04 The Call
火花が散る音がドア越しに聞こえてくる。改造の依頼でもきたのか、車の修理工場の中は主に金属を扱う音で溢れていた。
「仕事に戻らなくていいのか?」
手に持っているカードと睨み合っていたとき、テーブルの向かいからウォレンの声が聞こえてき、エディー・ダンストは目を上げた。
「別に構わないって、な。あいつらは勝手にやってくれるし」
一言告げて再び手持ちのカードに視線を戻す。
仕事がひと段落着いたときに、ウォレン、アレックス・デイル、ギルバート・ダウエルに声をかけ、エディー自身が経営する修理工場の一角でポーカーを始めたのだが、ついついのめり込んでしまっている。
賭け事とはいえ、顔見知りの間柄であるため大金が動くことはなく、1日における利益、または損失の金額の上限は500ドルと設定されている。しかしながらアレックスが全くもって容赦しないために、ゲームの頻度は低いものの負けが毎回重なるとどうも厳しい。
前回もごっそりと持っていかれたため、エディーは今回挽回しようと必死だ。
根がギャンブル好きなのか、ついつい勝負に出てしまうのが災いの元らしい。
勝ち負けの差が激しいエディーや常に儲けに走るアレックスに比べ、内輪のゲームのため遠慮しているのか手を抜いているのか、ギルバートとウォレンは利益と損失が総計でバランスするように事を運んでいる。とはいうものの、エディーの見立てでは、やはり利益を得ることのほうが多いようだ。
1人損をしている感覚に陥り、彼の中で再び勝負に出る気持ちが沸き起こる。
「ま、仕事をサボるのは一向に構わないけど、こっちはどーするの?」
右隣にいるアレックスがタバコをくわえつつ尋ねてきた。
今回もいい手を持っているらしく、レイズして70ドル賭けてきたところだ。
彼を一瞥し、ついでエディーはテーブルの上に並んでいる3枚のカードに目を移す。
勝てない手ではない、と彼の直感が告げる。
決心すると、エディーはチップ代わりのビール瓶の蓋を、ポットに置いた。
「コール」
その一言に、勝負してくるのか、とアレックスは軽く眉を上げた。
エディーは次いで左隣のギルバートを見た。
両手を広げ、ギルバートは降りることを示す。
「ウォレンは?」
尋ねられ、ウォレンは手持ちのカードを一瞥した。
「フォルド」
カードをテーブルに置き、椅子の背にもたれかかる。
因縁の対決だ、とばかりにエディーはアレックスを見た。
余裕の笑みを浮かべて口からタバコを離すと、アレックスはエディーに向き直る。
「レイズしようか?」
「お好きに」
「ほんとに?」
「おう」
「泣くよ?」
「そっちが、な」
知らないからな、とアレックスは5ドル分のチップをポットに置いた。上げ幅を小額にしたのは、アレックスなりの優しさなのかもしれない。が、それはエディーには通じなかったらしく、彼は更に10ドル上乗せしてきた。
「……本当に泣くよ?」
言いつつもアレックスはコールする。更に金額を上げなかったのも、それなりにエディーを気遣ってのことなのだろう。もっとも、これまでに随分と搾取してきていることを考えれば、大した情けではないかもしれないが。
賭ける金額が定まり、まずエディーが最初にカードを裏返した。
どうだ、と自信を持つエディーのカードを一瞥し、アレックスはテーブルの上に伏せられている己のカードに手を伸ばした。
裏返されたアレックスのカードを見、その形のままにエディーの表情がみるみる変わる。
彼はギルバートとウォレンから気の毒そうな視線を受けるはめになった。
「だから言ったでしょ。『泣くよ』って」
いつも悪いねぇ、とアレックスは灰皿にタバコを押し付け、チップを頂戴した。
「……毎回思うが、お前もう少し慎重になったほうがいいんじゃない?」
ギルバートの言葉を受け、エディーは目を閉じるとうなだれた。
「え~っと、今230ドルほど儲けさせてもらってるんだけど」
追い討ちをかけるようにアレックスの声が聞こえてき、エディーは恨めしそうに彼を見た。
「続ける?」
悪びれた様子のないアレックスに、先ほどギルバートに言われた言葉など忘れたのか、エディーは、
「勿論」
