IN THIS CITY

第4話 A Phone Call Away

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06 A Poor Boy Rich in Solitude

 高度が低くなった太陽から、薄い日差しが窓越しに届いてくる。
 荷造りというほどの荷物は持ち合わせておらず、ウォレンはバッグの口を閉めると肩にかけた。
 部屋から出ようと一歩踏み出したとき、ノック音が届いた。
「開いてるぞ」
 言いながらその方向へ足を進める。
 その目の前でドアノブが回され、遠慮がちに開いた。
「どうした?」
 足を止め、ウォレンが顔を覗かせたJJに尋ねる。
「今日出て行くって聞いたから、さ」
 ポケットに手を入れ、軽く肩を竦めてJJは答えると、ウォレンの肩にかかっているバッグに視線を投じた。
「荷物、それだけか?」
「ああ」
「身軽なんだな」
 そうだな、とウォレンが口元を緩めて返す。
 JJもまた、わずかに口元を緩めた。
「……えーっとさ。色々と、ありがとうな」
「気にするな」
「父さんとも母さんとも話をした。俺は、――まだよく分からないけど……」
 トーンを徐々に落としつつ、JJが首を振る。
 彼自身の中ではまだ、消化中の案件らしい。それでも悪い方向に転がるような雰囲気はなかった。
「……吐き出したいことがあったらいつでも連絡しろ」
 ウォレンの声に、JJが彼を見る。
「いいのか?」
「別に構わない」
「でも俺、あんたの連絡先知らないんだけど」
 言われ、そうだったな、とウォレンは部屋を見渡した。
 確か、ベッドの脇にメモ帳が置いてあったはずだ。近寄り、それを手に取る。
 前のゲストの筆跡が薄っすら残る白い紙に、使用している携帯番号を書くと、JJに手渡した。
「暇だったら付き合ってやる」
 受け取り、番号にざっと目を通した後、JJが顔を上げた。
「次はバーとかに連れてってくれるのか?」
「お前が何歳かによるな」
「だよな」
 笑いながら答え、JJは再びメモに視線を落とした。
「……てっきり怪我のことで悩んでいるのかと思っていたが、予想以上に深刻な話で驚いたぞ」
「怪我?」
「その腕だ」
「ああ」
 ボルトがまだ中に入っている腕をさすり、JJが頷く。
「選手生命に関わるケガじゃない。それに、俺なら練習すればまたスタメンになれる」
「いい自信だな」
 言葉だけではない様子がJJから見て取れ、口元を微笑ませてそう告げるとウォレンはJJの背中を軽く叩いた。
「大事にしろよ」
「ああ」
 大事にする、と頷いた後、JJは部屋から出て行くウォレンの背中に声をかけた。
「怪我が治ったら、試合、見に来てくれよな」
 JJの言葉に、そうだな、とウォレンは頷くと、
「暇だったらな」
 と微笑と共に告げた。
 彼が出て行き、やがて階段を下りる音が届いてくる。
 それを聞きながら、JJは小さく笑うと首を振った。


「あら。もう行くの?」
 階下に下りれば、シェリがウォレンに気づき、水仕事を切り上げると彼の元へ足を進めた。
「ああ。世話になった。ありがとう」
「いいのよ」
「またいつでも来い。ドアは開いてる」
 新聞を畳み、ジュリアスがにっと笑った。
「物騒だから鍵くらい閉めておけ」
 真面目にウォレンが切り返せば、お前なぁ、とジュリアスが軽くため息をついた。
「馬鹿。比喩だ比喩」
「知ってる」
「なら茶々を入れるな」
 悪かったな、とウォレンが肩を竦め、玄関のほうへ踵を返そうとしたとき、
「あ、そうだ。メイス、ちょっと待って」
 とシェリが2階へ向かいながら告げた。
 その姿を見送った後、ジュリアスは新聞を閉じた。
「JJの件だが――」
 聞こえてきたジュリアスの声に、ウォレンが彼を向く。
「――助かった。本来なら俺が気づいてやらにゃならんことだった」
「少し話を聞いただけだ。俺は何もしていない」
 JJがどこまで両親に話をしたかは分からない。ウォレンは、どうということはない、とポケットに手を入れた。
「礼を言う」
 穏やかに笑うジュリアスに、ウォレンもまた同じように口元を緩めて返した。
 ふと、階段を下りてくるシェリの軽い足音が聞こえてきた。
「メイス、これ」
