26 The Eyes of the Weak
ふと聞こえてきた足音に目を開け、咄嗟に手元の拳銃を掴む。ドアの向こうを警戒したが、どうやらモーテルの利用者の足音だったらしく、近くの部屋へと去っていった。
緊張を解き、ウォレンはテーブルの上に拳銃を置くと手を目の上にやった。
遮光性の十分でないカーテンからは、外の光が入り込んできている。
軽く目を閉じていただけのはずだが、いつの間にか朝がきていたらしい。
首を動かせば、正しい姿勢で休まなかった分負担がかかっていたらしく、筋が痛む。
ゆっくりと上体を椅子の背から起こしつつ、首を回して筋肉を解す。
飲みかけのミネラルウォーターを手に取り、一口喉に通す。
アルコールが飲める体質であれば、睡眠に落ちるのも楽だったろう。
眠った、という実感のないまま、ウォレンは立ち上がるとカーテンの端から外の様子を窺った。
駐車場に数人がたむろしているほか、日常的な景色が目に映る。
指の中の荒い布地には、日差しの温もりが吸収されている。
座って寝ていた間に体が冷えたのだろう、今更ながらに体温が低いことに気づく。
カーテンから手を離し、椅子を窓の近くに引き寄せて座れば、徐々に背中が温まってきた。
外から届く音を背後に、ウォレンはモーテルの室内を見やった。
ぼんやりとした頭に、昨夜の一件が思い起こされる。
一夜明けた今、デュモントは恐らく、カリブに浮かぶ島で一息ついている頃だろう。
最初に見たときから危険な思考を持った人物だと感じてはいたが、エリザベスに伴ってメルヴィンの家を訪れたときにそれは確証に変わった。
ダグラスからの依頼はほとんどがNYでの仕事だ。デュモントのような男であれば、裏側の事情にも詳しい。ウォレンのことについては、以前より噂を耳にしていたのだろう。
躊躇もなく淡々と、キースを始末してくれないか、と依頼を受けた。
二度頼まれ二度断ったが、キースの話を聞いて考えを改めた。
この先、彼が生きている限り、危険はエリザベスから離れない。
となれば、デュモントからの依頼を引き受けるしかない。
個人的な感情では動くな、とダグラスからは言われているが、彼が渡してくる依頼も元を辿れば誰かの個人的な感情が働いたものだ。遠慮をする道理はない。
実行に移した結論を反芻しつつ、ウォレンは目を開けると腕時計を見た。
そろそろデュモントから金が振り込まれる頃合いだろうが、確認は後でよさそうだ。取引においては彼のことは信用できる。
再び目を閉じれば、指先と肩口に狙撃の際の感覚が再生される。
同時に、仕留めた瞬間の高揚感も思い出された。
毎回感じる感覚だ。
追い求めれば求めるほど病み付きになり、己を見失う人間がいるのも分かる気がする。
正気と狂気の境界線は、常にすぐ側に横たわっている。
以前に何度か、越えようかと考えたこともあった。越えてしまえば後は本能の赴くままに任せればよく、楽になれるからだ。
それでも踏みとどまることができたのは他でもない。
目を開け、焦点を合わせるでもなく視線を横に流す。
踏みとどまることはできたにしても、ダグラスの言うとおり、黒にも白にも染まりきれずフェンスの上に立っている。
一見したところ安定しているが、外から力が少しでも加われば、落ちるのは容易い不安定な状態だ。
そこまで考え、ウォレンはいつもと調子が違うことに気づき、ふと息をついた。
以前ならば、仕事が終わったら終わったであれこれと考えることはなかったのだが、エリザベスと出会ってからはどうも勝手が違う。
DCに滞在する時間が長くなり、ギルバートのバーにもアイゼンバイス家にもよく顔を出すようになった。そのせいかそのおかげか、クラウスとも和解をする機会を得られた。
結果的に自分の立場を認識せざるを得ない状況になったが、いずれは向き合わなければならない問題だったのだ、素直に受け止めるのが妥当だろう。
かといって、先のことを全く考えたことがなかったわけではない。
踏み外してしまった道だが、そこを進んでいこうと決めていた。
理由は単純に、仕事を終えた直後の感覚が捨てがたかったからだ。
高揚感も含まれるが、それ以上に安堵感が切り離せないものだった。