と強く言った。
「エディー……」
ギルバートが呆れた様子で呼ぶ。
「次は勝てる気がするんだって、な」
「さっきも聞いたぞ」
カードを集めつつ、ウォレンが告げた。
そうだっけ、と思い返すふりだけをしてエディーは宙を仰ぎ、すぐに視線を戻す。
「でも次で挽回できるかもしれないじゃないか」
続行すれば勝てる、と見込んでいるらしい。
「ウォレンも今日は損しているだろ、な?」
負け仲間を誘うが、挽回に対してエディーほどの熱意を持っていないらしく、どちらでもいいが、という雰囲気を出しつつ、ウォレンは、
「まぁ、60ドルばかり」
と呟く。
「60?」
意外にも値が低く、エディーは驚いて確認した。
相槌を打ってウォレンは肯定し、集めたカードを次の親であるアレックスに渡した。
「そんだけ?」
二度目の確認に、ウォレンは短く、そうだ、と答えると両手を頭の後ろで組んだ。
何でそんなに少ないんだ、という表情で彼を見た後、エディーはギルバートにも同じ問いの視線を送る。
「専ら金額を跳ね上げてるのはお前たち2人だろ」
チップ代わりの蓋を手で遊びながら、ギルバートは告げた。
ふとエディーが確認すれば、彼はちゃっかり100ドルほど儲けているらしい。
欲を出さずに地味にこつこつ稼ぐのがギルバートの手口である。
「あれ、いつの間に……」
言いつつ、ふと思いついたように、手を使って苦手な計算をし、この中で大損をしているのは自分だけだということをエディーは発見した。
そして、毎度のことだが彼の金のほとんどは、右隣で呑気な顔をしている人物へ流れ出ている。
「じゃ、稼がせてもらおうかな」
始めようか、と、1人落ち込むエディーの負けん気を起こすような口調でアレックスが言った。
「アレックス、エディーを乗せるな」
ギルバートの忠告を受けつつも、アレックスは知らぬ顔でカードを切る。
「俺が好きなもの知ってる? 1位、女性。2位、マネー」
にこやかに告げるアレックスに、ギルバートは、やれやれ、と小さくため息をつく。
「3位は?」
大損をしていることを既に忘れたのか、エディーが尋ねた。
「3位、酒」
律儀に答え、アレックスはカードを配り始めた。
その時、工場の作業音に紛れ、着信音が鳴った。
音源の携帯電話が己の所持品であることに気づき、ウォレンが、失礼、と席を立った。
付き合いの長いアレックスは、その着信音でウォレンの『仕事専用』の携帯への電話であることが分かったらしい。そうでなければ何か軽い一言をウォレンにかけただろう。
あまり賭けすぎるなよ、とエディーに忠告するギルバートの声を後ろに聞きながら、ウォレンは手に取った携帯電話の画面を見た。
瞬間、ウォレンの足の動きが止まる。
表示された電話番号が予想外のものであり、同時にそこから不穏な空気が発せられる。
非常時以外にはかけるな。
エリザベスには、そう、告げてある。
間違えたのか、と思ったが、これまでにそのようなミスがあったことはない。
迷わず通話のボタンを押し、耳に当てる。
「エリザベス?」
その声に、無関心を装っていたアレックスがウォレンを振り返った。
飛び込んだ部屋から廊下に意識を向ければ、足音が聞こえてくる。
慌てた様子のそれは、人を探しているということを暗に示していた。
声は出せない。
エリザベスは緊張と恐怖を抑えるように息を呑んだ。
電話口、ウォレンの声は聞こえた。
すぐにでも助けを叫びたいが声は出せない。
廊下のすぐそこまでやってきた足音は隣の部屋のドアを開けようとしたらしい。
荒々しい音が嫌なほど大きく響いてくる。
気づかれてはいけない、とエリザベスは受話部に手を当てた。
開けろ、と大きな声がここまで届いてくる。
叩かれたドアが開く音がした。
隣人が乱暴な訪問客の要求に応じたらしい。
留守だと分かれば無理にでもドアを開けて入ってくる勢いを感じ取り、エリザベスの恐怖と焦りが指数関数的に高まった。
隠れる場所を、と周囲を見回す。
見つかりにくい場所はどこだろうか。
居間にはクローゼットがあるが、常に候補の上位にランクインする隠れ場所だ。そこは使用できない。
どうしよう、と駆け込んだ先、キッチンの流し台の下の扉が目に入る。
