07 The Unexpected
晴れた空を見ようと、ダグラスは窓に手をかけた。これまで開けられたことはまずなかったのだろう。錆付いた感触と共に、大きな抵抗を感じる。
室内もそれほど暖かいわけではないが、僅かに開いた隙間から、ひんやりとした外気が流入してきた。
気にせずに力を入れ、上下開閉式の窓を持ち上げる。
「ダグ」
部屋の借主に呼ばれ、ダグラスは振り返った。
差し出されたコーヒーのカップを受け取り、軽くウォレンに礼を言う。
「いい眺めじゃないか」
カップを口に持っていきながら外を見、そう告げた。
視界は建物で埋まっており、日が当たる時間も1日に2、3時間あれば十分といった様子だ。
ダグラスの皮肉を受け取り、ウォレンは興味なさそうにテーブルに腰掛けた。
「相変わらず探し当てるのが早いな」
「ん?」
尋ねながら、ダグラスは何かが動く気配を感じて外に少しばかり顔を出した。
「俺の引越し先のことだ」
「ああ」
何かと思えば、白と黒の猫だったらしい。
首輪はないが毛並みがいいところを見ると、どこかで飼われているのか、あるいは世渡り上手な野良なのだろう。ダグラスを見上げて歩みを止めたが、ゆっくりとした瞬きの後、警戒対象から外し、猫は建物の側面から少しばかり出張った足場の上を身軽に去っていった。
「見つかりたくないなら偽名を使え」
一口コーヒーを飲みつつ、ダグラスは尻尾を高々と上げる猫の背中を見送った。
「既に使っている」
「だがそのIDで生きる予定だったろ」
「まぁな」
「それを捨てれば、アレックスにも見つかりにくくなると思うが」
ダグラスの問いかけに彼を見たウォレンだったが、ため息混じりにすぐに視線を逸らした。
「……IDを変えてもあいつは探しにくる」
だろうな、と相槌を打ちつつ、ダグラスは再びコーヒーを口に含んだ。
ダグラスにとってはアレックスとウォレンの間で生じる問題は関係のないことのため、片方の情報を積極的にもう片方に伝えることはしていない。かといって特に伏せているわけでもなく、仕事に支障のない範囲であれば聞かれたことは回答している。
アレックスはどこからか、ウォレンがNYでダグラスからの依頼を請け負っていることを耳にしたのだろう。先日いきなり彼がやってき、かなり厳しく咎められた。
確かにウォレンに銃火器の扱い方を教えたのはダグラス自身だが、殺しの仕事を引き受けると申し出たのはウォレン自身だ。
5年前の事件のことは、詳細こそ知らないが概要については聞いている。また、その事件の原因ともいえる、アレックスと親しかった女性が事件後少し経って病死したことも耳にしている。その諸々のせいで心身ともに状態の悪かったウォレンだ、ダグラスも一度は即決で門前払いをした。だが、次にやってきたときには様子が変わっていた。
窓から流れ込んでくる空気を感じつつ、ダグラスはふと、室内に視線をやった。
オレンジ色の薬の瓶が目に映る。
完璧に薬から脱却できていないものの、腕のほうは落ちておらず、アレックスには悪いがダグラスとしては断る理由はなかった。
修理工場でも仕事をしているところをみると、ウォレンは否定するだろうが彼はまだ完全に両足を踏み入れる決心はついていないらしい。しかしながら一般社会に溶け込んでいるのであれば、それはそれで好都合である。
本人が希望するのであれば、場を提供するのが互いの利益に繋がる。
「やはりこの引越しはアレックスが原因か」
ふと呟けば、ほっとけ、と素っ気ない返事が返ってきた。
会って意志を確認してみたらどうだ、とウォレンの先の住所をアレックスに教えたのはダグラスだが、結果は予想していたとおりとなった。
「ときに――」
体をウォレンに向け、ダグラスが切り出す。
「――以前話した、入国管理局の職員が殺された件、覚えているか?」
問われ、ウォレンは過去を探った。
確か、クラブのオーナーに人身売買の容疑がかかった一件だったように記憶している。一時は騒ぎ立てられたが、起訴すらされずに終わったはずだ。
「古い話だな」
「表面上はな。水面下では、ずっと続いている話だ」
ダグラスの一言に、ウォレンは彼を見た。
「なるほど。ただ立ち寄っただけじゃないみたいだな」
