IN THIS CITY

第3話 Unspoken Truth

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08 The Only Lead

 体にしっくりくるクッションを背中に、TJ・グラスフォードは広めのソファの上で仰向けになっていた。
 右手にスプーンを持ち、大きいサイズのストロベリー・アイスクリームの箱をタオルでくるんで腹部の上に置き、それを抱えている左手に一枚の紙を挟み、眺めている。
「うん、いいんじゃないかな」
 くり取ったアイスを口に運び、TJは弾みをつけるとソファから立ち上がった。
 白と茶で質素に統一された天井の高い空間は、彼女が護衛を勤めているコニー・プレイガーの書斎である。コニーの夫であるモーリスはインテリア・デザイナーとして名が知られており、この部屋をデザインしたのも彼だ。彼の過去に関しては黒い部分が大半を占めるが、コニーと結婚して以来、足を洗い現在の仕事に力を注いでいる。
 しかしながら縁が切れない過去を持っているということで彼がコニーの身を案じ、護衛として雇ったのがTJだ。ただ、護衛といっても格式ばった堅苦しい関係ではなく、コニーとTJは年が近いこともあり、友人のような間柄である。
 眼鏡をかけ、パソコンに目をやっていたコニーがTJを視界の端に捉え、彼女へ顔を向けた。
「まとまっていて――」
 手を動かそうとしたTJは、アイスクリームのせいで両手がふさがっていることに気づき、近くのガラス製のテーブルの上に一式を置いた。
 改めてコニーに向き直れば、眼鏡を外した彼女と目が合う。
「無駄がなくて客観的でいい文章だと思うわよ。もう手直しはいらないんじゃないかな」
 紙を持った手で手話を交えて告げれば、照れた様子でコニーが微笑んだ。
 とある新聞の編集者から依頼された原稿を提出する前に、TJに読んでもらっていたところだった。
 キーボードの上に乗せていた手を胸の前に持ち上げ、コニーは長い指を舞うように動かす。
「そうね――」
 コニーの意見にそう呟きつつTJは一度紙に視線を落とした。
「――私は『困難な時』よりも『試練の時』のほうが好きだな。前向きで、乗り切ってやろうっていう気概が感じられるもの。だから直さなくていいと思うわよ」
 TJの手を見ていたコニーが視線を上げた。
「ありがとう」
 礼を言葉で表したコニーに対し、TJはにっこりと明るい笑顔を向ける。
「どういたしまして」
 返事を返した後、紙をまだ所持していたことに気づき、コニーに手渡す。
「ごめんね、端にちょっとアイスがついちゃった」
 構わないわ、と受け取りながらコニーは軽く肩を動かす。
 TJはガラス製のテーブルに置いたアイスの箱とスプーンを手に取ると、再びソファへ戻ろうとした。
 途中、携帯電話の音を耳にする。
 仕方なくアイスを置き、携帯電話が置いてある棚へと足を運んだ。
 その姿を一瞥し、眼鏡をかけるとコニーはやりかけの仕事を片付けるためパソコンに視線を戻した。
 TJが着信の相手を確認すれば、アレックスからのものであることが分かる。この時間帯に珍しい、と思いつつも通話のボタンを押した。
「アレックス? デートのお誘いにはまだ日が高いんじゃないかしら」
 軽くからかえば、それは残念、と短い言葉が返ってきた。
 彼の声の質がいつもと微妙に違うことに気づき、TJは少しばかり眉をひそめる。
「――今? コニーの書斎だけど」
 言いつつコニーを見た。彼女が液晶越しに顔を上げる。
 アレックスからの電話であることを手で告げれば、TJの様子に感じるところがあったのだろう、コニーが眼鏡を外し、見守る姿勢をとった。
「――ええ、空いているけどコニーにまず聞かないと。ちょっと待って」
 携帯電話を離し、TJはコニーに向き直った。
