01 Back in the NYC
階下より、玄関のドアが開く音が、床板に吸収され柔らかくなって届いてきた。この家の主であるジュリアス・アーサー・ヤングが帰宅したのだろう、やがて夫を迎えるシェリ・ヤングの声が、同じく和らいで聞こえてきた。
その様子にゲストルームのドアを見やっていたウォレン・スコットだったが、再び、静かに寝入っているエリザベス・フラッシャーに視線を戻した。
わずかながら、彼女の肩が上下している。
会ったこともなかった父親と初めて話をしたのだ。緊張も相当なものだったのだろう。
できることなら彼女が左手を握っている間は傍らにいたいところだが、一晩世話になる身として、また久しく会っていない身でもあるため、ヤング家に挨拶しないわけにはいかない。
握られている左手をそっと引けば、わずかな抵抗はあったものの、エリザベスを起こさずに済んだようだ。
余韻を残す温もりを綴じるように左手を握り、今一度、彼女の髪を梳く。
やがて椅子を離れると、ウォレンは音を立てないよう注意しながらゲストルームのドアを閉めた。
「あら、下りてきたみたいね」
「うん?」
スコッチの入ったグラスを口に運びつつ、シェリの視線を辿ってジュリアスが後ろを振り向いた。
階段を下りてきたウォレンがジュリアスを見、軽く口元を緩める。
「ジェイ」
「お前か。JJより先に彼女を家に連れてきたのは」
「言っておくが、そういう浮いた話じゃないぞ」
「そりゃ残念だ。とにかく、よく来たな」
グラスを置いて握手を交わした後、ジュリアスがついでにウォレンの背中を2回ほど叩けば、力が強かったらしく彼が咳き込んだ。
「ったく。連絡先も教えずにそのままとは、薄情な奴だな」
「クリスマスにはちゃんと挨拶してるだろ」
「でも、リターンアドレスなし、よね」
「固定の住所がないからな」
「相変わらずブラブラしてるのか」
いい年してまったく、とジュリアスが盛大にため息をつく。
「それにな。お前が送ってくる菓子はまずいんだよ」
「あら、私はあのお店のお菓子、好きよ? JJも喜んでいるし」
笑顔でシェリが告げれば、ジュリアスが渋い顔をする。
「悪いな。あんたの好みは知ったことじゃない」
味の基準はシェリとJJ、としれっと言ってのけるウォレンに対し、ジュリアスは小憎らしそうな視線を投げた。
「この野郎」
緩やかに繰り出された拳を避け、ウォレンが両の手のひらを見せて降参を示す。
「それで、いつまでこっちにいるんだ?」
「2、3日かな」
そうか、と頷きつつ、まぁ座れ、とジュリアスは促した。
「泊まるところが必要なら、遠慮はいらんぞ。JJが出て行ってから、随分と静かになっちまった」
「大学に行ったらしいな」
「ああ。こっちの腕のおかげでな」
にっと笑いつつ、ジェイがアメリカン・フットボールの動きを簡略化して伝えた。
「派手なスポーツだ、心配な面もあるが、元気にやっているらしい」
「そうか」
「なんならまた、皆で見に行くか」
「ん?」
「今度はあいつも試合に出ている」
ジュリアスの言葉に賑やかな観戦席からの眺めが頭を過ぎり、頷きながらウォレンが軽く視線を落とした。
「そうだな」
ウォレンの返答に微笑し、シェリが棚から箱を取り出すとそれをテーブルの上に置いた。
「ところで、リーアムのことは覚えているわよね?」
尋ねつつ、箱を開ける。
「ああ」
「律儀な子ね。今も手紙を送ってきてくれるのよ」
「お前とはえらい違いだ」
「悪かったな」
「あなたはまだ読んでなかったわよね?」
「ないな」
手紙を取り出し、シェリがウォレンに差し出す。
「けっこう背が伸びたみたいよ」
「追い越すなと伝えてくれ」
呟きながら受け取り、ウォレンは文面に目を通した。
「写真も、ほら」
テーブルの上に置かれた写真を指先で持ち上げ、ウォレンは手紙からそれに視線を移した。
