IN THIS CITY

第3話 Unspoken Truth

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03 Hide and Seek

 夕方に激しい雷雨が予報されているとのテレビからの情報を漠然と耳にしつつ、エリザベス・フラッシャーは蛇口をひねった。
 両手に水を溜め、泡で包まれていた顔を洗い流し、鏡を覗き込む。
 どうやら対策をしっかりとしていたおかげで、日に焼けることはなかったようだ。
「クレア、このタオル借りていい?」
 許可を求めれば、居間から友人のクレア・シャトナーが、いいわよ、と返事を寄こしてきた。
 かねてからの夏休みの計画で、ここ1週間ほど、彼女と2人でロサンゼルスに旅行に行っていた。そのために一生懸命アルバイトをしたことは無駄ではなく、噂どおりの快適な気候の下、十分に羽を伸ばすことができた。
 昨夜遅くに帰ってきた後、その足でアパートに戻る予定だったのだが、成り行きでクレアの部屋に泊まることになった。旅行の疲れが出たのか、2人とも昼近くまでぐっすりと眠ってしまった。
「旅行から帰ってきたばかりなのに泊まりこんじゃってごめんね」
「ううん、いいのよ。どうせなら賑やかなほうが楽しいし、朝食も作ってもらったし。あ、でももうお昼過ぎだから昼食って言ったほうがいいのかな」
 笑顔でそう告げるクレアに、エリザベスも微笑を返す。
 大学に入ってからの付き合いだが、もう随分と長い間、一緒にいるような気がする。
 上院議員の愛娘であるクレアは、だが決して気取ることも着飾ることもなく、エリザベスはそんな大人びた彼女の姿が好きだった。
「で、リジーの今夜の予定は?」
 ソファの上に座り、額の上で前髪をまとめ上げたクレアが尋ねてくる。
「今夜?」
「そ。今夜」
 化粧水を手に取り、クレアはにっこりとエリザベスを見る。
「バーに行こうかな、って思っているけど、特に予定はないわよ」
 事実をそのままに返せば、クレアは怪訝な表情をした。
「えーっと、一週間旅行に出ていて、ホテルでは電話もメールもろくにしていなくて、でもって夜に予定がないとなると……」
 手に取った化粧水をそのままに不安そうな口調でそう告げるクレアの言わんとすることを理解し、エリザベスは、そのことか、と頷いた。
「心配しないで」
「そう?」
 まだ腑に落ちない様子でクレアはエリザベスを見、化粧水を顔につけ始める。
「バーに行けば会えると思うし、予定は組まなくてもいいかなって」
 クレアの隣に座り、エリザベスも化粧品をテーブルの上に並べる。
「うーん。リジーって、けっこうあっさりした恋愛でも大丈夫なんだね」
 言いつつクレアは化粧の次の段階へ移る。
「そう?」
 鏡で確認しながら、エリザベスは化粧水を頬につける。
 クレアが言うように表現されれば、なるほどそうなるのかもしれない。連絡をとらなすぎる、と言われても否定はできないだろう。
 確かに、エリザベスとしては寂しいと思わないでもないが……――
「――色々と忙しいみたいだから、仕方ないかなって」
 呟いた言葉に反応して、クレアが化粧を中断し、エリザベスの目を見てきた。
「何言ってるのよリジー。寂しかったら主張しなきゃ。男ってホント自分勝手で、女心を分かろうとしないものよ。言われて初めて気づくんだから」
 こちらの『分かってくれるだろう』という期待は裏切られるものだ、と過去に何か経験したことがあるのか、クレアは力を入れて語る。
 自分のことのように真剣に説いてくれる彼女の温かさに笑顔を返しつつ、エリザベスは、そうね、と相槌を打った。
「確かに、一緒にいる時間は少ないかな」
 相手の仕事に事情があるだけに、2週間以上会えないこともあれば、その間の連絡も難しいこともある。
 でも、とエリザベスは続ける。
「――傍にいて欲しいって思う時には、必ずいてくれるの」
 心を読まれているのでは、と感じるのだが、恐らく自分の態度や顔にそれらしいサインが出ているのだろう。
