IN THIS CITY

第3話 Unspoken Truth

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23 You're the Calm

 全身がぐったりとしており、動かそうにも動けない。
 揺れる感覚のする中、うっすらと目を開けた先、蛍光灯の眩しい光がエリザベスの目に入ってきた。
 先生、と声がした。
 視線を声のほうへ向けたが、光の加減で顔が見えない。
 だが、その声の主に抱かれていることは分かった。
 娘が、と彼女が言った。
 声の調子は震えており、焦りすら感じさせるものだった。
 娘が、娘の熱が下がらないんです、意識もこんなに、呼んでも返事が、どうすれば――
 口がうまく回らない中、彼女が必死に訴えている。
 蛍光灯の光を彼女の姿が遮ったとき、その顔が見えた。
『お母さん?』
 呼ぶと同時に、意識が浮上する。
 その流れに沿って目を開ければ、薄い明かりの中、枕が目に映った。
 五感が働き、夢を見ていた、と分かる。
 認識すると同時に、今の今まで感じていた気だるい感覚は引いていった。
 枕を見つつ、エリザベスはゆっくりと瞬きをした。
 いつの頃だったか、はっきりしたことは覚えていない。
 幼すぎたせいで記憶が曖昧なのか、それとも高熱を発症していたせいか、いずれにしても、病名が何だったのか、何が原因だったのかも覚えていない。
 ただ、頭の中がぼうっと熱っぽく、辛かったことは覚えている。
 ゆっくりとした息を吐きつつ、エリザベスは目を閉じた。
 母親の出てくる夢など、ろくでもないものばかりだった。それなのに、今回だけは違った。
 父親との一件で感傷的になっているせいだろうか、やけに好意的な夢だった。
 ゆっくりと目を開ける。
 好意的で、どこか懐かしさを感じさせるものだった。
 思い返せば確かに、病院に連れられていったこともあった気がする。
 再び、瞬きをする。
 その一瞬の間に、必死に医者に訴えていた母親の姿が再生された。
 温かく感じられるそれを、だがエリザベスは慌てて追いやった。
 あの母親からは想像できない姿だ。
 それなのに、実際にあったことだと感じるのはなぜだろうか。 
 エリザベスは一度目を瞑って体を伸ばすと、ブランケットを押さえつつ上体を起こした。
 それとともに、先ほどの夢を頭の片隅にしまいこむ。
 ふと、側を見る。
 隣で寝ていたはずのウォレンを探せば、窓の側の椅子に座り、肘掛に手杖をついている彼の姿が見えた。
 カーテンは閉められているが外は明るいらしく、逆光となっており表情は窺えないが、どうやら目を閉じているらしい。
 寝入っている姿はあまり見たことがない。エリザベスは微笑むと、気づかれないようそっとベッドから足を下ろした。
 が、布が擦れる音が耳に入ったか、気配を感じてウォレンが顔を上げる。
 しまった、と思いつつエリザベスは髪の流れを正した。
「おはよ」
 朝の挨拶をすれば、同じように返しつつ、ウォレンが手を目に当てる。
 様子を見る分に、けっこう前から椅子に座っていたらしい。
「起こしちゃった?」
「いや」
 目から手を離し、ウォレンが、別に、と笑みを作る。
「よく眠れた?」
 睡眠が不足しているように見えるウォレンに対し、エリザベスが投げかければ、ああ、と一言返ってきた。
「疲れてそうよ?」
 見たままのことを言えば、ウォレンがエリザベスを見る。
「そうか?」
 彼自身、体のことは把握しているだろう。だが、敢えて気付かないふりをしているところに、エリザベスは肩を下ろして微笑んだ。
「私、シャワー浴びてくるわ」
 宣言すれば、ウォレンが、そうか、と頷く。
「終わるまで休んでて」
 ベッドを目で示しつつ、エリザベスはブランケットの裾を持ち上げ、バスルームを目指した。
 彼女の背中を見送り、ドアが閉まる音を聞き届けると、ウォレンは今一度両手を目に当てた。
 あまり眠っていないのは確かだが、そのせいか精神的な面が顔に出ているらしい。
