16 Thought It Was Just a Concept
右手でペンを器用に回し、左手でコーヒーを口へ運ぶ。清潔感を醸し出すためか、白が基調とされた病院内は特有の香りを保持しつつ、来客に対して堂々と構えた佇まいをしていた。
その建物の中。
書類から目を離し、クラウスは時計を見やった。
休憩時間はまだ十分に残っている。
次いで視線を横に移動させる。
デスクの上に置かれた己の携帯電話が目に入った。
昼頃ともなれば、もう目を覚ましていても不思議はないだろう。
どうしようか迷ったが、とりあえず手にとってみた。
かけようとした相手の昨夜の様子を思い出し、指の動きが止まる。
アンソニーに締め出しを喰らった後、クラウスはリンと共に近くのギルバートのバーへと向かった。
状況が状況だけに、どこのどいつだ、と思っていたが、リンの身分は意外にもしっかりしており、クラウスを驚かせた。
上院議員の下でスタッフをしている彼がどのような仔細があってウォレンと知り合ったのか。
アンソニーもリンのことを知っているような口ぶりだったが、近くに住んでいるわけでもないリンがわざわざ診療所にくるとは考えられない。
詰問調で尋ねてはみたものの、リンは、バーで知り合った、と言うだけで詳しくは語らなかった。
酒が苦手なウォレンがそう頻繁にバーに行くか、とクラウスとしては気になるところであったが、結局聞き出すことはできなかった。
今回の件に関しても、リンが何かしら絡んでいると睨んだのだが、どうやら彼も何が起こっているのかさっぱりらしく、逆に尋ねられることとなった。
具体的に何をしているのかは知らない。が、ウォレンが危ないことに首をつっこんでいるのは分かっている。それは再会したときに本人の口から確かめたものでもある。
しかしながらクラウスの前ではウォレンはそんな雰囲気をおくびにも出さず、昔と変わらない風であったために実感は伴っていなかった。
それが昨夜、突然目の前に叩きつけられた形となった。
ため息をつくが靄は内に溜まったままで、クラウスは一度額に手をやった。
躊躇したものの、容態を聞くだけでも、と思い、携帯電話を開いた。
気だるさを伴い、意識が浮上する。
音にも何にも刺激されずに戻ったそれのために、起きた、と自覚するまでに時間がかかった。
瞼の裏が明るい、と認識する頃になり、ウォレンはようやく体を動かした。
目に当てようと右手を上げたそのとき、肘の内側、血管の内部に鋭い痛みが走る。
嫌な痛みだ。
途端に反射的に体が反応し、体を起こし際に右手を大きく引き、滑りながらも足でシーツを蹴った。
飛び退った背後、背中が壁に当たり、後退を止める。
血の流れは動作についてきておらず、視野がざわめいて十分に確保できない中、ウォレンは右腕を見た。
ガーゼとテープの貼られた下、赤い血の筋が垂れている。辿れば、シーツの上の滴下血痕へと視線が導かれた。その先、太めの針のようなものが横たわっており、それがチューブへ、更には点滴の袋へと繋がっていた。
そこへ来てようやく視界が広がり、部屋の様子が目に入ってくる。
ぐるりと見回し、ウォレンは今いる場所がアンソニーの家の二階、かつて寝泊りしていたときに借りていた部屋であることを知った。
力を抜き、安堵の息を漏らし、壁に寄りかかる。
二、三の呼吸をすれば、脈拍のピークも過ぎ去った。
麻酔のためか傷のためか、痺れている左腕を補助しつつ体の向きを変え、床に足をつく。
立ち上がった先、棚の上に己の所持品が丁寧に並べられていた。
その中には当然のことながら愛用の拳銃も含まれている。
アンソニーの前で意識を失ったのは初めてのことだった。
そうでなければ、所持品くらいしっかりと管理ができたはずだ。
彼はある程度の事情を知っている。とはいえ、物騒な代物を扱っている事実はなるべくアンソニーの目に入れたくなかったのだが……。
目を逸らせば、シーツの上に投げ出された点滴の管が視界に入ってくる。
腕から抜かれた後も役目を果たしているらしく、薄まった血と共に布地に滲みていた。
液の落下を止め、ウォレンは部屋の中を一瞥するとドアを開けて出て行った。
階下から人の声が届いてくる。
居間の窓の外から、日差しの強さを感じさせる日光が注いでいた。
しばらくその様子を眺めていたウォレンだったが、喉が渇いていることに気づき、キッチンへと足を向けた。
