IN THIS CITY

第3話 Unspoken Truth

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19 But I Couldn't

 街中に入ってからはそれまでの道中での会話はどこかへ身を潜めてしまっており、耳に入るものといえば雑多な音だけだった。
 初めて訪れたこの土地はどこか青みがかって見え、人の多さに反して無機質な雰囲気が漂っているように感じられた。
 都会ね、と一言、久しぶりにエリザベスが呟く。
 そうだな、という相槌がウォレンから返ってきた後、だが悪い街じゃない、と彼が付け加えた。
 恐らく先の一言に、否定的な音が含まれていたのだろう。
 ウォレンの運転するBMWは、今、メルヴィンの家へと向かっている。
 エリザベスとしては是非とも会いたいというわけではないが、このまま会わずにいると、気持ちの整理がつかないまま時が進んでしまうだろう。
 メルヴィンのほうから声がかかったというのであれば、結果がどうなるにしても、この機会に一度、父親という存在と向き合ってみるのもいいかもしれない。
 結論を出し、弁護士のデュモントに連絡をとったとき、エリザベスが飛行機の手配を辞退するだろうことを予測していたのか、彼はメルヴィンの家の住所と、車で訪れる際に目印になりそうなものを分かりやすく列挙してきた。加えて最後に、
「彼に『安全運転で』とお伝えください」
 という伝言まで残した。
 どこか油断できないデュモントに対し、エリザベスは少なからずの警戒心を抱いたものだった。だが、それをウォレンに告げたところ、そうか、という素っ気ない返事が返ってきたのみで、気にしている様子は窺えなかった。
 ふと、隣の運転席を見やれば、相変わらず乗り心地のよいハンドル捌きをしているウォレンを捉えることができた。
 腕の怪我が完治していないにも関わらず長距離の運転を引き受けてくれたことを嬉しく思うと同時に、内輪の問題に彼を巻き込んでしまったことが心苦しく感じられる。
 エリザベスの視線に気づいたか、ウォレンが前方に注意を払いながら彼女を見た。
「どうした?」
 視線を逸らし、エリザベスが、なんでもない、と首を振る。
「ちょっと、外の様子を見ていただけ」
 そうか、と返しつつ、ウォレンが指示器に手をかける。
「気になるのなら、帰りに歩いてみるか?」
 差し出された提案に、エリザベスがウォレンを見る。
 取り繕うために咄嗟に出した言葉だったため、正直なところ街自体にそれほどの興味はない。
 迷いが生じ、エリザベスの返答が遅れる。
「軽くなら案内することができる」
 答えを待たずして、左折のタイミングを窺いつつ、ウォレンが言った。
「NYに詳しいの?」
「少しの間、住んでいたことがあったからな」
 告げられた言葉に対し、知らなかった、とエリザベスが短い声を出す。
 そういえば、彼の過去については会話にのぼったことがない、と気づくエリザベスの思考を遮り、ウォレンが続ける。
「まぁ、数年前のことだから役には立たないかもしれないが」
 人の出入りが激しければ、店の入れ替わりもそうなのだろう。
 頷きつつ、エリザベスは視線を外に戻した。
 時間の経過に伴う変化は、人も街も同じであるらしい。
 車の途切れを機に、アクセルが踏まれる。
 後方へと去っていく建物を見送った後、エリザベスは前を向いた。
「……そうね。あなたが住んでいたのなら、歩いてみてもいいかもしれないわ」
 街の名前とともに連想されるものは母親と、そして父親だったが、ひょっとしたら、そういった否定的な印象を払拭させることができるかもしれない。
 顔を上げて隣を見れば、優しい微笑が返ってきた。
 再び外へ目を向ける。
 ガラス張りのビルの壁面に、小さな綿雲に隠れた太陽が映っていた。
 あとどれくらいの距離だろうか。
 不安のようなものを感じないわけにはいかなかったが、エリザベスは静かにその時がくるのを待つことにした。


 街中から程遠くない、まだ高い建物がそびえる一角の路傍に、ウォレンは車を寄せた。