 ウォレンの元まで足を運ぶと、シェリはノートとペンを渡した。
 受け取りがてらにウォレンが疑問の顔をすれば、ふふ、と彼女が笑う。
「ゲストルームに泊まった人に書いてもらっているの」
 説明を聞き、ウォレンはぱらぱらとノートをめくった。
 数行から十数行に渡るまとまりで、これまでゲストルームに泊まったのだろう人びとのメッセージが書き込められていた。
「俺はそんなに滞在していないぞ」
「一言でもいいのよ」
 言いながら、シェリが微笑む。
 ジュリアスに視線を転じれば、困ったようなウォレンを一瞥し、新聞に手を伸ばすとそれを広げた。
「強制じゃないけど、書いてくれると嬉しいわ」
 一言残し、シェリがキッチンへと戻ろうとする。
 そのとき、せわしなく玄関のベルが鳴った。
 1週間ほどしか滞在していないが、ウォレンにもそれがカルヴァートの来訪であることが分かるようになっていた。
 出迎えに玄関のほうへ向かうシェリを見送った後、ウォレンは口を結んだまま手元のノートに視線を落とした。しばらくそれを眺めていたが、やがてペンを持ち直すとそれを走らせた。
 カルヴァートの賑やかな声が近づく前に書き終え、ウォレンはノートを綴じるとそれをテーブルの上に置いた。
「お、メイシー。引越しか?」
 軽いカルヴァートの揶揄が聞こえてき、ウォレンは咎めるように彼を見た。
「悪ぃ、悪ぃ。メイス」
 言い直したものの、カルヴァートの顔は笑っている。
 返事はせずに、ウォレンはジュリアスとシェリにのみ挨拶をすると玄関へ向かった。
「おいおい、待て待て。人がせっかく送り出してやろうとしてるのに無視はないぜ無視は」
「あんたの家じゃないだろ」
「カタイこと言うなよ、俺ぁ、気分はここの家族だ」
 両手を広げるカルヴァートに、勝手なことを言うな、とジュリアスが居間から声を投げる。
「何だよ、いいじゃないか。な、シェリ?」
 縋るようにカルヴァートがシェリの目を見れば、そうね、という同意が微笑みと共に返ってきた。
「やっぱあのデカブツとは違って、シェリは分かってるなぁ。きれいだし」
「あら、お世辞は入らないわよ?」
「世辞じゃな――」
「それじゃ」
 玄関のドアを開き、カルヴァートはいなかったことにし、ウォレンはシェリに軽く挨拶をした。
「ええ。――あ、ちょっと待って」
 何か思い出したシェリに、今度は何か、とドアノブに手を残しつつウォレンが彼女を見る。
 近くのクローゼットから取り出した上着に手をいれ、シェリは1枚の小さな紙を取り出した。
「私が働いているバーよ」
 差し出された名刺を受け取り、ウォレンはそれに視線を落とした。
 そういえば、確かエヴァンス・ホテルで働いていると聞いたような気がする。
「飲みたくなったら、ここに来て。何か作るわ」
 笑顔でそう告げるシェリを見、微笑をもって答えると、ウォレンはヤング家を出た。
 ドアの閉め際にカルヴァートが何か口を開いたようだが、ウォレンはその情報をすぐに捨て去った。
 賑やかさが消え、外の気配が辺りを満たす。
 ヤング家に滞在することとなったのは想定外だったが、ともあれこれで以前と同じ静かな暮らしに戻れるだろう。
 羽音が聞こえるほど近くをイエスズメが過ぎり、ウォレンはその音が去っていった方向を見やった。
 街は、いつもと変わらない様子だ。
 賑やかなのも悪くはなかったか、とひとつ息をつくと、シェリからもらった名刺をポケットに入れ、車へと足を向けた。


 車の鍵を取り出し、車内に滑り込む。
 日中もずっと日陰となる場所に停めていたせいか、ドアを閉めた後も外気と同じく冷えた空気に包まれる。
 鍵を差込み、エンジンをかけようとしたとき、ふと足音が聞こえたかと思えば助手席のドアが開いた。次いでガタイのいい男が入ってくると、寒そうに手をこすり合わせながらウォレンを見た。
「……何してる?」
 暫時の間を置いた後、不機嫌さを隠さずにウォレンがカルヴァートに尋ねれば、彼が助手席のドアを閉め、大げさに肩を竦めた。
「車出すんだろ? ついでに乗っけてくれ」
 鍵を回そうとする姿勢そのままに、ウォレンは無言の冷たい視線をカルヴァートに送る。
 だが受け取りはしたものの気にする様子はなく、カルヴァートはにっと笑った。
「しかし寒ぃな、早くエンジンかけろよ」
