01 Wanted
どうも、大都会というものは性に合わないらしい。数ヶ月前、年甲斐もなく惚れた男に誘われるがままに出てきてはみたものの、やはりこじんまりした街に落ち着いているべきだった。
若い頃にも一度NYへ出たことがあったが、あの時もうまくいかなかった。あの時の経験をしっかりと覚えていれば、今回のように同じミスをすることはなかっただろうに。
アルコールに侵された脳は、過去などとっくの昔に忘れ去ったようだ。
後悔する、とぼんやり分かっていても、惚れてしまっては正常な判断ができなくなってしまう。
聞こえてくる声が、どこか遠くから脳内に響く。
テディーが戻ってきたのかと思ったが、違うようだ。彼はもっと、野太い声をしていた。
期待などできない。するものか、とすら思う。
彼は他の男どもとは違う、と信じていたが、見事に裏切られた。
いや、信じていたというのは嘘かもしれない。最初からこうなることは分かっていたはずだ。ただ、現実を直視せず、都合のいいように歪めて解釈していただけだ。
実態を伴わない甘い言葉に弄ばれ、はたと気づけばまた1人。
それでも、どこか心の奥では……――
「フラッシャーさん」
強い口調で名前を呼ばれ、ルティシア・フラッシャーはソファの背に預けていた頭を首の上に戻した。
体が動いた振動で、持っているグラスの中の液体が跳ねる。
手の甲にかかった生ぬるさに、幾分か意識が戻ってきたようだ。
アルコールが抜けることを知らない全身はだるく、思考すらおぼつかない中、ルティシアは目の前にいるスーツ姿の男を細目に見た。
嫌悪感を表したわけではない。そうしなければ焦点が合わないのだ。もっとも、効果のほどはしれているが。
「……あんた、誰」
尋ねつつも無関心に、ルティシアはウォッカを口に運ぶ。
舌が麻痺しているのか、味は分からなかった。
グラスの向こうで、小さくため息をつく男の姿が見える。
「捜査官のジミー・シモンズです」
ああそう、とルティシアは頷いた。
そういえば、数分前に誰かを部屋に入れた記憶がある。あれは、きっとこの男だったのだろう。
虚ろな記憶に、警戒心を持つことさえも忘れたのか、とルティシアは自嘲した。
「FBI」
呟けば、そうです、と答えが返ってきた。
バッジを見せられたかどうかは定かではないが、見たような気もしないでもない。
ただ言えるのは、ここ半月ほどテディーについてあれこれ聞きに来ているその連中に、目の前にいる男の姿を見たことはないということだ。
連中はこちらの都合は一切お構いなしに、突然やってきては声を荒げる。
ともすれば、マフィアよりも性質が悪い。
一目見れば職業が分かるようなスーツを着こなした彼らによると、テディーは相当あくどいことをやっているらしい。
おかげで頭痛のする中、知らぬことを根掘り葉掘り尋ねられた。
協力を拒んだところ、ありがたいことに冷たい壁に囲まれた取調室とやらにまで連れて行かれた。
こう言うと語弊があるかもしれないが、連中とはこの数ヶ月で慣れ親しんだ仲だ。
およそ、姿を見ればその人物が『お仲間』であるかどうかは分かる。
シモンズ『捜査官』にどう映ったかは分からないが、ルティシアは喉の奥を使って軽く笑った。
「何の用?」
言った後で、娘がどうのと彼が言っていたことを思い出す。
集中して聞いていないことも、脳のどこかには引っかかるものらしい。
「ですから、娘さんの居所を知りたいのです」
隠そうとしているのだろうが、彼の口調には苛立ちが感じられた。
思考回路が確立されていないアルコール中毒の人間を相手にしているのだ。無理もない。
しかしそうと知りながらも、ルティシアは首をゆっくりと動かし、大きく間を取ってわざわざ彼の苛立ちを増長させるよう働きかけた。
「娘」
「ええ。どこにいるんです?」
そんなことを聞いてどうする、と思いつつ、ルティシアは再びグラスを口に運んだ。
過去へと繋がる記憶の扉が開かれそうになり、それに触発されたのか、舌は、苦い、という味を認識した。