駆け寄って扉を開けた。
狭いが、エリザベスの体型ならば滑り込むことが可能だろう。
埃と汚れが目立ち、ともすればこのような環境を好む昆虫も出てきそうだが、今は贅沢を言っていられない。
電話をそのままにエリザベスは屈みこむと流し台の下に滑り込んだ。
窮屈だが暫くの間息を潜めるにはスペースは足りる。
内側から何とか扉を閉める。
光が無くなり真っ暗な世界に廊下から聞こえてくる負の音だけが存在していた。
早く、助けを呼びたい。
ウォレンは電話口に出てくれているのに、それができない。
切らないで、そのまま待っていて欲しい。どうか、切らないで。
携帯電話をぎゅっと握り締め、エリザベスは己の身も抱え込んだ。
とその時、恐れていたとおり、この部屋の玄関を叩く音が聞こえてきた。
力任せなその音に、ドアは簡単に屈してしまいそうに感じられる。
鍵は、閉めただろうか。
閉めた、と分かっていても、不安が限界を極めようとしている最中では確信は揺らぐ。
いや、閉めていても無駄なことだろうと思った瞬間、ドアノブが捻られた。
恐怖の混じった驚きで、心臓が痛む。
ドアの状態に反してこじ開けようとしている無理矢理な音に紛れ、己の脈拍が、骨の中で脈打っているのでは、というほど大きく聞こえる。
と、一旦、荒々しい音が止んだ。
去ってくれたのか、と安心しかけた直後。
轟音かと思うほどの音を出してドアが蹴破られた。
物言わぬそれは、砕ける音で痛みを訴えていた。
床が軋む音を連れ添い、足音がやけに大きく響く。
居間を探索しているらしい。
クローゼットが開かれる音が届いた。
反射的にエリザベスは声を洩らさないように口に手を当てた。
増加した脈拍の度に体がびくつくのが分かる。
上昇しそうな呼吸の回数を抑えるため、必死にゆっくりと息をする。
足音が近づく。
キッチンに入ってきたのだろう。
恐怖と緊張により、思考が細かい泡を立てて脆く崩れていくのが分かる。
目を閉じ、エリザベスはひたすらに、早く出て行って、と祈った。
人が動く気配は、すぐそこで止まった。
威圧感のある足音が消える。
ただ立ち止まっただけだ。男はすぐそこにいる。
エリザベスは息を潜め、板一枚を隔てたキッチンの様子を耳で窺っていた。
その耳は、体の内部から聞こえてくる心拍数を振動ごと拾っていた。
自分の鼓動の音が、こんなにも大きく聞こえる。
ひょっとしたら、薄い扉の向こうの男にまで届いているかもしれない。
しかし、幸いにもエリザベスの心配は杞憂に終わった。
防音が完璧ではない建物の構造に感謝すべきだろうか、壁越しに伝わってくる隣人の存在が、エリザベスが潜んでいることを曖昧にしたようだ。
どれくらい経っただろう。
キッチンには人が隠れるスペースはないと判断したのか、侵入してきた男は床を軋ませ、踵を返して大股な荒々しさを伴いつつその場を去っていった。
その空気を感じながらも、まだ油断はできない、とエリザベスはそのまま流し台の下に隠れていた。
やがて足音がぐっと小さくなる。
どうやら、廊下に出たらしい。
それを確認し、危険はまず去った、と脳が認識するや、エリザベスは口に手を当てたまま安堵の息をついた。自然と震えて吐かれる息と共に、全身の緊張が緩む。
目標は隣の部屋に移されたようだ。
再び男が声を荒げ、それから数秒の時間を置いて隣の住人が文句を言いつつドアを開ける。
何か言葉を交わしているようだが、その内容までは聞こえてこない。
だが恐らく、女が逃げ込んでこなかったか、といった類の質問をしているのだろう。
口論に発展しそうな様子ではあったが、住人の主張が勝ったらしい。
外れくじを引いた男の足音が更に遠のくのを耳に入れた後、エリザベスはそっと扉を開け、上半身を外に出した。次いでまごつく手で携帯電話を耳元へ持っていく。
小刻みに振動する左手が、視界を遮る髪の毛をすくい、整える。
「もしもしウォレン? まだそこにいる? 私、あの――」
『落ち着け。今どこだ?』
聞こえてきたウォレンの低音に、エリザベスは安堵の吐息を吐いた。
説明をするまでもなく、彼は状況を理解しているらしい。