雨が降る前にノアが船を用意したように、守るためには事前に動かなければならない。
手遅れになる前に危険因子を排除することで、不安を取り除くことができる。
だが、エリザベスと出会ってから、そのような手段で得られる安堵感はまがい物じゃないのかと感じ始めた。
彼女が側で生きていてくれている、その事実に何よりも安心できる。
自ら得ようと動き回らなくても、自然に得られる安堵感だ。加えて持続性が高く、温かい。
エリザベスはウォレンの持つ環境場に引きずり込まれることもなく、彼女自身の道を歩んでいる。
安定した、強い存在だ。
それ故に、彼女の目が不安の色を映し出すのは見ていてつらいものがある。
だからといってフェンスの上から彼女の側に身を引けば、別の不安が覆いかぶさってくる。
それの示す先は、二度と味わいたくない感覚だ。
次、守れなかったら、今度こそ立ち直れない。
どちらの側に降りても負が存在するのなら、今の状況を保つことが望ましい。
額に手を当て、ぼんやりと室内を見やる。
これほど思考が働くのは、エリザベスの兄を殺してしまったからだろうか。
彼女はキースと面識がなく、また彼に拉致されそうになったとはいえ、一応は血の繋がった兄妹だ。それを思えば、恨まれても仕方ないだろう。
デュークの件といい、エリザベスの周囲からは命を奪いすぎている気がしてならない。
額から手を離し、ウォレンはテーブルの上の携帯電話を見た。
遅かれ早かれ、エリザベスは事の次第を知る。
それよりも先に、告解をすべきだろう。
そう頭では分かっているものの、番号を押せる気分でもなく、手は携帯電話には伸びなかった。
情けない話だが、もう少し、考える時間が欲しい。
ふと、太陽が雲に隠されたのか、部屋の中の明るさが一段階下がった。
やがて背中に感じていた温もりも弱まってきた。
どこかモーテルの部屋でドアが閉められる音がし、それに触発された形でウォレンは椅子から立ち上がると、洗面所へと向かった。
蛇口をひねり、ひんやりとした水で顔を洗い、鏡を見る。
目が合えば、いつになく疲れた表情をしていた。
昼前までは晴れていたのだが、雲が徐々に厚みを増し、雨が降り出しそうな雰囲気であった。
印刷した地図とともにメモ書きされた住所と、目の前のアパートの住所とを見比べ、エリザベスはひとつ大きく息を吸って吐いた。
探していたのは他でもない、母親の居所だった。
ビアンカから彼女が引っ越したという話を聞いて以来、ずっと心に引っかかっていた。
あんなに毛嫌いし、家を出て自立したときはこれで縁が切れたとせいせいしたものだが、どうしたものか、気になってしまう。
NYに詳しいというTJに頼み、調べてもらって浮き出てきたのがこのアパートの住所だった。
ふと、周囲を見回す。
スラム街とまではいかないにしても、取り巻く治安はいいとは思えない。
やはり、変わらない生活を送っているのだ、とエリザベスは視線を落とすと、決心してアパートの中へ入っていった。
アルコールに漬けられた脳に、ぼわんとした余韻を伴ってベルの音が響く。
またFBIの連中だろうか、と思ったが、テディーなら先週しょっ引かれたばかりだ。彼らが足を運んでくる理由はない。
それとも、うまいこと連中をだまくらかして、逃亡でも図ったのだろうか。
ぐるぐるとした思考の中、ルティシアの耳に再びベルの音が聞こえてきた。
放っておいてもよかったのだが、煩わしさは早々に退散してもらうに限る。
「ちょっと待ちな」
ソファから立ち上がるが、平衡感覚が麻痺しており真っ直ぐに歩けない。
膝より低いテーブルにぶつかり、グラスに注がれていたウォッカがこぼれる。
ドアへ行くまで常人よりも時間を必要とし、そのせいか3回目のベルが鳴った。
「うるさいね」
言いながら鍵を開ける。
チェーンがかかっていない、と気づいたが、警戒心はそれほど高くならなく、わざわざかけ直すのは面倒だった。
「何か用?」
ドアを開け、枠にもたれかかる。
虚ろな目を来訪者に向ければ、意外にも相手は若い女性であった。
直後。
一瞬遅れで、ルティシアはそれが自分の娘であることに気づいた。