 事前に連絡を受けていたのだろう、他所の車であるにも関わらず、駐車係と思われる若い男性がすかさず駆け寄ってきた。
 外に出ようとしたエリザベスのもとに、こぎれいな身なりをした落ち着いた物腰の老人が歩み寄ってき、助手席のドアを開ける手伝いをした。
「エリザベス・フラッシャーさんですね?」
 半ば確信的に告げられた声は、穏やかながらも年齢にそぐわないしっかりとしたところがあった。
「ええ」
「お待ちしておりました。ウィトモア氏のところまで、私がご案内します」
 にっこりとした愛想のいい笑いを浮かべ、老人がわずかに姿勢を低くする。
 彼の目がエリザベスの後方へと移動し、それにつられてエリザベスも後ろを見た。
 車の鍵を係の男性に手渡すウォレンの姿が見える。
「お荷物等はございますか?」
 問われ、エリザベスは老人を見た。
「いえ」
 そうですか、と頷いた後、老人が誘導するように体の向きを変えた。
「お連れの方も、ご一緒に」
 ウォレンへも一言投げかけ、こちらへ、と歩き始める。
 老人に続く前にエリザベスは後ろを振り返り、側まで足を進めてきたウォレンを見た。
 何の言葉もなかったが、目を合わせてきた彼に心強さを感じ、エリザベスは一度マンションを見上げた。
 メルヴィンが住んでいるのは、最上階のペントハウスだという。
 ひとつ、息を吐き、エリザベスは肩にかけたバッグを握りしめ、老人の後を追った。


 エレベーターを降り、老人が前のドアのベルを鳴らす。
 それはすぐに開き、知った顔の男が現れた。
「久しぶりですね」
 デュモントが笑顔でエリザベスに挨拶をし、どうぞ、と一歩下がる。その動作と同じ頃に老人も脇に退いた。
 彼らに促され、エリザベスはウォレンがついてきてくれていることを確認しつつ、室内に足を踏み入れた。
 手入れの行き届いた広い空間のすぐそこには、客人のためだろう、大きなカウチが2つ、テーブルの二辺に沿って備えられていた。その向こうの窓からは街を一望でき、霞がかった高層ビルの群れが枠内に絵のように収まっていた。
 ふと、ご苦労だったな、ピーター、と老人に対して礼を述べるデュモントの声が聞こえ、エリザベスは玄関を振り返った。
 丁度ドアが閉められるところで、老人はどうやら中には入ってこないらしい。
 室内に向き直ったデュモントと目が合い、エリザベスはバッグを握る手に力を入れ、ウォレンとの距離を縮めた。
「来てくださってありがとうございます」
 言いつつ歩を進めるデュモントに対し、エリザベスはぎこちない微笑を送った。
「今、メルヴィンに――」
「デュモント、彼女は着いたの――」
 不意に背後から声と足音がし、エリザベスがその主を見る。
 30を少し過ぎた頃だろうか、スーツの上着の袖に腕を通したばかりの男性が、エリザベスを見て、あ、と足を止める。
「――あ、これは……失礼」
 微苦笑を見せて男性が慌ただしくボタンを留め、エリザベスのもとまでやってきた。
「えーっと――」
 言いながらスーツの具合を確認するように肩を動かし、改まって男性がエリザベスに向き合う。
「――初めまして、エリザベス。ショーン・ウィトモアです」
 名前を聞き、思い出したようにエリザベスが頷く。
「ご存知かもしれませんが……私は――」
「ええ、聞いています」
 2人いるという兄の内の、1人。
 ショーンの顔をまじまじと見ながら、エリザベスは、先日の一件を引き起こしたもう1人の兄もこんな顔をしているのだろうか、と考えていた。
 そうですか、と返しつつ、ショーンは安心したような、不安であるような、複雑な表情を顔に浮かばせた。
「このような形での挨拶となってしまって、申し訳ない。でも――」
 一度目を伏せ、ショーンが続ける。
「――会えて嬉しいですよ」
 にっこり、照れた笑みを投げ、ショーンはエリザベスの目を見た。
 不快には感じない、嘘の見当たらない彼の顔に、エリザベスはまだ知らないキースという兄を見ようとするのを止めた。
 完全に信用することはできないが、先日の件に関しては、ショーンは何の関わりもないと聞いている。
 口元をわずかに綻ばせて答えれば、ショーンが更に笑顔となり、右手を差し出してきた。
