25 No Dear, No Fear
背後の樹木が風になびく。その音に紛れ、聞いたことのある車の音が届いてきた。
特段の注意は払わず、ウォレンは前方に意識を戻し、風の様子に集中した。
覗くスコープには、200mほど先の柵に設置したビンが捉えられている。
風に身が溶け込む。
機を察した瞬間、引き金を引く。
右肩に衝撃が伝わる中、ビンが破片を飛散させながら柵の向こうへ弾かれた。
顔を上げ、肉眼で前方を確認する。
構えを崩して立ち上がれば、後ろで土を踏む足音が聞こえた。
「お見事」
郊外用の愛車であるジープのグラディエーターを降りて見ていたのだろう、ラフな私服姿の男が目を細め、撃ち抜かれたビンを見やりながら一声投げかけてきた。
「ダグ」
狙撃銃を下ろしウォレンは男のほうを向いた。
「何しに来たんだ?」
質問に対し、イーサン・ダグラスは手をズボンのポケットに入れたまま肩を竦めた。
「ここは私の所有地だ。お前のほうが不法侵入だぞ」
「あんたの土地はもっと後ろだと思っていたが」
ウォレンがダグラスの後ろを顎で示せば、彼が足を止めて振り返る。
樹木の合間にほったて小屋のような簡素な造りの建物が見え、その脇に車が2台停められている。
確かに、境界線はもう少々先である。
「告訴は取り下げるか」
一言呟き、ウォレンに向き直る。
「フィリーの倉庫のほうにお前の姿が映っていた。それで、ここに来ているだろうと思ってな。立ち寄ってみたまでだ」
「監視しているのか?」
「保管している品物が品物だけにな」
なるほど、と頷き、ウォレンは風上に目を向けた。
徐々に雲が厚みを増してきているように思われる。今日のところは引き上げたほうがよさそうだった。
「仕事は依頼していないが――」
言いつつ、ダグラスが前へ踏み出て右手を差し出す。
それを見、ウォレンは持っていた狙撃銃を彼に手渡した。
「――急ぎの仕事でも入ったか」
受け取って銃身を確認した後、ダグラスは小さく両口元を上げてウォレンを見た。
一見したところ退職後の人生を静かに送っている温厚な人物に見えるが、元軍人らしくしっかりとした体格をしており、よくよく窺えば目もまた然りであった。
「……そんなところだな」
息をついて答える。
そうか、と頷き、ダグラスはウォレンが構えていた場所へと歩を進めた。
「急いてはなんとやらだ。リスクは高いぞ」
「分かっている」
「そういう依頼は断れと教えたはずだ」
「忘れたわけじゃない」
ウォレンの返答に対し相槌を打つと、ダグラスは前方へ目を細め、暫く様子を窺った後、狙撃銃を構えた。
「拒否できなかった理由があるみたいだな」
そう呟くとダグラスは動きを止めた。
まぁな、という息をつき、左からの風を受けながらウォレンは柵の上のビンに細目に視線をやった。
直後、側からの銃声と共にビンが砕かれる。
相変わらず、構えに入ってから狙撃までの時間が短い。老いたとはいえ、さすがに腕は衰えていないらしい。
「……お見事」
一言投げかければ、なぁに、とダグラスが立ち上がった。
「染み付いたものは、離れないものだ」
狙撃銃をウォレンに返しながら、ときに、と続ける。
「先日、ひとつ依頼が入った。受けるか?」
銃を受け取りつつ、ウォレンがダグラスを見る。
彼の癖なのか、いつものことながら唐突に依頼を切り出してくる。
「お前が贔屓にしているランダースのほうには、今のところ動きはないんだろ」
ポケットに手を入れ、どうだ、とダグラスが肩を竦める。
「確かにないな」
視線を狙撃銃に落とし、ウォレンは安全装置に手をかけた。
モーリスと親しかったダグラスは、カイルがモーリスの後を引き継いだ際、年齢を理由に引退を申し出た。しかしながらまだ交流はあるようで、武器と情報だけは仕入れているらしい。
「……悪いが今年は――」
「急ぎじゃない。春までに片付ければいい」
ウォレンを途中で遮り、ダグラスが付加情報を伝える。
彼を見た後、ウォレンは視線を横に流しつつ小さく息をついた。
「時間が必要か? 以前はがっついていたのにな」
不思議なもんだ、と怪訝な表情をし、ダグラスはやってきた道を遡り始めた。
