IN THIS CITY

第3話 Unspoken Truth

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20 Escape into Serenity

 窓の外を街の景色が流れる。
 少しでも早くメルヴィンの住むマンションから離れたく、エリザベスはウォレンの車に乗り込んだ後、行き先を指定せずに、とりあえず出して欲しい、と頼んだ。
 どこに向かっているのか、来たときと同じ道なのかも分からないが、あのマンションから遠ざかっているのは確かだ。
 弱く長い息を吐く。
 メルヴィンは、何を期待していたのだろうか。
 手を握り、私が娘よ、と微笑みかけて欲しかったのだろうか。
 だとすれば、随分と虫のいい話だ。
 何度目だろうか、思考の行き着く先が同じであることを知り、エリザベスは目を瞑った。
 この循環する感情から逃げ出そうとしても、結局は、今更何を、という怒りに戻ってきてしまう。
 一応の再会だ。可能な限り憤りは抑えようとした。が、それも無理だった。
 受け入れられるのであればそうしてもいい、と思っていたものの、結局は別れを告げることとなった。
 だが、もう終わったのだ。 
 後は過去に何度も自分に言い聞かせたとおり、父親など最初から存在しなかったのだ、と割り切れるように時を進めればいい。
 しかしながら、何か、釈然としない。
 燻っていた感情は爆発させてきたはずだ。
 それなのに、まだ足りないというのだろうか。
「少し休むか?」
 隣からのウォレンの声に、エリザベスが現実に意識を戻す。
 走行音が静かな振動とともに伝わってくる。
「……ごめんなさい。ちょっとまだ、整理しきれていないみたい」
 右手を顔に当て、一度目を閉じてエリザベスが言った。
「気にするな」
 別に構わない、とウォレンが告げる。
 いつも通りの返しだったが、今のエリザベスとしてはもう一言二言、欲しい気がしないでもなかった。
 それを待っている間に、無言の時間が過ぎてしまう。
「どこか寄りたいところはあるか?」
 かかってきた言葉は、だがエリザベスの期待とは違っていた。
 そのようなところなどあるはずもなく、首を横に振って答える。
「なら、付き合ってくれるか?」
 続いて聞こえてきた声に、エリザベスがウォレンを見る。
「いい店を知っている」
「店?」
「バーだ」
「バー?」
 耳に入った単語が聞き間違いじゃないのか、と思い、エリザベスは復唱して尋ね返した。
 が、言い間違えたのではないらしく、肯定の返事がくる。
「酒が飲みたい気分じゃないか、と思ったんだが……」
 補足を入れつつ、ウォレンが視線を寄越してくる。
 確かに、余計な思考が働かないためには何かしらの力を借りなければならないのかもしれない。
 だが、飲みたい、というほど飲みたい気分でもなかった。
「気持ちは嬉しいけど……でも今はちょっと……」
 考える時間ができてしまうにしても、エリザベスとしてはどちらかというと静かな場所へ行きたかった。
 そうか、とウォレンが頷く。
「――気乗りでないところ悪いが、少し付き合ってくれないかな」
 再び誘われ、エリザベスは怪訝にウォレンを見た。
「付き合うって、あなた飲めないじゃない」
「飲めないな」
「私は特に飲みたいわけじゃないわよ?」
「知っている」
「それなのに、飲みに?」
 そうだ、と返事が返ってくる。
 理解できず、エリザベスは視線を前に戻した。
 思い返してみても、食事はともかくとしてギルバートのバー以外で飲んだことなどない。
 理由は単純に、ウォレンが飲めないから、である。
 当然ながら、飲みに誘われるのはこれが初めてだった。
 苦手であるにも関わらず推してくるということは、何か理由があってのことなのだろうか。
 気にならないでもなく、また、折角の機会だ。
「どこへでもいいわ。連れてって」
 ひとつ息をついた後、任せます、と返せば、礼を言われる。
 違和感を覚えながらも、エリザベスは窓の外を見た。
 歩いている人の多くは仕事が終わったのだろう、昼間とは違う活気が歩道に満ちていた。


 連れて行かれたのは、ホテルの最上階に位置するバーであった。
