IN THIS CITY

第4話 A Phone Call Away

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17 A Phone Call Away

 携帯電話をカルヴァートに返し、リーアムはマリアがいる病室に入った。
 点滴を受ける数人の子どもたちが目に留まり、足を止める。
 目に映る光景に、再び重たい気持ちに引きずり込まれるような感覚がした。
「リーアム?」
 ふと、奥のほうから声が聞こえてき、その主を見る。
「マリア」
 看護師が駆け寄ってくるリーアムを確認し、マリアから離れる。
「手当てはしてもらった?」
「うん。泣かないでえらいね、って言われた」
 安全な場所だと分かったのだろう、地下で見た脅えた表情は消えており、マリアが微笑む。
「えらかったよ、マリア。頑張ったね」
 誰かからも言われた言葉をマリアにかけている自分に気づき、リーアムが下を向く。
 ふと、ポケットに何か入っていることに気づき、あ、とリーアムが思い出す。
 手を入れ、クマのぬいぐるみのついたキーホルダーを取り出す。さすがに少し形は崩れていたが、落ちずにポケットに入っていたことにリーアムはほっとした。
「これ、マリアにあげる」
 差し出されたキーホルダーを暫く呆然と見ていたマリアだったが、やがてそれを両手で受け取るとリーアムを見上げた。
「頑張ったご褒美」
「もらっていいの?」
「うん」
 リーアムが頷けば、マリアの笑顔が広がった。
「わたしね、パパが死んじゃってから、ずっとさびしかったの。……ママはわたしのこときらいだから」
 語尾が小さくなり、それに伴ってマリアの視線も下がる。
「でもね、今日、リーアムが来てくれた、うれしかった」
 顔を上げて微笑むマリアの表情が眩しく、リーアムは照れくさそうに微笑を返した。
「マリアね、病院じゃなくていいから、別のとこにいくの。リーアムも、来てくれる?」
「うん」
「ほんとう?」
「本当」
「よかった、リーアム、だいすき」
 マリアが床に足をつき、リーアムに抱きつく。
 勢いのよさによろめきそうになったリーアムだったが、しっかりと彼女を抱きしめ返す。
 小さな温もりが伝わってき、リーアムはほっとした一息をついた。
 

 マリアの手を引き、彼女を送り届けた先。
 施設に泊まることができないことを告げたとき、マリアは心細そうな表情をしたが、また遊びに来ることを約束すれば、にっこりとした微笑みをリーアムに返してくれた。
 担当の柔和な女性と手を繋ぎ、マリアが手を振る。
 リーアムが、またね、とそれに手を振り返すと、マリアは女性と共に奥に入っていった。
 背を向ける途中のマリアの目をこする仕草を見、リーアムは自身もまた瞼が重くなっていることに気づき、踵を返しつつ目をこすった。
 外に出れば、後ろから車でついてきていたカルヴァートが背の高い男と何か会話している様子が目に入る。
「カル?」
 リーアムの声に、カルヴァートと男が彼を振り返る。
「リーアム・クーパー君かな?」
 男に尋ねられ、リーアムはカルヴァートの側で足を止めた後、頷いて答えた。
「私はクレイトン・シークレスト。君の友人のメイス・レヴィンソンの弁護士だ」
「弁護士?」
 疑問に思いながらリーアムがカルヴァートを見上げれば、彼が、聞いての通り、と肩を竦めてみせる。
「……弁護士って……、メイス、何か問題に巻き込まれたの?」
「巻き込まれたっつーか、自分から招いたっつーか。俺が行くまで待ってろって言ったんだけどな」
 頭を掻きながらカルヴァートがため息をつく。
「え、カル、どういうこと?」
 尋ねながら、そういえば、とリーアムは病院からカルヴァートの携帯電話を借りてウォレンに電話をしたときの様子を思い出す。
 調子はいつもの通りだったため気のせいかと思ったが、最初に電話に出たときの声に、あれ、と感じたのも確かだ。
「あの家で何があったのか、ちょっと話を聞いていいかな」
 シークレストの声に、リーアムが彼を見る。
 耳に入ってきた質問の意図はすぐには分からなかったが、暗い中で聞いた一連の銃声、床に倒れていた男の姿が再生され、思わず腕をさする。そして今目の前に立っている人物が弁護士であることを思い出すと、あ、とリーアムが口を開いた。