「アレックスが今から来て欲しいって。帰りは何時になるか分からないけど、いいかしら?」
 問えば、構わないけど、とコニーが後半の手の動きを遅くする。
 ちょっと待って、とTJが示し、携帯電話を耳に持っていった。
「大丈夫だけど、何があったのか、まず理由を聞かせてくれないかしら」
 2人分の疑問を乗せ、電話越しに問う。
 詳細は後から話すが、という前置きをし、アレックスが要所だけをTJに告げた。
「――……分かった。すぐに行くわ。――いいわよ、お礼なんて」
 それじゃ、と切り上げ、通話終了のボタンを押す。
 振り返り、疑問を呈するコニーを見た。
「詳細は分からないけど、ウォレンがちょっとトラブってるみたい。人手がいるらしいから、行ってくるわ」
 案の定、コニーが心配そうな表情をする。何が起こったのか聞きたそうだが、それはTJも同じだった。
「何か分かったら連絡するから」
 そう告げれば、コニーが不安げなまま頷く。
 TJは頷きを返すと車のキーを手に取った。
 ドアへ向かう途中、
「TJ」
 と背中に声がかかってき、コニーを見る。
 気をつけて、とTJの身も案じる彼女に微笑を返し、ドアノブに手をかけた。


 鉛直水平両方向に厚みを増した雄大積雲が上空に重々しく浮かび、日差しを遮り地上に陰を落としている。やがて激しい雷雨をもたらすだろう。
 日中に受け取った熱を放出する道路の両脇には一軒家がずらりと並んでいた。
 本来ならば暑さをいとわず遊びまわる子供たちの声で溢れているところなのだろうが、ほとんどの家の前には『売り家』と書かれた看板が不恰好に突き刺さっていた。
 手入れの行き届いていない家々は寂れており、日差しの翳りがそれをいっそう際立たせている。
 その一角に、売り家の看板が立てられていない家が一軒建っていた。
 何度か駐車に失敗したのだろう、ガレージの扉は青い塗装の痕跡を持ちつつ歪んでおり、手前には一台の車が斜めに止められていた。
 その家の中。
 雑々とした狭い空間内は薄く靄がかかったように煙が充満していた。
 効きの悪いエアコンが生み出す大きな音を嫌ってか、やや大きめの音量で誰の注目も集めていないテレビがつけっ放しにされている。
 日が翳ったとはいえ、日中暖められていた室内では軽い上着すら邪魔に感じる。
 タンクトップ姿になり、破れの入ったソファに腰かけて右足の靴を脱ぎ、ジミーは足首を見やった。
 車ごと建物の壁にぶつかったときに車内で痛めた部分は、いつもよりも腫れぼったくなっている。
 目の前のテーブルに用意しておいた湿布を取ろうとしたが、様々なものが無造作に置かれているせいか、一瞬どこにあるのか見つけられなかった。
 代わりに動くものを視界の上部に捉えて視線を前方に向ければ、キッチンのテーブルの椅子に座っているアロンソの姿が見える。
 先の路地で怪我をしたらしく、右肩の後ろに木片が刺さっていた。ステュが縫い針を使い、簡単に手当てをしてやっている最中だ。
 痛み止めの麻酔としてモルヒネを注射してもらったはずなのだが、それだけでは満足できなかったのか、アロンソはマリファナまでふかしている。ステュは文句を言っていないが、安物の匂いを迷惑に感じていることだろう。
 吸うのを止めろ、と言いたいところだが、この家はアロンソのいとこのものである。そのいとことやらは数日前から出払っているらしく、現在はアロンソが実質的な家の持ち主である。
 馴染みのない界隈であるため、他に行く当てがない。となると、借りている分強く出ることができない。
 1本くらい吸わせてやればいいか、と妥協し、ジミーは視線をテーブルに落とした。
 ようやくに見つけた湿布を手に取り、足首に貼る。
 できればこのひんやりとした心地よい感覚を全身で受けたいものだ。