 窓の外に見える夜景は確かにきれいであったが、特段心惹かれるものではなく、エリザベスはむしろ内装のほうに目をやった。
 ひとつ前の世代の雰囲気を取り込みつつも、モダンな空間に仕上げられている。
 耳に障らない程度の音量でかけられているジャズの中、和やかな人の声が流れていた。
 ギルバートのバーとは違った画だが、どこか似ている気がした。
 カウンターのバーテンダーが2人に気づき、視線を投げかけてきた。だが、店内を見回していたエリザベスはそれには気づかなかった。
 ウォレンと目が合ったバーテンダーが手を止め、驚いた顔をした。
 その彼女に対し、ウォレンは小さく片手を挙げて応えた後、隣のエリザベスを窺う。
 外よりも中に関心のある様子に、ウォレンが、座るか、とカウンターのほうへ彼女を促す。
 席に着けば、ウォレンと目で挨拶を交わしたバーテンダーの女性が歩み寄ってきた。
 にこやかに微笑み、彼女がエリザベスにも挨拶をする。
「任せていいか?」
「勿論」
 大人の響きを持った落ち着いた声で、シェリ・ヤングは承った。
 ウォレンと彼女のやり取りを見、エリザベスはシェリが去った後、隣のウォレンを見た。
「知り合い?」
「ちょっとしたな」
 彼の返答に、そういえば、と昼に車の中で聞いた話を思い出す。
「NYに住んでいた頃の?」
「ああ」
 返ってきた声に、エリザベスは頷いた。
 聞いていないから当然といえばそうだが、ウォレンの過去はまったく知らない領域だ。
 その片鱗に、初めて触れた気がした。
 新鮮な感覚に、暫くの間包まれる。
「……彼女は、知り合った頃から既婚者だ」
 ふいに声が聞こえてき、エリザベスは改めてウォレンの目を見た。
 数瞬の時間が違う方向に解釈されたらしい。
「誰も聞いてないわよ」
 一言返せば、瞬きをする間を置いて、そうか、と呟き、何事もなかったかのようにウォレンが振舞う。
 その様子に、エリザベスは口元で微笑んだ。
「不思議ね」
「ん?」
 エリザベスの声に、ウォレンは落としていた視線をエリザベスに向けた。
「飲めないのになんで?」
 店内を目で示し、尋ねる。
 友人であるギルバートのバーはともかくとして、このような場所は酒を飲まないウォレンにはおよそ縁がない場所のように思える。
 そうだな、とウォレンが呟く。
「――酒に逃げたかった時期があってね」
 意外な言葉にエリザベスが首を傾げる。
「あなたが?」
 尋ね返せば頷きが返ってきた。
「結局逃げられもせず、飲めるようにもならなかったが……」
 飲めない体質でよかったのかもしれないけどな、とウォレンが付け加える。
「逃げたかったのなら、もっと粗雑な場所を選ぶんじゃないかしら」
 エリザベスの言を受け、確かに、とウォレンが視線を斜め上にやる。
「言われてみればそうだな。穏やかになれる場所を探していただけだったのかもしれない」
「こことか、ギルのとことか?」
 例を挙げればウォレンが微笑を返してくる。
 同じように微笑み、エリザベスは前を向いた。
 丁度いい頃合いに、シェリがグラスを運んでくる。
 縮れの入った黒髪は短めに整えられており、ベテランの雰囲気を醸し出していた。
 どうぞ、と彼女がグラスに入ったカクテルを差し出してくる。
 静穏な海を連想させる、透き通った青色を呈していた。
 わずかにグラデーションの入った色合いが、照明の演出のせいだろうか、どことなく光っているようにも感じられる。
 思わず見惚れてしまったことに気づき、エリザベスは顔を上げた。
 エリザベスの視線の先、シェリは深い茶色の瞳で穏やかに微笑むと、ウォレンには炭酸水の入ったグラスを差し出し、カウンターの奥へ去っていった。
 見送った後、エリザベスは再び手元のカクテルに視線を戻す。
 表面は静かに凪いでいた。
「……きれいな色」
 怒りも憤りも、やるせない気持ちをすべて吸収してくれるような、そんな色をしている。
 ふと、エリザベスは隣のウォレンに意識をやった。
 彼がわざわざここに連れてきてくれた理由が、分かった気がする。
「ありがとう」
 呟けば、その一言を受け取る相槌が聞こえてきた。
「名前、何かしら」
 グラスを持ち上げ、カクテルを眺める。
「セレニティー、だったかな」