それ以上の確認はなく、数歩遅れてウォレンも小屋のほうへ足を進める。
その気配を感じたか、ダグラスが歩きながら少し後ろを振り返った。
「DCの奴らは元気か?」
「俺に聞かなくても情報は仕入れているんだろ」
答えれば、違う、とダグラスが言い直す。
「お前が親しくしている奴らのことだ」
彼の言葉を聞き、ウォレンが足を止める。
「アイゼンバイス家とは縁を切ったと思っていたが、恋しくなったか」
緩やかな坂を上ったところでダグラスが振り返った。
「それに新しい彼女もできたらしいしな」
両口元を上げるダグラスから目を離し、ウォレンは小さくため息をつくと再び足を動かした。
「……『高校生の息子がいます』を経験できているみたいで、何よりだ」
嫌味をぼやきとして受け取り、ダグラスは軽く眉を上げる。
「ここ最近のお前の変化は彼らの影響だろう」
言った後、ダグラスは同じ高さまで上ってきたウォレンを見た。
無言が返ってきたが、合わせてきた目には若干の肯定が混じっているように感じられる。
相変わらず、信用している相手に対しては素直に感情を出してくる性格のようだ。そのせいか、ついつい肩入れしてしまう。
「いいんじゃないのか? アレックスも望んでいたことだ。もっとも、当時のお前は『反抗期』だったがな」
「……反抗していたわけじゃない」
「そうか?」
そう返しつつも、アレックスの反対に逆らって足を踏み入れたわけではないのだろうことはダグラス自身も分かっている。
「いずれにしても、必死だったな」
10代の頃もよくアレックスの目を盗んで遊びに来ていたものだが、あれは恐らく銃器に対する純粋な興味からだったのだろう。
だが、失踪後に訪れてきたウォレンは、自暴自棄ともとれる様子ではあったものの、それ以上に彼の中に意思が存在していた。
「ひとつ言っておく」
人差し指を見せつつ、ダグラスはウォレンに向き直った。
「親しい人間がいなければ、恐れを抱く不安もない」
そう告げれば数瞬の間の後、ウォレンが軽く口元を緩めた。
「あんたの生き方か」
完全な同意を得られていない返答に対し、ダグラスは微笑を返した。
「フェンスの上に立っていると苦しいだけだ。どっちかに決めろ」
手をポケットに戻し、ダグラスは続ける。
「残るというのなら、私は容赦しない」
お前は腕がいいからな、と付け足すと、ダグラスは踵を返して乗ってきたグラディエーターのほうへと向かった。
途中、思い出したように振り返る。
「次の依頼、引き受けるか?」
問いかけた先、ウォレンが風上に一度顔を向けると軽く首を傾げる。
「内容による」
「私の持ってくる依頼だ」
「そうだったな」
相槌だったろうが、引き受けたとも取れる短い単語が聞こえてき、ダグラスは両口元を上げた。
「イエスと受け取るぞ」
そう告げれば観念したか、ウォレンが、了解、と片手のひらを見せる。
それを見届け、足の向く先を変えようとしたが、思い出したようにダグラスは止まった。
「そういえば、ランダースから新しい代物を仕入れたんだが」
言った後で、使って見るか、と手を見せる。
「いや、今回はいい」
興味は持ったらしいものの、急ぎの仕事ともなれば慣れた型のほうが都合がいいのだろう。
「そうか」
頷いて一度視線を横にスライドさせた後、ダグラスはウォレンを見た。
「変なクセがつかなくてよかったな」
左肩を示しつつ、一言残すとダグラスは両口元を上げ、ウォレンに背を向けた。
ドアを開けて車に乗り込む彼を見やりつつ、ウォレンは小さく息をついた。
怪我のことは隠すつもりはなかったが、話してもいない。
エンジンがかかる音がし、ダグラスを乗せた車が土を踏むタイヤの音と共に去っていく。
途中まで見送るとウォレンもまた自身の車へと足を進めた。
手際よく狙撃銃を分解し、ケースの中にしまう。
親しい人がいなければ、とダグラスは言っていた。
確かに、数年前は何も気にせずに引き受けた仕事に集中できていた。
ふと、クラウスの言葉が思い出される。
彼の言葉が正しいことは分かっている。また、迷いが出始めたのも事実だろう。