 隠そうとしても、彼の前では隠しきれない。
 目が合った瞬間、強がることも忘れてしまう。
 保持しきれずにこぼれ出てしまう甘えを、彼は自然に受け止めてくれる。
 無条件に差し出される優しさは、クレアからのそれとはまた違い、ついつい、より深い部分まで弱さをさらけ出して頼ってしまえるものだ。
 これ以上、何で贅沢が言えるだろう。
 エリザベスの横顔を見、クレアは、そっか、と呟いた。
「リジーがいいって言うのなら、それでいいけどね」
 心配する必要はないと分かったのだろう、クレアは安心した様子をみせた。
「でもね、相手のペースにうまいこと乗せられちゃダメよ。リジーはしっかりしてそうで、ところどころおっとりしているんだから」
「ありがと。気をつけるわ」
 自分の話に区切りがついたところで、エリザベスは一呼吸、間を取ると再び口を開いた。
「それで、クレアはどうなの? 今夜の予定」
 尋ねるエリザベスに、クレアは、えへへ、とはにかんだ笑顔を見せた。
「入念に化粧する理由といえば、ひとつしかないでしょ?」
 答えを受けて、エリザベスは多少大げさに頷き、ごちそうさま、と笑顔を返した。


 外出の準備が整い、旅行気分に別れを告げる時間となった。
 荷物を持ち、エリザベスはクレアに見送られて彼女の部屋を後にした。
 時々遊びに来るので顔を覚えられているらしく、階下でドアマンに笑顔を送られる。
 またどうぞ、という彼に、ありがとう、と返すと、エリザベスは暑い日差しの下へ足を踏み出した。
 この時、慌ててタクシーを発車させる女性の姿をエリザベスは確認することができなかった。
 彼女にしてみれば身辺に関して警戒するべき理由などあろうはずがなく、不審な点を見逃しても無理のないことである。
 いずれにしても、エリザベスがタクシーを探すタイミングに合う形で、不審な発車をしたタクシーが彼女の前に停車した。
 珍しい、というほどでもないが、女性ドライバーという点で、エリザベスは無意識の内に安心を覚えた。この点は、ジミーの読みが当たっていたといってもいいだろう。
「手伝うよ」
 大きな旅行ケースをトランクに運ぶエリザベスに、運転席から降りた恰幅のいい女性ドライバーが声をかける。
 礼を言いつつ、彼女の手を借り、エリザベスはトランクに旅行ケースを入れた。
「旅行に行っていたのかい?」
 旅行ケースを持ってアパートから出てきた人物に対し、行くのか、ではなく、行っていたのか、と過去形で運転手が尋ねてきたのだが、彼女の質問の仕方が自然だったせいか、また行っていたこと自体が事実であるせいか、エリザベスは何も疑問を持たなかった。
 だが、無意識的な部分では妙に感じていたらしく、以後の運転手のちょっとした言葉が、やけに馴れ馴れしく聞こえる。
「ええ」
 質問に答え、エリザベスはバッグを持ちながら、運転手がトランクを閉めるのを見送った。
「どこまで?」
「LAよ」
「へぇ。楽しんできた?」
「勿論」
「そりゃあ、よかったね」
 後部座席に勧められるがままに、エリザベスはタクシーに乗り込んだ。
 行き先を尋ねる運転手に、アパート付近の目立った通りの名前を告げる。  
「ああ、あそこね。工事中の道路があるから、少し遠回りするよ」
 真夏なのに工事なんてよくやるね、と恰幅に似た豪快さを含む声で、運転手は言った。
 構いません、とエリザベスは告げる。
「道をよくしてくれているんだろうけど、かえって渋滞になったりしちゃってさ、まったく困ったもんだよ」
 おかげで経路変更が大変だ、と話を続ける彼女に対して、おしゃべりな人だ、という印象をエリザベスは受けた。
 現に、順調に車が滑り出してからも、とにかく彼女はよくしゃべった。
 会話と呼べるものでもなく、エリザベスは相槌を打つことくらいしか言葉を発していない。
 何かを考える隙すら作らせないリズムで話しかけられ、無視することもできず、彼女の話を聞かざるを得ない状況であった。