 用意しておいたビール瓶から一口、生ぬるくなり始めた液体を頂戴すると、ジミーは靴を履いて立ち上がった。
 居間とキッチンとの間にある廊下を少し歩き、隣の部屋の様子を窺う。
 元々存在していた家具類を壁際に押しやったせいか、広く感じられる。
 その部屋の中心。
 先の路地で捕らえた男が、頭を垂れ、後ろ手にダクトテープで縛られた状態で椅子に座らされていた。
 ぴくりとも動かないところを見ると、まだ意識は戻っていないらしい。
 地下に放り込もうかと考えたのだが、工具やら何やら、動かしにくいものが保管されていたためこの部屋に入れた。幸い近辺には人がいない。多少の大きな音や声が発せられたとしても誰も気づかないだろう。
 ジミーはビール瓶を手にぶらさげたまま、一歩部屋に入った。
 右横を見れば、棚の上にその男の所持品が無造作に並べられている。
 拳銃を手に取り、軽く観察する。見たところ丁寧に手入れされているようだ。
 バッジがないところをみると捜査機関の人間ではないだろう。潜入捜査官かとも思ったが、そのようには見えない。となると、銃を不法所持している、ということになる。
 同業者か、あるいはそれに近い種類の人間なのだろう。
 ジミーは拳銃を置き、次いでウォレンの携帯電話を掴むと開いた。
 ロックはかかっていないが、アドレス帳には何も記載されておらず、履歴は発信・着信共に削除されており、テキストメッセージも何も残されていなかった。
 口を結んだままため息をつき、ジミーは依然として動かないウォレンを見た。
 ゆっくりとした足取りで絨毯を踏むまで、床との間に音を生み出すが、起きる気配はない。
 警戒は怠らずに慎重に近づく。が、意識がないのは真らしい。
 足を止め、彼の左腕に視線を落とす。
 失血死されては困るため、銃創の上のほうを薄い上着の上からきつく縛っておいたが、中に留まっている弾の摘出は当然ながら見送った。
 傷口の近辺は赤黒く染められており、熱を持っているだろうことも窺える。
 ジミーはウォレンに近寄り、ビール瓶の腹で頬を叩いた。
 鈍い感触だったのか、反応は薄い。
「起きろ」
 言いつつ、もう二度ほど叩いてみたが、結果は同じだった。
 一呼吸の後、ビール瓶を持っている右手を持ち上げ、ウォレンの頭の上で傾ける。
 まだ十分に残っていた液体が流れ出、彼の頭に到達すると跳ね、鉛直下方から四方八方に進路を変えた。
 ビールが瓶から全て流出する頃になり、剛体より流体のほうが効果があったらしく、ウォレンが顔を持ち上げた。
 無の状態から意識を呼び起こされ、ウォレンは首筋に低温で流動的なものを感じた。
 感覚のみで意識的な認識のないままに、続いて瞼の裏が視界に映る。
 目を開ければ、首筋を流れていたものと同じらしい液体が入ってきた。
 瞬間、痛烈な刺激を目に感じる。
 反射的に目を閉じるが効果はなく、また髪の中を走る液体を感知して頭を振った。手を顔に持ってこようとする。持ってこようとするがそれに反して腕は動かず、代わりに左腕において意識と同じく眠っていた痛みが再び目を覚ました。突如腕を走った鈍い痛みに何が起こったのかと目を開けようとするがそれもままならない。左に顔を向けつつなんとか片目を開き視覚から情報を得ようとする。このときになってようやく、脳が意識的に機能しだした。
 嗅覚が働き、胸焼けがするような匂いが鼻を突く。
 一体何だ、と思いつつも一度固く目を閉じ、頭を振ってまとわりつく液体を散らしてから再び目を開ければ、前に人が立っていることに気づく。
「起きたか」
 落下してきた声に、ウォレンは顔を上げた。
 断続的に閉じられる瞼の合間に、男の顔が垣間見えた。見知らぬ顔、と判断したが間を置いてそれを訂正する。どうも見た記憶があり、声にも聞き覚えがある。思い返そうとする中、髪を伝って滴る液体の匂いが再び嗅覚を刺激した。