口の端を軽く上げ、コーヒーを近くの棚に置き、ダグラスは改めてウォレンを見た。
「それなりに急ぎになりそうだが、請けるか?」
視線を合わせれば、先ほどまでどこか靄がかかっていたような目が変わっていた。
「ああ」
迷うことなく返ってきた返事に、ダグラスは頷いて話が成立したことを伝える。
「詳しいことは追って連絡する。が、準備期間はあって2週間と思ってくれ」
「本当に急だな」
「特異でもある」
「特異?」
「初めて聞いた仕事内容だ。とりあえずは頭の中をスッキリさせとくんだな」
薬の瓶にちらり視線をやり、口の端を上げると、ダグラスはもう一度窓の外を見た。
近くに僅かながらに日の当たる場所を探し出したらしく、先ほどの猫がのんびりと毛づくろいをしていた。
「猫は気楽なもんだ」
呟いた後、ダグラスは上着の内ポケットから地図を取り出すとテーブルの上に置いた。
「その場所を狙いやすいポイントを明日の夜までに考えておけ」
言いながら、そのまま玄関へ足を運ぶ。
足音を聞きつつウォレンが地図を開けば、印の横に当該日の状況を示す具体的なコメントが記されていた。
「複数地点あるが?」
やたらと赤い印が目立つ地図からダグラスに視線を転じれば、丁度彼が振り返るところだった。
「全部だ」
一言残すと、ダグラスはドアノブを捻って外に出て行った。
閉められたドアの音と共に、ウォレンは地図に視線を落とした。
ダグラスの言うとおりこの1件は特異らしい。だが、彼の持ってくる依頼に嫌な仕事はない。
ふと、風が地図の端を舞い上がらせる。
ダグラスが窓を閉めていかなかったことに気づき、ウォレンはコーヒーカップで地図を押さえた後、窓へ向かった。
窓枠に手をかけ、下に力を入れる。
軋む音が大げさに鳴ったものの、下がり具合は大したことがなかった。
予想外に重労働だな、と思いつつ、更に力を入れようと手の位置を変える。
何か視線を感じてその方向に目をやれば、猫が驚いたように毛づくろいの途中である形を残し、半身を起こしてこちらを見ていた。
どうやらこの季節のこの時間帯で日の当たる場所は、この付近ではその猫の今いる場所しかないらしい。
気にせずに窓枠に力をかけようとしたが、再び大きな音が鳴るのを察してか、猫が腰も浮かす。
折角の昼寝の邪魔をしてしまったようだ。
その様子を見、ウォレンは息を吐いた。
数瞬の間を置いて窓枠から手を離す。
途端に重労働をするのが億劫になり、一瞥を猫にくれてやるとウォレンは窓はそのままに、地図と車の鍵を掴んで玄関へ向かった。
ドアが閉まる際の僅かな衝撃波を感じ取ったか、リーアムが瞬きをした。
ぼうっと立っていたが、やがて往来の音が耳に入るようになり、手元に視線を落とす。
つい先日まで働いていたクリーニング店。
もう一度雇ってもらえないか相談にきたのだが、期待していた返事は得られなかった。
これまでの給料が入った封筒を握ると、ため息をついてクリーニング店のドアに背を向けた。
のそのそと歩きながら封筒を開けてみれば、店主のせめてもの心づけが加えられていることに気づく。十分ではない、と思いながらも、リーアムはそれをありがたく押し抱いた。
この不景気の中、NYに出てから大した問題もなく今まで働いてこれだけでも幸せなほうなのだろう。
しかしながら、これからの道のりがまったく描けない。
まず仕事を探さなければ、と思うものの、今のリーアムにはその気力がなかった。
心細い紙幣をポケットに入れ、リーアムは寝床を探しに足を動かした。
ホラー映画の撮影場所にでもできるのではないか、と思うものの、不思議と怖さは感じられない。
恐らく、怖がっていたら外で凍死するしか道はなくなってしまう、ということを認識しているからだろう。
取り壊されるのを待っている、ホテルだったのだろう建物の中になんとか潜り込み、リーアムは日の落ちた後の街のほうを見た。
ヒビが入っているものの、窓ガラスは外からの風を防いでいる。
ベッドは大きく破れており、その上で寝ることはできない。床は埃っぽく、部屋全体に古びた匂いが充満しているが、持ってきたダンボールを敷けば寝られなくはなさそうだった。
位置を決め、ダンボールを下ろす。
足元で、細かい粒子の擦れる寂しげな音が部屋に響いた。
