24 Not My Philosophy
片耳につけたイヤフォンから聞き飽きた声と言葉が届いてくる。気が済むまで言わせておこうと決め、ウォレンはその声を背景音と同化させ、ハンドル捌きに意識を払った。
キースの依頼を引き受けてから、一月ほど経っている。
「……時間が要ると言ったろ」
何度か同じことを告げているのだが、電話口からはキースの圧力的な催促が繰り返されるのみだった。
ため息をつき、車の速度を落とす。
『もたもたしてんじゃねぇよ。さっさと片付けろ』
左右を確認し、ハンドルを切る。
道を曲がれば、車通りが少なくなった。
『聞いてんのか?』
大きな声が聞こえてき、イヤフォンを少しずらしつつ喉で疑問の声を出した。
『今になって怖気づいたとか言うんじゃねぇだろうな』
キースの確認に対し、真剣に話を聞いていないような間を置き、ウォレンは否定を返す。
「心配するな。メルヴィンが往生する前には片付ける」
『遅せぇ――』
「切るぞ」
いい加減煩わしくなり、ウォレンはそう宣言をした後で通話を遮断した。
念のため、電源も切る。
イヤフォンを外して隣の座席に放れば途端に周囲が静かになり、車内はタイヤとアスファルトが生み出す音に満たされた。
急ぎの仕事は好きではないが、この件だけは早く終わりにしたい。が、デュモントの予定等を考慮すると、もう少し時間が必要である。
焦る必要はない、とウォレンはアクセルを踏む足も緩めた。
ふと、電子音が鳴る。
またか、と思ったが、携帯電話の電源は切ったはずで、手に取ればそれが確認できた。
音が違うことに気づき、思い出したようにポケットを探り、もう一台の携帯電話を取り出す。
発信元を確かめると、クラウスの番号が表示されていた。
前方に視線を戻し、躊躇した後ウォレンは携帯を耳に当てた。
「――何だ?」
出てみれば、やっと繋がった、と含められたため息が聞こえてきた。
そういえば、最近は不在中の着信履歴に彼の番号が多かった気がする。
『……おめー、今どこにいんだ?』
「フィラデルフィア」
先ほどまでいた地名を答えれば、まともな返答を期待していなかったのか、クラウスが気のない相槌を返してきた。
「今運転――」
『今までどこほっつき歩いてたんだよ』
運転中を理由に初めの段階で会話を切り上げようとしたが、機を逃す。つい電話に出てしまったことに対して多少後悔しつつ、ウォレンはもう一度口を開いた。
「クラウス、悪いが――」
『うるせー。切るな』
厳しく短く言われ、仕方ないな、とウォレンは素直にクラウスの言に従った。
『……夏も終わって気温も大分下がってきたってのに、未だに説明がねーのは何でだ?』
問われ、電話を持ち直しつつ怪訝な表情をする。
『返答しろ』
「何の説明だ?」
尋ね返した後で、ああ、と思い当たる節を見つける。同時に受話部から呆れたようなため息が聞こえてきた。
『この前の件についてだ。何があった?』
「借りた服は返したぞ」
『答えろ』
促され、ひとつ息をつく。
「撃たれた」
答えれば、耳元に舌打ちのような音が聞こえてきた。
『……知ってる。聞いているのは何で撃たれたかだ』
「誰かが引き金を引いたからだろ」
『ウォレン』
強い口調でクラウスが続ける。
『いい加減にしろ。はぐらかすな』
声音から、今回は簡単には切り上げられない雰囲気が感じられる。
携帯電話を左手に持ち替え、ウォレンは窓枠にその肘を載せた。
「言っておくが、お前に説明する気はない」
声の調子を変え、さらりとそう告げる。
受話部からは無言が返ってきた。
「悪いな」
『「悪いな」、じゃねぇだろ。また何も言わないつもりか?』
「そう言ったろ」
『ふざけんな!』
受話部の先、今まで抑えていた感情を外に出した後、クラウスは眉間を指で押さえた。