 徐々に目を開けていられる時間が長くなり、ウォレンは周囲に視線をやる。手を持ち上げようとするが叶わない。後ろの様子を窺おうとするが椅子に座らされていることを確認しただけに終わった。
「気分はどうだ?」
 雑多な情報が五感から寄せられ、稼動したての脳に負荷を与える。そのせいで、状況の把握と整理に時間がかかった。
 不意に、髪を掴まれ前を向かされる。
「逃げようとしても無駄だ」
 低音でゆっくりとそう告げた後、ジミーは掴んでいたウォレンの髪を乱暴に離した。
 その間にも脳に保存されている記録を過去へ遡り、ウォレンはようやくに現状を理解した。
 路地裏で目の前にいる男に傷口を掴まれたところまでは覚えているが、どうやらその後すぐに気絶してしまったらしい。
 息を吸ってから、しまったな、と舌打ち交じりのため息をつく。
 口を結べば、先ほどから気になっていた、水よりもずっと目にしみる液体が舌に触れる。
 馴染みはないが、覚えがないわけではない。
 何物であるのかを認知した瞬間、胸焼けの度合いが増加する。
 苦手なアルコールの味に、ウォレンは眉をしかめた。気持ち悪いと感じる原因は銃創を負っているからということだけではないようだ。
 その様子を見、ジミーは違うように捉えたらしい。
「安心しろ。女の居場所を言えばすぐに解放してやる」
 ウォレンは一旦ジミーを見上げたが、すぐに視線を部屋の中に移した。
 視野の右側にかろうじて見える窓にはカーテンがかかっており、外の様子は窺えない。だが曇っていることだけは分かった。太陽光があればある程度正確な時間が分かるのだが、現時点では無理らしい。
 決して広くない部屋。どこかアパートかとも思ったが、カーテンには薄いながらも樹木の影が映っており、左前方に位置するドアからは廊下が見える。その奥からはテレビからの音声がやたらと大きく聞こえてきていた。恐らくは一軒家だろう。
 その視野の中にジミーが入り込んでき、ビール瓶を入り口の横の棚の上に置いた。
 棚の上には他に、己の所持品が無造作に放置されているのが見えた。
「それで――」
 耳に入ってきたジミーの声に、ウォレンは彼を見る。
「――どこへ匿った?」
 言いながらジミーは室内を移動した。床と靴の間で生み出される足音が響く。
 相変わらずの問いを受け流し、ウォレンはジミーの右腕をそれとなく注視した。彼のような人物にしては珍しいことではないが、タトゥーが彫られている。
 黒を中心とした、扉と思われる図柄。その両側には何か生き物が描かれている。上部には文字が彫られているが、読まなくてもウォレンには何と書かれているか分かった。
 ふとジミーが進路を変える。
 絨毯の上に彼が足を踏み入れれば、足音が静かなものになる。
「答えろ」
 落下してきた声の主を見上げつつ、ウォレンは軽く首を傾げた。
「さぁな」
 とぼけて返せば、その答えを予期していたのかジミーが右の拳を思いっきりウォレンの腹部に繰り出した。
 急所こそ外れたものの、衝撃は内臓に瞬時に伝播し、吐き気がこみ上がる。
 咳込み、ウォレンは前に屈んだ。完璧に屈みこむことができれば幾分か楽な姿勢を取れるのだが、椅子の後ろに回され、ダクトテープで巻かれている両手がそれを阻む。
 両手自体は椅子に固定されていないため多少の融通は利くとはいえ、じんわりとした嫌な痛みがなかなか消えず、腹部に停滞する。
 深く苛立ちの混じったため息がジミーから漏れるのが聞こえてきた。
 この部屋での物音が聞こえたか、どうした、と新手の声がし、ウォレンは咳込みつつも廊下を見やった。
 やってきた顔には見覚えがあった。確か、ステュと呼ばれていた男だ。半袖を肩まで捲し上げている彼の右腕には、やはりジミーと同じタトゥーが彫られている。
「起きたのか」