同時に、脳の中からアルコール成分が飛んで行った感覚がした。
ベス、という単語が口から漏れ出たかどうか、ルティシアには分からない。
だが前に立っているのは、間違いなく、エリザベスだ。
ろくな別れの言葉も寄こさず、いつの間にか家を出て行った娘だった。
あれからどれくらい経ったか知らない。
その知らない間に随分と大人になったように感じられる。
反抗的で嫌悪を顕わにしていた娘だったが、今彼女から注がれる視線にはそのような色は見えず、強いて言えば驚いたような表情をしていた。
「……今更、何だい」
自分を置いて出て行った娘に対し、ルティシアはかろうじて一言、小さく呟きかけた。
その言葉を耳にし、エリザベスは瞬きをすると我に返った。
留守かと諦めたところ、ドアが開いた。
顔を出したのは確かに母親だった。だが、それでもどこか、他人のような気がしてしまった。
記憶の中にある母親は、これほどまでに老いておらず、また男を渡り歩くだけの美貌の持ち主だったはずだ。
手を上げられたこともあり、どこか心の中には母親に対する恐怖が存在していた。
しかしながら数年ぶりに彼女を見た今、それを感じることができない。
「……帰りな」
再びルティシアの声が聞こえてき、エリザベスは改めて彼女の目を見た。
声も幾分か、しわがれているように思えた。
ドアが閉められそうになり、慌てて両手で制す。
「待って」
室内に戻ろうとしていたルティシアが、生気のない目を向けてきた。
「……入って、いい?」
尋ねれば、長い沈黙の後、許可も不許可も与えないままルティシアは室内に去っていった。
開かれた状態のドアを、好きにすればいい、という意向と解釈し、エリザベスは部屋の中に足を踏み入れた。
後ろ手にドアを閉めると、中を見渡す。
陰鬱な空気が漂っているのは、物が散らかった床の様子と室内に蔓延しているアルコール臭のせいだろう。
中途半端に開けられたカーテンが薄暗さを随分と効果的に仕上げている。
ルティシアを目で追えば、ソファの上にどっかりと腰を下ろすところだった。
彼女の手が、迷うことなく流れ作業のようにウォッカの入ったボトルに持っていかれ、グラスに液体が注がれる。
前々から酒好きではあったが、現在はしっかりと依存症に陥っているらしい。
定職に就いていない様子の彼女だが、資金はどこから得ているのだろうか。
「……一日中、そうやって飲んでるの?」
返答は期待せず、エリザベスは質問を投げるとルティシアのほうへ足を進めた。
途中、足元に落ちていた郵便物を見つけ、屈みこんで手に取る。
ガス代の督促状であった。
「……随分と、荒れてるじゃない」
ため息混じりに呟く。
立ち上がってルティシアを見たが、彼女は放っておけとでもいうように目を逸らし、グラスを口に運んだ。
「珍しくはないだろ」
ウォッカを喉に通し、笑いを滲ませつつぶっきらぼうに続ける。
「生活は、あんたがいた頃と変わっちゃいないよ」
自嘲が含まれているように受け取れ、エリザベスは視線を落とした。
改めて、知っている母親とは違うことに対し、複雑な気持ちを抱く。
彼女はもっと、真正面からの反抗を許さない、強い存在だったはずだ。
それが今はどうだろうか。
「……1人で暮らしているの?」
尋ねてみたものの、相変わらず回答は得られない。
「男と暮らしていると思ってたけど」
呟いて辺りを見回し、それらしい痕跡を探すが、やはり他には誰も住んでいないらしい。
エリザベスの言葉に、テディーのことが思い起こされ、ルティシアは目を伏せた。
「……あんな奴、とうの昔に出てったよ」
テディーは結局、一度も戻ってくることなく、どこか他所の州で逮捕された。
連絡を寄こすには寄こしたが、いずれも逃亡資金に苦しんでいる知らせだった。
つまるところ、体のいい快楽の相手と金づるだったのだろう。
それを考えれば、別の場所にも似たような役割の女が多数存在するに違いない。
怒りとも苛立ちともつかない感情が湧き上がり、ルティシアはグラスに残っていたウォッカを一気に飲み干した。
「さ、情けない母親の姿が見られて満足だろ。帰りな」
音を立ててグラスを置く。