 しまったな、と己を戒め、手を下ろす。
 顔を横に向ければ、カーテン越しに朝の光を感じる。
 朝の静けさの中、ウォレンは頭を椅子の背に預けた。


 水気を拭き取った髪の毛は、湿っているせいかいつもよりウェーブがかっていた。
 鏡で顔を確認すると、エリザベスは静かにバスルームから一歩外に出た。
 ベッドのほうを見やるが、結局ウォレンは横にはならなかったらしい。
 カーテンが開けられた室内に、外の朝の光が差し込んできていた。
「朝食、食べにいくか?」
 言いつつ、組んでいた足を解いてウォレンが椅子から立ち上がろうとする。
「まだいいわ」
 そのまま、と匂わせ、エリザベスは窓際のもうひとつの椅子まで歩いた。
 それを引き寄せ、ウォレンの側に座る。
 改まって彼を見るが、先ほど垣間見た疲労はうまいこと隠されており、いつもどおりの目と目が合う。
 余計な心配をかけさせまいとする心は理解できるが、もう少し、気を緩めてくれてもいいだろうに、とエリザベスは息をついた。 
 ふと視線を下げれば、ウォレンの左腕に目が止まる。
 羽織られた薄手の上着に、じんわりとした赤い染みが浮き出ていた。
 深く考えるでもなく、先日負った銃創からの出血であることが分かる。
 傷口が完全には閉じていないのだろう。
「血が出てる」
 指摘され、ウォレンが自分の左腕に視線をやる。
 状態を確認した後、本当だ、と呟くと出血で染まったところを右手で覆い隠した。
「ちゃんと休んでる?」
 尋ねはしたものの、撃たれた後もウォレンがろくに体を休めていないだろうことはエリザベスにも分かっていた。
「ああ」
 返ってきた言葉は肯定だったが、エリザベスは疑問の眼差しを正面から送った。それを受け、少し時間を置いた後にウォレンが訂正する。
「そこそこには」
 その一言に、エリザベスは小首をかしげた。
 TJの言うとおり、ウォレンにも見栄や強がりといった種類の感情が存在するらしい。
「ガーゼと包帯、持ってきてる?」
 エリザベスの問いに、ウォレンは一瞬の疑問の間を置いた後、一応、と答える。
「貸して」
 エリザベスが右手のひらを上に向け、催促する。
「自分でできる」
「私がするから、脱いで」
 押しの一言に、ウォレンは軽く眉を上げた。
「……悪い気はしないな」
「いいから、早く」
 促され、了解、と手のひらを見せると、ウォレンはガーゼと包帯を入れた袋をエリザベスに渡し、羽織っていた上着を脱いだ。
 処置しやすい場所に椅子を移動させ、エリザベスはウォレンの左腕から古い包帯とガーゼを取り除いた。
 縫合された傷口の一部から、血が滲み出ているのが見える。
 一見して分かるような腫れはないが、周辺部は変色している。
 そっと指のひらを当ててみると、少しだが熱を持っているようだった。
 ふと視線を感じ、傷口から目を離してウォレンを見る。
「ちゃんと治ってきている」
 心配するな、と彼が表情を緩めた。
 つられて小さく微笑すると、エリザベスは傷口の周りを消毒し、新しいガーゼを当てた。
「……ありがとうね」
 包帯を手に取り、呟く。
「完治していないのに、運転してくれて、一緒に来てくれた」
 ガーゼを押さえて包帯を巻きつつ、エリザベスはウォレンの目を見た。
「心強かったわ」
 伝えた後、エリザベスはウォレンの左腕に視線を落とし、処置を進めた。
「君は――」
 元々強いひとだ、と言いかけたが、ウォレンは口には出さなかった。
 エリザベスは、そう評価されることが好きではないらしい。
「――……君の役に立てたのなら、喜ばしいことだな」
 返ってきた声に、エリザベスは笑顔を向けた。
「それに、あなたの過去に繋がりのあるところへ連れてってもらえたし」
「過去?」
「嬉しかったの。あなたの過去を知ることができて」
 エリザベスがヤング家のことを言っているのだと知り、ウォレンは頷いた。
「大した人生じゃない」
「そう?」