 迷惑かな、とも思ったのだが、
「ああ、色々と話しかけてごめんね。あたしは1人暮らしでね、仕事上でなきゃあ、なかなか人と話す機会がないんだよ」
 という運転手の言葉を聞き、エリザベスの気が変わった。
 経験がないことではない。
 高校時代、進学を目指していたエリザベスへの同年代からの風当たりは厳しかった。
 友人といえる人物は少なく、学校へ行っても会話らしい会話があったかどうか、今となっては思い出せない。
 母親と暮らしていたとはいえ、家に帰っても1人でいることのほうが多かった。たとえ母親がいたとしても、その存在を壁越しに感じるくらいでろくな会話をした記憶がない。
 口数が少ない子、と周囲は評価していたが、そうではなかった。
 心の底では話を聞いてくれる相手を欲していたのだ。
 あの頃、今は無理だけれども大学に入ればきっと、という期待をエネルギーの源とし、学問に精を出していた。大学に入った今、その努力は間違ってはいなかった、と断言できる。現にクレアという親友と巡り合うことができた。
 話を聞く、または聞いてもらえるという喜びは、大学に入ってから初めて感じたといっても過言ではない。
 精神的に余裕を持つことができるようになったことも関係しているのだろう、エリザベスは孤独を感じているらしい運転手の話を聞いてあげようという気になっていた。
 他愛のない話が続き、相槌を打つためにエリザベスは彼女の話に気を払っていた。
 ふと、運転席の横にかけられているドライバーの証明書に目がいく。
 笑顔の写真の横には、グレイス・ミルズという名前が書かれていた。
「いい名前ね」
 たまには話題を振るのもいいだろう、とエリザベスは、グレイスの話の区切りを機会に、証明書を見つつそう言った。
「名前?」
「グレイス。そこに書いてあるわ」
 指で示して、エリザベスはバックミラー越しにグレイスを見る。
「ああ、やだよ、こんな写真が貼ってあるもの見られちゃ」
 照れくさそうにグレイスは言うと、バックミラーから一度目を離した。
「小さい頃、憧れていた名前だわ」
「そうかい?」 
「ええ。優雅な響きだもの」
 名前に関しては確かにねぇ、とグレイスは照笑した。
「でもあんたの『エリザベス』って名前もいいと思うけどね」
 名前を言われ、エリザベスはグレイスを見た。
 先ほど無意識的に妙だと感じた感覚も手助けをしたのか、今回はしっかりと、何かが引っかかった。
 その理由を考えたところ、ほどなくしてそれを見つける。
 果たして、グレイスに自分の名前を告げただろうか。
 タクシーを呼び止めてから今までの間に、だ。いや、告げた記憶はない。
 些細なことだが、気にかかる。
「そうかしら」
 何故名前を、と聞き返すのではなく、咄嗟に相手の調子に合わせたのがよかった。
 疑念を持った様子もなく、グレイスは笑顔のまま会話を続けようとする。
「母親につけてもらったのかい? それとも父親?」
 考えるふりをしつつ、エリザベスはざっとこれまでの経緯を振り返る。
 旅行ケースの名札からだろうか、とも思ったが、トランクに入れる短時間にそこまで目がいくとは考えられなかった。
 考えてみても、グレイスが自分の名前を知りえるはずがない。
 何故、彼女は知っていたのだろうか。
「そうね――」
 自然な様子を装い、悟られないように外の景色を確認した。
 気がつかなかったが、遠回りというには随分と遠回りをしすぎている。
 嫌な予感がエリザベスの脳裏をかすめた。
 デュークの一件以来、ちょっとした不安が引き金となって最悪の展開が頭をよぎるようになってしまい、今回もそうだった。
 このタクシーは、自分をアパートまで届けようとはしていないのではないか。
 グレイスは話好きだとは思っていたが、会話の中にエリザベスを引きずり込み、現在地に疑問を持たないように謀っていたのではないだろうか。
 しかし、だとすれば、何のためにどこへ連れて行く気なのだろう。
