IN THIS CITY

第3話 Unspoken Truth

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15 Pressure Released

 ヘッドライトの先、前を行くセダンに従い、リンはギルバートから借りたダッジ・ラムのピックアップトラックを運転していた。
 詳細を語らないままにアレックスは車に乗り込んでしまったため、どこへ向かっているのかはおろか、何のために借り出されたのか、まったくもって見当がつかないところである。
 どうしようか迷ったものの、放っておくとなると逆に気になって仕方がない。
 釈然としないながらも、こうして車を走らせている次第だった。
 前方の道路を照らすヘッドライトの明るさが眩しく感じ始めるようになったのは、恐らく郊外へ出たために周囲の明かりが減ったからだろう。
 やがてひっそりとした住宅地へとアレックスの乗るセダンが滑り込み、玄関の電灯が点っている一軒の家の前で停車した。
 前のセダンのエンジンが切られるのを確認しつつ、リンも道路脇に車を寄せる。
 助手席越しに様子を窺ってみたが、何の変哲もない一軒家だった。
 窓を通して見える薄明るい室内からは、だが人の気配はしなかった。
 ヘッドライトを消し、エンジンを止めようかとキーに手を伸ばしたとき、車から降りたアレックスが歩み寄ってき、リンのいる運転席の窓を軽く叩いた。
「悪いねぇ。ちょっとそのまま待っててくれる?」
 窓を開ければ相変わらず何の説明もなくアレックスが頼んでくる。
「構いませんけど一体――」
「まぁそれはあいつに聞いて」
 じゃ、よろしく、とヒラヒラ手を振り、アレックスはリンの言葉を待たずに車から離れた。
 1人残され、質問の口を開けたままにリンは怪訝な顔をした。
「『あいつ』って誰です?」
 見えない第三者の存在を尋ねてみるものの、アレックスからの返答はなく、リンは仕方なく外に出していた手を中に戻し、窓を閉めた。
 体を少しばかり前へ倒し、ハンドルに載せた両手の指を動かしつつ、アレックスの姿を見送る。
 玄関に辿り着いた彼の動きから、軽さが消えた。
 警戒の色を見て取り、リンは指の動きを止めた。
 無意識的に、リン自身にも緊張が走る。
 暗い中にいるせいか、それと同時に背筋に寒いものが到来した。
 エンジンの無機質な音が振動と共に伝わる中、ふとバックミラーに目がいく。
 先ほどのアレックスの言葉のこともあり、慌てて後方を振り返って確認するが、後部座席には誰も座っていない。
 ほっと息をつきつつ前を向けば、フロントガラスにふわりとした影が見えた。
 驚いて声を出せば、その影も同じような動きを見せる。
 脈拍が速い中、よくよく見てみれば何のことはない、ぼんやりとガラスに映っていたのは自分の姿だった。
 胸に手を当てて撫で下ろし、大きく息を吐く。
「あーもーびっくりしたー」
 呼吸を落ち着かせて家を見やれば、中に入ったらしくアレックスの姿は消えていた。
 己の馬鹿らしさを認識すると共に、靄のかかっている今の状況に徐々に腹が立ってき、リンは憮然としながらハンドルに手をやり顔を載せた。


 虫の音に代わり、エンジンの音が浅い眠りの状態に届いてくる。
 それでも意識はまだゆらゆらとたゆたっていたが、ぎっと軋むドアの音によってウォレンは現実に引き戻され、後方に傾いでいた頭を起こし、テーブルの上で握っていた拳銃を構えた。
 その急な動作に血流がついてこず、視界にノイズが入る。
「ウォレン?」
 ぼやけた耳鳴りの中、聞きなれた声が届いてくる。
 力を抜き、ウォレンは拳銃を再びテーブルの上に下ろした。
「ここだ」
 一言投げかけ、右手を目に当てる。
 足音が近づいてくる。
 アレックスが居間に入ってくる前に目から右手を離し、慎重に椅子から腰を上げた。
 下段で拳銃を構えていたアレックスだったが、ウォレンを確認し部屋の中を見回すと警戒を解いた。
「2人ダウン、1人無事だ」
 簡単な報告をし、ウォレンも同じように拳銃を腰にしまう。
「お前さんは?」
 居間の向こうに見える『1人目』の足を一瞥し、アレックスが尋ねる。
「心配ない」
「顔色がよろしくないけど」
「光加減だろ」
「随分とやられたみたいだねぇ」
 即答で否定できず、ウォレンは無言でアレックスの視線を受け流した。
「で、無事な1人は?」
「隣にいる」
 言いながら示すウォレンの目の先を追えば、廊下が見える。
 なるほど、と頷き、アレックスは体の向きを元に戻した。
「ま、後は俺に任せて、お前は早いとこアンソニーのとこに行きなさい」
 言いながら親指で外を示す。
「未来の上院議員さんを待たせちゃ失礼だし」
 付け加えられた一言に、ウォレンが動きを止める。
 誰のことを指しているのかを認識し、彼が怪訝な顔をした。
「リンが?」
 来ているのか、と問えばアレックスから肯定が返ってくる。
 すぐに言葉が見つからず、次の句用に暫時口を開けていたウォレンが右手を開く。
「アレックス、彼は――」
「ギルはバーの経営、TJはエリザベスの護衛、俺はここの後始末」
 ウォレンの意見を遮り、お分かり? とアレックスが両手を広げてみせる。
「人手不足でね。彼ならある程度事情を知っても大丈夫でしょ? お前さん、やけに親しくしているみたいだし」
 真面目な顔でそう言われ、反論が思い当たらずに言葉が詰まり、ウォレンは口を閉じた。
 表情をそのままに背を向け、早く行きなさい、とアレックスが手を振る。
 廊下へと足を進める彼の後姿を見送った後、ウォレンは視線を落とした。
 関わらせたくないのなら、普段からあまり関わらないこと。
 人は容赦のない生き物だから、と以前に誰かから説かれた記憶がある。
 その主が去っていった方向を一度見やり、ウォレンは居間を後にした。