同じようなもどかしさを数年前にも経験した。もう二度と、と思っていたが、現実はそう簡単ではないらしい。
あのとき感情的になって失敗した経験から、今回はそうならないようにと気をつけていたのだが、やはり、平常心でいられるものではない。
「……あと10インチほど右だったら心臓だったんだぞ」
手で顔を撫でると、クラウスは呟くように告げた。
彼の声を受話部越しに聞き、ウォレンは前方にやっていた視線を少し上げた。
思い返せば、アンソニーの家で見たクラウスは、いつになく困惑した様子だった。
普通に生活をしていた頃のウォレンしか知らない彼にとっては、衝撃も大きかったのだろう。
「……そうだったかな」
『「そうだったかな」じゃねーだろバーカ』
分かれよ、とクラウスは息を吐いた。
『……こんなこと続けていると命を落とすぞ』
久しく人から言われていなかった忠告に、ウォレンは、かもな、と返した。
『失う側のことも考えろ』
続いて届いてきた言葉に触発され、遠い過去の映像がウォレンの脳裏を流れる。
頬を撫でる赤く染まった手が、力なく落下した。
弱りきった体にも関わらず、しっかりと手を握られた。
最期の温もりというものは、忘れられるものではない。
「……十分、分かっている」
道路を囲んでいる色づき始めた森を目に入れつつ、ウォレンは通話部から口を遠ざけると深く息を吐いた。
暫くの沈黙の後、いいか、とクラウスの声が聞こえてき、ウォレンは視線を前方に戻した。
『理由が何であれ、お前のやっていることは連中と同じだ』
具体例は示されなかったが、特定の人間を示す代名詞に、ウォレンは、そうだな、と頷いた。
「……確かに結果は同じだ。そこは否定しない」
『連中が悪い輩だろうと、勝手な判断で命を奪うな』
「別に正義を唱えているわけじゃない」
そう告げれば、無言が返ってきた。
長いな、と感じる頃に、ようやくクラウスが口を開く。
『……否定しねぇんだな』
「何を?」
『「奪っちゃいない」って言葉を期待していた』
苦笑の混じった弱い声が耳に届いてくる。
確かに、否定の言葉を嘘としてではなく聞きたかったのだろう、と考えつつ、ウォレンは視線を下げた。
「……肯定もしていない」
受話部からは、そうだな、と呟くクラウスの声が聞こえてきた。
面と向かっての会話であれば、続けざまにもう二言三言責められただろう。
だが、そのように正面から問いただされるよりも、今の状況のほうが随分と対応しづらかった。
言葉を付け足そうとしたところ、クラウスに先を越される。
『「分かっている」って言ったよな、さっき』
尋ねられ、会話を遡って何の話だったかを思い返す。
「ああ」
『連中にも家族がいる。その家族だって、突然近しい人を殺されたら理不尽だと思うはずだ』
耳に入ってきたクラウスの声に、彼らしい優しい言葉だ、とウォレンは短い苦笑を吐いた。
「……普通に生活をしている無実の人間が、奴らによって無実の近しい人を失うケースもある。より理不尽だと思わないか?」
連中からしてみれば、彼らの利益が守られることが重要であり、殺した人間の家族の心情など関係のないことだ。むしろ、後腐れをなくすために一家を惨殺することだってありうる。
そのような輩に対し、クラウスのような心で向き合うことなどできようはずがない。
『程度の差じゃねーだろ』
「重みをつけるのはどの世界でも共通だ」
『そういう認識が危険な思考に結びつくんだよ』
「危険か?」
『人の命で遊んでいるだろーが』
遊んではいない、とウォレンはひとつ息をついた。
「……言葉を返すが、命に人の手を加えているのは医療現場も同じだろ」
そう告げれば案の定、電話先の空気の質が変化する。
『……なんだと?』
「お前は命を救う仕事をしている。俺はその逆をやっている。ただそれだけだ」