その途中、テーブルの上に紙が置かれているのを見つける。
近寄って手に取れば『動き回らないこと』と一言、アンソニーの筆跡で書いてあった。
これまでの経験からなのか、信用がないらしい。
確かに血が足りておらず、安静にしているのがいいのだろう。が、じっとしているのは性に合わない。
紙を元の位置に戻し、読まなかったことにするとウォレンは冷蔵庫へ歩を進め、ミネラルウォーターを取り出した。
一口口に含んだとき、背後で電話が鳴った。
一度目をくれたが、気にせずに冷蔵庫の扉を閉め、喉を潤す。
数回の呼び出しの後、あらかじめ留守電に設定されていたらしく、メッセージをどうぞ、というアンソニーの声が流れる。
『親父、俺だ。ウォレンのやつ携帯に出ねーけど、まだ寝てんのか?』
クラウスの声に、電話を見、次いでウォレンはポケットを探った。が、携帯電話は携帯されておらず、寝室から持って出るのを忘れていたらしいことに気づく。
『――まぁ、起きたら一度連絡しろって伝えておいてくれ』
耳に入る声を流し、寝室のほうを軽く見やる。急ぎの用件でもなく、またわざわざ取りに戻るのも億劫だった。
忘れるだろうな、と思いつつ、居間のソファへ向かう。
『あと、服なら俺のを貸してやってもいいぞ』
電話の傍を通り際にそう聞こえてき、ウォレンは少し考えた後に受話器を手に取った。
『とりあえず今夜もそっちに――』
「ありがたいが、足の長さが合うかな」
『――……ウォレン?』
突然の応答に驚いたのか、一呼吸の間の後クラウスが確認してきた。
「仕事しろよ」
短く切り上げ、ウォレンは受話器を下ろした。
顔を上げれば、昼を少し過ぎた時刻を示す時計が目に入る。
どうやら昼休みの時間を使ってかけてきたらしい。
ペットボトルを手に取り、時計から目を離すとウォレンはソファのほうへと踵を返した。
と、背後で再び電話が鳴り、肩越しに振り向く。
クラウスだろうことは分かったが、戻るのも面倒くさく、また万が一他人からの電話だった場合より面倒なことになる、と判断し、ウォレンは無視してそのまま足を進め、ソファに腰を下ろした。
アンソニーの留守電応答のメッセージが流れる。
その直後、
『俺のほうがなげーよバーカ。おとなしく寝とけ怪我人』
とぶっきらぼうに告げて通話を終了させるクラウスの声が聞こえてきた。
その言葉を告げるためだけに、わざわざ留守電の録音開始まで待ったのだろうか。
ウォレンは小さく眉を上げ、近くの新聞を手に取った。
どのくらいの頁を繰った頃か。
外の階段を上る足音が届いてきた。
その方向を見、2人分の気配に誰が来たのかと考えるが、足音は軽く、女性らしいことを察する。
まさか、と思った矢先にベルが鳴った。
新聞を置き、玄関へと足を運ぶ。覗き穴から外の様子を窺えば、推測が当たったことが確認できた。
どうしようか迷ったものの、居留守を使うのも気が引け、ウォレンはドアを開けた。
「リジー」
呼びかけた先、エリザベスが顔を上げ、目が合った。
続けてウォレンが何か言葉をかけようとしたところ、エリザベスが表情を崩し、名前を呼びつつ数歩の距離を越えて彼に飛びついた。
不意打ちだったためか体力が落ちているせいか、その際の衝撃を受け止めきれず、ウォレンが慌てて2、3歩後退する。
かすれた彼女の声が、よかった、と告げる。
背中に回された腕に込められる力が強くなる。
わずかながらも彼女が震えているのが伝わってき、余程に心配をかけていたらしいことを知る。
エリザベスの耳元に小さく詫びの言葉を落としながら、ウォレンもそっと、抱きしめ返した。
ふと、戸口にもう1人の気配を感じ、ウォレンが顔を上げる。
それまで微笑んで見守っていたTJが彼の視線を受け、意味深な笑顔を見せた。
「TJ」
ウォレンの声にTJの存在を思い出し、エリザベスがはっとして彼から離れる。
「ハイ、カサノヴァ」
「色々と動いてくれたみたいだな」
揶揄は軽く受け流し、ウォレンが告げる。
「まぁね。それより元気そうじゃない。残念だけど、安心したわ」
からかいが含められたTJの口調にウォレンは、どうも、と短く呟いた。
「リジーがかなり心配してたわよ。何がどうなってたかは知らないけど、どうせカッコつけようとか思ってたんでしょ?」
そう言われ、目で反論を返すウォレンに対して軽い懐疑の一瞥をくれた後、TJはエリザベスを見た。
「男ってホントにバカなんだから。ね?」