 彼が外に出て行った気配を背後に感じ取りつつ、アレックスは廊下を下った。
 『2人目』が血溜まりの中に伏せっている。
 屈みこみ、少しばかり体を上に向けさせた。
 目は閉じられており、腹部に手が当てられている。
 詳しい傷口の様子は分からないが、察するに刃物で刺されたのだろう。
 立ち上がり、アレックスは横手の部屋をひょいと覗き込んだ。
 視線の先、床に転がって何やらもがいていた男が、ふと顔を上げた。
 アレックスに見覚えがあったらしく、彼の顔が歪む。
 路地裏で見た男であることを確認し、アレックスは口を開いた。
「や。さっきは電話でどうも」
 軽い挨拶を投げかけつつ、部屋の中に入る。
 ざり、と足元でガラスの砕ける音がし、下を見る。
 瓶が割れており、そういえばビールの臭いが周囲に存在していた。
 視線を上げ、ぐるりと見回す。
 雑多なものは壁際に押しやられており、部屋の真ん中に椅子が置かれている。
 その周りの絨毯はところどころに柄とも取れない黒っぽい染みが存在し、全体的に濡れているようでもあった。近くにはコードの引き抜かれた電気スタンドとバケツが転がっているのが確認できる。
 およその部屋の状態をスキャンした後、ゆっくりとした動作でアレックスはジミーに目を向けた。
 静かだが周期の短い呼吸がなされており、アレックスの視線を受けて彼の喉が動く。
「……君の友人に『気をつけろ』と伝えておいたんだけど――」
 言葉を続けず、アレックスは再び部屋の中を見やった。
 暫時そのまま立っていた後、ジミーに目を戻す。
 置かれている状況は飲み込めているらしく、電話口での余裕は彼からは感じられなかった。
 無言のまま携帯電話を取り出し、アレックスは部屋を後にした。
 居間へ戻り、番号を入力する。
 呼び出し音が鳴る中、窓際へ近寄って外の様子を窺う。通りにはセダンのみが停車していた。
「テレンス? さっき依頼した『ハウスクリーニング』なんだけど、2部屋で確定で」
 依頼を承った声を聞くと、アレックスは携帯電話を閉じた。
 居間のほうへ振り返れば、『1人目』が仰向けに床に倒れているのが目に入った。
 近づき、広がっている血を踏まないように膝をつく。
 閉じられた両目の少し上、額の真ん中に銃創があった。
 視線をずらせば、心臓とその付近に同じような入射痕が存在している。
 深く息をついて目を閉じ、時間を置いた後アレックスは膝を起こした。