「……娘なんて、持った覚えはないよ」
煩わしい、とばかりにぶっきらぼうに言い放った。
「いえ、いるはずです」
堅苦しい丁寧なシモンズ『捜査官』の口調が可笑しく、ルティシアは、ふっ、と鼻で笑った。ついでに首を回しつつ彼を見やれば、それまでの表情がわずかに崩れるのが目に映った。
ああ、とルティシアは1人納得する。
その顔。
よく見る系統だ。本来の性を抑制して上に仮面をかぶせたところで、真っ当な人間を演じきれる者などいない。
礎からして人の道を外れているのだ。無理もない。
テディーもそうだった。
一目見て、この男は、と分かった。
分かっていたのに、何故こうまで惚れてしまったのか。
結果は見えていたというのに、敢えて目を背けていた。
それほどまでに、人が恋しかったのだろうか。
込み上げる笑いを堪えきれず声に出せば、それは明らかに嘲笑の色を孕んでいた。
誰に対するものでもない。己に対するものだ。
だが、目の前にいる男にはそうは映らなかったらしい。
「何かおかしいですか?」
気分を害したシモンズ『捜査官』が、それでも感情を抑え込みながら尋ねてきた。
何もかもさ、と口に出かかった言葉を飲みこみ、ルティシアは背中を預けていたソファから身を起こした。
このまま彼の茶番劇に付き合うのもひとつの手かもしれないが、そろそろ、1人静かにアルコールの中に意識を飛ばしたい。
俳優を気取っているのか知らないが、ここらで崩してやるのがいいだろう。
「捜査権限のない人間に、タダで情報をやれってのかい? 冗談じゃないよ」
帰れ、という無言のメッセージを送りつつ、ルティシアは言った。
瞬時に意味を理解できなかったのか、暫くの沈黙の後、もう一度、と丁寧にシモンズ『捜査官』が頼んでくる。
ため息をつき、ルティシアは再び背をソファに預けた。
「アル中だからって甘くみてんじゃないよ。胡散臭い芝居くらい、見抜けるさね」
彼女の言うところの『芝居』が何を意味するのか知ったのだろう。シモンズはじっとルティシアを見たまま言動を止めた。
バレたか、という表情をするかと思いきや、シモンズは目はそのままに、口の端を少しばかり吊り上げて笑った。
「……なら、さっさと話を済ませよう」
開き直ったとも取れる、打って変わった口調。
なるほど。こちらのほうが、断然似合っているではないか。
「それが、あんたの本性かい?」
ルティシアの質問には答えず、シモンズはゆっくりと威圧を込めた足取りで彼女の元へ向かった。
「娘の居場所を言え」
座っているルティシアを見下ろす形で、一言、告げる。
シモンズを見上げていた目を興味なさそうに逸らし、ルティシアはグラスを口に運んだ。
それを傾け、唇に液体が届こうかという瞬間、シモンズがルティシアの右手をグラスごと強くはたいた。
「何す……――」
ルティシアの言葉を遮り、グラスからこぼれた液体が床のカーペットにシミを作るより早く、シモンズが右手ひとつで彼女の首を締め上げる。
シモンズの大きな指で気管を圧迫され、ルティシアの喉は隙間風を通すような音を鳴らした後、沈黙した。
「もう一度聞かなきゃならないか?」
鈍い動きで右手を掴んでくる彼女の細い腕を見下ろしつつ、シモンズは言った。
酸素はおろか空気すら吸入できない状況の中、ルティシアはそれでもシモンズを睨み上げた。
不定期に、空気を求める音が喉で鳴る。
腕を伸ばし反撃を試みるが、自由な彼の左手がそれを妨げる。
「簡単なことじゃないか。娘の居場所さえ教えてくれればいい」
そう言った後、シモンズは右手の指に更に力を加えた。
血流までもが制御され、ルティシアは身の危険を明確に認識し始めた。
「ルティシア。娘はあんたを置いて出て行った。庇う理由なんてないだろ?」
ある程度家庭内事情を知っているのか、と思いつつも、ルティシアの思考の大半は削られそうな命をどうにか保持することに注がれていた。
「どうする?」
かけられた言葉に、ルティシアはシモンズを見る。
