの指摘が間違っていないことに気づき、否定しながらウォレンは目に留まったモーテルへ車を滑り込ませた。
 エンジンを切ると、それまで鈍かった頭痛が痛みを増してきた。
 同時に苛立ちも募り、ウォレンは隣に置いたバッグからアスピリンの瓶を取り出すと、蓋を開けた。
 じゃら、と錠剤同士が擦れ合う音がし、手のひらに2錠ほど転がり出てくる。
 それらを口に放り込むという次の動作に移る前に、ふと、アイリーンの顔が思い出された。
 気の強い、だが優しい女性だった。
 彼女に親しみを覚えたのは、恐らく後者の部分がどことなく、ぼんやりと記憶している母親のそれに似通っていたからだろう。
 悪性リンパ腫に侵されており、アイリーン自身辛かったはずなのだが、そう思わせる素振りも見せず、親身になって助けてくれた。
 麻薬の中毒症状からここまで回復できたのは、彼女によるところが大きい。
 周期的な頭痛は薬に頼らず対応しようと決心し、ウォレンは手のひらの2錠を瓶の中に戻すと蓋を閉め、助手席に放った。


 バーでの仕事の帰り、シェリはいつも通りタクシーを拾い、家へと向かっていた。
 交差点の赤信号での待ち時間中、ふと窓の外へ目をやれば、モーテルの明かりが見えた。
 その看板の近く。
 自動販売機の前に見覚えのある姿を発見し、目を留める。
 青になりタクシーが右折する。距離が近づいた分、はっきりとその人物の顔が見えた。
 光加減のせいだろうか、思い悩んでいるような表情に、ふと、シェリの中で息子のJJと姿が重なった。
 やがて軌道に乗ったタクシーがアクセルの踏み具合を深くしていく。
「すみません、停めてください」
 運転手に向かって声が出たのは、恐らくあの表情を放っておけなかったからだろう。
 彼はJJではない。
 そう分かってはいたものの、何もしないではいられなかった。
 料金を払うと、シェリはタクシーの外へ足を下ろした。


 自動販売機との格闘の末、ようやくに入手したコーラの缶を片手に取ったとき、
「メイス?」
 と一般社会で使用している名前を呼ばれた。モーテルへ向けた足を止め、先ほどまでの感情を顔から消し去るとウォレンは振り返った。
 その先、淡い明かりの下に女性を見つける。
 一瞬誰か分からなかったが、すぐにこの前ヤング家で会った女性であることに気づく。
「シェリ?」
 尋ねれば、にっこりと彼女が微笑んだ。
「覚えていてくれたのね。よかったわ」
「あんたの家はまだ先じゃないのか?」
「仕事の帰りよ。エヴァンス・ホテルでバーテンダーをしているの。姿を見かけたから、声をかけてみただけ」
 言いつつシェリはウォレンを観たが、先ほどタクシーから垣間見えた表情は消えていた。
 光の関係だろうか、それでもどこか、影が落ちているように思えた。
「――あなたはこんなところで何してるの?」
 シェリの質問に、ウォレンが改めて彼女を見る。
「住んでいたアパートが騒がしくなってな。出てきたところだ」
 返ってきた答えの中に、少しばかり警戒するような色が含まれていることに気づき、シェリは、そう、と頷きながら決まりの悪そうな表情をした。
 確かに一度会っただけの間柄なのにこのようなところでいきなり声をかければ、不審に思うのも無理はないだろう。
「ごめんなさいね。ちょっと視界に入ったあなたの雰囲気が、最近の息子に似ていたものだから」
 素直に告げつつ、シェリは車が行き交う道路のほうへ視線を移した。
「学校で何かあったのかとも思ったんだけど、本人は話してくれないし……」
 語尾の速度を落とし、シェリは口を閉じて緩く首を振った。
 その彼女の横顔が、淡い明かりの下に照らされる。
 ウォレンにもまた、覚えのある雰囲気だった。
 アレックスと話をした後だからだろうか、より鮮明に、アイリーンの姿が思い返される。
「……JJだったか?」
 過去の映像を振り払い、ヤング家での記憶を辿って確認すれば、シェリが顔を向け、頷いた。
「高校生くらいか」
「ええ」
「親に物事を隠したがる年頃だな」
 ウォレンの言葉を聞き、そうね、とシェリが同意する。
「あなたもそうだった?」
 問われ、ウォレンは苦笑を返し、視線を地面に落とすことで誤魔化した。
 JJの年だった頃は、現在に近い記憶の領域に収まっている。
 思い出そうとしなくても、時折夢に見てしまう。消そうにも消せない領域だ。
 それでも、アレックスの言ったとおり、もう5年も経ってしまったのだ。
 このくらいの時間が経てば、傷は癒える、と当時は思っていたのだろうか。そうだとすれば、随分と楽観的な予想だった。
「……そうだな」
「そう」
 難しい年頃なだけかしらね、と独り言のようにシェリが零す。
 返事はせず、ウォレンもまた車の流れに目をやった。
 深夜というのに、それなりの交通量はあるものだ。
「……家まで送るか?」
 尋ねつつ、シェリを見る。
「いいの?」
「1人で帰すのも心配だからな」
「ありがとう」
 微笑んで礼を言うと、シェリはウォレンの誘導に従って助手席へ向かった。
 ドアを開き、ウォレンがバッグを後部座席へやる。
 その上に載っていたのだろう。錠剤の入った瓶が座席の上に転がった。
 あまり音がしなかったためウォレンは気づかなかったらしい。
 どうぞ、と促された助手席から瓶を拾い上げると、シェリはそれをウォレンに見せた。
「頭痛持ち?」
 シェリの手に持っているものを確認した際、一瞬しまったとウォレンは思った。が、何事もないように表情を取り繕うと、ああ、と短く肯定した。
「心配するな。運転には支障はない」
 口元を緩め、運転席へと向かうウォレンを見送り、シェリは助手席に入り込んだ。
 薬に依存しているような様子はないが、やはりタクシーから垣間見た表情のとおり、彼もまた、問題を抱えているのだろう。
「私も一錠頂こうかしら」
 運転席に乗り込んだウォレンに言えば、軽く苦笑して彼が首を傾げる。
「頭痛は和らぐが、心配事まで消してくれるわけじゃない」
 返事に対し、そうね、と同意し、シェリは外を見た。
 エンジンがかかる音がする中、散在する明かりがぼんやりと夜の通りを浮かび上がらせていた。
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