 言いながら、カルヴァートは途中で動作を止めているウォレンの手を押しのけた。
「おい」
 ウォレンの制止の声は聞かず、カルヴァートが無理やりに鍵を回し、エンジンをふかす。
 次いで空調を入れ、温度等を調節すると、多少なりとも満足したらしく、一息ついて助手席に背を持たれかけさせた。
 が、ふとウォレンを見ると、手を広げて前方を示した。
「出さないのか?」
「降りろ」
「ってか静かだな」
 苛立ちの混じったウォレンの声は聞き流し、カルヴァートはラジオのスイッチを入れた。雑音の混じったローカルニュースが流れ始める。
 隣でひとつ、大きなため息がつかれる中、カルヴァートは気に入った放送を探してチャンネルを繰った。
「……カルヴァート」
「いいじゃないか。乗せてけよ」
「今すぐ降りろ」
 操作するカルヴァートの手を弾き、ウォレンは彼が触れたスイッチ類を全てオフにした。
 ついでに拳銃をつきつけたい衝動に駆られるが、肝心の代物はカルヴァートの前のダッシュボードに入っており、簡単に手に取ることはできない。
 また、それ以前に一般人として接している以上、実行不可能な話だった。
 募る苛立ちを押さえ込むウォレンの横、カルヴァートはそれには気づいていない様子で、
「お前なぁ、空調まで切ったら寒いだろ」
 と小声で言いながら切られた空調のスイッチを押した。
 風を循環させる機械的な音が再び聞こえ始め、ウォレンがひとつ深く息をつく。
 暫くの沈黙の後、彼が口を開いた。
「……用件は何だ」
「ん?」
 風の強さを先ほどよりも弱く設定し、カルヴァートがウォレンを見る。
「仲間内で集会やるんだ。折角だしそこまで連れてってくれや」
 回答したものの無言でもう一度ウォレンから同じ問いが届き、そうだな、と体を起こす。 
「――JJの件、俺からも礼を言うぜ。けどな、ちぃっと引っかかるんだ」
 こんくらい引っかかるかな、とカルヴァートが親指と人差し指で視覚的に示しつつ、続ける。
「お前があの路地にいた理由、聞いていいか?」
「路地?」
 尋ね返しつつ、ウォレンはそれとなくカルヴァートの様子を窺った。
 口元はいつもの彼だったが、目は真剣な色を呈している。
「……通りかかっただけだ」
「仕事先からの帰り道にしちゃ、えらい遠回りだな」
「部屋を探していたからな」
「あの物騒な界隈でか?」
「物騒でも物件は安い」
 バレている嘘ではあるだろうがそう言い切り、ウォレンはカルヴァートを見た。
 暫時ウォレンを見ていた彼だったが、やがて、ふっと笑うと力を抜いた様子で助手席に体重を預けた。
「ベタな言い訳だな」
「好きに受け取れ」
 発車させるでもなくハンドルに手を置き、ウォレンが隣の窓から外へ視線をやった。
 外気との気温差ができたのか、窓ガラスは少しばかり曇り始めていた。
「ならもうちょいストレートに聞くけどよ、何を買いに行っていた?」
 問いかけに、ウォレンは視線をカルヴァートに戻した。
 相変わらずの表情の彼に対し、ウォレンは怪訝にハンドルの上の手のひらを広げた。
「何でそんなに気になるんだ?」
「商売に関わってくっからな」
 にっと笑いながら、カルヴァートが肩を竦める。
「俺を通して買ってくれりゃ、儲かる。どうだ?」
 よしみで安くするぜ、と提案するカルヴァートに対し、ウォレンは苦笑しつつ軽く首を振った。
「ディーラーか」
「そ」
「驚いたな」
「そうか? 俺的にはけっこう見た目どおりだと思うけどな」
「ストリートギャングの一員でもあるらしいが、そんな物騒な人物をジュリアスが家に入れるわけがない。――違うか?」
 本業は恐らく、と察しを入れつつ、ウォレンは言葉を切った。
 表情と無言はそのままに、カルヴァートは暫くウォレンを見ていたが、やがて視線を逸らすと右こめかみあたりを軽く掻いた。
「まぁいいや」
 一言呟いて上体を起こし、続ける。
「分かった。お前あんま悪い奴じゃなさそうだし、勧誘は止しとく。しかしあれだな。何となく気が合いそうだな」
 空調の風の強さを更に一段階落としながらカルヴァートが告げる。
「俺はそうは思わない」
「いや、俺が言うんだから間違いねぇ」
「話は済んだろ。降りろよ」
「で、どこに引っ越すんだっけ?」