 返しつつ、エリザベスはゲストルームの引き出しの中にしまわれていたノートのことを思い出す。
「……ノートに書いてあった、『リーアム』って誰?」
「ん?」
「ヤング家へのメッセージ」
「ああ」
 あれか、とウォレンが自由な右手で額の端を掻く。
「ここで知り合ったやつだ」
 相槌を打ち、エリザベスが続きを促す。
「家出してNYに出てきていた」
「あなたみたいに?」
 視線を上げてウォレンを見れば、苦笑が返ってくる。
「俺の場合は違う」
「ジェイはそうだって言ってたわよ?」
「あいつは――、……まぁそれに近いところもあったかもしれないが――」
 窓のほうへ視線を逃がし、ウォレンが途中で切る。
「……そのうち、な」
 エリザベスに対してそう告げると、ウォレンは口を閉じて彼女を見た。
 穏やかな表情を受け、そのうちね、と了解すると、エリザベスは微笑みを返した。
 隠そうとせず、いずれ、というウォレンの姿勢が彼女にとっては嬉しかった。
 もっと知りたい、というのが本音ではあるが、急ぐ必要はないだろう。
「できた」
 包帯が綻びないよう施し、エリザベスはウォレンの左腕から手を離した。
 礼を言い、ウォレンが左腕を曲げ伸ばしする。
「動かしにくい?」
「いや、丁度いい」
「よかった」
 言いつつ、エリザベスは古いガーゼと包帯を紙袋に入れる。
 その所作を見ていたウォレンだったが、やがて彼女の目に視線を固定した。
 それを察したか、まだ乾ききっていないウェーブがかった髪を跳ねさせ、エリザベスがウォレンを見る。
 が、暫く経っても何もこない。
「……何?」
 尋ねつつ、エリザベスは自分に向けられている眼差しがいつもと違うことに気づく。
 いや、時折見かける目だが、いつもはエリザベスがそれに気づくとすぐに消える色だった。
 それが、今朝はずっと残っている。
 不思議に思うエリザベスの表情が変わって初めて、ウォレンは目を伏せるように視線を逸らした。
「別に」
 何でもない、と立ち上がろうとしたが、
「ウォレン」
 と制され、無言の疑問を投げかけられる。
 エリザベスの目に不安らしい色を見、ウォレンは浮かしかけた腰を下ろした。
「何でもない」
 微笑とともに再び告げるが、十分ではなかったらしい。
 促すエリザベスに対し、ウォレンは口を開くと付け加えた。
「ただ――」
 言いかけて、一度視線を落とす。
「――君といるときが一番、穏やかな気持ちになれる」
 目を合わせながらそう告げるが、即時的な反応は返ってこなかった。
 突拍子もないことを言われればそうだろう。
 困ったような顔をされるが、思考には昨夜の一件が大きく巣食っており、気の利いた補足は思いつかなかった。
 右手を伸ばし、彼女に触れる。
 危ない目には遭わせられない。
 昨夜出した結論を、ウォレンは改めて受け入れた。
 どうしたの、とエリザベスは尋ねようとしたが、左頬に手が添えられ、機を失う。
 普段と違う、と感じるが、ウォレンが今何を考えているのか、察することはできなかった。
 ただ、告げられた言葉に真実味がこもっていたのだけは分かった。
 これまでに時折彼が見せた目の意味するところを知り、エリザベスは微笑を返した。
 いつも平然としているウォレンだが、彼もまた、不安を感じるようなことがあるのだろう。
 それが何なのか、聞きたいところではあったが、エリザベスは尋ねる代わりに、それなら、と言葉を架けた。
「……側にいて」
 添えられた右手に顔を寄せ、静かに一言、告げる。
 目を合わせれば、ウォレンもまた表情を和らげた。


 隙間のあった雲だったが、いつの間にか空一面を覆っていた。
 ブレーキを感じ、エリザベスは窓から目を離した。
 バスを降り、歩道を歩く。
 ひんやりとした空気に誘われ、エリザベスは顔を上げた。
 目に映る景色には見覚えがあるが、さすがに3年もの月日が流れれば、変わった、という感想を抱いてもおかしくないだろう。
 高校を卒業まで世話になっていた場所。
 大学の講義は始まったが、休日を利用し、こうして足を運んできた。
