IN THIS CITY

第3話 Unspoken Truth

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05 Say Ain't So

 通話を終了すれば、傍に感じた頼もしさが薄れていく。
 切らないでおくべきだったか、とも思ったが、そこまで迷惑をかけるのも気が引けた。
 再び不安が顔を出し始めたが、エリザベスは極力それを頭から排除した。
 誰もいないのだが、雑々とした生活感が、室内に溢れている。
 住人と共に根付いた雰囲気は、ひとつの空間を負の方向へと歪めている。
 すぐにでもこの場を去りたいところだが、下手に動いては逆に見つかってしまう危険がある。
 暫くは、留まるべきだろう。
 5分、という時間が頭を過ぎる。
 腕時計を見てみるが、こういう時に限って時間というものはのんびりと進むらしい。
 顔を上げた先、物が散在しているテーブルが目に映る。
 その上に放置されているプラスチックのカードの横には、埃にしては白すぎであり、小麦粉にしてはさらついた粉が、まばらに存在していた。
 ホットプレートは明らかに、本来の仕事とは別の用途で使用されている風であった。
 不穏な空気に、エリザベスは表情をさらに固くした。
 手が自然と、己の身を抱く。
 ふと視線を後方へやれば、ガラス製だろうか、透明のパイプやらマッチやらが至るところに散らばっており、ソファはかろうじて人1人が座れるスペースを残して薄汚れていた。
 壊れかけたドアをすり抜け、階下から何かが倒れたような音が騒々しく届いてくる。驚いて廊下へ視線を移せば、続いて人の声が聞こえてきた。気でも狂っているのか、笑い方が異常だった。
 負の巣窟。
 何も考えずにとりあえず入ってしまったとはいえ、あまりにも環境が悪すぎる。
 追われる理由すら理解できていない中、この現状を受け入れるということはかなり酷なことだった。
 抑えきれずに芽生えた不安に、エリザベスは一度携帯電話を開いた。
 だがボタンにかけかけた指が、動きを止める。
 履歴画面に表示された番号を暫くの間眺めていたが、やがてエリザベスはそれ以上の操作をすることなく携帯電話を閉じた。
 握り締め、目を閉じる。
 ひとつ、深く息を吸って、吐く。
 ただでさえ心配をかけているのだ。これ以上、急かすようなことはできない。1人で耐えられる範囲ならば、耐えなければ。
 頼ってばかりはいられない、とエリザベスは深呼吸を繰り返し、精神状態を落ち着かせようと取り組んだ。
 その途中。
 崩れたドアの向こう、廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。
 徐々に大きくなるそれに、追っ手が戻ってきたのか、と勘が働く。
 隠れようと思ったが、玄関のドアが完全に閉まっていないため、キッチンへ行くとなると廊下にいる人物に姿を見られてしまう可能性が高い。
 しまった、と思うと同時に焦りが閾値を越える。
 だが、このままここに立っていては危険だ。
 エリザベスは、ふと移動させた視線の先のソファに駆け寄ると屈みこんだ。
 もし、追っ手が室内を確認するだけならば、やり過ごせるかもしれない。
 ただ、室内に入ってこられては逃げようがない。
 前者であることを祈りつつ、腕時計に視線を落とした。
 何故、こうも時間が経つのは遅いのだろう。
 焦燥感に紛れ、苛立ちが募る。
 と、軋んだ音が聞こえてきた。
 戸口に誰か、立っている。
 何なんだ、とかすれた俗語が吐き捨てられた。
 ついで、まさか、という単語が聞こえてきたかと思えば、室内に入ってきた足音の速度が徐々に速まった。
 引き出しか戸棚かを開ける音が荒々しく響く。
 何かを探しているのか、がさがさと暫く続いたその音は、安堵感を表すようなため息の後、途絶えた。