流し込んだアルコールが胃の腑に落ち、じんわりと全身に染み渡っていく。
だが、思考が働くのを遮断するにはまだ十分な量ではなく、ルティシアはボトルへと手を伸ばした。
その様子を見ていたエリザベスが足早にテーブルに近づき、ルティシアよりも先にボトルを掴むと取り上げた。
「何するんだい」
「情けない姿を見に来たんじゃないわ」
「返しな」
「引っ越したって聞いたから、様子を見に来たの」
「いいから返しな」
「いい予感はしてなかったけど、案の定ね」
「あんたには関係ないだろ。さっさと返し――」
「あなたの言ったとおり、あなたは全然変わってない」
ボトルを取り返そうと、ルティシアが立ち上がって手を伸ばしてきたが、エリザベスは一歩後退してボトルを持つ手を後ろに引いた。
目標物を捕らえられず、ルティシアがよろめく。
「お酒の量が増えたくらいで、生活自体は同じだわ」
エリザベスが責めるような口調で告げれば、忌々しそうな目を寄こされた。
「……私が大人になっただけみたいね」
変わったのは捉え方だ。
一緒に住んでいた頃は、まだ母親に頼らなければならない年齢だった。
だが今は違う。
学生ではあるものの、生計は自分で立てており、母親に束縛される必要もない。
視点が変わったことで、今まで見えていなかった彼女の姿が見えるようになった、ただそれだけのことだ。
昔から、ルティシアはこうだったのだろう。
「……見下しに来たってわけかい」
ふらりと足でバランスをとりつつ、ルティシアが呟く。
「違うわ」
「そうじゃないか。こんなところでアルコールにまみれて暮らしている母親を嘲笑いたいだけなんだろ?」
「違うわよ」
「あんたはいつもあたしを軽蔑して見ていたじゃないか。目を合わせる度に鼻で笑ってさ」
聞こえてきた母親の言葉に、エリザベスが首を傾げる。
「挙句の果てに出て行って。感謝も何もありゃしない」
「何言って――」
「今更娘ぶったって、遅いんだよ。分かったらさっさと――」
「何言ってるの、被害者は私のほうじゃない!」
勝手なことを、と腹が立ち、エリザベスは今まで心の中に抱え込んでいたものが外に出て行くのを感じた。
「あなたはいつも男を連れ込んでた。お酒だって飲んでない日はなかった。小さな娘がいるなんて関係なかったじゃない。そんなことできたのは、私を娘として見ていなかったからでしょ? そこら辺にいるただの子供だったんでしょ?」
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ。あんたもあたしを母親として見ていなかったじゃないか」
「いつも邪魔者扱いされていれば当然じゃない!」
「邪魔者扱いしていたのはそっちだろ? 当然だろうねぇ、男と酒に溺れる母親よりも、ビアンカみたいな女のほうが、あんたにとっちゃ理想だった。あたしには愛想のひとつも見せないくせに、ビアンカには懐いてさ。猫かぶりもいいとこじゃないか」
怪訝な顔をするエリザベスを他所に、ルティシアは鼻で短く息を吐き出した。
「結局あの女の言うことを聞いてあんたは家を出て行った」
ルティシアの口から出てくる言葉を耳に入れつつ、エリザベスは今まで彼女のことを勘違いしていたことに気づく。
「大学だなんて立派な口実を見つけてさ」
えらいもんだね、と乾いた声でルティシアが笑う。
「……母親なんかどうでもよかったんだろ」
ふらふらと足を進め、彼女が倒れこむようにソファに座る。
「今更あたしに取り入ったって、何の得にもなりゃしないんだ。出ていきな」
手を振って促し、ルティシアは目を閉じた。
ボトルを持っていた手を下ろしつつ、エリザベスは彼女を見た。
深い疲労が、目の下に浮き彫りになっている。
昨日今日で出てきた影ではない。
この人はずっと、同じような気持ちを抱えて生きてきたのだろう、とエリザベスは思った。
「……帰らないわ」
呟かれたエリザベスの声に、ルティシアがゆっくりと目を開け、彼女を見上げた。
「だって知ってしまったもの」
先ほどまでの憤りはどこへ消えたのか、エリザベスは心の中で時間の経過を感じていた。
長すぎたのかもしれないが、この経過は必要なものだったのだろう。