 NYのホテルであの夢を見て以来、母親のことが気になってしまい、気がつけば、久しく訪れていない家へ帰ることを考えていた。
 酒に溺れ、暴力的だった彼女だ。気にかける対象でもないはずなのに、なぜか心に引っかかった。
 深く息を吸って吐き、エリザベスは足を止めた。
 馬鹿らしい、とも思う。
 このまま何もせずに今住んでいるところに戻ることだってできる。
 そもそも、ここに来ないことだってできたはずだ。
 会おう、と強く決心してやってきたわけでもなく、エリザベスは足元を見ると暫く迷った。
 だが、やがて顔を上げると、もう一度息をつき、進んでいた方向へ足を歩ませた。
 直視していなかった父親との関係に、ひとつの結論を出せたのだ。
 これを機に、ひたすら忘れ去ろうとしていた母親との関係にも、納得できる結論を見出せるのかもしれない。
 どう転ぶにしても、はっきりとした区切りをつけることができるのなら、それが望ましい。


 住んでいたアパートの階段を上り、部屋のドアの前までそっと足を進める。
 相変わらず明るくない廊下は、心なしか古くなったようにも見えた。
 立ち止まり、心を決める呼吸をとると、エリザベスはドアをノックした。
 暫くして、中から人の返事が聞こえてくる。
 緊張が高まるが、ここまできては引き返せない。
 バッグを握って待てば、鍵が開く音がし、次いでドアが開かれた。
「誰だい?」
 チェーン越しに聞こえてきた声は、だが知らない声だった。
 覗き込めば、住人もまた顔を出す。
 知らない女性だ。
 年齢的には母親と同じくらいだろうが、まったく違う。
「何か、用?」
 テレビの音声が流れてくる中、何も発さないエリザベスに対して、怪訝に女性が尋ねてくる。
「――あ、いえ。あの、……ルティシアはいますか?」
「ルティシア?」
「ルティシア・フラッシャーです。ここに住んでいたはずなんですが……」
「住んでいた?」
「3年ほど前には――」
 ああ、と女性が頷く。
「前の住人ね。もういないよ。今はあたしらの家」
 そう告げると、女性は片足に重心を大きく載せた。
「そんだけ?」
 ドアを閉めてテレビの前に戻りたそうな雰囲気に、エリザベスは、はい、と頷いた後、あ、と続ける。
「すみません。どこに引っ越したか、分かりますか?」
「悪いけど知らないね。それじゃ」
 言い終わらないうちにドアが閉められ、その音にエリザベスは半歩後退した。
 暫時その場に立っていたが、やがて手を下ろす。
 気負っていたものがなくなり、放心したような心境がやってきた。
 引っ越した、という話は聞いていない。聞いているほうがおかしいといえばそうなるのだが、何の連絡もなかった。
 エリザベスは下がっていた視線を上げ、住んでいた部屋のドアを見た。
 あまりの呆気なさに、次の行動を考えられない。
 どれくらいか時間が経った後、何よ、と小さく一言捨てると、エリザベスは部屋のドアに背を向けた。


 外に出れば、濃淡の少ない灰色の空が広がっていた。
 振り返ることなく一定の速度で足早にバス停を目指す。
 せっかく人が話し合おうと思って足を運んでみれば、この様だ。
 もう二度と気にかけるものか、と内心で憤りを母親の記憶にぶつけつつ、エリザベスは顔にかかっていた髪を掬った。
「エリザベス?」
 右に折れようとしたときに、反対側の歩道から声がかかってくる。
 ふと顔を上げれば、薬剤師の服装をした懐かしい人の姿が目に入った。
「ビアンカ」
 それまでの苛立ちを忘れ、思わず笑顔がこぼれる。
 驚いた顔をしていたビアンカもまた、笑顔をエリザベスに送り、車がこないことを確認すると道路を渡って駆け寄ってきた。
「久しぶりじゃないの、すっかり大人になって」
「あなたも元気そうで何よりだわ」
「あら、私はいつでも元気よ」
 少し屈んでビアンカとハグをしつつ、互いに再会の喜びを分かち合う。
「グリーティングカードありがとうね。いい大学生活が送れているみたいで、安心したわ」