同意を求めれば、エリザベスが口元を緩めて笑みを作る。
それに続けてふとウォレンを見上げた彼女が、表情を変化させた。
「どうした?」
「痣が……」
差し伸べられた手がウォレンの右目の横に添えられる。
違和感はあったが、優しく触れられると確かに腫れているように思える。
咄嗟に手を当てて青く変色しているであろう部位を隠すが、痛々しそうなエリザベスの視線は顔の左や腕にも注がれた。
「……そんなにひどいか?」
尋ねてみるとエリザベスが真っ直ぐに目を覗いてきた。
彼女の無言の訴えがいたたまれず、視線を逃がせばTJとかみ合う。
「鏡見れば?」
しれっと言われ、なるほど確かに、とウォレンが周囲を見回す。が、適当な鏡が見当たらない。
「さてと。私はギルのとこに行ってるわ」
聞こえてきた声にウォレンとエリザベスがTJを見る。
「また後でね」
にっこりとした笑顔をエリザベスに向け、TJはウォレンにも目を合わせた。
真面目なその視線を受け取り、ウォレンが軽く頷く。
それを見届けた後、TJは肩口まで片手を上げ、それじゃ、とドアを開けると速やかに去っていった。
遠ざかる足音に紛れ、外の熱された空気が室内に滑り込んで消える。
暫くの間ドアの向こうを見やっていたウォレンだったが、胸元でエリザベスが見上げてくる様子を感じ取り、彼女に視線を転じた。
同時に下ろしかけていた右手を、右目の横に当てる。
「傷、痛む?」
「ん?」
「まだ寝ていたほうがいいんじゃないかしら」
「いや、大丈夫だ」
そう告げて微笑も見せるが、エリザベスは疑問に思った表情のまま、見つめ返してきた。
「……まぁ、心配するな、と言った手前、この様はちょっと……」
視線を逸らして語尾を濁し、咳を払って後を誤魔化す。
そのウォレンの様子に、大丈夫だ、と彼が言ったことがあながち嘘でもないらしいことを知り、エリザベスは口元を緩めた。
「そういえば――」
思い出したように切り出し、ウォレンがエリザベスを見る。
「――旅行はどうだった?」
脈絡なく尋ねられ、エリザベスは何のことか一瞬分からず、それまでとはまた別の疑問を顔に呈した。
「……西海岸に行ってたんじゃなかったか?」
違ったかな、と記憶を辿りつつウォレンが確認する。
間違ってはいないものの、今ここでその話が出されるとはまさかに思っておらず、エリザベスは戸惑ったように間を置き、返す言葉を探した。
が、思考の切り替えが上手くできず、適当な語句は見つけられない。
「話題、間違えたか?」
姿勢を少しばかり低くし、ウォレンがエリザベスの目を覗き込む。
それに対して数瞬の遅れを生じさせたものの、安心したような呆れたような微笑をして息を吐き、エリザベスは、いいえ、と緩やかに首を横に振った。
上空からカワラバトの羽音が聞こえてき、アレックスはひょいと空を見上げた。
建物の影に隠れて太陽が見えないせいか、白い綿雲が浮かぶ青い空はねっとりとまとわりつく空気に反して涼しげに感じられる。
身軽な足取りで段を上り、ギルバートのバーの裏口のベルを鳴らす。
ほどなくして開いたドアに、簡単な挨拶を投げつつ身を滑り込ませる。
バーの一角のテーブル席にはTJが座っており、アレックスの気配に手元のラップトップから顔を上げ、彼を見た。
やぁ、と微笑んでアレックスが挨拶をすれば、TJも、ハイ、と口を動かす。
「エリザベスは?」
「今連れてくって。ウォレンから連絡があったわ」
持っていた携帯電話を見せ、TJが答える。
「何だ。あいつ、もう動けるのか?」
布巾でカウンターを拭いていたギルバートが手を止め、彼女を見る。
「私も寝てろって言ったんだけどね。ま、ただの強がりじゃない?」
「多分にね」
間違いない、とアレックスが頷き、TJの横に足を進める。
「で、何か出た?」
「んー。とりあえず経歴は洗ったわ。後は彼女がどれくらい知りたいか、によるわね」
す、とラップトップを動かし、アレックスに見せる。
カウンターにいたギルバートも作業を中断し、彼らの元へ向かった。
「……どう思う?」
一通り画面上に目を走らせた後、アレックスが呟いた。
「そうね、そのジミーってヤツの話は嘘じゃないと思うけど……」
「ウォレンは何か聞いていたりしないのか?」
「あいつもそんなに人の過去に関心がある奴じゃあないからねぇ」
「確かにな」
言いながらギルバートもラップトップを覗き込んだ。
「……この辺とかけっこう――」