 視線をウォレンに固定したままステュが言った。確認のために呟かれたものだったらしく、次いで彼の目がジミーを見る。
「何か話したか?」
「いや」
 返答を受け取り、ステュは再びウォレンに視線を落とす。
 自然と出てくる咳は治まり、腹部の痛みも和らいでいたが、顔を上げて彼らと目を合わすのが面倒くさく、ウォレンは椅子の背に体重を預け、無関心に部屋の隅へ目をやった。
「……あまり出血させるなよ」
「ああ」
「死なせてしまったら――」
「分かってる、ごちゃごちゃ言うな!」
 徐々に強められた口調に、ステュは口を閉じた。
 突如現れた剣呑な雰囲気を感じ取り、ウォレンがゆっくりと顔を前に向けた。
「……俺がやる。お前は引っ込んでろ」
 聞こえてきたジミーの言葉に、ウォレンは彼がアドバイスにしても口出しされるのが気に食わない性格で、また身内の間でも主導権を握っていたいことを知る。
 ステュもまたそれを理解しているのだろう。先の路地では文句を言う姿があったが、無駄に口論をしたくないのか、今は黙ってジミーの意向を受け入れる姿勢を取っている。
 要領の悪い人間に従うとなるとストレスも溜まるはずで、事実ステュの顔にもその色が浮かんでいるのだが、彼は真っ向からジミーに逆らおうとはしていない。
 不思議な構図だが、癇癪持ちと思われるジミーのような存在に対しては、いらぬ波風を立たせないのが吉なのだろう。
 相関図を描いているという態度を隠そうとせず、ウォレンは2人の様子を傍観した。
 その気配をジミーもステュも察したらしい。
 不機嫌にジミーはウォレンを睨み、ステュは無言で冷ややかな目を残して踵を返した。
 足音が消え、音はテレビの音声のみに支配される。
「……何だ」
 ステュが去ってから暫くの間が開いた後、探るな、と暗に含めた声音でジミーが言った。
 ウォレンは一度ジミーから目を逸らし、ステュが去っていった廊下を見やり、十分な間を取ると首を軽く傾けて再びジミーに視線を戻した。
 返答するでもなく無表情のまま、ゆっくりとした瞬きをしつつジミーから室内のどこかへ視線を移す。
 ウォレンのその態度に、一度押さえた苛立ちがジミーの中で再び芽生える。侮られることだけは我慢ならないらしい。
 勇み足でジミーがウォレンへと近づいたとき、廊下から足音が聞こえてきた。
「俺がやると言ったろ!」
 一喝しつつジミーは振り返って部屋の入り口を見た。
 驚いた様子のアロンソが、何か言おうとした口のまま立ち止まる。
 ステュでないことを知り、ジミーは小さく息をついた。同時に勢いも削がれたらしく、絨毯の上で足を止め、手を額に当てる。
 右手に携帯電話を、左手にビール瓶を持ったまま、アロンソはジミーとウォレンを交互に見やった。
 その彼を、ウォレンもそれとなく観察する。
 上半身裸の彼は、先刻の路地で突き飛ばした男だった。怪我をしたらしく右肩には包帯が巻かれている。少し視線を落とせば、白い包帯に上部を隠されつつも、あのタトゥーが目に入ってきた。
「何の用だ」
 努めて穏やかな口調でジミーが問えば、ようやくアロンソの中で時間が再び動き出したようだ。数文字の単語を漏らしつつ考える間を取り、持っていた携帯電話をジミーに見せる。
「――キースに連絡しなくていいのか?」
 言った後、アロンソはジミーの手にも携帯電話が握られていることに気づく。
 彼の目線を追い、ジミーは手元に目をやった。
「……これはあいつのだ」
 言いつつ持ち主を指せば、アロンソがそれに倣ってウォレンを見た。へぇ、と呟いた後、ジミーに視線を戻す。
「なら、それで女に電話をかけてみたら?」
 アロンソの提案に、ジミーとウォレンが彼を見る。
「こっちは人質がいることだし、取引でも持ちかければ、女もひょっとしたら」
 最後まで言わず軽く肩を動かして、分かるだろ、とウォレンの様子を窺いつつジミーに告げる。