 飾らずそのままを表した名前を聞き、エリザベスは頷いた。
「……あなたもこれを飲んでたの?」
「飲むというか、見ているだけというか……」
 飲んだらすぐ眠ってしまう、と前に聞いたことがある。
 恐らく、今エリザベスがしているように、この色合いに意識を委ねていたのだろう。
 まだ口はつけず、エリザベスはグラスをそっと下ろした。
 落ち着いた心のおかげで、どこか違う場所から物事を考えられるような気がする。
「……彼、写真で見たよりも痩せていたわ」
 寝室で横になっていた、メルヴィンの姿が思い起こされる。
「父親だっていうよりも、祖父だって言われたほうが、納得がいったかも」
 覇気のない声をしており、目に宿る光も弱々しかった。
「……こんなに長い間、何も言ってくれなかったなんて……」
 ぼんやりとカクテルを見つつ、エリザベスは続ける。
「世間体を気にしていたにしても、ただ単に言い出しにくかったにしても、……一言くらい、あるべきだったと思うわ」
「……君に拒絶されるのが怖かったんだろう」
「怖いだなんて、情けなさすぎる」
 ただの言い訳じゃない、とエリザベスは付け加えた。
 ウォレンからは同意する相槌が返ってくる。
「バースデーカードは送るくせに、名前は書いてくれなかったのよ」
 イニシャルの筆跡が、頭の中を過ぎる。
「養育費まで払ったくせに、名乗り出てはくれなかった」
 今の今まで、とエリザベスは視線を落とした。
「……彼にとっては、それが精一杯だったんだろうな」
 ウォレンの言葉通り、メルヴィンがそうだったのだろうことは分かる。分かるが、そのような言など受け入れたくなかった。
「……彼の肩を持つのね」
 一言呟けば、どうかな、とウォレンが続ける。
「似たような経験があるから、俺はあまり強く言えない」
 それを聞き、少し考えた後、エリザベスは思い当たる節を見つけた。
「アンソニーの息子さんとのこと?」
 尋ねれば、一度エリザベスと視線を合わせた後、そうだな、とウォレンが頷いた。
「あなたの場合、今はうまくいってるんでしょう?」
「まぁな」
「それなら、いいじゃない」
 手元を見、グラスの裾を撫でる。
「……私には無理だわ」
 考えても、自分から和解を持ちかけることなど無理だった。
 加えてメルヴィンの今までを考えると、昔と同じようにぐずぐずと逃げるに違いない。
「……折角の機会、失っちゃったかも」
 言いながら、どこか心の奥では父親を求めているのでは、と感じる。
 だがすぐに、それを認めたくないという心が働き、エリザベスは否定した。
「これで終わったんだわ」
 手元を見たまま腕を伸ばし、エリザベスはひとつ、息をついた。
「……いいのか?」
 問われると、わずかながらも疑問を感じる。
 しかしエリザベスは、いいのよ、と返事をした。
 以前の状態に戻るだけ、ただそれだけのことだ。
「あなたのご両親は?」
 ここで無言になると、また思考が循環してしまいかねない。
 これ以上迷わないために、エリザベスは咄嗟に話題を変えた。
「俺が小さい頃に、交通事故で亡くなったらしい」
 伝聞調の返答に、エリザベスは、しまった、と目線を落とした。
「ごめんなさい」
「気にするな」
 ずっと前のことだ、とウォレンが穏やかに告げてくる。
 その声に安心し、エリザベスは遠慮がちに切り出した。
「……小さい頃なら、両親のこと、あまり覚えてない?」
 聞いてはいけないことだろうか、と様子を窺うが、ウォレンは気にしていないらしく、そうだな、と視線を上にやった。
「母親のことは何となく覚えているが、父親の記憶はないな」
 言いながら、エリザベスに目を向ける。
「君の父親と同じだな。彼は近くにいなかった」
 共通項を見つけ、エリザベスがわずかながら口元を緩める。
「アレックスは?」
 かなり長い付き合いだとは分かるが、詳しいことは知らない。
 ウォレンのことだ、聞けばいつでも答えてくれるだろうが、エリザベスはこの機会に聞いてみた。
「俺の父親と友人だったらしい」
 言った後で、物好きな奴だ、とウォレンが続ける。
「施設にでも放り込めばいい話なのに、わざわざ他人の子どもを引き取るなんてな」
「じゃ、『父親』は側にいたのね」