目に力を入れたつもりだが、苦悶の表情しか作れない。悔しいが、女1人の力ではこの男には勝てそうにない。
細められたルティシアの目にその色を見て取ったか、シモンズの指に込められていた力が急激に弱まった。
血液が順調に流れる感触がし、久しぶりに肺に入れる空気が気管で音を生み出す。
咳き込むルティシアを軽く見下ろし、シモンズは右手を完全に彼女の首から遠ざけると数歩後退した。
「彼女はどこだ?」
ルティシアの息が整うより先に、シモンズが尋ねた。
隙間風のような音を気管から発しながらも、ルティシアはゆっくりと呼吸のリズムを取り戻す。
シモンズなりの優しさなのか、彼は急かすことなく答えが来るのを待った。
「DC」
脈も落ち着きを取り戻してきた頃、ルティシアはかすれる声でそう呟いた。
「もっと具体的に言え」
ため息交じりの強い口調でシモンズが言い放った。
「それ以上は知らないよ」
捨てるように吐かれた言葉に、シモンズが再びルティシアに歩み寄る。
先ほどの仕打ちが頭を過ぎり、ルティシアは首を押さえつつ口を開く。
「あんたの言ったとおり、あたしは置いてかれたんだ。あの子が連絡をとろうはずがないじゃないか」
シモンズが足を止め、ルティシアの目を観察する。
怯えている、と捉えられるのだけは許せなく、ルティシアは視線を逸らすとゆっくりとした余裕のある動きでソファに背をもたれかけさせ、次いで頭を預けた。
その体勢が認識させるのか、意識が遠くへ呼ばれた気がした。
「……そういえば、大学に行くとか言っていたっけね」
呟きつつも、知っているのはそれだけだよ、とシモンズを一瞥し、ルティシアは目を閉じた。
視界から外界が消え、シモンズの存在が急速に遠のき、ノイズの入った瞼の裏だけが映し出される。
いっそこのまま、そのノイズに同化してしまえば楽になれるだろうに。
同化して意識を手放せば、煩わしい世界から、逃れられる。
手を瞼に当てれば、温かい己の体温が感じられた。
ふと、どこかから深いため息が聞こえてきた。苛立ちと諦めの両方が入り混じっているらしいその音に、ルティシアは再び現実世界に意識を戻す。
ふらふらと漂う彼女の意識を感じ取り、シモンズはこれ以上突き詰めても無駄な労力となることを察した。ざっと部屋をスキャンしても分かるとおり、彼女は酒に頼らなければ正常を保てない状態なのだろう。
最後に一言、5文字語を吐き捨て、シモンズは踵を返すとルティシアを振り返ることなく一直線に部屋を後にした。
荒々しく閉められたドアの音が聞こえてからまもなくして、ルティシアはゆっくりと瞼の上の手を退けると目を開けた。
目に乗せられていた手から力が加わっていたせいか、視界はいつもよりも濁っていた。
首を落とすように回し、漠然と部屋の床を眺める。
ウォッカの瓶が置いてあるテーブルの下には、先ほどシモンズに振り落とされたグラスが転がっていた。それから漏れ出た液体は、カーペットを薄汚く染め上げている。
洗おうという気はまったく起こらない。そこかしこに似たようなシミができている以上、それが増えるのも自然な現象だろう。
グラスを拾い上げ、ルティシアはウォッカの瓶を手に取り、何もかも忘れさせてくれるその液体を注いだ。
途中、不意に笑いが込み上げてくる。
「あんたもあたしの子だねぇ、ベス」
娘はどこだ、だとさ、と呟く。
一癖どころか二癖も三癖もありそうな男が探しているとは、一体何をしでかしたのか。
ふと、そう思ったが、突き詰めようとは思わなかった。
一時の情に流されて孕んだ子だ。
かわいいと思う時期もなかったわけではないが、自分を捨てた男の子供、という絶対的な事実が徐々に重く、不快なものになっていった。あの男にとって女は一時の快楽の相手だったようだが、子供はずっとかわいい存在だったらしく、そのこともルティシアの気に障った。
そんなに気に入っているのであれば、父親として堂々と名乗り出て、引き取るなり何なりすればよいものを。