 ジミーは再び手元の携帯電話に視線を落とした後、ウォレンを見下ろした。
「……なるほど」
 いい考えだと判断したか、乗り気らしい。
 表情を変えないまま、ウォレンはアロンソからジミーに目を移した。優位に立ったと確信している様子で笑みを浮かべている。
 ジミーは改めてウォレンに向き直ると、彼の携帯電話を見せた。
「女の番号は何だ?」
 問いを耳に入れつつ、ウォレンは目の前の自分の携帯電話を見た。
 ジミーがそれを開かないところをみると、中に何も残っていないことは既に確認済みなのだろう。
 電話から目を離し、彼を見上げるとウォレンは少しばかり目を細める。
「知りたいのは彼女の居場所か? それとも番号か?」
 尋ね返せば、余裕が生まれたらしいジミーが笑顔を返してくる。
「好きなほうを選べ」
 2択であることに頷きを返しつつも、
「3番目のドアがいいんだが」
 とウォレンは告げた。
 それに対し、ジミーは片方の口元を上げると絨毯の上で歩を進めた。
 膝と膝がぶつかりそうな距離になると目を合わせるにはウォレンとしてはかなりの仰角でジミーを見上げることになる。それを避けるため、ウォレンは上体を椅子の背に預けると視線を横に逃がした。
 不意に、ジミーの左手が喉を押さえつけてきた。
 気道が締め付けられると同時に、相手は動脈の位置を把握しているらしく、血の流れにも異変が生じる。
 比較的自由な足を使い、ジミーを蹴って一時的にこの場を凌ぐことはできそうだったが、下手をすると足を椅子に固定されかねない。
「……あまりなめるなよ……」
 攻勢に出るのを控えるウォレンの耳に、ジミーは左手に込める力を強めつつ、一言、押し殺した声を落とした。
 背後のアロンソが、ジミー、と名前を呼び、ようやく彼は左手に入れていた力を抜き、数歩ウォレンから後退した。
 解放され、空気を求めてウォレンは深く息を吸った。が、呼吸よりも咳が先行してしまう。
「言え」
 苦しそうなウォレンを尻目に、ジミーは短く命令を下した。
 部屋を出る機会を見出せないままに、アロンソは黙って事の成り行きを見守っている。
 咳が落ち着いてきた頃になり、ウォレンは顔を上げ、ひとつ、息を吸った。
「……202――」
 かすれて出てきた音に、己の喉の内側が荒れていることが声からも分かる。
 口を割った、と満足し、ジミーは薄く笑みを浮かべつつ持っていた携帯電話を開くとその数字を押した。
「――762、1069」
 続いて聞こえてきた番号を入力していたジミーの手が途中で止まる。
 笑みが消えた彼の顔がウォレンに向けられる。
「今何時――」
「――ッざけるな!」
 ふさがっている右手に代わり、ジミーは左手の拳をウォレンに繰り出した。
 殴られる衝撃と同時に、ウォレンは右頬の上に鋭い痛みを感じた。ジミーのはめている指輪が肉を削ったのだろう。
 ウォレンが頭部に残された鈍い痛みを消化している間に、アロンソは慌てて手に持っていたビール瓶を近くの棚に置き、何かわめきながら続いて殴りかかろうとするジミーを止めに入った。
「おいジミー落ち着け!」
 言いながらもアロンソはステュに助けを求める。
 放せ、と叫びつつ、後ろから押さえ込んでくるアロンソに逆らい、ジミーは腕を振り上げようとする。だが距離的に届かないと判断し、代わりにウォレンを蹴り上げようと足を繰り出した。
 顔を動かしてウォレンはジミーの靴底を見送ると、アロンソによって遠ざけられていくジミーの目を見た。
「彼女のことについてはそれなりに調べてあるんだろ?」
 欲しい情報は自分で探し出せ、と部屋に入ってきたステュに対しても告げると、ウォレンは騒がしさを視界から排除するため、カーテンに隠れている窓に目を向けた。


 いつの間にか、南側の窓から入ってくる日差しが弱まっている。
 ギルバートのバーで、エリザベスは灰皿を各テーブルの上に置く作業をしていた。