なるほど、確かに以前よりも成長している様子が収められている。
「この女の子はあいつの妹か?」
「そ。ニーカ」
妹とは10歳ほど離れていると言っていた。
「お兄ちゃんのこと、大好きなのね」
写真の中のニーカは、笑顔でひっしとリーアムにしがみついている。
「ここを出て行くときも、彼女、リーアムの手を離さなかったわ」
「困った兄貴だったからな」
一言呟き、写真をシェリに返す。
「お前、結局最後に会ってやらなかったらしいじゃないか」
「ん?」
「お前の部屋に行ったらもぬけの殻だったって聞いたぞ」
「ああ。引き払った後だったんだろ」
「薄情な奴だ。連絡先くらい教えてやっときゃいいものを」
「ほっとけ」
「その薄情な人宛にもきてるわよ」
箱の底から封筒を取り出し、シェリはウォレンの前に置いた。
「俺にか?」
「ええ。会ったら渡してほしいって」
封筒を手に取り宛名を見てみれば、住所はヤング家宛となっているものの、『メイスへ』と書いてあった。
「カルに頼もうかと思ったんだが、あいつに預けると失くしそうでな」
「でもあなたに伝えるように言っておいたはずだけど……。彼とはけっこう会っているのよね?」
「時々な」
「聞いてない?」
尋ねるシェリに、ウォレンは記憶を手繰る。
が、カルヴァートの話には無駄な部分が多く、思い当たる節は見つけられなかった。
「……ひょっとしたら聞いたかもな」
「ならさっさとここに足を運べ」
「色々と忙しくてね」
「嘘つけ。ブラブラしてるだけだろ」
ジュリアスの言葉に肯定も否定もせず、ウォレンは口辺の微笑をもって回答とした。
「開けてないのか?」
「お前宛だ」
ジュリアスの言葉に、そうだな、とウォレンが軽く頷く。
「積もる話は色々とあるが、今夜はその手紙をゆっくり読んでやれ」
そう告げるとジュリアスは席を立ち、ウォレンの肩を軽く叩いた。
「カードも便箋もあるから、入用だったら言ってね」
シェリもそういい残すと、ジュリアスのグラスを下げにかかった。
足音が遠ざかっていき、ウォレンは手元の封書に視線を落とした。
なかなかに達筆だな、としばらくそれを眺める。
やがて両手でそれを持った後、開けるか、と決めるとウォレンは手を動かした。
中から便箋を取り出せば、日付は4年前のものだった。
確かに、最後に一言くらいは交わせばよかったかもしれない、と思いつつ、文面に視線を移す。
読み進めるにつれ、当時の光景が思い起こされた。
5年ほど前のニューヨーク市内。
ひんやりとした空気の中に、水分が含まれている。
雨滴による影響を心配したが、雲はどうやら持ち堪えてくれたようで、湿度を勘案するに留まった。
空間一帯に溶け込むように動いた指を引き金から離し、ウォレンは身支度を整えると、ほぼ空き家同然の古びたアパートの階段を足早に下っていった。
外に出れば、曇った夕方の薄暗い時間帯独特の雰囲気が街を包んでいた。
遠くから、騒ぎの音が建物に遮られながらも届いてくる。
それとは反対方向へ足を進めつつ、ウォレンはショルダーバッグをかけ直した。
万一に備えて帽子は目深にかぶっていたが、やはりこの通りは人気がない。
白い息を吐いた後、増加する脈拍を抑えるように深く呼吸をとる。
ふと、後ろから近づく車の気配がし、ウォレンは振り向いた。
近づいてきた87年型のカトラスは速度を緩めながらウォレンの側を通り過ぎると、少し前で停車した。
そのまま歩を進め、ウォレンはその助手席を開けると体を中に滑り込ませた。
「ご苦労」
イーサン・ダグラスの一言に短く返事をすると、ウォレンはドアを閉めた。
その音と同じかそれより先か、カトラスが滑らかに動き始める。
暖かい車内の空気に帽子をとり、上着の前を緩める。
「冷えたんじゃないのか?」
「そうでもない」
方向指示器の音が聞こえ、やがてダグラスの運転するカトラスは騒動の中心から遠くへと去っていった。