気にせずにその上にまず座り、横になる。
明日はどうしようか、と考えながら目を閉じようとしたところ、ベッドの下にバックパックがあることを見つけ、リーアムは体を起こすとそれに手を伸ばした。
先客がいたのか、と思ったが、バックパックの感触は埃などが蓄積されていたことを示しており、最近誰かが触った形跡はなかった。
完全に閉められていなかったバックパックの口からは、よれよれになったノートが埃っぽくはみ出しており、それを引っ張ればボールペンも一緒に飛び出てきた。
ひょっとしたら目ぼしい物が何がしか入っているかもしれない、と心が逸り、リーアムはノートを横に置くとバックパックの中を漁った。
くしゃくしゃになった紙類、ガムのゴミ、手に当たるものを次々と床に置いていく。
財布を発見し、慌てる手で中身を見てみたが、数枚の小銭しか残っていなかった。
期待がはずれ、疲れと共に大きく息を吐き、リーアムは床に視線を落とす。
先ほど取り出したばかりのノートを手に取り、それを開いて見る。
暗がりの中、びっしりと文字が綴られているのが分かった。
知らない誰かの痕跡に誘われ、リーアムは窓際へと足を進めると外の光をノートの上に落とした。
どうやら日記らしい。
最初のページ、NYに出てきたことへの嬉しさと期待が詰まった文章が続く。この日記の持ち主は、ミュージシャンを目指していたようだった。
だがページを繰っていくに従い、文章の量が減り文字から感じ取られる気力も失われていった。
白さが際立つようになった頃、半年ほど前の日付を最後に、日記は途絶えていた。
リーアムの目に、力なく記された最後の一行が飛び込んでくる。
『もし鳥に生まれていたら……』
その行を読み、同じだ、とリーアムの心が跳ねた。
ここを宿としていたミュージシャン志望の誰かと、リーアムは今、同じ感想を抱いている。
顔を上げれば、ヒビの入った窓ガラスから街の様子が窺えた。
繁華街は先のほうにあり、手前の高い建物の影が、やたらと黒く見える。
鳥に生まれていたのなら、この街の上空を自由に飛んで生きることができただろう。
視線を落とし、リーアムはノートを綴じた。
夢を語る始まりから、現実を知る終わりまでが記録された一冊だ。このノートの持ち主も、この窓から外を見ていたのだろう。
せめて、と名前を探したが、どこにも記されていなかった。
室内のバックパックへ視線をやる。
半年もバックパックを置き去りにして、このノートの持ち主は、今どこにいるのだろうか。
ぼんやりと考えを巡らせていたリーアムだったが、やがて眉をひそめた。
バックパックの中には、中身がなかったとはいえ財布も入っていた。
荷物を残したままどこかに旅立つということは考えられない。
何故、荷物だけが残っているのか。
嫌な予感を覚えつつ、ふと、バックパックがあったところに視線をやる。
その先、何か異質なものが見え、リーアムは目を細めた。
まさか、と思うと同時に、冷たい感触が背中を走る。
そろり足を進め、屈みこむ。
ベッドの下の、僅かに光が届くところ。
木の枝のようにも見えたそれは、よくよく見てみれば、手の形をしていた。
思わず叫び声を上げ、尻餅をついた。
ノートが床の上にばさりと落ちる。
両足を繰り出すが、どちらも上手く床を捉えることができず、それ以上後退することができない。
逸らせない視線の先には手以外の影もぼんやりと輪郭をなしてきていた。
一気に増加した心拍数と廃墟であるという現実が恐怖を連れてやってくる。
目を瞑り、リーアムは体を回転させると必死に立ち上がり、後ろを振り返ることなく廃れた部屋を飛び出した。
途中、ざらついた床に右足が滑りそうになる。
堪えるために力を入れた左足が、靴の中で滑った。
バランスを崩して倒れそうになり、近くのテーブルを掴む。しかしながら長い間人の手に触れられていない木製のそれは脚が朽ちていたらしく、リーアムの体重に耐え切れずに折れた。
たちまちに大きな音が廊下に響き渡る。
打撲の痛みを感じつつそれに驚けば、余計に怖くなってきた。
リーアムは捻った足首を庇いつつ、撤去間近のホテルの階段を下りていった。