「メイスは悪いことしてないよ、僕を助けに来てくれただけなんだから。悪いのはあの人たちだよ」
 慌てながらも強い口調のリーアムの返答に、驚いたようにシークレストが彼を見る。
「それにマリアたちだって見つかったじゃんか。だよね、カル?」
 同意を求めるようにカルヴァートを見やれば、同じように驚いた様子のカルヴァートが、まぁな、と口を曲げる。
 真剣に捉えていないように感じられるカルヴァートに疑問を覚えたリーアムだったが、ふと、シークレストが短く笑う声が聞こえ、彼に視線を戻す。
「彼が好かれているとは、意外だなぁ」
 そう言った後、いや、意外じゃないか、とシークレストが呟き、目の高さをリーアムに合わせた。
「大丈夫だ。心配することはない。君の言うとおり、彼は悪いことをしたわけじゃないからね」
 それを聞き、少し安心したようにリーアムが肩から力を抜く。
「面倒なことになるのを避けるために、君から話を聞いておきたい。協力してくれるかな?」
 それを聞き、リーアムは口を結ぶとしっかりと頷いて返した。
 表情を緩めて同じように頷き、シークレストは膝を伸ばすとカルヴァートを見た。
「……俺にも協力しろってか?」
「勿論」
「カル!」
 非協力的と感じ取ったのか、たしなめるようなリーアムの声を聞き、カルヴァートが彼を見る。
 リーアムは純粋に協力したいだけらしく、シークレストが持つ含みの部分までは見えていないらしい。
 まぁいいか、とため息をつき、カルヴァートは頭を掻いた。
「俺も面倒な立場にゃ立ちたくねぇんだけどな」
「分かっている」
 口元を緩めるシークレストに、カルヴァートも仕方なく口元を緩めた。
「では、また」
 一言告げ、シークレストは踵を返して去っていった。
「……さて、俺らも帰るか。お前も眠ぃだろ」
「眠くないよ」
「嘘つけ」
「眠くないって」
 反論するリーアムを促して車に乗せると、カルヴァートは最後にシークレストを一瞥し、運転席へ回り込んだ。


 捜査官に話をするときは緊張したが、弁護士のシークレストのアドバイスを受けながら、リーアムは分かりやすいように簡潔な回答をするよう気をつけた。
 どれほどの役に立ったのかは分からないが、慌しい日こそ続いたものの、事はシークレストが言っていた面倒そうな方向には発展せずに2週間ほどが過ぎた。
 あの後、マリアとは何度か電話で話をし、新しい環境に徐々に慣れてきている様子に安心しているところだ。
「ちゃんと気にかけているなんて、リーアムいい旦那さんになるよ」
「え、ハンナ、そんなんじゃないよ」
「あれ、照れてんのか?」
 横を歩くJJに肘で小突かれ、リーアムが、違うから、とますます慌てて訂正する。
 ひと段落ついたのなら、というジュリアスの提案で、アメリカン・フットボールの試合を馴染みの面々で観戦した。今はその帰りである。
 残念ながら応援していたチームは最後に点を取られて負けたものの、試合の最中は熱が入り、大きく声を出せたこともあってかリーアムは久しぶりにゆったりと深呼吸ができた心地がしていた。
 ふと、リーアムが前を行くウォレンとカルヴァートの背中を見る。
 カルヴァートはともかくウォレンは気乗りしていない様子だったが、観戦中は一緒になって盛り上がっていたことを考えると、満更でもなかったらしい。
 事件についてはシークレストとの打ち合わせでじっくりと話をしたが、その外ではあまり話題には上っていない。リーアムとしては疑問に思わないでもないが、何となくその方がいいのだろうことは感じており、よほど気になることでもない限り、口に出すのは避けていた。
「しっかし惜しかったよなぁ」
 頭の後ろに手をやり、つい先ほど終わったゲームを思い出しているのだろう。JJがため息混じりにそう呟く。
「何、JJなら止めてた?」
「当然」
 世話好きだが距離は心得ているジュリアスらヤング家のメンバーが事件について深く尋ねてこないことには驚かなかったが、話好きのハンナとクリステンの2人についても、立ち入ったことは尋ねてこない。
 意外に思うリーアムは、いつの間にか無意識的にクリステンを見ていたらしい。
「何?」
 彼女の声に、リーアムがはっと気づく。
「――早く復帰してぇな」