 様子が予想していたものとは違い、エリザベスはそっとソファの横から顔を出し、入ってきた人物の顔を確認した。
 腕に大きくタトゥーを入れ、ピアスをそこかしこに装着したラフな格好の若者が見える。
 追ってきた連中とは雰囲気が全く異なっていた。
 この部屋の住人、と脳が判断し、エリザベスから覚悟していた不安が消えていく。
 息を吐けば、いつの間にか上昇していた心拍数に気づく。
 が、安心してはいられない。
 彼からしてみれば、エリザベスは不法侵入者である。まして玄関のドアが壊されたとあっては大人しく言い分を聞いてくれるとは思えない。
 どうしようか、と迷っていた直後、不意に住人が振り返った。
 まずい、と思いソファの陰に隠れたが、間に合ったはずがなかった。
「おい! そこで何してんだ? 出てきやがれ!」
 案の定、怒声が突き刺さってくる。
 激しく後悔するが、起きてしまったことはどうしようもない。
「おい!」
「わ、分かったわ」
 ずかずかと近づいてくる足音の中、エリザベスは両手で相手をけん制しつつゆっくりと立ち上がった。
 住人が足を止め、怪訝な表情でエリザベスを見る。
「……あんた誰だ?」
 もっともな質問だ、と思いつつも、住人の口調から怒気が薄れていることに気づき、エリザベスは小さくひとつ息をついた。
「無断でお邪魔してごめんなさい、でも仕方なかったの。誰かに追われていて、開いている部屋はここしかなくて……」
 渇いた唇がたどたどしく、だが早口に言葉を紡ぐ。
 疑問顔を崩さず、住人は一呼吸の間を置いて、はぁ、と理解したのかしていないのか、適当に頷いた。
「あのドアは?」
 住人が指差した方向に、エリザベスは視線を送る。
「あれは、その、私じゃないわ。追ってきた男が蹴破って――」
「追われてんのか?」
 やはりしっかりとは聞いていなかったらしい。
「ええ」
「誰に?」
「分からない」
「何かしでかしたのか?」
「いえ、何もしていないわ。心当たりなんて――」
「何で俺ンとこに?」
「理由はないわ。逃げていて、隠れる部屋がないか調べていたら、あなたの部屋の鍵が開いていたの。それで――」
「開いていた?」
「ええ」
 しまった、またかよ、と住人は額に手を当てた。どうやら鍵のかけ忘れはよくしでかしてしまうらしい。
「……悪いとは思ったけど、他に隠れる場所がなくて……」
 エリザベスの言葉を聞き流すように、ふぅん、と住人が頷き、手を腰にやった。
 様子をみる分には、矢継ぎ早に質問はするもののそれほど興味はないらしい。
 あまり長くはいられない、とエリザベスは直感した。
「ま、いいや。で、あんた、隠れる場所探してンのか」
 一応、要点だけは理解してもらえたようだ。
 ええ、と返答するエリザベスに、ふぅん、と住人が呟く。
「金は?」
「え?」
 唐突な言葉に、エリザベスは彼の意味するところが理解できずに尋ね返す。
「匿ってやってもいいけどよ、タダでってのはよくねぇなぁ」
 取引を持ちかける顔で、住人はエリザベスを見た。
「……持っていないことはないけど、少ししか――」
 ああ、とエリザベスの言葉を遮ると、住人はにっと口元を崩し、顔をわずかに傾ける。
「別に金じゃなくても構わないぜ?」
 下卑た笑いを含んだ視線で、エリザベスを舐めるように観察する。
 悪寒を感じて眉をひそめ、エリザベスのバッグを握る手に自然と力が入る。
 思っていた通り、この人物には何も期待できない。
 エリザベスは後ずさりしつつ、右手をバッグの中に入れた。
 住人に気づかれないよう注意しながら、護身に使えそうなものを探す。
 にやついた笑いを浮かべつつ、彼が両手を広げる。
 背中が壁に当たり、エリザベスは後退を止めた。
「せっかく立ち寄ったんだ。ゆっくりしていけよ」
 勝機を得たとばかりに住人が歩調を速める。
 タイミングを見計らい、エリザベスは素早く右手に握った制汗スプレーを迫ってくる相手に向け、かけた。