 気にしすぎだ、とも思わないでもないが、一度負に振れた思考は悪い予測をアウトプットし続ける。
 漠然とした不安が、存在感を増す。
「――母親、かな。あまり覚えていないけど」
 下手に動くよりも停車する機会を窺ったほうが安全だろうという判断を下し、平静を装いつつ、エリザベスは返答した。
 フロントガラス越しに信号が見える。
 緑のライトを示しているそれに対し、エリザベスは赤になるよう祈りをかけた。
 と、それを実行するよりも早く、信号の色が変わり、前方の車が赤いテールライトを点した。
 そのタイミングの良さに、根拠はないがエリザベスは自分の直感が正しいと結論付ける。
 グレイスが何かまだしゃべっているようだが、彼女の声は耳には届かない。徐々に速度を落とすタクシーを感じ、エリザベスは次の行動へ備えた。
「ところで、あんた――」
 グレイスの声も途中に、エリザベスはタクシーが完全に停車するより早く、予告なしにロックを外し、ドアを開け、外に飛び出した。
「――ちょっ……、待ちな!」
 慌ててグレイスはサイドブレーキを引き、運転席のドアを開けて外に出た。
「何で私の名前を知ってるの?」
 背中にかかってきたエリザベスの声に、グレイスが振り返る。
 弱い風に髪を撫でられつつ、エリザベスは車を挟んでグレイスに厳しい目を向ける。
「何でって、そりゃあ、あんたがそう名乗ったから――」
「私は何も言っていないわ」
 エリザベスは肩に掛けたバッグをぐっと握った。
 グレイスの顔に、しまった、という色が表れる。
 その様子をみて、エリザベスは自分の推理があながち間違ってはいないと感じた。
 しかし、グレイスに不信を抱くものの、エリザベス自身、具体的に何がどう不可解なのかは分かっていない。
 ただ名前を知っていた、というだけであるが、それだけではない何か別の不気味さが感じられる。
 更に問い詰めようとしたとき、エリザベスの目が左端に不審な動きを捉えた。
 グレイスをそのままに振り返れば、数台後方で信号待ちをしている黒い車から2人の男が降り立った。彼らは明らかに、エリザベスを意識している。
 直感的に、彼らとグレイスが共に自分を狙っていることを悟り、エリザベスは身の危険を感じた。
 一歩、後退する。
 瞬間、男たちがエリザベスに向かって走り出し、グレイスもまた、ボンネットを回ってエリザベスを引きとめようとしてきた。
 考えるより先に足が動く。
 体の向きを変えて走り、エリザベスは交差点を右に折れた。
 角で振り返れば、何か叫ぶグレイスの声と、追ってくる2人の男が建物の角に遮られるところだった。
 旅行用に比較的歩きやすい靴を履いていたことが幸いし、エリザベスはほぼ全力で疾走することができた。しかしながらスニーカーではないため、勝てる見込みはない。
 横手に見つけた路地裏に飛び込む。
 地面に散らかっているゴミや落書きの多い壁は、この状況では彼女の目には映らなかった。
 背後から、待て、という声が、建物の力を借りて反響して耳に届いてくる。
 何で、誰が、という疑問を頭の中に抱えつつも、エリザベスは、捕まってはならない、と足を動かした。
 路傍のホームレスが不審な目を向けてくるが、彼女の視界には入らない。
 岐路に差しかかる度、足の赴くままに曲がり、あとはひたすら走った。
 が、少しばかり冷静さを取り戻した頭が、闇雲に走り回っていても逃げ切れない、ということに気づく。
 ゴミを出しに隣の建物から出てきた男にぶつかる。短く謝りつつ、エリザベスは彼が出てきたドアを開け、中へ飛び込んだ。
 咎める声が上がったがこの際無視しなければならない。
 調理場らしいその空間をすり抜ければ、誰何と制止の声が次々に降りかかってくる。
 それらを気にすることもできずに走り、後方を確認する。
 男が1人、障害となる人や物を押しのけつつ追ってくるのが、ちら、と見えた。
「おい、ここは立ち入り禁止だぞ」
 ふいに腕を捕まれ、エリザベスは驚きの声を上げて振り返った。
 この厨房で働いていると思われる男だった。