 そう告げれば、それを言うと機嫌を損ねるかもしれない、と苦笑しつつウォレンが呟いた。
 彼の様子を羨ましく思いながらも、エリザベスは自分の過去を見直した。
 父親はおらず、母親と不仲であった。
 だが、思えば完全に孤独だったわけではない。
「……肉親じゃないのに、肉親みたいに接してくれる人はいるのよね」
 ふと、心の支えとなってくれた人を思い出す。
 道を誤らずにここまで歩んでこられたのは、色々と相談に乗ってくれた彼女の存在が大きかったおかげだろう。
 元々、父親も母親も必要なかったのかもしれない。
 だがそうであるのなら、家族という存在は一体何なのだろうか。
「……お父さんがどんな人なのか思い描いたことは?」
「さぁ」
 過去を思い返したウォレンが、ないな、と答える。
「気にならなかったの?」
「どんな人間だったかは気になるが、後から聞く話は大抵美化されているからな。この目で確認できない限り、知っても無駄だ」
 どこか他人事のように聞こえるウォレンの口調に、エリザベスは意外に思った。
「否定的ね」
 呟けば、肯定が返ってくる。
「顔も知らない相手だ」
 放たれた一言に、そうよね、とエリザベスは理解を示した後、顔を上げてウォレンを見た。
「それだけ?」
 尋ねられ、視線を落としてわずかに首を傾げた後、ウォレンはゆっくりと口を開いた。
「……母さんをいつも寂しそうにさせていた。子どもの評価を得るには、致命的なミスだな」
 物静かな声に、エリザベスも手元を見た。
 自分の母親にも、寂しそうにしていたことがあったのだろうか。
 一瞬、遠くを見るような表情をしていた母親の画が脳裏を流れた気がした。
 忘れていたが、何度かその表情を見かけたように思われる。
 口ではひどく罵っていたが、ひょっとしたらルティシアは、メルヴィンのことをずっと想っていたのかもしれない。
 もしそうだったのなら、メルヴィンさえ側にいれば、あるいは家庭内の状況は違うものだったのかもしれない。
 父親さえいてくれたのなら、とエリザベスは思い返した。
「……私はよく夢見てたわ」
 自分の父親がどんな人なのか、他の子の父親を見るたびに考えていた時期があった。
「でもあの女が連れてくる男をみていたら、夢なんて壊れた。きっと私の父親も、ろくでもない人間なんだろうって」
 酒浸りでときに暴力を振るうような、そんな人間に違いない。
 そうでなければとうの昔に目の前に現れてくれているはずだった。
「……ろくでもない人間だったか?」
 問われ、エリザベスは暫く考えた後、分からない、と首を振った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 壊れた夢に見ていた父親像とは、様子が違った。
 TJに調べてもらったときも、あまり悪い評判は出てこなかった。
 実際に会った彼からも、悪質な雰囲気は感じ取れなかった。
 それだけに、尚更のこと悔しく思われる。
「……末期癌で、死期が迫っているから、人が恋しくなって、それで私のことを思い出したのよ。きっと」
 そうでなければもっと前に、と考えてエリザベスはその思考を遮断した。
「ちょっとは後悔していたのかもね。最期の懺悔かもしれない」
 許してくれ、と彼が最後に投げかけてきた声が思い起こされる。
「遅すぎよ……」
 呟かれた言葉を受け止めるように、ウォレンが相槌を打つ。
 その後で、ゆっくりと彼が口を開いた。
「実際のところは確認しようがないが……子供には理解できない理由が、父親にはあったんじゃないかな」
 一度切られ、理不尽な理由だろうが、と続けられる。
「……それはあなたがお父さんに対して出した結論?」
 ウォレンを見れば、そうだな、という返事が返ってきた。 
「今は理解しているつもりだ」
 相変わらず他人事のような口調ではあったが、彼は過去の事実をそのままに受け入れているらしかった。
 ウォレンから目を離し、エリザベスは手元に視線をやった。
 青く透明なカクテルが目に映る。
 ウォレンが言うように、恐らくメルヴィンは娘からの拒絶を恐れていたのだろう。
 機を逃して、逃して、取り返しのつかないところまで時が過ぎてしまった。
 許してくれ、という言葉がエリザベスの中で再生される。
(……何を?)