 彼女の俊敏な行動に、住人はとっさに防御ができなかった。
 微細な粒子を多数目に受け、驚きの混じった悲鳴を上げつつ両手を振り回す。
 身を屈めてエリザベスは住人と壁との間から抜け出すと、走った先にあったドアを開け、中に駆け込んだ。
 バスルームらしい。
 すぐさまにドアを閉め、鍵をかける。
 できることなら棚か何かをドアの前に持ってきて押さえに用いたいところだが、周囲に使えそうなものはなかった。
 バリケードを作ることは諦め、逃走経路を、とバスルームの中を見回す。
 流しの横、上下開閉式の窓が視界に飛び込んでくる。
 迷わず駆け寄った。
 ろくに開けたことがないのか、鍵は錆付いており、窓はかなり力を入れないと上がらなかった。
 エリザベスは窓から上半身を出した。真下には随分と溜まったゴミ捨て場があるとはいえ、4階の高さから飛び込む勇気はさすがにない。
 背後からは、開けろ、とドアを叩く音が聞こえてくる。
 左横を見やれば、雨水を地上に流すためだろうか、窓のすぐ隣に鉛直方向に伸びたパイプが一本存在していた。
 その向こう、避難時に使う梯子が備わっている。
 使える。
 視線を下にずらせば、建物から出張った、足がかりになりそうなものが水平方向に続いていた。
 パイプとその足がかりを利用して梯子まで辿り着けるだろうか、と考える余裕もなく決断すると、エリザベスはまず、邪魔になるバッグを先に外に放り出した。それが地面に落ちる音を聞く前に、身を乗り出し、窓の桟に体重を預けつつ、右足も窓の外へ出し、建物から飛び出している部分へかけた。
 土埃が最大静止摩擦力を小さくしている。気を抜けば、滑って落下しかねない。
 次いで左足を乗せ、踏ん張りつつも窓の桟から手を離すことなく、かける体重を分散させることに気を配った。
 脱出に全意識を集中しているせいか、住人が何かわめきながらバスルームのドアを大仰に叩く音はエリザベスの耳には入るものの、圧力とはならなかった。そのおかげでひとつひとつの動作が丁寧に行えた。
 建物の外壁に沿って移動する準備が整ったところで、右隣のパイプに手をかける。部分的にざらりとした感触がし、手はすぐに赤茶けた色に染まったが、パイプは建物にしっかりと固定されているようだ。嫌な雰囲気にはならなかった。
 慎重に、だが可能な限り速く足を横に移動させ、パイプを超える。
 梯子はすぐそこだ。
 右手で梯子を掴んだところで、緊張が少しほぐれたのか、エリザベスの脳は、それまで考えてはいけないと判断していた彼女の行動を明確に認識し始めた。
 風が体を側面からなぜる。
 地上よりもその力が強く感じられる。
 高所にいるという情報が、恐怖を連れてくる。
 その恐怖が全身を覆う直前に、エリザベスは梯子に足をかけ、安定した足場を得ることに成功した。
 心拍数が急激に上昇すると同時に、ひとつの難関を突破した安堵が声となって出てくる。
 風が誘うままに髪をなびかせつつ、エリザベスはひとつ大きく呼吸をし、再び気を引き締めると梯子を下りだした。
 北側に位置しているとはいえ、この気温の中では錆付いた梯子も生温かい。
 その温度からも逃れたく、エリザベスは急いだ。
「待て!」
 上から降ってきた怒声に、手足の動きは止めないまま顔を上げる。
 髪が邪魔をしたが、バスルームへのドアを力技で破ったのだろう、窓から身を乗り出す住人を確認した。
 が、一刻も早く安定した地面に辿り着きたいところだ。
 無視してエリザベスが視線を戻そうとしたとき、視界の隅から住人の姿が消えた。
 気になって再び窓を見上げれば、一瞬消えていた住人が戻ってきた。
 その手に瓶らしいものが握られているのを見て、エリザベスが動きを止める。
「ッのアマぁ!」
 口汚く5文字語を吐き捨てながら、窓の外に乗り出した彼の右手が振り上げられる。