 握り返せば、小さく礼を言われる。
 続いてショーンがウォレンに視線を移し、同じように手を差し出した。
 デュモントに対しては応えなかったウォレンだったが、今回はショーンの右手を握った。
 それを見、心の内でエリザベスが安心する。
「エリザベス」
 改まって名前を呼ばれ、彼女がショーンを見る。
「……父が、向こうで待っています」
 後ろめたさを感じているのだろう、遠慮がちに彼が意向を伺ってくる。
 一呼吸の間を取った後、エリザベスは小さく頷いた。
「案内してください」
 何かしら期待をしているのかいないのか、エリザベス自身、分からない。
 しかし、ここまできたのだ。
 ショーンが頷き、こちらへ、と足先を奥へ向ける。
 歩き出す前に、エリザベスはウォレンを振り返った。
 言葉こそなかったものの、口元が穏やかに緩められ、静かな青灰色をした瞳と目が合った。
 無言のままエリザベスも小さく微笑を返し、彼に背を向けると、ショーンの誘導に従って奥の部屋へと去っていった。
 今まで知らなかった父親という存在との対面だ。心境も複雑だろう。
 だがこれまで彼女の顔に表れていた不安は姿を消していた。
 エリザベスの姿が視界から消えるまで、ウォレンは彼女の背中を見送った。
 2人分の気配が消え、ロビーにはウォレンのほかにデュモントのみが残っている。
 体の向きは変えずに注意だけを背後に払っていたが、デュモントが近づいてくる足音が聞こえ、ウォレンは踵を軸に心持ち彼へ向き直った。
「遠いところようこそ」
 言いつつ、デュモントが更に距離を詰めてき、右手を差し出してくる。
 だが、ウォレンは前回と同じようにその手を一瞥したのみで、握り返そうとはしなかった。
 どうも、デュモントに対しては警戒心を捨てきれていないらしい。
 残念、と手を引っ込め、デュモントがため息混じりに口を開く。
「相当嫌われているのか、それとも――」
 内側を覗き込むようにウォレンの目を見、続ける。
「――その手にある独特の皮膚硬結を知られたくないのか……」
 デュモントの推測に対し、ウォレンは表情を変えないまま彼を見た。
 グレーの髪の色は濃く、実年齢よりも若く見える。
 だが、マスメディアに向き合うときとは違う色を呈した目を持っている。
「長距離の運転でお疲れでしょう」
 体を引き、改まったデュモントが付け加える。
「スコットさん」
 言った後、デュモントは口元のみに微笑を浮かべた。
 どうやら過去は互いに既に調査済みらしい。
 食えない男だ、とウォレンも短く口元を上げて応えた。
「彼女の話が終わるまで、どうぞゆっくりと休んでいてください」
 玄関横のカウチを紹介し、飲み物を持ってきます、とデュモントはキッチンへ向かった。
 その背中を横目に見送った後、ウォレンはエリザベスが去っていった奥へ目をやった。
 ショーンについては、警戒する人物ではない。病床に臥しているメルヴィンも恐らくそうだろう。
 だが、顧問弁護士を務めているというデュモントにだけは気を許せそうになかった。


「父さん」
 ショーンがひとつ声をかけ、メルヴィンの部屋のものと思われるドアを開けた。
 室内には外の光が十分に入り込んできているらしく、ショーンの顔が明るく照らされる。
 中に入る彼の後ろ、エリザベスは足を止めたまま上がる脈拍を抑えていた。
 彼女が着ましたよ、と、ショーンの声が聞こえる。
 それに対する返事も、続いてエリザベスの耳に入ってきた。
 年老いた声だった。
 今のが、メルヴィンのものなのだろうか。
「エリザベス」
 呼ばれ、顔を上げればドア口までショーンが引き返してき、弱いながらもエリザベスを促した。
 ここにきて、引き返せない。
 ゆっくり、ドアのふちまで足を進め、明るい室内に体を向けた。
 透明度の高い白いカーテン越しに、太陽光が降り注いでいる。
 その手前、ベッドにて上体を起こし、枕に背中を預けた男性の姿が確認できた。
 部屋の中には彼しかいない。
 白髪の多い、細身の壮年だった。いや、もう少し、年老いて見える。
 色褪せた緑に近い茶色の目が、エリザベスを捉える。