画面に指を指し、言いかけたところで、店の玄関が3回、叩かれた。
3人が顔を上げ、音が聞こえてきた方向を見る。
ギルバートが足を運び、布製のブラインドの隙間から外を確認した後、ドアを開けた。
「やぁ、エリザベス」
先に彼女を招き入れ、ギルバートが微笑を見せる。
エリザベスもそれに応え、店の中を見回した。
日陰となっているテーブル席にTJとアレックスがいるのを発見すると、後ろから続いて店に入ってきたウォレンを仰いだ。
顔の怪我を隠すためにかけていたサングラスをとり、ウォレンが、奥へ、と促す。
事前にウォレンから、今回の件について説明がある、と聞いていたため、少しばかりの不安を抱いている様子でエリザベスはTJとアレックスのほうへ歩いていった。
「さ、とりあえず、座って」
椅子を引いてアレックスが勧め、エリザベスがそれに従う。
腰を下ろしてテーブルとの隙間を調整した頃に、ギルバートが氷の入ったミネラルウォーターを差し出してきた。
「ありがとう」
見上げて礼を言い、グラスを手に包めば、外の暑さの名残も消えていった。
彼女の後ろ。
「お前にはないぞ」
いたずらな笑みを浮かべてギルバートがウォレンに告げる。
「……どうも」
一言返せば、嘘だよ、と言う代わりにギルバートはわざわざウォレンの左腕を叩き、カウンターの裏へ向かった。
弱かったとはいえ傷口の痛みを触発され、ウォレンが苦い顔をする。その隣、
「すっかり良くなったみたいだねぇ」
とアレックスもからかいの言葉を寄越してきた。
「お蔭様でな」
短く返して受け流し、ウォレンはカウンター付近の、エリザベスに近い席に座った。
目を合わせれば今は無言のTJも一言二言投げかけてくるだろう。
「ウォレン」
背後から声がし、振り返ればギルバートがグラスを差し出してきた。
軽く礼を言って受け取り、一口含んだ後にテーブルの上に置く。
後方の気配が消えないところを見ると、ギルバートはカウンター席で話を聞くつもりらしい。
「さて、と」
言いながら場所を移動し、アレックスがエリザベスを見る。
「君を追っていた奴らとはちゃんと話はついているから、安心しなさい」
穏やかな言葉が選ばれていたが、ジミーのその後が暗に示されていた。
特段の反応を見せずにウォレンは椅子の背にもたれかかったまま、話の続きを待つ。
「……やっぱり私を?」
身の安全が保障されたことに安堵したらしいエリザベスだが、疑問はまだ消えてはいない様子だった。
アレックスは無言のまま頷き、肯定を示す。
「でも心当たりは……――」
エリザベス自身、何度も考えていることだが思いつくことはひとつもなかった。
床に落とした視線を上げれば、TJと目が合う。
彼女の手元のラップトップを一瞥し、再び視線を上げる。
「――何か分かったのなら、教えて欲しいわ」
その言葉を受け、TJがアレックスを見、エリザベスの視線を彼へと誘った。
「何から話そうかね……。少し単刀直入なところがあるかもしれないけど、いいかな」
一瞬不安げな表情をしたものの、エリザベスは頷いて答えた。
「キース・ウィトモアに聞き覚えは?」
名字が足されても、覚えている限りそのような人物とは知り合ったことはない。
エリザベスは首を横に振った。
「メルヴィン・ウィトモアには?」
「――ないわ」
記憶を辿った後、同じように首を振って告げた。
そうか、とアレックスが視線を床に落とし、頭を掻く。
「えーっと、キースは君を『捕まえろ』って指示を出したヤツで、メルヴィンは――」
片足に乗せていた重心を両足に戻し、アレックスはエリザベスの目を見た。
「――君のお父さん」
耳に入ってきた言葉は、どこか知らない国の言語のようにも聞こえた。
聞き間違えたのか、脳が誤認したのか、いずれにしてもエリザベスには寝耳に水であった。
尋ね返そうにも、声が出てこない。
その様子を見、アレックスは彼女の目に対して一度ゆっくりと頷いて見せた。
そこで初めて、エリザベスは先ほどの彼の言葉を情報として認識した。
「……父親?」
かすれて出てくる声で辛うじてひとつの単語を紡いだ。
それ以上でもそれ以下でもない、無機質な響き。
「……何で……」
縁のない代物だと思っていたものが、何故今頃になって、存在感を示してくるのか。
しかも、不穏な空気を纏って、だ。
憤りすら通り越してしまうほどの突拍子のなさに、エリザベスは言葉を発するのを忘れていた。