 そこに丁度ハンナと話をしていたJJの声が耳ってき、
「JJならすぐに戻れるよ」
 とリーアムはクリステンからJJに視線を転じた。
 突然のリーアムの声に驚いたようだが、おう、と力強くJJが笑みを作る。
「おーい、置いてくぞ」
 人の流れがすいたところでジュリアスとシェリが足を止め、声をかけてくる。
「女子も置いてくぞ」
 そのすぐ後ろを歩いていたカルヴァートが声をかけ、ウォレンもまた同じように振り返った。
「あ、ちょっと待ってよ」
「足長くないくせに歩くの早いんだから」
 せっかち、と呟きながらも速度を上げるハンナとクリステンの様子に、リーアムは自然と笑顔になっていた。
 怖い経験もしたが、前にいる彼らと一緒にいると、ほっと安心できる。
 このままこの時間がずっと続いてくれれば、と思ってふと、リーアムは足を止めた。
「……どうした?」
 その様子に気づき、JJも足を止めて振り返る。
「あ、何でもない」
 首を振りつつ、リーアムは視線を落とした。
 もう戻れないのだから1人で生きていけるほど強くならないといけない、と自身に言い聞かせてきたが、気づけばまた、甘えている。
「ただ、皆には優しくしてもらってばっかりだって思って」
 まだ子供だ、と自分が情けなくなるリーアムだったが、
「んー、よく分かんねぇけど、いいじゃんか」
 とJJの簡単な言葉が返ってき、顔を上げた。
「行くぞ」
 再び足を動かすJJの背中を見、リーアムは自分に言い聞かせていた固い言葉が解けていくように感じた。


 寝起きから存在する頭痛に、アスピリンだけは捨てずにおくべきだった、と後悔しつつ、ウォレンは玄関へ向かった。
 ドアを叩くしつこい音は、来訪者が誰であるか的確に示している。
 ため息をついてドアを開ければ、まだ叩く気だったらしいカルヴァートが手を上げていた。
「あれ。いたのか?」
 意外そうにこぼすカルヴァートに、ドア枠に体重を預けてウォレンが無言で彼を見る。
「いや、ひと段落したからよ、てっきり街から姿をくらましたのかと」
「確かに朝からやかましくドアを叩かれない場所に引越したいところだけどな」
 ウォレンの言葉を受けて、悪ぃ悪ぃ、とカルヴァートが手のひらを開いて下ろす。
「しっかしあれだな。お前の知り合いにペリー・メイスンがいたとは驚いたぜ」
 にっと笑ってウォレンを見るが、固有名詞は理解されなかったらしい。
「……ほれ、弁護士の」
「シークレストのことか?」
「そ」
「知り合いじゃない」
「そうか? にしては随分と手厚い擁護だったじゃねぇか。弁護士はマジで口が達者だな」
「用がないなら帰れ」
 閉められそうになるドアを押さえ、カルヴァートがウォレンを覗き込む。
「具合と機嫌が悪そうだな」
「頭が痛いだけだ」
「そりゃあ痛ぇだろうなぁ」
 痛みそのもの以外も含めるようなカルヴァートの口調に、ウォレンが目を細めて見せる。
「まだそこに立ってたのか?」
 ウォレンの質問に回答はせず、口元を緩めるとカルヴァートは封筒を差し出した。
「バタバタしてたからな。遅くなったが、見つけたぜ」
 カルヴァートを一瞥し、ウォレンが受け取った封筒から書類を出す。
「ボストン近郊の失踪者リストに載っていた」
「……リーアム・『ライデル』か。名前のほうは捨てられなかったみたいだな」
 呟きながら白黒でコピーされた紙を捲り、情報に目を通す。
「だな。父親、母親、妹の4人暮らしだったが、いきなり家を飛び出したらしい。家出の理由がよく分からなくてな、少し探ってみたんだが――」
 言いながらカルヴァートが紙を捲るように促す。
「――考えられるとしたら、それじゃねぇかな」
「里子、か」
「病院であいつが呟いていたことが引っかかってな」
 ウォレンの視線を受け、カルヴァートが軽く肩を竦める。
「里子イコール『要らない子』だとよ」
「……疎まれていたのか?」
「いや、そんな様子はねぇんだよな。家庭内暴力の届け出もねぇし、リーアムが失踪した直後に失踪届がちゃんと出ている」
「なら何で家出したんだ?」
「さぁな。まぁ見つけちまったモン隠しているわけにもいかねぇし、失踪者ケースの担当に正式に話をしようかとも思ったんだが、まずお前に知らせておこうと思ってな」
 バレたらまずいんだが、とカルヴァートが頭を掻く。