「……人の話、聞いているか?」
「聞いてる。多分。で、どこに?」
 再びラジオのスイッチを入れ、カルヴァートがウォレンを見る。
「あんたには関係ない」
 不要な音が耳に届き、ウォレンは音量を上げるカルヴァートを無視してラジオのスイッチを切り上げた。
「おいおい、別にいいじゃないか」
「煩わしいのは嫌いだ」
「バーカ。俺ぁ野郎しかいねぇ家に朝メシ食いにいくほど変人じゃねぇよ」
 手を広げてそう告げるカルヴァートに、ウォレンが怪訝な表情をする。
「――ラジオの話じゃなかったのか?」
「あん?」
 会話が微妙にすれ違っていたものの、気にする様子なくカルヴァートは落ち着きない動作のまま、自然な流れでダッシュボードに手をかけた。
 一瞬、反応が遅れたが、その彼の行動にウォレンが気づく。
「おい」
 反射的に、ウォレンは僅かに開きかけたダッシュボードを閉めた。
 その大きな音が車内に伝播する。
 見られたか、と思ったが、それほど開いてはいなかったはずだ。
「……慌てんなよ。なんかマズいモンでも入ってんのか?」
 口調は砕けていたが、先ほどと同じ表情でカルヴァートが尋ねる。
 どうやら中身は彼の目には入らなかったらしい。
 安堵は表に出さず、また肯定も否定もせず、ウォレンは彼を見返した。
「……降りろ」
 ダッシュボードから手を離すことなくウォレンが告げる。
 暫く彼を見ていたカルヴァートだったが、やがて、そうだな、と頷くと、ドアに手をかけた。
「断られたんなら仕方ねぇ。歩くとするか」
 ドアを開けてカルヴァートが車の外に出る。
 外気が流れ込むと同時に、軽くなった分、車体の重心が浮いた。
 ドアが閉まったらすぐ発車できるよう、大きく息を吐きつつウォレンが準備を整える。
「お、そうだ」
 予想に反してドアが閉められる音は届かず、代わりにカルヴァートがひょいと車内を覗き込んできた。
「悪ぃ、これ返すの忘れてたぜ」
 にっと笑う彼の手には、見覚えのある携帯電話が掲げられていた。
 誰の所持品かを認識するや否やそれを素早く取り返し、ウォレンがカルヴァートを睨む。
「いつの間――」
「じゃあな」
 顔を上げた先、助手席のドアが閉められ、足音が遠ざかっていった。
 カルヴァートのペースに未だ追いついていないウォレンの手元で、携帯電話が鳴る。
 見覚えのない番号だが、発信元はおよそ見当がつき、ウォレンはボタンを押すと耳元へそれを忌々しく持っていった。
「あんた、ふざけるのも――」
『ちなみにこれ俺の番号だから。――でもって、あんま道は踏み外すなよ』
 軽い口調に遮られ、ウォレンは憤りを吐き出すタイミングを失った。
 振り返れば、似合わない笑顔を浮かべて携帯電話を片手にカルヴァートが手を振っている様子が曇りかけたリアガラス越しに視界に入る。
 口を閉じ、携帯電話を持っている手を下ろし、ウォレンは電源を切るとそれを助手席に放り投げ、サイドブレーキに手をかけた。
 白い息が出る中、カルヴァートは運転手の感情を表す急発進の耳障りな音を聞いた。
「おーい、安全運転しろよー」
 通話がとっくに終了した携帯電話に向かい一言投げれば、それが届いたのかタイミングよく運転席の窓から手が出される。
 立てられた中指に苦笑いを送り、苛立たしく曲がっていった車を確認すると、カルヴァートは携帯電話を閉じた。
 一見したところ愛想のない青年の印象を受けるが、話をしてみれば意外と人当たりがいい。しかし、よく観察すれば彼が何がしか薬に手を出しているだろうことが経験上窺い知れた。
 依存症にまで陥っているかいないか判断はつかないものの、何かがまだ引っかかる。
 悪い奴ではなさそうだが、と思いつつ表情から笑みを消すと、カルヴァートは口を結んだ。


 まばらな人影の間を縫い、アパートの中へ足を踏み入れる。
 外気がしみこんだ部屋まで辿り着くと、ウォレンは息を吐いた。
 まだ一日は終わっていないが、疲労を感じる。
 カルヴァートのせいか、と認識しつつ歩を進め、居間で足を止めた。
 先の住人が置いていったらしい家具類が数点残っているほかは埃っぽく、閑散としている。
 部屋の雰囲気を静かにスキャンした後、荷物を置き、ウォレンは近くの椅子に座った。
 油断をしていたか、カルヴァートには目をつけられたらしい。