間もなくして、ぽつりぽつりと空から雨滴が降下してきた。
「また連絡する」
「ああ」
ドアを開け、ウォレンはカトラスから外に足を下ろすと雨に濡れたドアに手をかけた。
「ウォレン」
閉めようとしたときに中から声がかかってき、ウォレンは姿勢を低くして車内のダグラスを見た。
「忘れるなよ」
一言告げると、ダグラスはハンドルからギアに右手を移動させた。
頷きを返しながらも、ウォレンは怪訝な表情をする。
が、言葉が補足されることはなく、閉めろ、とダグラスが目で伝えてき、ウォレンはドアを閉め、一歩後退すると発車したカトラスを見送った。
時折顔を打つ雨に瞬きをし、ほどなくしてカトラスに背を向けた。
毎回、仕事が終わるとダグラスから言われる言葉だが、何を示しているのかはウォレンには分からなかった。
理解しなくても今まで仕事ができていることを考えると、特に重要な件を示しているわけではないらしい。
まぁいいか、と息をつくと、顔を上げ、歩く速度を速めた。
アパートの中に入れば、冷たく感じていた雨も届かなくなった。
電気の切れかかっている廊下を進み、階段へと角を曲がる。
一歩、角から踏み出した感触がいつもと違い、訝しげにウォレンは足元を見やった。
踏んでいるのは形が崩れた落ち葉だった。
驚いて後退すれば、湿り気を帯びた感触が音と共に伝わってき、腐葉土の匂いが鼻をついた。
顔を上げる。
広がった視界には高い木々が立ち並び、葉を茂らせていた。
今の今まで都市部にいたはず、と振り返る。が、背後にも同じような景色が広がっており、雨の後の森林の湿っぽさが真実味を持って肌で感じられた。
耳が遠くで鳴くしわがれた鳥の声を拾う。
はらはらと、枝から離れた葉が舞い降りてくる。
どこだ、と思ったが知らない場所ではない。
嫌な空気が纏わりつき、次いで襲ってきた頭痛にウォレンは目を閉じて手を当てた。
「――レヴィンソン」
不意に背後から、脳内に直接届くような声が聞こえてきた。
金縛りにでもあったように、体が硬直する。
知らない声ではない。が、聞くはずもない声だった。
「帰れると本気で思っているのか?」
続く問いかけに息を呑んだ後、思い切って振り返る。
視野を流れる映像の一瞬に垣間見た男の姿。
焦点を合わせようとしたときに彼の腹部が赤黒く染まっていることに気づき、脈が跳ねた。
転瞬、目が覚める。
耳辺に残っていた木々のざわめきが、血流の音と共に徐々に遠ざかる。
ゆっくりと、それに代わるようにして聞こえてきた弱い雨音に、ウォレンは目に映る画が自身の部屋のものであることを認識した。
鼓動を振動と共に耳元で感じる。
やがて長い時間をかけて息を吐き、再び目を閉じた。
夢だったのだ。
跳ねた脈が落ち着くのを待ってから目を開け、腕時計を見る。
随分薄暗いと感じていたが、まだ夜明け前だった。
腕を下ろし、右手で目を押さえる。
もう一度眠ろうかと思ったが、どうやらそれは無理そうだった。
のっそりとソファから背を起こし、座る。
徐々に体が眠りから覚め、喉の渇きを認識するようになった。
随分と浅い眠りだったのだろう、疲労がとれている感じはせず、頭の奥に重たい痛みが存在していた。
膝に肘を載せ、両手で顔を覆う。
先ほどまでの夢の名残がこの部屋を満たしているような気がし、ウォレンはそれを追い払おうと思考を切り替える努力をした。
が、そう簡単にはいかなかった。
夢の中で聞いた木々のざわめきがぶり返しそうになり、頭痛がする部分を指の腹で押して紛らわせ、いらない音を脳から排除しようと試みる。
ダグラスから仕事を引き受け、実行に移すまでの期間は集中すべき対象があり、このような夢を見ることはない。
しかしながら、一旦仕事を終えるとこれだ。
気を抜けば、ここぞとばかりに寝ている間の視界に侵入してくる。