「分からない、タクシーに乗って、降りて、いきなり――」
つとめて小声で言いつつも現在地が全く分からないことに対する焦りが脳に達し、後頭部に感じる微細な振動が思考の全てを奪っていきそうになる。気づけば早口に、声は震えていた。
「――いきなり彼らが追ってきて、それで、私、ただ――」
『リジー』
言葉が遮られ、いつものように愛称でエリザベスを呼ぶウォレンの声が聞こえてきた。
『すぐに行くから、安心しろ』
耳元に届いた声が、心に伝わる。
無条件に信頼できる、安定した声質。
震える息を吐き、エリザベスは、ええ、と頷いた。
目を閉じれば、瞼が熱くなる。視界が遮断されれば、声が耳元で聞こえる分、隣に彼がいる気がした。
『具体的でなくていい。大体の位置は分かるか?』
ウォレンの声の背後で、バタン、と車のドアが閉まる音がしたが、それはエリザベスの耳に情報として認識されることはなかった。
「大体の位置……」
エリザベスは左手で髪をすくいがてらに頭を押さえた。
『タクシーに乗ったんだろ? どこへ向かっていたか、思い出せるか?』
普段どおりの声音でウォレンが尋ねてくる。彼の言葉は力づける単語でも励ます単語でもないのだが、それが耳に入るに伴い、エリザベスの精神が徐々に落ち着きを取り戻す。
見知らぬ恐怖に駆られていた脳が、徐々に先刻までの経緯を辿り始める。
確かタクシーは……――
「――市の北東に向かっていたわ」
グレイスとの会話の合間に見た街の様子が、断片的ながらも脳裏に浮かぶ。
電話の向こうで復唱するウォレンの声が聞こえ、小さいながらも了解の意を示す別の声も聞こえてきた。
どうやらアレックスも来てくれるらしい。
力強さが倍になり、エリザベスはふと緩んで潤みそうになる目を上げた。
『リジー』
再び呼ばれ、エリザベスはかすれて出てきた声で返事をした。
『今は屋外か? 屋内か?』
「今?」
辺りを見回し、自分が部屋の中にいることを認識する。そういえば、そうだった。駆け込んで、鍵を閉めて、隠れて、やってきた危機を回避した。
「部屋の中、アパートよ。でもどこのアパートかは――」
『誰か住んでいるのか?』
ウォレンの問いに、エリザベスは周囲を確認した。
片付けられていないキッチンの空間には、確かに、誰かが生活をしている空気が漂っている。
「ええ、今はいないけど、そうみたい」
『手紙とか、その類のものはないか?』
郵便物、とエリザベスが部屋の中をスキャンする。
ここ、キッチンにはそれらしいものは見当たらない。
足を進め、居間に入った。
目に入ってきた玄関のドアは、無残に傾きながらもまだその役目は果たせるようであった。だが、完全には閉じていない。
不安を覚え、エリザベスは、足音を立てないように注意しながら、廊下から死角となるところへ急いだ。
やがてドアから廊下の様子が見えなくなり、エリザベスはそこから目を離すと部屋をよく観察した。
散らかっている部屋はカーテンが閉められているせいだろう、暗かった。
テーブルの上に散乱しているものは、素人目にみても見当がつく。麻薬を摂取するための道具だろう。
不穏な空気は漂っているものの、現時点では隠れる場所はここしかない。
エリザベスは、早く外に出たい、という気持ちをぐっと抑え、情報を求めて視線を動かした。
その目が、テーブルの一角にある紙らしいものに止まる。
急ぎ足でその場に向かえば、床にも何か落ちていた。
郵便物だ。
「あったわ」
請求書の類のそれを手に取り、逸る心で文字を求める。
住人の名前など今の場合重要ではない。
エリザベスは手でなぞりながら、記載されている住所をウォレンに告げた。
そんなに階段を駆け上がった記憶はないのだが、この部屋は4階に位置するらしい。
言われた住所をウォレンが復唱する。
5分、というアレックスの声が聞こえ、次いでウォレンがそれをエリザベスに伝えた。
普段なら短いと思える時間なのに、やけに長く感じられる。それでも、それに縋り付くように、エリザベスは了解の言葉を返した。
『リジー、もうひとつ頼む。窓はあるか?』
窓、というキーワードに脳が反応し、目が部屋の中をスキャンする。