 動いた彼の口が、音を伴わず名前を紡ぐ。
 彼だ、とエリザベスは確信した。
 言葉を失っているメルヴィンに代わり、エリザベスが仕方なく、先に口を開く。
「……初めまして」
 耳が遠いのなら、聞こえていないかもしれない。
 だが、メルヴィンは目を細め、ぎこちなく微笑んだ。
「エリザベス……」
 二度目にして声に出された名前。
 彼の口からそれを聞き、エリザベスは少しばかり違和感を覚えた。
「……それじゃ、私は隣の部屋にいるから」
 ショーンの声にエリザベスが振り返れば、気を利かせているのだろう、彼がエリザベスとメルヴィンに小さく挨拶をして部屋を去り、ドアを閉めた。
 室内に取り残され、エリザベスは暫くドアを見ていたが、ゆっくりと窓のほうへ視線をやり、再びメルヴィンに目を向けた。
 末期の癌を患っているという。
 なるほど、確かに病人であることは一目瞭然だった。
「……もっと、近くに来てくれないか」
 掠れた声が頼んでくる。
 間を置いて頷いた後、エリザベスは彼の膝元の側へ足を進めた。
 彼の手が、動く。
 握れる位置まで、もう少し近くに、とのことなのだろう。
 その手を見やり、迷った後、エリザベスは一歩だけ彼の胸へ近づいた。だが彼の手に触れることはできなかった。
 メルヴィンの目が、エリザベスを映す。
 感慨深げなそれが、父親が娘を見るときの目だろうか。
「――大きくなって……きれいだ」
 エリザベスに対してでもなく呟かれた声に、彼にとってはこれが感動の対面であることが窺い知れた。
「ルティシアに、――君の母さんによく似ている」
 続けられた言葉を耳に入れ、エリザベスは弱く口元で微笑した。
「ありがとう。でも――」
 一度手元に落とした視線を、再びメルヴィンに戻す。
「――嬉しくないわ」
 母親とうまくいっていないことを知らないのだろうか。
 無神経と思われる一言を放ったメルヴィンに対し、エリザベスは正直な感想を伝えた。
 案の定、彼が失敗したような表情をする。
「ベス……」
 何といえばいいのか、と言葉に詰まるメルヴィンを一瞥し、エリザベスはバッグの中に手を入れた。
 十数枚のカードを取り出し、メルヴィンの手元のシーツ上へ落とす。
 それを見た彼が、あ、という顔をし、暫く眺めた後に手に取った。
「バースデーカード。毎年届いてたわ」
 高校を卒業し、家を出るまでの間、ずっともらい続けていたものだった。
 メルヴィンが懐かしそうにカードを開く。
「……とっておいてくれたのか?」
 嬉しそうな、恥ずかしそうな、とてもじゃないがいい年をした男性とは思われない。
「名前がないわ」
 言われ、メルヴィンがエリザベスからカードに目を向け、口を閉じる。
「イニシャルのみで」
 既に書かれている定型文のほか、MWという文字が書いてあるのみのカード。
 最初の頃はエリザベスも幼く、ただのデザインかと思っていた。それがM.W.というイニシャルではないかと気づいたのは、いつだったろうか。だが周囲にそのイニシャルを持つ人でバースデーカードを送ってくれるような人はいなく、まして父親だろうことは想像もしていなかった。
「……あなただったのね」
 呟けば、メルヴィンが顔を上げ、小さく肯定の返事を返してきた。
「――何を書けばいいのか……」
 分からなかった、とメルヴィンが首を振る。
「……名乗ろうとしたが、……名乗り出られなかった」
 知ってるわ、とエリザベスが頷く。
「今更になって、何で?」
 詰問の入ったエリザベスの声に、メルヴィンは顔を上げた。
「ベス、君を避けていたわけじゃない。ただ――」
 悔やむような間を置き、縋るようにエリザベスを見る。
「――どう声をかければいいのか分からなかった」
 その言葉を聞き、エリザベスは視線を上へ逃がした。
「簡単じゃない。『こんにちは』でも『初めまして』でも、何でもいいでしょ? たった一言から始まる話じゃないの?」
 生ぬるい言い訳など聞きたくない、とエリザベスが語調を強める。
 そうだな、とメルヴィンが弱く肯定する。
「……君の存在を知ったのは、君が5つになった頃だった」