トランクの中にケースを入れ、閉める。
暫くの間、その上に両手を置き、体重を預ける。
風に揺られる樹木のざわめきが風下へ通り過ぎる頃、ウォレンは顔を上げるとトランクから手を離し、運転席へと向かった。
生憎の天候だが、黄昏が過ぎた都会は人工的な光に満ち溢れ、空を覆っている雲は雨でも降らさない限り存在を主張できないものだった。
勤務時間が過ぎれば、撤去工事が進められている元ホテルは肝試しに最適な廃ビルとなる。立地が郊外であれば、より効果的だろう。
ひんやりとしたコンクリートに囲まれつつ、ウォレンは窓であった枠から外の様子を観察していた。
斜め前の建物の角には、何かのシンボルだろうか、凝ったデザインが描かれた旗と星条旗が風を受けてなびいている。
視線を横にスライドさせる。
建物のすぐ脇に走る裏路地は明かりも少なく、放られたゴミが散在しており、人通りもなかった。
暫くの間眺めていた後、ウォレンは静かに深呼吸をすると、先ほど組み立てた狙撃銃を手に取った。
外に出れば喉元を冷えた風が過ぎ去り、デュモントは身を縮めた。
空を仰ぐが、周囲の明かりのせいか、星はひとつも見えない。
残念だな、と息をつく。
「おいしかったな」
後ろから声がかかり、振り向く。
「評判もいいらしいし、長く続きそうだ」
料理については一応の満足はしているらしいが、ショーンの声音は複雑な心境を表していた。
「確かに美味かった。が、店の入れ替わりが激しい区域だ。苦労はするだろう」
かもしれないな、と相槌を打ちつつ、ショーンは頭を掻いた。
「……やっぱり、出資しておいたほうが正解だったかな」
聞こえてきた呟きに、デュモントは頷きを返した。
「確かにオーナーの彼女が色気をうまく使えば長く続くかもしれないな」
「美人だったからなぁ」
言いつつショーンがため息をつく。
出店前、資金を得ようと色仕掛けを使ってきたこのフランスレストランのオーナーだが、ショーンは健気にも何とか踏みとどまったらしい。
逃がした魚は大きいとでも言いたそうなショーンだが、結婚生活が安泰であるのも当時の彼の好判断のおかげだろう。
「彼女が留守でよかったな」
出資を断った店に出かけるのも不思議な気がするが、加えてオーナーと顔を合わせてしまっては気まずさも増す。
「留守を狙ったんだ」
会話をしていれば、待っていた車が前の道路に滑り込んでくる。
すかさず運転席からピーターがひょっこり出てき、後部座席のドアを開いた。
乗るか、と目で合図をすれば、そうだな、とショーンが足を進める。
先に歩く彼の背を見送り、デュモントは目を細めた。
兄に苦労をかけさせられたショーンだが、メルヴィンの後継者として立派に仕事をしている。
長い付き合いであるだけに、感慨深いものがあった。
ショーンが後部座席に体を入れた頃に、デュモントはひとつ、大きく息を吸って吐くと、後部座席へと足を進めた。
ショーンが後部座席に腰を落ち着け、ピーターがデュモントを振り返った瞬間。
彼らの目の前でデュモントの左胸から血が噴出した。
白いシャツをそれが染め上げる間、バランスを崩した彼の体が後ろに傾ぎ、仰向けに倒れる。
「フィル!」
ショーンの叫ぶ声とピーターの声がデュモントの耳に入ってきた。
目線の先、空には相変わらず星の姿は見えなかった。
周囲の人々が異変を感じ、悲鳴が上がる。
力なく手を胸に当てると、デュモントはゆっくりと目を閉じた。
車からピーターが離れ、ショーンもまた、後部座席から外に出るとデュモントに駆け寄った。
フィル、と声をかけるが、彼は全く動かない。
「……そんな――」
屈みこんで出血箇所を圧迫しようと手を伸ばしたとき、
「ショーン」
と、取り乱した頭の中に、ピーターの声が届いてきた。
顔を上げれば、慌てた様子だが懸命に冷静であろうとするピーターの姿が目に入る。
差し出されたハンカチを受け取り、ショーンはデュモントの左胸に押し当て、圧迫した。
救急車を呼ぶピーターの声が背後に聞こえる中、フィル、聞こえるか、と声をかける。
反応のないデュモントを確認し、目を閉じてもう一度、そんな、と呟く。