 具体的なことを何も言わず、曖昧なものを許せだなど、できるわけがない。
 もっと別の言葉が欲しかった、と感じるが、どんな言葉を望んでいたのかは分からない。
 メルヴィンの口から聞きたかったのは、理由だろうか。
 そうならば、何に対する理由が聞きたかったのだろうか。
 分からない、とエリザベスがカクテルを一口、口に運ぶ。
 ほのかに甘く、かつライムの効いた味が口の中に広がる。
「……ね」
 声をかければ、ウォレンの視線を隣に感じる。
「今夜、飲んでもいい?」
 一度下ろしたグラスを上げ、明かりに照らす。
 期待していた声音で許可を出されると、エリザベスはカクテルを一気に飲み干した。


 街中の一角の家の前、街灯の明かりを頼りにシェリは家の鍵を取り出した。
「ジェイはまだ帰ってきてないみたいね」
 部屋が暗いことを確認し、鍵を入れてドアを開ける。
 ドアを持ったまま一歩中に入り、電気のスイッチを入れる。
「さ、入って」
 告げつつ振り返り、後ろの人物に笑顔を見せる。
「悪いな」
「いいのよ。丁度ゲストルームは空いていたから」
 シェリが広くドアを開ければ、エリザベスを背負ったウォレンが足を踏み入れる。
 彼に先に奥に行くように促し、シェリはドアの鍵を閉めた。
「それにしても随分と久しぶりね、メイス」
「そうだな」
 ぐるりと室内を見回し、ウォレンが続ける。
「あまり変わってないみたいだ」
「そうね。変わったといえば、JJが出て行ったことくらいかしら」
 シェリの言葉に、ウォレンが振り返る。
「大学よ。今もアメフトを続けているわ」
 なるほど、と頷き、ウォレンが棚に目をやる。
 高校時代にクウォーターバックを務めていた頃の、シェリの息子であるJJの写真が飾ってあった。
「おめでとう」
「ありがと。伝えておくわね」
 鍵置きに鍵をかけ、シェリが改まってウォレンを見る。
「あなたも元気そうで何よりだけど……女性にそこまで飲ませるなんて、ちょっとひどいんじゃない?」
 言われ、ウォレンは背負っているエリザベスを気にかけた。
「……あ、いや、どのくらいが適量なのか分からなくて……」
「何言ってるの。彼女、相当ハイペースで飲んでいたわよ?」
「そうなのか?」
「普通止めるでしょ」
「…………」
 開いていた口を閉じ、ウォレンが、そうなのか、と視線を横に逃がす。
 アンソニーやクラウスを見ている分に、先ほどエリザベスが飲んだ量はたいした量ではないように感じられたため、止めはしなかったのだが。
 しかしそこまで考えて、そもそも基準を参考にする相手が間違いだったのでは、ということにウォレンは気づいた。
「……まぁ、注文に応じちゃった私も悪いけど」
 反省しているらしいウォレンに投げかけ、シェリは組んでいた腕を解いた。
「女性をバーに誘うのなら、お酒に少しは詳しくならないとダメね」
 呆れたように告げ、シェリは2階を示した。
「とにかく、上に行って早く寝かせてあげなさい」
 促され、一言礼を残すとウォレンは階段へ向かった。
「ジェイが帰ってきたら、一度降りてらっしゃい。きっと彼も喜ぶわ」
 了解、という声を聞き、シェリは背中を見送ると、微笑んだまま小さく息をついた。


 長期間世話になったわけではないが、家の造りは覚えている。
 ゲストルームに入り、ウォレンはベッドの側まで足を進めた。
 背負っていたエリザベスを、その上にゆっくりと降ろす。
 途中で左腕に負担がかかり、思わず動作を誤った感がしたが、杞憂だったらしい。
 横に寝かせ、手を引こうとしたところ、左手を引っ張られた。
 起こしてしまったか、と思ったがエリザベスが目を開ける様子はなかった。
 再び左手を引いてみるが、逆に握り返される。
 少し間を置きその手を握ってみれば、弱いながらも反応が返ってきた。
 どうしようか考えた後、ウォレンは辺りを見回し、音を立てないように近くにあった椅子を引き寄せた。
 左手はそのままに腰かけ、エリザベスの顔を見る。
 静かに眠りについているようだった。
 頬にかかっていた緩やかな髪をすき、流れに沿って流す。
 わずかに顔を動かした彼女だったが、目を覚ます気配はない。
 短期間にこれだけのことが凝縮されたのだ。疲労も大きいだろう。
 起こさないように注意を払いながら、ウォレンは椅子に座りなおした。
 エリザベスが過去を切り離して生きようとしていたことには気づいていた。
 今夜、彼女の口からこぼれ出た話を考えると、彼女の過去は荒んだ道を歩いていてもおかしくない環境のように思われる。
 だが、エリザベスは真っ直ぐな道を選び、進んでいる。
 寝顔を見つつ、ウォレンは改めて、強いひとだ、と感じた。
 だからこそ、頼られるとそれに応えたくなる。
 左手に少しだけ力を入れれば、エリザベスが握り返してくる。
 外からのほのかな明かりの中、ウォレンはそっと、その手を握り締めた。
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