1人で生きていくと決めたときから悪い方向に物事が進む可能性も考えていたが、先ほど見た光景はそれを遥かに凌駕していた。
暗くてよく見えなかったとはいえ、薄明かりの中浮かび上がっていた細い5本の指。
有名になることを夢見て出てきて、無名のまま人知れず生涯を閉じていった誰かのものだ。
どこからともなく現れた黒い考えが、リーアムを飲み込む。
(……嫌だ)
あのような結果にはなりたくない。
外に飛び出し、どこへともなく足を駆けさせる。が、すぐに息が切れた。
速度を落として建物に寄りかかれば、無意識的に膝が折れ、その場に座り込んでしまった。
目を閉じると先ほどの映像が浮かんでくる。
振り払おうとしたところ、ふと、会わなくなって久しい妹の顔が浮かんできた。
暖かかったあの頃。しかしながら戻る道はもうない。
金がいる、とリーアムは思った。
生きるためには金がいる。誰にも気づかれずに干からびていくような最期は遂げたくない。そのためには、食糧などを買う金が必要だった。
バーの裏口のドアを開けて外に出れば、随分と新鮮な空気が肺に染み込んできた。
「大丈夫か? お前相当ふらふらしてるぞ」
後ろからドアの開く音と共に声が聞こえ、ウォレンは振り返った。
飲み残しの入ったジャックダニエルの瓶を持ちながら、カルヴァートが出てくるところだった。
「ふらついてるのはあんたのほうだろ」
「俺ふらついてるか?」
尋ねた後、瓶を口につけて傾ける。
「大きくな」
道を開けながら答えるものの、ウォレンも地面の空き缶に足をとられそうになる。
「おいおい、お前一口しか飲んでねぇだろ」
「一杯は飲んだぞ」
「同じこった」
笑いながらカルヴァートが近くの木箱の上に腰掛ける。
酔い覚ましのためか次の店に行くためか、路地にはそこそこ人影がばらついていた。
「酔っちゃあいるが、意識はしっかりしてるみてぇだな」
カルヴァートの声に、ウォレンは彼を見た。
「この前まではなんか常に鈍そうだったけどよ」
再び瓶を傾け、カルヴァートがアルコールを体内に流し込んだ。
「そうか?」
適当に返し、ウォレンはカルヴァートから視線を逸らした。
大通りのほうを見やれば、白い水蒸気のようなものが冷たい空気の中地面から立ち上っていた。
薬は止めているらしいな、と苦笑し、カルヴァートは気づかれないよう軽く首を傾げると、ポケットから財布を取り出した。
「まぁいいや。ほれ」
差し出された手の気配を感じてウォレンが振り返れば、カルヴァートの手に紙幣が握られていた。
先ほどのビリヤードの賭けに負けた分らしい。
「どうも」
金額を確認すると、ウォレンはそれをポケットにしまいこんだ。
「しっかしお前、相当遊んできたろ」
何回か勝負をしているが毎回勝ちを譲っている状況に、カルヴァートはひとつため息をつく。
「らしいな」
「次は負かすからな」
「あんたの腕じゃ無理だ。が、いい稼ぎになるから相手はしてやる」
「っかー。生意気だなったく」
カルヴァートのコメントに軽く口の端を上げ、ウォレンは、それじゃ、と片手を小さく上げた。
「あ、待て待て。俺交通手段ないんだけど」
「助手席に男を乗せる気はない」
「ンな冷てーこと言わずに――」
背後から聞こえてきていたカルヴァートの声が、どこからか聞こえてきた足音と共に途切れ、ウォレンが振り返る。
片手に瓶を持ち、両手を広げた状態のカルヴァートが口を開けたまま見送る先に目をやれば、急ぎ足で逃げていくフードを被った人影があった。
「おい」
強めの口調でカルヴァートが路地に足を踏み出すが、千鳥足のせいで躓きそうになる。
「どうした?」
「財布スリやがった」
「何?」
「財布、あいつスリやがった」
畜生、とカルヴァートが舌打ちをする。
「メイス、ちょい追いかけてくれや。俺今あんま走れねぇ」
よっとっと、とふらつくカルヴァートにため息をつくと、ウォレンは口を開いた。
「20」
「あん?」
「20」
「……10」
「15」
「わーったわーった。早くいけ馬鹿」
がめつい奴だ、というカルヴァートの呟きを後に、ウォレンは、やれやれ、と足を動かした。
また掏れた、とリーアムは走りながら安堵した。
これで3回目だ。ビギナーズラックというものがあればそれに当てはまるのだろうか。