何事か、と集まる人の数が増える中、ショーンは傷口を圧迫し続けた。
夜も本格的となった頃。
フロアからの誘惑的な曲が聞こえる中、キースは先ほどまで一緒にいた女をVIP室から送り出すと、自身も外に出た。
一段と音楽の音量が大きくなり、妖艶な色のライトが薄く明暗を作っていた。
ふと、1人の女を壁に、彼女と何か話をしている男の姿を見つける。
「おい」
声をかけて歩み寄れば男が振り向き、セレステもまた、見つかっちゃった、とでも言いたそうな顔で上目遣いにキースを見てくる。
「失せろ」
「なんだと?」
「俺の女だ。失せろ」
さっさと行け、と命じるキースに、男がゆっくりと向き直る。
「キース」
拳でも繰り出されそうな空気の中、セレステが息をつきがてらに呟く。
彼女の口から出た名前を耳にし、驚いたように男がセレステを見た。
そうよ、とセレステが頷けば、男はキースを見た後、何も言わずにその場から退散した。
彼の姿を忌々しく見送った後、キースはセレステに向き直った。
「……セレステ、何してんだ」
詰問調のキースの言葉に、セレステは首を傾げて視線を落としつつ、しなやかに彼の元に足を運ぶ。
「何って、あなたも遊んでいたじゃない」
「遊んじゃいねぇよ」
「そうかしら?」
彼の胸に手を当て、口を近づけて見上げる。彼女の仕掛けにキースが掛からないわけがなく、挑発に乗って彼が顔を近づけてき、セレステはそれを受けた。
ダンサブルな曲が盛り上がりを見せ、音楽に沿うように激しく唇の応酬を重ねる。
ふと、キースのポケットで携帯電話が着信を告げてきた。
セレステの唇をついばみつつ発信元を確認すると、キースは彼女に待ったをかけ、通話のボタンを押した。
「なんだ」
『終わった』
短く聞こえてきたウォレンの声に、一瞬の間を置いて何のことかを理解する。
「……嘘じゃねぇだろうな」
『ニュースでも見ればいい』
淡々とした声を聞き、キースは隣のセレステと目を合わせると、にっと笑って見せた。
「そうか。なら、次はどうするかな」
おめでとう、というセレステのキスを頬に受けつつ、キースは大きく呟いた。
『……この一件だけのはずだが?』
「邪魔な人間は他にもいるんでな。例えば、ショーンとか」
挙げられた例に、そうね、とセレステが微笑み、やり取りを聞こうと携帯電話に耳を寄せてくる。
『……長生きできないぞ』
「いいや、するさ」
笑って答えれば、セレステも、ふふ、と声を出し、キースの手から携帯電話を奪った。
「ハイ、スコットさん」
言いながらセレステはキースと目を合わせる。
「長い付き合いになりそうね」
彼女の口調に、キースが笑みを返す。
同じように微笑むと、セレステは耳から携帯電話を離した。
「切れちゃった」
「また話せるさ」
そうね、というセレステの相槌の後、2人は背後に流れる音楽とともに、先ほどの続きへと身を投じた。
ガラスの取り払われた窓枠から、外の明かりが薄く入り込んできている。
耳元に当てていた携帯電話を閉じると、ウォレンは外を見やった。
斜め前の建物から、中でかけられている音楽が漏れ出てきている。
掲げられている2種類の旗は、風を受けて小さく揺らいでいた。
キースの左腕に絡みつきつつ、セレステが男に紙幣を手渡す。
「ありがと、ミッキー」
クラブの裏口でいつもの売人からドラッグを受け取ると、キースとセレステはそのまま裏のドアを開け、外に出た。
クラブからのざわめきは聞こえるが、裏路地には人気がない。
「ねぇ、もう一件行かない?」
「あん?」
「デュモントがいなくなったお祝いじゃない」
「そうだな」
「スコットさんも、呼べば来てくれるかしら?」
言いながら、ふふっ、とセレステは笑った。
「どう――」
キースが口を開いた瞬間、不意に左腕が引っ張られ、同時に小雨のようなものが左頬に降りかかる。
酔っているせいもあり、バランスを崩しつつ、キースは離れていったセレステの腕を探して振り返った。
視線の先、両手を投げ出して地面に倒れているセレステの姿が見える。
「おいセレス――」
側まで足を運んで見れば次第に顔が見えてき、開かれた目の異様さに、はっと足を止める。