 手元の一番古いバースデーカードを一番上に載せ、メルヴィンは続ける。
「私も子育てをしたから分かる。5つにもなれば、記憶もしっかりしてくる。そんな頃になって、『父親だ』と名乗るのが今更な気がして――」
 そこまで聞き、呆れたような息を切り、エリザベスはメルヴィンを見た。
「『今』こそ『今更』じゃないの?」
 目線をあげたメルヴィンと視線がかみ合う。
「違う?」
 この状況よ、とエリザベスが腕を広げる。
 目を閉じたメルヴィンが、弱々しく小さく呟く。
「でもできなかったんだ。私自身、情けないと思っている」
 顔に手を当てるメルヴィンを見、本当にそうよね、とエリザベスは内心で強く同意した。
「当時できることといえば、養育費の援助くらいしか――」
「そうでしょうね――」
 彼の話を遮り、エリザベスは先ほどのショーンを思い浮かべた。
 仕事の盛りに入りかけた年頃だ。エリザベスより10は上だろう。
「――あなたには既にここに家庭があった。その家庭を壊したくなかったんでしょう? けど正式な書類もないのに養育費を払ってくれたなんて……あなたも相当、『できた人』ね」
 度が過ぎた皮肉か、と感じたが、エリザベスは口が動くのを止められなかった。
「ベス――」
「おかげで助かったわ。今はこうして、あの女から離れて暮らしていられるもの」
 母親に対する呼び方を耳にし、メルヴィンは、やはり、と目を伏せた。
 彼の様子を見るに、エリザベスがルティシアと不仲であることは知っていたらしい。
 それを承知で今の今まで放置してきたのか。
「彼女を捨てたのはなんで?」
 エリザベスの質問に、驚いた様子でメルヴィンが目を合わせてくる。
「私は捨てていない。彼女から離れていったんだ」
 彼の返答に、逆にエリザベスが驚いた。
「……都合のいい解釈ね。私はそう思えなかったわ」
 一度区切り、目を閉じる。
「だってあの女が私を見る目には、あなたへの憎悪が混じっていたもの」
 いつだったか、あの男の娘、とルティシアが口走ったことを覚えている。
 あの日の彼女は、いつもに増して冷たかった。
「ベス――」
「これだけの立派な家の主だもの。ここの暮らしは捨てられないわよね。――逆にあの女は一夜限りの使い捨てだったわけ?」
「違う」
「奥さんが既にいたんでしょう? ――そうね。きっと、私を案内してくれた彼と、私を拉致しようとしたあなたのもう一人の息子も生まれていたはず」
「それは――」
「家庭内に波風をたたせないように、手切れ金でも掴ませて追いやった? 『私には妻と子がいるからこの関係は終わりにしよう』って突き放した?」
「違う、君のお母さんは――、……ルティシアは黙って出て行った。彼女が私を置いていったんだ」
「嘘よ」
「嘘じゃない。何も言わずにどこに行くかも告げずに黙って去っていった。だから、――ベス、君の事に気づくのも遅くなった」
 徐々に、メルヴィンが涙声に近くなる。
「……追いかけてほしかったんだ、って、思わなかったの?」
「私はちゃんと責任を取ろうと――」
「取ってないじゃない!」
 何で分からないの、とエリザベスが声を上げる。
「この年まで、私は父親の名前すら知らなかったのよ。他の子が『パパ』と遊んでいるとき、私は一人ぼっちで公園にいたわ」
「ベス、悪かっ――」
「離婚でも死亡でもなしに父親がいないなんて、……どんな噂が立ったと思う?」
「本当に――」
「あの女が男を連れ込んで私を追い出しているとき、あなたはどこにいたの?」
「ベス――」
「やめて」
 きつく強く、エリザベスはメルヴィンの声を叩き落し、ようやく気持ちが高ぶっていることに気づき、目を閉じた。
 落ち着こうにも震えてしまう。
「……二度と『ベス』って呼ばないで」
 耳障りな愛称と感じるのは、母親から呼ばれていたものだからだろう。
 記憶の奥深くに閉じ込めておいた音声が、触発されて再生される。
 外部からのものではなく、遮断することはできないが、エリザベスは耳を塞いだ。
 脈の増加に伴い、血流の音が内部から伝わってくる。
 目を開け、上を見る。
 薄くカーテン越しに、窓の外の晴れた都会が視界に入ってきた。