これまで明確に告げてこなかったが、ウォレンは自分の行動に対するクラウスの推測が当たっていると認める言を吐いた。
『……聞きたかねぇな』
暫時の沈黙の後で聞こえてきた言葉に、そうだろうな、とウォレンは口を結んだ。
『何で人を罰する法律ができたのか考えろ。おめーみてーに個人的な理由で好き勝手に、――……人の命を絶たれちゃ世の中が乱れるからだ。理不尽もそこから生まれる。それを望んでるわけじゃねぇんだろ? なら足を洗って悪人退治は法の世界に任せろ』
「確かに法律は秩序を保つ。が、完璧じゃない。その威力に期待しても裏切られることがある。人が罪を犯す前にそいつを裁くこともできない。それならこっちが勝手に動いたほうがマシだ」
『憶測で人を裁けるわけねーだろ』
「被害者が出るまで何もせずに待つのか?」
相手が攻撃を仕掛けてくるのを分かっていながら、安まらない心のまま、ただ恐々と過ごすなど許せるわけがない。
『だからって安易に人を殺――』
耳元でクラウスの声が聞こえる中、不意にけたたましいクラクションが割り込んでき、ウォレンは正面に対向車を発見した。
慌てて携帯電話を持っている手も載せてハンドルを切る。
いつの間にか上がっていた速度を落とすためにブレーキを踏みつつ、緩やかなカーブを曲がる。
対向車が後方へ遠ざかるとともにクラクションの音階が降下し、アスファルトとタイヤの擦れる高い音が耳障りに響いた。
ハンドルを操作して失いかけていたバランスを取り戻しつつ、ウォレンは本来走るべき車線に車を落ち着けた。
座席の背に後頭部を預け、速まった鼓動を抑えるために深く息をつく。
やがて心音に紛れてハンドルに載せていた左手から、通話の効果のかかったクラウスの声が聞こえてきた。
ゆっくりと携帯電話を耳元に持っていく。
『大丈夫か?』
「ああ」
『……お前、運転してんのか?』
「してるな」
『早く言えよ』
「最初に言おうとした」
そう告げれば、受話部の先で大きく息をつかれる。
暫く間が置かれた後、軽く弱い笑い声が届いてきた。
「……何だよ」
『動揺したみたいだな』
確信を持った口調でクラウスが言ってきた。
「……少しハンドル操作を誤っただけ――」
『お前も自分がやってることが間違いだって気づいてんだろ』
質問調のクラウスの声に、肯定も否定もせずにウォレンは口を閉じた。
何度も自問自答してきた問いだ。
常識的に考えれば間違いであることは明白であり、それを否定する気はない。
だが、百歩譲って受け入れたとしても、従おうという気にはなれない。
「……気づいてはいるんだろうな」
他人事のように呟くと、外の様子を見渡した。
そろそろ、目的地周辺である。
『……何年、続けてんだ?』
受話部から聞こえてきた質問に、ウォレンは意識を会話に戻した。
「見当はついているだろ」
答えれば暫時の無言が返ってくる。
『何年続けるつもりだ』
同じように時間を置いた後、さぁ、とウォレンは呟いた。
そういった話は考えたことがない。
「……バッテリーが切れそうだ」
すぐに分かる嘘だろうが、そろそろ切り上げたい。
『おい、こら――』
悪いな、と最後に告げ、ウォレンは通話を終了した。
逃げていると思われるかもしれないが、今は少々分が悪い。
少し前ならこのくらいの詰問で動揺することはなかったのだが、最近はどうも、心情が不安定なように感じる。
電源を切り、運転に支障が出ない範囲で目を閉じる。
この道に進んで唯一後悔していることといえば、これだ。
電話の先のクラウスが呈している目の色は、容易に想像できる。
言葉よりも何よりも、その目が一番堪える。
あの色を消すのは簡単だ。クラウスらの言うとおり、今いる世界から足を洗えば済む。
だが、それは無理な話だった。
後方を確認し、指示器を出し、細い道に折れる。