再び夢の中に出てきた男の姿が見えそうになり、ウォレンは目を開けると視線を横に逃がした。
窓からはどこかの街灯の明かりがほんの少しだけ入り込んできている。
時折、雨の落ちる線が薄く光って見えた。
今日は何日だ、とぼんやり思い出す。
先の仕事を片付けてから1週間が経とうとしているが、さすがにダグラスからの連絡は来ていない。
次の依頼が来るまでの間は、夢と付き合わなければならないのだろう。
ぐっすりと眠ることができればいいのだが、浅い眠りになることもある。
そうならないよう睡眠薬を飲むようにしているのだが、いつの間にかソファで寝ていたことを考えると、昨夜はどうやら飲み忘れたらしい。
断片的な昨夜の記憶を思い返しつつ、深く息を吸って吐き、ウォレンは立ち上がった。
血流の変化によって刺激されたか、じわじわとした頭痛が存在感を増し、ウォレンはバスルームへと向かった。
暗闇に慣れた目だ、電気をつけるほどでもない、と一段階明るさが落ちた中へ足を踏み入れる。
洗面台に置かれている瓶の1つを手に取り、暗がりで読みにくい文字の形からアスピリンであることを確認し、蓋を開け、1錠取り出す。
瓶を元の位置に戻し、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを掴むとアスピリンを口に放り込み、一気に胃へ流し込んだ。
鎮痛作用が効いてくるには時間がかかるが、喉は潤ったようだ。
外の雨がもたらす湿度のせいか、気分も体も重たい。
ボトルを持った手を下げつつ、ため息をつく。
ふと、ズボンのポケットに手を入れる。
指先に当たったものを取り出せば、紙幣が数枚と、紙切れが1枚だった。
皺が刻まれたその紙切れを開くと、昨夜の記憶にかかっていた靄が晴れた。
一般の仕事の帰りに、ふらりバーに立ち寄ったのだが、無理をして飲んでも酒に強くなるはずもなく、いつも通り、あまり心地よくない睡魔に襲われた。その節に絡んできた数人の男と喧嘩になった。
シラフであれば殴り倒していたところだったが、生憎動きにキレはなく、ほどなくして負けた際にマネークリップごと所持金を奪われた。
酒が入っていたにしても情けない、と自身に対して気分を落ち込ませていたとき、大柄で恰幅のいい男が声をかけてきた。
確か『ジェイ』と名乗っていたように記憶している。
曖昧に覚えている会話を辿りつつ、ウォレンは手に視線を落とす。
握っている金額の少ない紙幣は、彼から受け取った、酒及びタクシー代の残りだった。
最後に、タクシーを降りてからアパートに入るまでにけっこう濡れたことを思い出すと、昨夜から今朝にかけての記憶がすべて繋がった。
柄の悪いバーにもお人好しはいるものだ、と思いつつ、バスルームから居間へと移動する。
薄暗い中、手元の彼の住所の書かれた紙に目を落とす。
『覚えていたらその金は貸しにしとく。忘れていたらその金はやる』
おぼろげながら、そう言われたことを思い出す。
テーブルの上に紙切れと紙幣を置き、ウォレンはペットボトルから一口、水を頂戴すると頭を掻いた。
どうするかな、と考えるが、覚えている以上、返さなければきまりが悪い。
息を吐き、窓の外を見る。
相変わらず、しとしとと雨が降り続いていた。
足を進めて椅子を引き、そこに腰掛ける。
今一度、紙切れを手に取り、外からの淡い光に当てた。
幸い、書かれている住所は働き先からそう遠くない場所だ。仕事へ出かける前に立ち寄り、清算するのがいいだろう。
(……面倒だな)
バーでの失態を反省しつつ、ウォレンは紙切れを手放すと目を閉じた、
片手の指で、瞼を押さえる。
頭痛は引いてはいないが、心なしか弱くなったようだった。
暫くの間、窓越しに届いてくる雨音の中に身を委ねる。
やがて目を開けて立ち上がると、ウォレンは棚へ足を進め、上に置いてあるブックエンドの底から丸められた紙幣の束を取り出した。