「あなたが独りだってこと」
改めて向き合ってみて、母親が思っていた母親とは違うことに気づいた。
彼女はずっと、孤独だったのだ。
愛され方を知らず、愛し方を知らず、自ら沈んでいった。
今もまだ、救いを求めているだろうか。
そうだとすれば、手を差し伸べられるのは肉親であるエリザベス自身より他はないだろう。
口を閉じ、エリザベスは母親に目を向けた。
向けられる視線の変化をぼんやりと感じ取り、ルティシアは顔を背けて目を閉じた。
人から言われると、無意識のうちに考えないように取り計らっていた己の孤独を認識せざるを得なくなる。
「……勝手にしな」
一言呟き、ルティシアは口を閉じた。
弱々しいそれを聞き、エリザベスは目を伏せ、深く息を吐いた。
どうやら雨が降り始めたのだろう、外からしとしとと雨の音が届いてきた。
どうするでもなくそれに耳を傾けていたが、ルティシアが動きそうにないことを知ると、エリザベスはウォッカの入ったボトルをテーブルの上に置いた。
これから何をすればいいのか、全く分からない。
ただ母親の状態を知ってしまった以上、彼女をここに置いてDCに帰ることはできなかった。
依存症ということであれば、AAに参加するよう勧めるべきだろう。といっても母親のことだ。素直に参加するとは思えず、言葉は悪いが監視しなくてはならない。
DCに来てもらい、一緒に暮らすことが一番いい方法だろうか。
ぼんやりと考えていてもまとまらず、エリザベスはルティシアを見た。
意見を聞こうと思ったのだが、彼女は目を閉じたままソファにもたれかかっている。
寝息ととれる様子に、しばらくそのままにしておこうという考えが働いた。
いずれにせよすぐに行動に移すのは無理だ。
となれば、まずは今の生活環境を改善すべきだろう。
ぐるり、部屋の中を見渡す。
物は散らかっており、衣服は整頓されておらず、またろくな食事をとっていない様子が一目で分かる。
掃除が手始めとなりそうだった。
最後まで閉められていないドアを見つけ、足を運ぶ。
覗いて見ればバスルームだった。
洗面台の上には、薬のケースが転がっているのが見える。
アルコールだけではなく薬にも依存しているのか、と足を踏み入れてケースを手に取る。
アルプラゾラムという文字を読むことができた。
蓋を開けて中を見てみると、あと数錠が残っているだけだった。
目の前の鏡をふと見やれば、後ろに棚があることに気づく。
ケースを置き、棚に手を伸ばして開けた。
服用している薬は洗面台に置かれていたものだけではないらしく、複数個が乱雑に格納されていた。
その内のひとつを手に取れば、同じベンゾジアゼピン系の薬であることが分かった。
頭に手をやり、目を閉じる。
薬に関しては、エリザベスの知る限り母親は服用していなかった。先ほどのルティシアの言葉を思い返すと、この責任は、ひょっとしたらエリザベス自身に存在するかもしれなかった。
目を開け、髪をすいて手を下ろす。
暫くケースを眺めた後で棚に戻した。
不意に、ぱたん、とドアの閉まる音が聞こえてき、エリザベスは居間を振り返った。
バスルームの壁が邪魔をしており、様子は窺えない。
棚の扉を閉め、バスルームの外へ足を向かわせる。
外から雨音が届いてくる中、薄暗い室内を見渡す。
ソファで目を閉じていたはずのルティシアの姿が消えていた。
「お母さん?」
呼びかけつつ、小走りに玄関まで急ぐ。
途中、部屋の中に彼女の気配を感じ取ろうとしたが、先ほどのドアの閉まる音を考えると外に出たのだろう、気配はなかった。
アパートの廊下に出、左右を確認する。
人影はなく、近隣の部屋からの音楽が漏れ出てきているのみだった。
駆け足に階段へ向かい、下る。
外に出れば、地面を打つ雨音が室内にいたときよりも大きく聞こえてきた。
路地を見渡す。
ジャケットを頭にかぶせ、急ぎ足で過ぎ去っていく人のほか、母親らしい姿は確認できなかった。
右か左か、どちらに行けばいいのか迷ったが、エリザベスは大通りに近い方を選択した。
落ちてきた雨が、髪の毛の間を伝って頭皮に届き、その冷たさを告げてくる。