「どうする?」
 カルヴァートを見、そうだな、とウォレンが小さく息をついた。


 使用しているゲストルームに入り、ベッドに横たわり、リーアムは目を閉じて深く呼吸をした。
 徐々に事件の前のような生活サイクルに戻りつつあり、最近はようやく眠れるようになってきた。
 これからは、と考えてふと、先週のJJの言葉が思い出される。
 皆に優しくしてもらってばかりなのに、彼はそれでいいのでは、と言った。
 改めて思い返している今、本当にそれでいいのなら、と心が傾きそうになったことに気づき、リーアムは慌てて、それじゃ駄目だ、頼ってばかりじゃ駄目なんだ、と自分に言い聞かせるように固く目を瞑った。
 不意に部屋のドアがノックされ、リーアムは逃げるように思考を中断させるとベッドから下り、ドアへ向かった。
「メイス?」
 ドアを開ければ意外な人物が立っており、リーアムは驚いた表情をした。
「どうしたの? 今週は朝食を食べにも来なかったし」
「俺には元々そんな習慣はない」
 言われて、そういえば、とリーアムは朝食をよく食べに来るのはカルヴァートであることを思い出した。
 最近は事件に関係してよく顔を合わせていたが、考えてみれば、それ以前はあまり会っていなかったような気がする。
 入っていいか、と部屋の中を示すウォレンに、リーアムが頷いて道を開ける。途中、ウォレンが封筒を脇に挟んでいることに気づき、疑問を持った。
 適当に椅子を見繕ったウォレンを見、リーアムはドアを閉めた。
「お前、ボストン近郊に住んでたみただいな」
 ドアが閉まると同時にウォレンの声が耳に入ってき、リーアムはその場に立ったまま振り返った。
 椅子に座って足を組むウォレンからはそれ以上の言葉はなく、否定を返そうと思ったが彼と目が合っては嘘はつけなかった。
「……えーっと――」
「座れよ」
 視線を逸らしたがウォレンに促され、リーアムは無言のままベッドまで歩くと腰掛けた。
 ちら、とウォレンの様子を窺うが、特段責めるでも詰問するでもない雰囲気だった。
「本名はリーアム・ライデルらしいな」
 久しく聞いていなかった名字に、リーアムが顔を下げる。
 触発されたのか、懐かしい家の外見が脳裏に浮かび、思い出さないようしまっておいた記憶が次々に流れ始める。
「家出か」
 妹の顔と声が大きく思い出され、リーアムは固く目を瞑ると下を向いたまま頷いた。
「……理由を聞いていいか?」
 尋ねられ、リーアムは口を結んだ。
 黙っていたいと思うものの、誰かに話したい心がないわけでもない。
「嫌なら別にいい」
 迷っていたところウォレンの声が聞こえてき、リーアムが顔を上げる。
「気になっただけだからな」
 そう告げると、ウォレンが足に力を入れて立ち上がる。
 そのままドアへ向かうウォレンの背中を呆然と見ていたリーアムだったが、やがて立ち上がった。
「メイス」
 呼ばれてウォレンが振り返り、リーアムが続ける。
「……ここに来たのは、家出の理由を聞くため、だけ?」
「ああ」
 頷くウォレンに、それだけなのか、とリーアムは半ば拍子抜けしたように彼を見た。
「話してくれるなら聞くぞ」
「え……」
 再びリーアムが下を見、口を閉じる。
 暫時、無言の時間が流れた。
「……お前、病院でカルヴァートに里子に関して軽く触れたらしいな」
 確認され、リーアムが顔を上げる。
「それと関係あるのか?」
「それは――……」
 言いかけてリーアムが視線を落とす。
 待っていたウォレンだったが続きが来ず、どうするか、と部屋のドアを見る。
「……ずっと知らなかったんだ」
 どれくらい経った頃か、リーアムの声が聞こえてき、ウォレンは彼を振り返った。
「お父さんもお母さんも、ずっと僕に黙っていた」
 続くリーアムの言葉に、既視感を覚え、ウォレンが怪訝な表情をする。
 だがすぐに、そうか、と思い出すと、静かに椅子まで戻り、そこに座った。
「それまでは普通だった。2人とも働いているから、帰りが遅かったり1週間家を空けることもあったり、大変だって感じることもあったけど普通だった。妹がいてさ、いつも僕の後ろを追いかけてきてたんだ」
 言いながら、リーアムもベッドに腰掛ける。