 これが新緑であれば、もっと落ち着くことができただろう。
 耳から手を離し、ひとつ、深く息を吸い、吐いた。
「……なんで、今頃になって……」
 聞き取れるか取れないか、小さく独りごつ。
 簡単なことじゃない、と再び口に出し、メルヴィンを見た。
「父親だって、そう言って目の前に現れるだけのことでしょう?」
 語気のなくなったエリザベスの口調に、メルヴィンは返す言葉を見つけられずに口を閉じた。
「母との暮らしの中、私が何回、ここに父がいてくれたら、と願ったか……。あなたは、……そうね。知らないでしょうね」
 返答は求めず、エリザベスは前を向いた。
 ビルの群れが目に入る。
「……あなたがもっと早くに行動を起こしていれば、この前の事件だって起こらなかった」
 エリザベスの呟きに、メルヴィンが視線を落とす。
「……キースのことか」
 ええ、とエリザベスが頷く。
「あなたの息子さん。……私の兄ですってね」
 メルヴィンを見れば、肯定も否定もせず、項垂れている。
 気にせずエリザベスは言葉を続けた。
「……彼のおかげで、――自分の命もそうだけど、大切な人を1人、失うかもしれない、っていう恐怖も味わったわ」
「……ベス――」
 言った後、思い出したかメルヴィンが訂正しようとした。
 それを遮り、エリザベスはバッグを握ると改まってメルヴィンに向き直った。
「私はもう自立しています。あなたの援助は要りません」
 淡々と告げ、続けて口を開く。
「もう、これ以上――……」
 関わらないで、と言いかけ、エリザベスは出かかった言葉が外に出るのを堪えた。
 吐き出してしまえばいいのに、と思ったが、できなかった。
「……失礼します」
 一言告げ、メルヴィンに背を向けると足早にドアへ向かった。
「エリザベス」
 名前を呼ばれたが足は止まらない。
「許してくれ」
 ドアに辿り着いたとき、背中に声がかかってきた。
 聞き流そうとして手をドアノブに触れさせる。が、その動きが一瞬止まる。
 振り返ろうとした。が、やはり止めておいた。
 ドアノブを開ける。一歩、外に出たら恐らく戻れない。
 背後にはメルヴィンの縋るような視線を感じる。
 躊躇の後、エリザベスは心を定めると右足から外に出した。


 玄関の見える広い空間に着けば、ウォレンと目が合った。
 速度を緩めず、真っ直ぐに玄関を目指すエリザベスを見、カウチに対面して座っていたウォレンとデュモントが立ち上がった。
 エリザベスとしてはデュモントに声をかけられても無視する予定だったが、彼は何も言ってこなかった。
 玄関口のところでウォレンと合流する。エリザベスは彼から顔を隠すように下を向き、帰りましょう、と告げつつ緩やかな髪を前に垂れさせた。
「エリザベス」
 ドアを開け際、ショーンの声が届き、エリザベスは振り返った。
 申し訳なさそうな、引き止めたそうな、ショーンはそんな目をしていた。
「……失礼するわ」
 一言だけ残し、エリザベスは廊下に出た。
 また会いましょう、というデュモントの声が聞こえたかもしれなかったが、エリザベスは頭から振り払った。
 すぐそこのエレベーターへ足早に近づき、ボタンを押す。
 幸いなことに、あまり待たずしてドアが開いた。
 先に乗り込み、ゆっくりと体の向きを変える。
 ドアが閉まり、エレベーターが静かに動き出す。
「大丈――」
 ウォレンの声が耳に届くと同時に、エリザベスは彼の胸に顔をうずめた。
「……私だって――」
 会いたかった、と言いたかった。
 違う状況であったならば、それも可能だったろう。
 だが、どこを探してもそんな感情は見当たらない。見つけたくても、うまく隠れているのかそもそも存在しないのか、自分の中に見つけ出せない。
「……下に着くまで、許して」
 掠れた声で、ウォレンに頼み込む。
 小さな許可の声が聞こえてき、そっと背中に腕が回され、後頭部に優しく手が添えられる。
 見知った温もりに包み込まれ、エリザベスは己の感情が収束するのを静かに待った。
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