しかし彼はそうしなかった。世間体もあるだろうが、何よりその子の『母親』とは関わりたくなかったのだろう。ルティシアにしてみても、己を捨てた相手に縋りつくような真似だけはしたくなかった。
一度アルコールが加われば、愛しさよりも憎さが前面に出る。そうなるのも時間の問題だった。そして憎さの矛先はは、離れていった人物よりも身近にいる人物のほうへ向けられた。
あれが最初に家を飛び出したのは、いつだったろう。
意識が混濁するくらい酒を飲んだ翌日だったろうか。
気づいたら手を上げていた、あの直後だっただろうか。
そこまえ考えて、ルティシアは思考を中断した。
思い出したところで、何になるでもない。
親子の縁は既に切れているのだ。
何が起こっていようが、知ったことではない。
ソファに体重を預け、天井を仰ぎ見る。
明るいとはいえない照明の中、建物の古さを感じさせるシミがそこここに浮き上がっていた。
上の階の住人の足音など、耳を澄まさなくても普通に周囲に存在している。
ソファの背に預けていた頭を転がせば、汚れた窓が目に映る。
暗い外は黒く、どうやら雨が降っているらしい。
それを視界に入れつつ、ルティシアはウォッカの入ったグラスを思いっきり傾け、液体を口に流し込んだ。
おいしいと感じることはない。それでも体が渇望する。手が止まらない。
飲めば飲むだけ、時間を忘れていられる。
流れ込んだアルコールが何かに触れたのだろうか、目を閉じれば、不意にいつの日かの娘の輪郭が思い出された。
会わなくなって久しいというのに、ぼんやりとしていたそれは徐々に鮮明となり、彼女の顔が瞼の裏に浮かぶ。
それでも。
あれもまた、自分を捨てたのだ。
何も、寂しいなど、思ってはいない。
娘は出て行った。ただの事実だ。
ルティシアは目を開き、遠い面影を再び記憶の奥底に追いやった。
それと同時に、心の中にある隙間が存在感を増す。
「……テディー」
空虚を埋めるように、最近で最も近しかった人物の名前を呼んだが、声は雑然とした室内に吸収されるだけで届いて欲しいところには届かない。
弱くなる心を認識しないため、ルティシアは脳内を支配していた情念を追い払い、ウォッカのボトルに手を伸ばした。
雨足は強まってきているようだ。
夜中の雨のおかげで視界は悪く、加えて街灯があまり機能していないここでは暗闇に身を紛れ込ませるのに苦労することはなかった。
ジミーはルティシアの部屋を後にすると、どこからか雨漏りのする廊下を通り抜けて一度屋上へ出た後、隣のアパートに入り込み、そこから表へ出た。
無駄に思える経路をとったのは他でもない。
通りには本物の捜査官がルティシアの部屋を見張っているからだ。
詳しいことは知らないが、どうやら彼女の恋人が彼らの狙いらしい。
仕事熱心なところには敬意を示さないでもないが、彼らの存在が好ましくないことであることに変わりはない。
そのせいで、慎重に動くことを余儀なくされた。
捜査の目をすり抜けてルティシアの部屋へ行くことについては雨がいくらか助けてくれたが、肝心の情報についてはいいものを得たとはいえない。
もっと強く押し出ていれば、漠然とした場所以上の情報を引き出せたかもしれないが、そうなると事が大きくなる危険性があった。
(……面倒だ)
見るからにアルコール中毒の彼女から何か聞き出せただけでもよしとするべきだろう。
ジミーは苛立ちの混じったため息を吐く。
整備が行き届いていない地面には、歪な形をした多数の水溜りができあがっている。
スーツの裾が濡れることを何とも思わず、駆け足で近くに止めた車へ足を進めた。
ドアを開け、体を運転席に滑り込ませる。
車内には屋根を叩く雨音が響いていた。
顔を撫でて水気を払い取り、ジミーは車のキーを差し込む。
(……DCか)
向かうべき場所を心内で呟き、キーを回す。
エンジン音に、車内の雨音がかき消される。
車はライトをつけずに暫く走った後、そのまま雨の中に消えていった。