 咎める口調ではあったが、エリザベスの様子に異常な事態を何となく感じ取っているようである。
「追われてるの、助けて」
 息を切らし、そう告げる。
「追われてる?」
 確認するように呟いた後、彼は追っ手を見た。
 追っ手は、エリザベスと男との間でなされた短いやりとりを察したのだろう。
「その女を捕まえてくれ! 俺の財布を掏りやがったんだ!」
 同じように厨房の人間に制止されつつも、でたらめに叫ぶ。
「違ッ……!」
 彼の嘘に、エリザベスは全面否定の眼差しを隣の人物に向ける。
 が、どちらを信用すればいいのか迷っているらしい厨房の男の顔を見、エリザベスは期待が崩れるのを感じた。
「違う!」
 否定しつつ腕を振りほどき、エリザベスは再び走り出した。
「あ、こら!」
 待て、と声がかかるが知ったことではない。
 厨房を抜け、食堂へ出ると、数人が遅すぎる昼食をとっているところだった。
 気にすることなくエリザベスは出口へ向かう。
 ドアを開け、外に出、右を確認したその先、数メートルの距離を置いて別の男と目が合った。
 反射的に左に折れ際、その男が走り出すのが見えた。
 路上を歩く数人に助けを求めようとしたが、人助けを率先してやってくれそうな人物はこの場にはいなかった。怪訝な顔をしてエリザベスを避けるか、ある種の興味を持って面白そうに観察をするか、知らぬ顔でそっぽを向くか、である。
 どうしよう、という焦りが徐々に大きくなってくる。
 撒こうにも相手が自分よりも体力のありそうな男で、しかも2人、となると難しい。
 グレイスの姿は見えないが、いつ現れるとも限らない。
 誰か、と思う心に1人の姿が浮かぶ。
 電話を、かけなければ。
 角を曲がり、エリザベスは目についたアパートの中へ駆け込んだ。
 マリファナだろうか、鈍い動きで煙を吸う若者を無視し、狭い廊下を走りぬけ、階段を上がる。
 アパートそのものが持つ雰囲気に、治安状態が悪い区域であることを認識し、別の恐怖が首をもたげる。
 だが今は深く考える余裕がない。
 階段のすぐ脇の部屋のドアノブに手をかけた。が、開かない。
 次のドア、開かない。
 隠れる場所を、と回るドアノブを探す。
 何個目かのドアに手をかけた時、抵抗なくドアが開いた。
 中を確認する前に飛び込み、ドアを閉め、鍵をかける。
 数歩後ずさり、振り返り、部屋の中を見回した。
「……誰か、いる?」
 切れそうな息で声をかける。
 が、返事は返ってこない。
 カーテンの閉められた室内は、何かを燃やした後のような、異様な匂いがしたが、人がいる気配は全くなかった。
 エリザベスは持っていたバッグを開けた。
 腕を振るには邪魔な存在だったが、持ち運んでよかったと感じる。
 通信手段を探す手は、激しい運動のせいか、緊張のせいか、震えていた。
 いつもよりも倍時間がかかったように思えたが、なんとか携帯電話を取り出した。
 名前の欄からWを探す。
 これからかけようとする相手は、2つ番号を持っていた。
『一応こっちも教えておくが、緊急時以外はかけないでくれ』
 ふと、彼の言葉が思い返される。
 エリザベスは一瞬の躊躇の後、その番号を選択し、携帯電話を耳に当てた。
 転瞬、廊下から大きな音が聞こえてきた。
 反射的にドアを振り返れば、乱れた髪が跳ね、視界にかぶさる。
 呼び出し音が鳴る中、足音が、近づいてくる。
 危機的な状況に、瞬間的に体が硬直する。
 耳元の携帯電話を握った右手が、無意識の内にゆっくりと降下する。
 電話口から自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが、エリザベスは返事ができなかった。
 声を出せば、見つかるかもしれない。
 彼女の恐怖を増幅させるかのように、ドア一枚を隔てた廊下からは荒々しい男の声が届いてきた。
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