 瓶を投げつける気だ。
「ちょっ――」
 逃げ場のない状況下でのエリザベスの制止の声の前に、住人が右手を振り下ろした。
 梯子にしがみつき、エリザベスは頭を伏せた。
 風を切る音が聞こえ、瓶はエリザベスの真上の梯子にまず当たり、鈍い金属音の後に梯子を介して彼女に振動を伝えた。瓶は梯子で跳ね返ると、最初の衝撃で強度が落ちたのだろう、すぐ隣の建物の壁に衝突して一部が砕けた。
 飛散したガラスの破片がエリザベスに降りかかる。
 手の甲で擦過感がし、驚いて思わず手が浮いた。
 その弾みで体が梯子からわずかに離れ、右足が滑る。
 あっ、と声を出し、慌てて必死に梯子にしがみつく。
 右足の脛を梯子の段にぶつけ、激痛が走った。が、段に右足をかければ、力は入る。折れてはいない。
 下の地面でガラスが割れる音がした。
 梯子を握り、エリザベスはきっと上を見た。
「何するのよ!」
 だがそれに対する返答はなく、住人は、ちっ、と舌打ちをすると身を引っ込めた。
 新しい瓶でも取りに行ったに違いない。
 エリザベスは視線を梯子に戻すと、下る速度を速めた。
 段に右足をかける度、打ちつけた脛が痛む。短時間でその部位は黒紫色に変色するだろう。
 感じる風が弱くなり、視界を上部まで建物が覆うようになった。
 梯子は2階までしか続いておらず、最後の段に足をかけるとエリザベスは一旦動きを止めた。
 4階を見上げる。
 まだ住人の姿は見えない。
 足元を見下ろす。
 左のほうにゴミ捨て場はあるものの、ジャンプして飛び込むには距離があった。
 仕方なく、足の位置をそのままに体を畳んで手の位置を下げていく。
 その体勢に限界が来たとき、腕を伸ばし、ひとつ呼吸を大きく取ってエリザベスは片足ずつ梯子の段から外した。
 手に全体重が預けられ、手のひらの皮がひきつる。
 反動で腹部を最下段にぶつけるが、なんとか梯子を掴んだまま切り抜けられた。
 顔を下げ、瞳を閉じる。
 鼓動が耳のそばで感じられる。
 エリザベスは、大丈夫、と呟くと、力を手に集中させた。
 右手を離し、すぐ下の梯子の段を掴む。続いて伸びきった左手を離し、同じように下段を掴んだ。
 位置が下がった分、体全体が急激に下降し、両手に負担がかかる。
 ずり落ちそうになり、慌てて梯子を掴みなおす。
 腕全体の筋肉が痛み、震える。筋に感じたそれは、去ることなく腕に留まっていた。
 もう一度同じことをし、さらに一段下がったとき、限界がきた。
 指が伸び、両手が梯子ではなく空気を掴む。
 落ちる、と目を瞑ったが、意外にも地面は近くにあった。
 とはいえ何も気構えをしていなかったため、受身を取れずに腰を打ち、全身で生温かい地面を感じる。
 一瞬息が詰まり、エリザベスは咳き込んだ。
 眩む視界の青空が色褪せる。
 体を右に回転させ、抱え込むように足を折り曲げる。脳からの指令に反して動きが鈍い。
 咳き込みつつ左手と右肘を使って上体を起こす。
「おい!」
 上空から声が落下してき、エリザベスは反射的に顔を上げた。
 凝りもせず住人が新しい瓶を振りかざす。
 この鉛直距離でぶつけられてはたまったものではない。
 痛む体を叱咤して立ち上がり、エリザベスは先に落としたバッグを拾い上げると弱い速度ながらも走り始めた。
 と、その前方。
 違うアパートから男が1人飛び出してき、左右を確認した。
 目と目が合う。
 追っ手だ、と認識し、エリザベスが進行方向を反転させる間際、
「待てッ!」
 と声を発し、男が走り始めた。
 かかる負担を処理しきれない右足と痛む体を動かすが、逃げ切れない、とエリザベスは感じる。
 距離が気になり、後ろを振り返る。
 普段ならば走りながらでも可能な動作だったが、機能が万全でない状況ではその動作によって体に無理が生じた。
 バランスを崩してつまずき、地面に倒れこむ。
 反射的に手をつけば、生々しく擦り傷ができる。