暗い、と思っていたのはカーテンが閉まっているせいであり、完全に光を遮断し切れていないそれは赤茶けた色合いで静止していた。
「ええ」
床に散らばっている衣類などに足を取られないよう注意して、エリザベスは窓の側に行くと、そっとカーテンの端を引き、その隙間から外を窺った。
太陽は見えない。伸びる建物の影から推し量るに、北側に位置する部屋にいるらしかった。
『見える範囲に目立つ建物があったら教えてくれ』
より詳細な位置を、とエリザベスはひとつ深呼吸し、目印となるであろうものを分かりやすく列挙することに努めた。
前を走る車が邪魔だと感じられる。
混雑する時間帯ではなく、普段ならば空いていると判断する道路状況だが今はその基準が適用できない。
「――分かった」
エリザベスの説明を聞いた後、ウォレンは受話部を耳に近づけたまま、通話部を少し口から離した。
「北窓から BERR なんとかという看板が見えるらしい」
「 BERR ……、『 BERRY'S CLUB 』かな」
「多分」
具体的になった場所への経路を描き、アレックスは運転に集中する。速度をもっと上げたいところだが、取締りが大好きな面倒な相手に出くわすことだけは避けたい。
その事を承知しているため、ウォレンも速度を上げろとは要求しなかった。
「リジー」
通話部を口に近づけ、ウォレンは続ける。
「今向かっている。俺が行くまでそこにいてくれ」
安堵を交え、エリザベスが了解の言葉を告げる。
「電話はこのまま繋げておこうか?」
少しの間を置いた後、ええ、と言いかけたエリザベスがその発言を訂正する。
『大丈夫。私は大丈夫だから、切っていいわ』
返答を受け、ウォレンは、そうか、と呟いた。
「すぐに行く」
物理的な限界の前にそれしか言えないもどかしさを感じる中、頷くエリザベスの声が聞こえてくる。
『あ、ウォレン』
名前を呼ばれ、ウォレンは顔を上げた。
『ありがとう』
その声の質に、気丈さを保とうとするエリザベスの様子が窺えた。
「気にするな」
一言返せば、エリザベスはかすれた声でもう一度礼を言った。
彼女が通話を終了したのを確認し、ウォレンは携帯電話を下ろす。
無事でいてくれと願う心に、一体誰が、という疑問が沸き起こる。
携帯電話を持ったまま、窓枠に右ひじを乗せ、口に右手を当てた。
一介の学生であるエリザベスが身の危険を感じるほど誰かから追われるなど、普通に考えて起こりえる状況ではない。
原因を考え、浮上してきたひとつの可能性が、焦りを連れてくる。
無言のまま考え込むウォレンを一瞥し、アレックスは視線を前方に戻した。
「大丈夫か?」
ぎりぎりの速度でハンドルをさばきながら、ウォレンに声をかける。
「恐らく」
「お前のことを言ったんだけど」
言いつつ横を見やれば、ウォレンが短く視線を寄越してきた。
「……大丈夫だ」
そのまま素直に受け取るわけにはいかなかったが、アレックスは、そうか、と呟くと前を見た。
隣に、携帯電話をしまうウォレンの気配を感じる。
何も言ってはこないが、彼の考えていることはおよそ見当がつく。
この一件、元凶は自分にあるのでは、という疑念に駆られているのだろう。
「……心当たりでも?」
呟いたアレックスに対し、曖昧な返事が返ってきた。
なきにしもあらず、といったところか。
仕事の都合上、知らない間に恨みを買うことがあっても不思議ではない。
その恨みが間接的に届いてくることもある。
だからこそ、ウォレンがこの道を選んでからもあまり深く足を踏み入れてこないように気をつけてきたのだが……――
甘かったな、とアレックスは心の内で改めて認識した。
もう少し自分がしっかりしていれば、或いはもっと根本的なところから防げたかもしれない。
「……巻き込んで悪いな」
アレックスの思考を遮り、助手席からウォレンの声が届いてきた。
ちら、と横を見れば、普段の表情のまま前方を見据える彼の姿が視界に入る。
一見したところ冷静なようだが、内心焦りを感じていることはアレックスには見て取れた。
「気にしなさんな」
お安い御用、と余裕を持たせて告げる。
短瞬の視線を感じた後、安心を伴った礼の言葉が聞こえてきた。