声をかけようとしたが、彼女の額に穴が開いており、そこから血が一筋、皮膚を伝っているのが見えた。
彼女の下、髪かと思っていた影が徐々に広がっていき、近くの明かりに鈍く照らし出される。
一歩後退し、キースは己の左頬を撫でた。
そっとその手を見てみれば、飛沫の血を拭った痕が残されていた。
まさか、とキースが歩いていた方向を振り向く。
転瞬、キースが確認できたかは知らないが、前方の廃ビルの上方で火花が垣間見えた。
発射された弾丸は迷うことなくキースの額を貫き、アスファルトに当たってどこかに跳躍していった。
スコープの中、倒れるキースの姿を確認すると、ウォレンは構えを解いて立ち上がり、薬莢を拾うとすぐに消音装置付きの狙撃銃の分解に取りかかった。
大した時間もかからず作業を終え、ケースにしまうとそれをバッグに入れた。
それを肩に担ぎ、むき出しのドア枠を出、携帯電話を開く。
廃ビルの階段はコンクリートの粉塵で覆われており、下るたびにざりっとした音が足下で鳴った。
『――もしもし』
「終わった」
電話先の相手に間単に報告をする。
『ご苦労様。信じるよ』
相手はそう告げると続けた。
『「向こう」に着いたら金を振り込む』
「信じよう」
一言返事をすると、ウォレンは通話を終了した。
1階に着き、裏手から外に出る。
人気のない路地に踏み出すと、ウォレンは持っていた携帯電話からチップを取り出した。
それをポケットにしまいこむと、人通りの多い地下鉄の方面へと足を進めた。
通話が遮断された音が耳に届き、デュモントは息をついた。
彼の心臓はいたって元気で、今も休むことなく鼓動を続けている。
偽の血で汚れた服は始末済みであり、ラフな服装に着替えていた。
口ひげがつけられ、髪の色も目の色も変わっており、彼を知る人でも一見しただけでは誰だか判断できないだろう。
携帯電話をしまう彼の隣には、小さくまとめられた荷物が置かれていた。
「終わったそうだ」
後部座席から運転席へ声を投げかける。
「そうですか」
ピーターが一言、小さく返してきた。
「空港まで、あとどのくらいかな」
「5分ほどですね」
そうか、と頷き、デュモントは黒い窓ガラス越しに外を見やった。
街並みが足早に過ぎ去っていく。
もう戻ってはこられないかもしれない街だ。
表向き、フィル・デュモントは死亡したことになった。だがこれでようやく、若い頃に請け負っていた弁護士の仕事のしがらみからも解放されることだろう。
家族もまた、安心して毎日を過ごせるに違いない。
娘には申し訳ないが、時が来たら妻から話をしてもらうつもりだった。
理解ある、長年を共にしてきた彼女の姿を思い浮かべ、デュモントは暫くの間目を閉じ、自身が未練に浸ることを許した。
連絡の取れない別れはつらい。
だが、いずれはカリブ海に浮かぶ島に、彼女も呼ぶつもりだ。
「……寂しくなりますよ」
ふと聞こえてきた声にデュモントは目を開け、バックミラーを利用してピーターを見た。
「ありがとう、ピーター。君には最後まで色々と世話になった」
病院への根回しや代わりの死体等を用意してくれたのはピーターだ。
彼がいなければ、偽装死は無理だっただろう。
「とんでもない。よくしていただいたのは私のほうです」
しわの多い顔をくしゃっと緩め、ピーターが笑顔を作る。
「メルヴィンとショーンには私が生きていることは伏せておいてくれ。……彼らがキースを憎んでたとはいえ、いささか非道なことをしたからな」
頷きつつ、ピーターは前方遠くに視線をやった。
「……よかった、とは言えませんが、悪くもなかったと思いますよ」
デュモントほどウィトモア家内部に関わってきていないとはいえ、彼もまた、キースには悩まされた1人だ。
「だといいがな」
呟きつつ、デュモントは外を見やった。
そろそろ空港が見えてくる頃合いだ。
ふと、最後にショーンと共にしたディナーを思い出す。
店の前でのひと騒動だ。あのフランスレストランのオーナーと、もしかしたらひと悶着あるかもしれないが、ショーンなら対処できるだろう。
車内にも届く飛行機の音を耳にしつつ、デュモントは口元を緩めた。