 しまったな、と後悔しつつ、額に手をやる。
 随分と存在感を増してきた頭痛が、思考にまで響き始める。
 だが恐らく彼が疑っているのは薬に関係する事柄のみだろう。厄介というほど厄介な相手でもなさそうだ。
 額から手を離すと、ウォレンは顔を上げた。
 弱い日差しが、色褪せたカーテン越しに部屋の中に届いてくる。
 立ち上がると窓際まで足を運び、カーテンを開けた。
 薄汚れた窓の外、林立する建物が視界を遮り、景色はいいものとはいえなかった。
 だがこの無機質な空間を利用しているのは人間だけではないらしく、飛び交うイエスズメが鳴き声とともに小さな影を落としていった。


 空を飛べるのなら、とリーアム・ライデルは足元から逃げていったイエスズメを目で追いかけながら思った。
 淡く青い空を見上げ、ため息をひとつつく。
 空を飛べるのなら、この都会を自由に駆け回り、彼らのように、自力で食料を調達し、生きていけるだろう。
 上空から聞こえるイエスズメのおしゃべりに羨望を送り、リーアムは視線を地面に落とした。
 使い古した靴は今にも穴が空きそうだ。
 だが、新しい靴を購入するほどの余裕は彼にはなかった。
 ポケットに手を入れる。
 指先に感じた金属を取り出せば、わずかばかりの小銭が手の中に納まった。
 反対側のポケットにも手を入れる。
 だが、くたびれた紙幣を数枚掴むだけに終わった。
 追い出される寸前の部屋に戻り、家捜しをしたとしても、大した金額は出てこないだろう。
 もしこの紙切れがジョージ・ワシントンやエイブラハム・リンカーンではなく、ベンジャミン・フランクリンであればどんなに楽なことか。
 握って開いたら変わるだろうか、と夢には見るものの、現実に適用されるはずもなく、リーアムは首をたれたまま手に取ったものをポケットに戻した。
 賑やかな大通りに出れば、自身のみすぼらしさがいっそう強調される。
 他人と顔を合わせないよう、俯きながら歩くが、彼らは元より誰にも興味はないらしく、足早に隣を過ぎ去り、または追い越していく。
 ふと、観光客用に売っているのだろう自由の女神が映ったポストカードが彼の目に留まった。
 白い綿雲の浮かぶ青空を背景に、高々と手を掲げている。
 自由の国、自由の街。
 自立することは容易だと考えていたが、世間は甘くなかった。
『明日から来なくていい』
 何とか雇い入れてもらっていたクリーニング店の店主から、その言葉を聞かされたのは数時間前だ。
 所詮15歳ということなのか、力量が足りないだけのか。
 いずれにしても、生活に必要な金銭が明日から入らなくなってしまったことに変わりはない。
 どうすればよいのか、途方に暮れながらリーアムは顔を上げた。
 過ぎ去る黒く大きなSUV、笑いあうブランド品を手に持った女性。
 この大通りを観察していると、不景気なんてどこに存在するのかとすら思われる。
「おい」
 かけられた声にはっとし、リーアムは振り返った。
 商売の邪魔だ、とでもいうように、さも迷惑そうにポストカードの置いてある店の主人がリーアムを睨みつける。
 ふと狭い範囲で周囲を見渡せば、行き交う人びとが無関心を装いつつリーアムにある種の視線を投げかけている。
 耐えられず、リーアムは人にぶつかりながら足早に大通りから離れた。
 すぐに息が切れ、最初の曲がり角で路地に入り込み、リーアムは近くの階段に腰を下ろした。
 荒い息づかいの中、咳が出る。
 それに涙腺が刺激されたか、視界がだんだんと潤ってきた。
 どれくらい経ったか、脈と呼吸が落ち着いてきた頃。
 ぼんやりとした意識の中、リーアムはどこへ焦点を合わせるでもなく、大通りとは打って変わって人通りのない狭い路地を見やっていた。
 黄昏の時間帯がやってきたのだろう。
 やけに、空気が肌寒く感じられる。
 ふと落ちてきたハシブトガラスの声に顔を上げる。
 目に映るコンクリートの建物は青暗く、体感温度を更に下げるのに貢献していた。
 都会の真っ只中、リーアムは無意識的に人の気配を探した。
 人口は多いはずなのだが、彼が求めているものはどこにも見つからなかった。
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