「ええ、おかげさまで」
 体を離し、正面からビアンカと目を合わせる。
 エリザベスにとっては、実の母親よりも彼女のほうが「母親」だった。
 近くに住んでいることもあり、小さい頃から、実の母親からは学べないことを色々と教えてもらっていた。
 ビアンカ自身には子どもはおらず、その分までかわいがってくれていたように思える。
 母親との生活に疲れ、挫折しそうになったときにも側にいてくれ、曲がった道に進まないよう、厳しく優しく諭してくれた存在だ。
 彼女がいなければ、今頃は母親と似たような人生を送っていたかもしれない。 
「仕事はどう?」
 尋ねれば、眉をしかめてビアンカが苦笑する。
「相変わらずよ。今日も店にやってきたヤク中の若者を叱ってやったわ。毎回『金は後で払うから』なんて言って、まったく」
「万引きするよりもマシなんじゃないかしら?」
「ええ。売人から買っている連中よりもマシだけどね」
 そうね、と相槌を打ちつつ、以前と変わらないビアンカの様子にエリザベスは笑顔を送った。
「それで、今日は何でまたここに?」
 もっともなことを尋ねられ、エリザベスが一度ビアンカから目を逸らす。
「……ちょっと、母のことが気になって……。家まで行ったんだけど――」
 両手のひらを上に向け、首を振った。
 その様子に、ビアンカが怪訝な表情をする。
「あれ、知らなかったのかい?」
「何を?」
 疑問を返すエリザベスに、ああ、とビアンカがため息をつく。
「ルティシアったら、やっぱり言ってなかったんだ」
 首を横に振り、しまった、とビアンカがエリザベスを見る。
「ごめんね、あなたに連絡したの、って聞いたとき、彼女『したわよ』って答えたから、てっきり知っているものだと……」
「じゃ、あの人、あなたに引越しのことを?」
 ええ、とビアンカが頷く。
「いつになく忙しそうにしてたから、気になってね。まぁ、詳しいことは話してくれなかったけど、引越し先の街の名前だけでも、と思って聞き出したの」
「どこ?」
「NY」
 耳に入ってきた都市の名前に、エリザベスは一瞬息を止めた。
 あのホテルで昔の夢を見たのは、偶然ではなかったのかもしれない。
「……何でまた引越しなんて……」
 息をつきつつ呟く。
 そうねぇ、と相槌を打ったビアンカの表情が、ほんの少しだけ変わった。
 それを見、エリザベスが納得する。
「……男ね」
「エリザベス――」
「いいのよ、慣れているから」
「けど――」
「大丈夫」
 笑顔を作れば、ビアンカが申し訳なさそうな表情をする。
 あなたは悪くないのよ、と言おうとしたところ、ビアンカが先に口を開いた。
「でも心配なんだよね」
 ふと、彼女がアパートのほうを見やった。
「……ちらっと相手の人を見たんだけどね」
 そう言うと、ビアンカは首を振って後を省略した。
「……あの人は、ろくな男を選ばないわ」
 告げた後、メルヴィンの姿を思い出した。
 母親は、彼の時間がもう少ないことを知っているのだろうか。
 いや、知っていたとしても、関係のないことなのかもしれない。
「……悪いね、連絡先まで聞き出せなくて」
 聞こえてきたビアンカの声に、エリザベスは顔を上げると首を振った。
「いいのよ。気遣ってくれて、ありがとう」
 その言葉を受け、ビアンカが微笑する。
「家、寄って行くかい?」
 申し出に、エリザベスは、ええ、と頷いた。
「喜んで」
「よかった」
 エリザベスの背中を軽く叩き、ビアンカが歩き出す。 
 彼女に続く前に、エリザベスは一度アパートのほうを振り返った。
 NYで何をしているのか、それは分からないが、恐らく変わらない生活を送っているのだろう。
 視線を下げ、地面を見る。
 街路樹から落ちた葉が、風に吹かれて足元を転がっていき、それに追いやられたのか、ハイイロリスが足早に波を描いて近くの樹木へと走り去っていった。
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