目を細めて直に雨滴が入るのを心持ち防ぎ、エリザベスは大通りへ到達すると左右を見渡した。
行きかう人の量は多くはなかったが、母親の姿は見当たらない。
来た道を振り返っても、それは同じだった。
雨脚が徐々に強まってくる中、エリザベスは足を止めると天を仰いだ。
帰ってくるかもしれない、という仮定を頼りに、エリザベスは母親のアパートに戻った。
部屋の中の掃除と整頓をし終えれば、この季節の雨に打たれたせいもあるのか、疲労がこみ上げてきた。
そのせいか、ついうとうとと眠ってしまっていたらしい。
ふと目を開ければ室内は随分とくらくなっており、適当につけていたテレビからの電子的な光が明暗を伴って周囲を照らしていた。
一向に、ルティシアが帰ってくる気配はない。
エリザベスはため息をつくと、ソファの上で膝を抱え込んだ。
父親とは、ぎこちないもののうまくやっていけそうな気がしていた。これなら母親ともどうにかなるのではと思ったが、違ったらしい。
だが、あんな姿を見せられては、放っておくことなどできない。
玄関のドアを見るが、開く気配はなかった。
ぼんやりと、つけられているテレビに目を戻す。
外の雨は持続的なものらしく、止む様子はない。
今夜はここに泊まることになりそうだと考えていたとき、ふと流れていたニュースに目が留まった。
表示されている見出しを読み、上体を起こす。
雨音で聞き取りにくく、急いでリモコンを探し、音声を上げた。
事件は、昨晩起きたものらしい。
聞こえてくるアナウンサーの報告に、知っている人名が紛れ込んでいた。
テレビ画面に流れた、生きていた頃の被害者の映像に、思わず声を上げそうになる。
ウィトモア家の顧問弁護士のデュモントだった。
何で彼が、と疑問を抱いている間にもニュースは進み、別の事件に移った。
そこでも被害者の過去の映像が流れ、それに映っていた人物を見、エリザベスは驚いた。
TJに見せてもらった写真と同じ人物に間違いなく、キースだった。
何者かに狙撃され、という言葉が耳に入ってくる。確か、デュモントのときの報告でもそうだった。
続々と告げられる情報には、キースに同伴していた女性も狙撃されたことも含まれていた。
その言葉を耳に入れ、エリザベスは改めて映像のほうに意識をやった。
いつ頃撮影されたものかは知らない。だが、映像の中でキースに腕を絡ませている女性には、見覚えがあった。
どこで、と記憶を探る。
2回目にメルヴィンの家を訪れた帰り、ガスステーションでウォレンに道を尋ねていた女性。
そう思い出した瞬間、背中を嫌な予感が駆け抜けた。
アナウンサーは、警察が2つの事件の関連性について調べていることを告げ、ニュースを締めくくった。
新しい話題へとアナウンサーが視聴者を誘導するが、エリザベスはそれに沿わず、頭の中を錯綜する先の2つの事件についての情報と向き合っていた。
どちらの事件の被害者も、ウィトモア家と関係がある。
だが、それ以上に関係のある人物が、身近に存在する。
瞬きも忘れ、エリザベスは画面を見ていた。
次に移ったニュースなど、耳に入っていない。
ただ、まさか、というひとつの疑念が頭から離れない。
彼なら、被害者3人と接点がある。
デュモントに対してもキースに対しても、いい感情を抱いてはいなかった。
加えて彼の生業を考えると、否定の余地はないように思われる。
ようやく体が動かせる頃になり、エリザベスは意を決すると携帯電話を手に取った。
相手を選択し、発信する。
が、呼び出し音の途中で切った。
鼓動は速く、手は震えている。
返答が怖く、とてもじゃないが聞けない。
違っていてほしいと願うが、恐らくそうだろうという勘のほうが強かった。
それなら一体、何故だろうか。
彼が個人的な感情でここまでのことをするとは、到底考えられない。
何か理由があるのか、それとも自分が彼のことをまだ知らないのか、エリザベスには判断がつかなかった。
より情報を、とチャンネルを変えるが、それらしいニュースには当たらなかった。
まさか、という憶測は、すでに確信に変わっていた。
リモコンを持っていた手が、自然と下がる。
外からは相変わらず、降り続ける雨の音が届いてきていた。