 何もせずじっとしていることができず、それならば開店前の手伝いを、と買って出たのだが、不安定な思考を働かせると手の動きが止まるらしく、まだ半分以上手に残っている。
 テーブルを拭いて回っているギルバートの足音に意識が現実に戻り、エリザベスは振り向いて彼を見た。
「無理しなくていいよ。何ならTJが来るまで上で休んでいるといい」
 ギルバートの言葉に、大丈夫、と返事をし、エリザベスは次のテーブルへと足を進めた。
 事が解決するまでここにいたいところなのだが、アレックスはTJという女性に自分を預けることを提案した。エリザベスとしては知っているバーにいるほうが落ち着くのだが、まだ狙われていることに変わりはない。より安全な場所へ移ったほうが彼らも安心できるのだろう。
 とはいえ知らない名前が浮上して困惑しなかったわけでもない。しかしアレックスだけでなくギルバートもTJという人物をよく知っているらしい。
 彼女になら君を任せられる、という言葉を信じ、エリザベスはアレックスの案を受け入れることにした。
 そのアレックスは、もう一度あの路地に行って様子を見てくる、と言い残し、今はバーにはいない。何か手がかりとなるものを探しに戻ったのだろう。
 エリザベス自身も自分が狙われる理由を探そうと試みているのだが、まったく見当がつかなかった。唯一候補を上げるとすれば、デュークと関係を持っていた頃となるのだろうが、見知らぬ相手に追い回されるほど深く、彼の副業に関わっていたことはない。
 となると、彼が殺される直前に引き受けていた仕事絡みだろうか。
 だとすれば、ウォレンも狙われてもおかしくない。
 アレックスとギルバートにこのことを話してはみたが、彼らはその可能性を完全に否定はしなかったもののかなり懐疑的な立場をとった。
 色々とその辺の事情に詳しい彼らの意見だ。素直に受け取ればいいのだろうが、他に何も思いつかない分、排除することは難しかった。
 ふと、裏口で物音がした。
 顔を上げれば、丁度アレックスが店内に足を踏み入れたところだった。エリザベスと目が合うと、柔らかく微笑を返し、ギルバートへ視線を移した。
「TJは?」
「いや、まだ」
 ギルバートの返答を受け取り、アレックスは、そうか、と頷く。
 彼らの元へ行こうとしたが、エリザベスは自分の手にまだ灰皿が残っていることを知り、作業を済ませるために店の奥のテーブルへ向かった。
「……何か新しい情報でも?」
 布巾をカウンターに置き、ギルバートがアレックスに尋ねる。
「何も残っていなかった。警察沙汰にもなっていないらしい」
 言いつつアレックスは先ほど見てきた現場を思い返す。
 道路上にタイヤの跡と車の窓の破片が落ちてはいたが、それ以外にめぼしいものは何もなかった。
「となると、今のところ手がかりはお前の言ったナンバーだけか」
 頷きながら相槌を返し、アレックスは視線を落とす。
 ギルバートが知り合いに頼んでナンバー照会をしてくれているようだが、まだ成果は上がっていないらしい。図柄までは見えなかったが、少なくともDC内のものではない、ということだけが分かっている。
「……あと、タクシー運転手が何か――」
 言いかけたところで聞きなれない携帯電話の着信音が店内に響いた。
 アレックスとギルバートが音源へ目を移せば、エリザベスのバッグが見える。
 奥から彼女が出てき、バッグから携帯電話を取り出した。
 画面に表示された名前を見、エリザベスが2人を見る。
 その様子に、続く彼女の言葉を聞く前にアレックスとギルバートは誰からのものかを察した。
「彼だわ」
 手元に着信音の振動を感じつつ、エリザベスは告げた。
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