木々に囲まれているところだが、主な車道からぐっと中に入り込めばやがて視界が開ける場所がある。
人気のないそこは、長距離射撃の練習にはもってこいの場所だ。
やがて目的地に辿り着き、ウォレンは小屋の横に車を寄せるとエンジンを切った。
ドアを開けて降りれば、適度な水分を含んだ空気に包まれる。
トランクを開ける。
世話になる代物の入ったケースが横になっていた。
暫く眺めた後、ウォレンはそのケースを手に取った。
トランクのドアを閉めると同時に、それまでの会話の名残が周囲から消散した。
「待――」
待て、と制止をかける間にも不通の音が受話部から届き、クラウスは携帯電話を耳から離した。
画面を見れば、切れている状態であることが確認できる。
すぐにかけ直してみるが、呼び出し音が繰り返されるばかりで相手は出ない。
「ウォレン、はぐらか――」
ようやく通じたと思えば、電源がオフになっているか電波の届かないところに、という機械的なメッセージが再生された。
やっぱりか、と目を閉じ、4文字語を捨てる。
携帯電話を閉じ、大きくため息をつく。
訪れた静寂に、目を開ける。
雲の厚さによって弱まった日の光が、窓から室内に入り込んできていた。
掘り下げた話はこれが初めてだった。
本当なら面と向かって色々と言ってやりたいところだが、なかなかそういった時間を設けられないでいた。
しかし、顔を突き合わせて議論するとなるとどうしてもウォレンのペースに呑まれがちになる。
自身が感情的になりすぎる傾向にあるのが問題なのかもしれないが、議論の際のウォレンの終始平然とした表情を見ていると、どうしても怒りが先行し、調子が狂う。
そうなると計算されての態度だとは分かっており、毎回冷静に応対しようと心がけるのだが、気づくといつの間にか声を荒げていた。
テーブルの上に携帯電話を置き、クラウスはソファの背にもたれかかった。
電話越しだと相手の表情が見えず、いささか溝を設けたような雰囲気になり気に入らないのだが、今回はそれがかえって幸いしたらしい。
議論にしては珍しく、ウォレンの声音に感情が付加されていた。
彼の行動の背景には、察するに誰かに対する怒りが存在している。
起因となったのは、9年前の一件だろう。
半年の間に何が起こったのかは知らないが、そこで負った傷が尾を引き、今のウォレンの状態に結びついている。思い当たる節はそれ以外に見つからず、他の理由は考えられない。
毎日でないにしても、共に暮らしてきた仲だ。
自分の言動が少なからずの影響を与え、原因は家庭環境にあるのではとまさかに疑ったこともあったが、ウォレンの自分たちに対する態度は以前と全く変わっておらず親しみが籠められており、杞憂だったことに安心した。
だが同時に、以前のような付き合いに戻って久しいにも関わらず、ウォレン自身が戻ってこないことに、力不足というやるせなさを感じている。
アンソニーも、何度か説得を試みたが失敗したと言っていた。
あんなに慕っている彼の言葉でさえ聞き届けられなかったとなると、果たしてクラウス自身の力でどうにかできるものなのか、疑問に思われてならない。
厄介なのは、ウォレンが善悪の区別がついている上で敢えて曲がった道を進んでいることだ。
(……気づいてるんなら正そうとしろよ)
最後に呟かれたウォレンの言葉を思い出しつつ、クラウスは両手で顔を覆った。
ここまで彼を追い詰めた原因が分かればいいのだが、9年前の件については、先の一件についても言われたとおり一切話す気はないらしい。
長期戦になるだろう、と深く息を吐き、クラウスは顔を覆っていた手をスライドさせ、髪をすいた。
「……馬鹿野郎が」
何でこうなったかな、とぼんやり考えつつ、クラウスは一言、仕事を終えたばかりの携帯電話に向かって投げかけた。