「でも、いつからかな。両親がよく喧嘩するようになったんだ。僕の部屋は2階なんだけど、そこで寝ていると、お父さんとお母さんが口喧嘩しているのがよく下から聞こえてきた。ぼんやりした、声の雰囲気だけで何を言い争っているのかまでは聞こえなかったけど、僕がいるときはそんなことなかったから、僕に聞かれちゃいけないことで喧嘩してるのかな、って思った。そう思うと気になってさ、気づかれないようにそっと下りて聞いてみたんだ」
 暗がりの階段を下り、1階の居間にそっと足を忍ばせたときの光景が思い出される。
「そのときに初めて知ったんだ。僕、お父さんとお母さんの本当の子じゃなかった。赤ん坊の頃に捨てられたんだって」
 リーアムは捨てられたのよ、と父親に向かって怒鳴る母親の声が再生される。
 それを聞いた後は頭が真っ白になり、彼らの会話も断片的にしか聞こえてこなかった。
「すごいショックだったよ。捨てられたなんて知らなかったし、ずっと家族だって、そう思っていたのに、僕だけ違った。それに、ずっと僕に言わずに黙ってたんだ」
「それで家を出たのか?」
 尋ねられ、リーアムが首を振る。
「……お母さんは、『今更返せない』って言ってた。お父さんも、『そうだな』って」
 ズボンを掴みながらそう告げるリーアムの語尾が、段段と弱くなっていく。
 その様子を見ながら、ウォレンはつい先日彼の家の近くまで車を走らせたときの光景を思い出し、疑問を持った。
 リーアムと同じ年頃の男の子を目で追っていた女の子が、妹だろう。
 彼女の近くでビラを配布していた女性と彼女の側に立っていた男性の表情は、諦めと望みの両方を抱えているせいだろうか、疲れていた様子だった。
 あれが演技だとしたら見事なものだ。
「今更返せないってつまり、僕はあの家にいちゃいけないってことだよね」
 リーアムの声に、ウォレンが彼を見る。
「次の日も、みんな普通だった。いつも通りでさ。でも結局は、何でもないふりをしているだけでしょ? 本当は僕を返したいのに、今更返せないんでしょ?」
 確認するようにリーアムが顔を上げるが、ウォレンからは肯定も否定も返ってこず、再び視線を落とす。
「……あそこにいちゃいけないんだ。だから……」
 更にズボンを掴み、リーアムが口を閉じる。
 思い切って飛び出し、ずっと憧れていたNYに出てきた。ここなら1人でも生きていけると思ったからだ。だが、現実はそう甘いものではなかった。
「……お前、悪い方向に思い込みが激しいんだな」
 ふと聞こえてきたウォレンの声に、リーアムが目元を拭って顔を上げる。
「家出の前に、両親とお前の身の上について話をしたのか?」
 尋ねられ、リーアムは弱く首を振って答えた。
「何でだ?」
「だって、あれ以上知りたくなかったから」
 あの夜聞いた言葉ですら十分に苦しいのに、それ以上に耐えれる自信がなかった。
「……だが家族のことは、今でも好きみたいだな」
「……温かかった頃、覚えているから。でも、嫌われてるんだ。だから、1人で生きていかなきゃ駄目なんだ」
 帰りたい、と何度も思ったが、一度飛び出してしまった以上、戻ることはできない。
 また、否定された以上、戻る場所もないのだ。
「1人で、か。そういえばお前の口からよく聞くな」
 小さく息をつきつつ、ウォレンが脇に挟んでいた封筒を手に取る。
「が、自分に言い聞かせすぎて、何か誤解しているんじゃないのか? 両親の話を全部盗み聞いていたわけじゃないんだろ?」
「……誤解?」
 がさごそと紙の擦れる音を聞きながら、何を意味するのかリーアムが尋ねてみるが、ウォレンからは答えはなかった。
 代わりに、封筒から取り出された一枚の紙が差し出される。
「お前の家の前で配られていた」
「……え?」 
「悪いな、気になったからこの前行ってきた」
 僅かに申し訳なさそうな表情をするウォレンが、読め、と紙を更に近づけてくる。
 促されるままに手に取り、リーアムが視線をその上に落とす。
 そこに書かれている文字を読んだ瞬間、手のひらから心臓にかけて、リーアムは感情的な痛みを感じた。
 家出をした当時の服装、髪形が記されている隣には、白黒でも分かりやすいようなリーアムの写真が貼られている。
「街路樹に張ってあったビラも新しかったぞ」
 一通り目を通したところでウォレンから補足され、リーアムはまだ理解できていないような顔を上げた。