 駄目か、と観念しつつも、再び立ち上がろうと力を入れる。
 顔を上げれば、追っ手は距離を縮めていた。
 絶望を感じるエリザベスの視線の先で、ふと、男の目が彼女から離れ、彼の右手の路地に移った。
 次いで男の走る速度が弱まる。
 転瞬、路地から猛スピードで人影が飛び出てき、そのまま男に体当たりを喰らわせると諸共に建物の脇に積み上げられているガラクタの中へ崩れていった。
 派手な音が響き、体のどこかを強打したのだろう、悲鳴が届いてきた。
 突然のことに驚き、思わず口元を手で覆う。その後の動きがなく、エリザベスは、
「ウォレン!」
 と男に体当たりを喰らわせた人物の名前を呼び、重心を前方に移し、膝を起こした。
 その直後。
「エリザベス」
 不意に後ろから名前を呼ばれ、驚いて声を上げ、エリザベスは振り向いた。
「――アレックス……」
 知った顔を発見し、体全体から力が抜ける。
 驚いたエリザベスに驚いたか、アレックスは両手を体の前で広げた。
「あ、驚かせてごめん。もう大丈夫だから、安心しなさい」
 穏やかに微笑み、アレックスはエリザベスが立ち上がるのに手を貸した。
「怪我は?」
 足を伸ばしたときにふとよろめいたのが目に留まったのだろう、アレックスが確認してくる。
「ないわ、ありがとう」
 痛む箇所はあるが、大事にいたるほどでもない。
 エリザベスは礼を述べると視線をウォレンのほうへ向けた。
 ガラクタの向こうで立ち上がる彼の姿を認め、ほっと息をつく。
 先ほどの悲鳴は、追ってきた男のものだったらしい。
 体に痛みが走らない程度に、足早にウォレンの下へ急ぐ。彼女のすぐ後ろにアレックスも続いた。
 人の気配を感じたのだろう、ウォレンが振り向いた。
 エリザベスとアレックスを確認した後、周囲にそれとなく目を配る。
 彼の右手が下げられたまま宙で数回振られる。男を殴ったのか、それともガラクタの中に倒れこんだ際のものか、痛めたのだろう。
 歩み寄るウォレンの左手が何か所持していることに気づき、エリザベスは目をそこにやった。
 銃だろうことは分かったが、しかし、じっくりと確認する前にウォレンがそれを己の背後に隠してしまった。
 まさか、と思ったが、銃声は聞いていない。
「ウォレン」
 視線をウォレンの目に戻したが、エリザベスの声に含まれていた疑問に対する答えは返ってこなかった。代わりに、安堵の色が彼の顔に表れる。
「遅くなってすまなかった。怪我はないか?」
 尋ねるウォレンに、ないわ、とアレックスに返答したのと同じ答えを返す。
 このときウォレンは、先ほどの男から取り上げ、己の背後に隠していた拳銃をアレックスに見せたのだが、エリザベスは彼らの無言のやりとりには気づかなかった。
「……その手はどうした?」
「え?」
 言われて手のひらを広げてみれば、砂粒の混じった血が薄く線を引いていた。
「あ、これはさっき転んで――」
 じんわりとした痛みを押さえ込むように手を握る。
 かすり傷よ、と続けようとしたとき、ウォレンの目がエリザベスの後方上空を見、ついで彼が顔ごとその方向を見上げた。
 つられてエリザベスとアレックスも振り返り、ウォレンの視線を辿る。
 彼らの視線の先では、事の成り行きをずっと見ていたのだろう、先ほどの4階の住人が右手に瓶をぶら下げたままこちらを見下ろしていた。だが、身の危険を感じ取ったのか、巻き込まれては面倒とばかりに慌てて顔をひっこめ、閉まりにくい窓を懸命に閉めた。
「……あいつも仲間か?」
 警戒しつつ行動に移ろうとするウォレンの気配を感じ取り、エリザベスは首を振る。
「いえ、彼はここの住人よ」
 答えた後で、先ほどの室内での住人とのやりとりが思い出される。ともすれば危ない状況だった、と考えれば、その色が顔に出たのだろう。そしてその変化は当然ながらウォレンに見抜かれた。
「何かあったのか?」