失敗がないところが怖いが、うまくいく分に越したことはない。
犯罪だ、と分かっているものの、背に腹は変えられない。人間社会で生きるためにはやはり金が必要なのだ。職がない人間だって生きるものだ。掏られるような油断をしているほうが悪い。
己を納得させている間にも、栄養が足りていない体を無理に動かしているせいか、手足の末端が痺れ始めてきた。
今度はまとまった金が入っていてくれ、と願いつつ走る速度を落とし、上がってきた息を整えようとしたとき、不意に腕を掴まれ、叫ぶ暇もなく横に振り払われた。
簡単に飛んだリーアムの体が路地脇のガラクタの上に倒れこむ。
幸い、ゴミ袋が積み上げられており、ひどい衝撃を受けることはなかった。
起き上がるためにゴミ袋を掻き分ければ、夕方まで降っていた雨水が服に染みこんできた。
ふと、手に持っていた、先ほど掏ったばかりの財布が取り上げられる。
あ、と声を出して顔を上げれば、掏った相手と会話をしていた男の姿がそこにあり、目と目が合った。
失敗した。
そう気づいた途端、血の気が引くのをリーアムは感じた。
「体力ないな」
落ちてきた言葉に、自ずと体がびくつき、リーアムは視線を思いっきり下げた。
切り返す言葉を見つけられず、そのまま体が固まる。
怯えているらしいその姿に、ウォレンは一発殴ろうかという考えを中断した。
ふと、彼の履いているスニーカーに目が行く。
この寒い中、足先に綻びができており素肌が見えている。
視線を上げてもう一度リーアムの顔を見る。
よく見てみればまだ10代であることが窺える。軽く突き飛んだと感じたのも無理はなく、身なりも含め、不健康そうに痩せた様子であった。
「……宿なしか?」
必死に下を向いていたところ頭上から声が落ちてき、思わず情けなさが込み上げ、リーアムは痛む目を閉じた。
他人から言われれば、惨めさが際立つ。その惨めさだけが、リーアムに寄り添っている。
回答できず息を詰まらせる彼から目を離し、ウォレンは取り返したカルヴァートの財布に視線を落とした。
開いてみるが、先ほど受け取った額が影響しているのだろう、案の定大した金額は残っていなかった。あのまま見逃していたところで残念に思ったのはここにいる少年だけだろう。
ウォレンは再びリーアムに目をやった。
懸命に泣くのを堪えているらしい様子が目に映る。
カルヴァートから財布を盗んだことに変わりはないが、掏りの方法としては計画性がなく、傍から見ても素人の域だ。慣れが見られなかった。どこかの元締めのために働いているわけではないらしい。
余程切羽詰った状況に陥った、突発的な行動だろう。
大きくため息をつき、ウォレンはポケットを探ってマネークリップから紙幣を数枚取り出すと、目の前に放った。
小さな衝撃を胸元に受け、リーアムは目を開いた。が、視界は涙でぼやけており、状況が理解できない。
「新しいスニーカーでも買え。逃げやすくなるだろ」
瞬きをするが視界はよくならず、リーアムは落ちてきた言葉の意味をすぐに認識できなかった。
その彼に背を向け、来た道を戻ろうとウォレンが踵を返した先、
「ったくここか」
と遅ればせながらカルヴァートがおぼつかない足取りで姿を現した。
が、リーアムは胸元に落ちてきたものに気をとられていた。
この野郎よくもスリやがって、という声をなだめるような返しが聞こえる中、リーアムは数枚の紙を手に取った。
半分に折りたたまれていたそれを広げ、ようやくに紙幣であることに気づく。
全て開いて計算してみたところ、150ドルほどだった。
驚いて顔を上げ、それを落としていった持ち主のほうを見やれば、角を曲がっていく姿が丁度建物に隠れるところだった。
制止の声を出そうとしたが、乾燥した喉からは咳しか出てこなかった。
落ち着かせながら立ち上がり、よろよろとした足を動かして後を追う。
今度は5メートルかそこらで息が切れた。
すぐにでも折れそうな膝を押さえ、建物の壁に手をついて曲がり角の先に身を乗り出す。
しかしながら探している姿は既にそこになかった。
手に握っている紙幣に視線を落とす。
瞬きをしてもそれは消えなかった。
呆然としたまま、リーアムは視線を上げた。
まばらに人が行き交う路地だけがそこに残っていた。