「俺には彼らはお前のことを真剣に探しているように見えた。お前から聞いた話とは随分印象が違う」
「……でも――」
 再び手にした紙を見るが、書いてある文字は間違いなくリーアムに関する情報を求めており、その切実さが伝わってくるものだった。
「――でも、だって――」
 混乱する頭の中、盗み聞いたときの映像が再生される。
 あの時確かに、今記憶しているように聞いたはずだ。
 だとしたら、この紙は何のために作られたのか。
「――だってあの時……」
 考えても分からず、リーアムは答えを求めるようにウォレンを見た。
 が、彼は軽く肩を竦めると何も言わずに椅子から立ち上がった。
 それ以上何も尋ねられず、リーアムが視線を紙に落とす。
 と、その前に携帯電話が差し出された。
「電話番号は忘れてないよな」
 顔を上げればそう確認され、数瞬の間を置いた後、リーアムは頷いた。
 受け取るよう促され、リーアムが携帯電話を手に取る。
「下にいる」
 一言残すとウォレンは踵を返し、部屋から出て行った。
 その背中を見送り、ドアが閉まる音がして暫く、リーアムは呆然とドアを見やっていた。
 ふと、手元を見る。
 思考が麻痺している中で目に映った紙の上の電話番号は、リーアムが記憶している数字の列と同じものだった。
 携帯電話を開く。
 暫時迷ったものの、間違えることなく数字を入力した。
 呼び出し音が鳴っているのを聞き、それを耳元に当てる。
 不意に、誤解しているのではないか、とのウォレンの言葉が思い出され、リーアムは口を閉じた。
 もし誤解しているとしたら、リーアム自身が選んだ行動は彼らにとってどういう意味を持つのだろうか。
 その考えが頭を過ぎり、はっとしてリーアムが耳から携帯電話を離す。
 今手に持っている紙からは、リーアムを必死で探している様子が受け取れた。
 だとしたら自分は何てことを、と急に怖くなり、リーアムが電話を切ろうとする。
 が、そのとき、
『もしもし?』
 と受話部から声が聞こえてき、リーアムは親指の動きを止めた。
 電話越しで多少変質しているが、紛れもない、妹のニーカの声だ。
『あれ? もしもし?』
 確認するように、ニーカが尋ねてくる。
 無意識的に、リーアムは携帯電話を再び耳に当てていた。
『おかしいな、誰も――……』
 いないのかな、と言いかけた彼女に、電話が切られるのでは、とリーアムが感じ取り、慌てて何か声を発そうとした。が、咄嗟には何も出てこない。
『……お兄ちゃん?』
 突然耳に聞こえた、自分の名前を呼ぶニーカの声に、リーアムが驚いたように顔を上げる。
『お兄ちゃん? お兄ちゃんなの?』
 確証の持てない、だが希望を見出すような問いに、リーアムが声を詰まらせる。
 勘が働いたのか、それともずっと連絡がくると信じていたのだろうか。
『ねぇお兄ちゃんでしょ? お兄ちゃんなら返事して』
 希望に比率が傾いてきているニーカの声に、リーアムが口を開く。
「……ニーカ?」
 出てきた声は擦れており、分かってもらえないのでは、との不安がリーアムの頭を過ぎった。
 だが、受話部からは、お兄ちゃん、と呟く彼女の声が聞こえてきた。
 覚えていてくれた、と認識した途端、リーアムの目から涙が溢れた。
 受話部からは、お兄ちゃんだ、お母さん、お兄ちゃんから電話、と叫ぶ甲高いニーカの声が聞こえてくる。
 懐かしい声だった。
『お兄ちゃん、絶対切っちゃダメだからね、切ったらニーカ泣いちゃうからね、絶対切っちゃダメだからね』
 早く、お母さん、と家の中に向かって叫ぶニーカの声のトーンには聞き覚えがある。
 泣き虫の彼女が泣いているときのトーンだ。
 やがて慌てた足音が聞こえてき、
『リーアム? リーアムなの?』
 とニーカよりも低い声を聞いた瞬間、リーアムは、嘘だったと思っていたあの温かみは本物で、ずっと電話一本の距離にあり、今もそこにあるものなのだということを知った。
 閉じ込めていた、忘れ去れなかった記憶が思い出される中、リーアムなの? と母親が再三確認してくる。
 その懐かしい声にリーアムは、ごめんなさい、の一言を告げるのが精一杯だった。
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