 口調に怒気が隠れているのを感じ取り、エリザベスは驚きつつも首を振った。
 知り合ってけっこうな月日が経っているが、未だにウォレンが声を荒げたところを見たことがない。
「何もないわ。だからほっといてあげて」
 普段穏やかな人ほど怒ったときが怖い、という。
 襲われそうになった、瓶を投げつけられた、など報告した場合、あの住人の今後を保障できなかった。
 エリザベスの言葉に、そうか、と呟きつつも、ウォレンの疑念は取り除かれていないらしい。
 が、
「ウォレン」
 というアレックスの呼びかけに本筋を思い出し、ウォレンは住人のことを思考から排除することにした。
「さ、行こか」
 エリザベスを促し、アレックスは自分がやってきた方向へ歩き始める。
「――リジー、君はアレックスとギルのところへ向かってくれ」
 とりあえずエリザベスを安全なところに、という意見でウォレンとアレックスは了解しているらしい。
「アレックス、頼めるか?」
「任せなさい」
 女性のエスコートには慣れています、とアレックスが返答する。
「ウォレンは?」
 一緒に来てくれないのか、とエリザベスは隣を歩くウォレンを見上げた。
「俺はここに残る。『彼ら』と言っていたが、相手が何人いるか分かるか?」
 残る、という言葉が気にかかる中、エリザベスは質問に答えるためこれまでのことを思い返した。
「……よく分からないけど……、でも男の人2人と、タクシーの運転手が……」
 言いつつも、不安の影を落とした表情をウォレンに見せる。
 それを予想していたのか、ウォレンは微笑をエリザベスに送った。
「心配するな」
 一言、そう告げるとウォレンは歩く速度を徐々に落とした。エリザベスとアレックスを見送った後、先ほど仕留めた男のところに戻るのだろう。
 エリザベスの歩調も自然にそれに倣おうとしたが、アレックスの誘導でウォレンとの距離ができ始める。
「……一応聞くけど――」
 アレックスの声に、エリザベスは彼を見た。
「――追われる心当たりは?」
 問われ、改めて思い返すが、見つかるはずもない。
 不可解そうに、エリザベスは首を横に振った。
 やがて、右横の視界が開けた。
 T字路に差しかかったらしい。
 エリザベスを伴って右折しようとしたアレックスは、しかしその足の行く先を変更し、直進を保った。右手の路地の先、一台のSUVが停車していたからだ。一見したところ、中に人は見当たらないが、念を押した。
 路地の先の車を右に見つつ、アレックスはエリザベスが己の影に入るよう促して歩調を速めた。
 その様子を見、ウォレンは一度止めた足を再び動かし始めた。
 その気配をアレックスが背後に感じた後、不意に、無人かと思われていた車の運転席のドアが開いた。
 ダッシュボードから何かを取り出し終えたらしい男が起き上がり、足を外に出した。
 急な動きを呈した彼の視線が前方を向く。
 エリザベスは、アレックスの背中に隠れる直前に、その男と一瞬だけ目が合った。
 後のことは、エリザベスはよく覚えていない。
 ただ、直後にアレックスに背中を押され、その勢いのまま建物の影に連れて行かれた。
 確か、何か乾いたような鈍いような音が聞こえてきた気がする。
 はっきり覚えているのは、顔だけを後方へ向けた際に見えた、ひとつの画。
 見えない糸に瞬間的に引っ張られたように、大きく後方に傾ぎ、倒れる姿……――


 全身から、血の気が引いた。
「――ウォレン!」
 足を止め、体ごと完全に振り返り、エリザベスは叫んだ。
 駆け寄ろうとするのを、アレックスが抱え込んで止めてくる。
 その力に必死に抗い、エリザベスはもう一度、名前を呼んだ。
 地面に背中から倒れこんだ彼が、動かない。


 全否定の声が、エリザベスの喉から絞り出された。
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