 どれくらい待てばいいのか、時間が分からないときほど経過が遅く感じられる。
 じっと観察していた先、玄関のドアが開き、リンは、ようやくか、と体を起こした。
 が、薄明かりの中に歩み出てきた人物の姿を見、その動作を一瞬止める。
「ウォレン?」
 言いつつ運転席のドアを開け、外に一歩踏み出す。
「ここで何を――」
「運転頼む」
「――って怪我?」
 近づくに連れて徐々に見えてきたウォレンの状態が尋常ではなく、車の前を通って駆け寄る。
「……うっわ」
 出血量に驚き、思わず声を上げてリンは眉をしかめた。
「……相変わらず素直な奴だな」
 なるべく認識しないでおこうと思っていた怪我の具合をつきつけられ、ウォレンが迷惑そうに一言放つ。
「そりゃ、血がそんなに出てれば――」
「感想はいいから早く乗れ」
「手当てを……」
「処置はしてある」
「顔色も悪――」
「気のせいだ」
「だって血の気が――」
「お前は運転席側じゃないのか?」
「何?」
 返ってきた疑問の声に、ウォレンは小さく息をつくことで答えた。
 この手の怪我にはあまり遭遇したことがないのか、余程気になるらしい。
 続けられる呟きを適当に受け流し、ウォレンは歩く速度を緩めずにドアに向かった。
「あ、ちょっと待って、今ドア開けるから」
 リンが先に進み出て助手席のドアを開ける。
 が、ウォレンはその隣を素通りして後部座席へと乗り込んだ。
 バタン、とドアが閉まる音が周囲に拡散する。
 暫時その場に留まっていたリンだったが、あ、そう、と1人頷くと助手席のドアを閉め、運転席へ向かった。
「アンソニーのところまで頼む」
 シートベルトを締めるリンにそう告げ、ウォレンは座席の背に寄りかかる。
 血流がざわめき、力が抜け落ちていきそうになった。
「そりゃ分かったけど、何でわざわざ後ろに?」
「街中通るだろ」
 キーを回してエンジンをかけつつ、リンが、ああ、と納得する。
 別段、好意を無下にされたわけではなかったらしい。
 確かに血まみれの状態が人目についたら大事になるだろう。
「目立たなそうなところ走るよ」
 車を滑り出させつつ、告げる。
「どうも」
「横になってればいいから」
「いや、このままでいい」
「少しは楽になるんじゃない?」
「かもな」
「とりあえず、安静にして――」
「とりあえずお前が落ち着け」
 言われ、もっともだ、と頷いてリンは一度口を閉じた。
 しかしウォレンの傷の具合を考えると、どうしても気が急いてしまう。
「なるべく早く着くようにするから」
「普通に走れ。捕まったら困る」
 再びもっともなことを言われ、リンはアクセルを踏んでいた足を少しばかり離した。
 加速の音が消え、それにつられて焦りも薄らぐ。
 角を曲がるついでにバックミラーでちらと様子を窺ってみれば、後方へ頭を預けて目を閉じているウォレンの姿が映っていた。
 外からのわずかな明かりの中でも、顔から血の気が引いていることは十分に見て取れる。
 収まりそうな気配を持っていた不安が息を吹き返し、手先が少しばかり狂った。
「……前見て運転しろよ」
「あ」
 慌ててリンがハンドルを握る手に力を戻し、注意されたとおりに前を見る。
 人通りも車通りも少ないとはいえ、油断していいものでもない。
「大丈夫か?」
「そっちこそ」
「安心しろ。着くまでに俺が死ぬ確率より、お前が交通事故を起こす確率のほうがずっと高い」
 そっちが心配だ、とウォレンは体の位置を前方に移し、より座り心地が楽である場所を探った。
「……運転技術には定評があるんだけど」
「誰の?」
「僕の」
 聞こえてきた答えに、ウォレンが数秒の無言の疑問の間を取れば、失礼な、とリンが手を広げる。
「今まで無事故だよ?」
「嘘はつくな」
「ホントだって」
「なら単に運転する機会が少なかっただけじゃないのか?」
「そんなことは――」
 と途中まで言いかけ、否定できるわけでもないことに気づく。
 そのまま言葉を濁せば、後部座席から小さくため息が聞こえてきた。
 血の気のない顔をしているにも関わらず、普段と同じ小憎らしいウォレンの態度に多少なりとも安心感を覚え、リンも息をつくと運転に集中した。
 通りすがる数台の車の走行音が近づき、遠ざかる。
 意識がそれに溶け込みそうになる中、ウォレンがうっすらと目を開ければ、肩の力が抜けたらしいリンの姿を確認することができた。
「……お前は何でまたここに?」
「へ?」
 言いつつ後部座席のウォレンを一瞥し、ああ、とリンが言葉を続ける。
「ギルのバーで飲んでたら、アレックスに頼ま――」
「飲んでるのか?」
「え」
 しまった、とバックミラーを見れば、声音通りの表情をしたウォレンと目が合う。
「いや、えーっと、まぁ、飲んでなくはないんだけど……」
 ぼかされた肯定の返事を聞き、ウォレンが目を閉じて後方へ頭を預けた。
「あ、でも別に大した量じゃないから心配ないよ」
 多分、と付け加え、バックミラー越しにそっと後ろの様子を窺えば、子音のみの適当な相槌が返ってきた。
 何かもう一言二言足そうかと口を開いたが、咎めてくる気配がなかったため、リンはそのまま口を閉じ、前方へ広く視界をとった。
 それからどれくらい経った頃か。
「……悪いな」
 小さく聞こえてきた声に、リンはバックミラーを見た。
 が、ウォレンは相変わらず頭を後方へ預けて目を閉じていた。
 言葉が続けられる様子はない。
 謝られる理由も見当たらず、空耳か、とリンは処理をした。
 無機質な走行音のみが空間を支配している。
 眠ったのだろうか、ウォレンも静けさに身を委ねているようだった。
 安静に、とは言ったものの、動きがないとやはり心配になる。
 可能な限り急ごう、とリンがハンドルを握る手に力を入れた。
 差し掛かった交差点には誰も存在しておらず、減速のままに通過した。
「……今、赤だったよな」
 口うるさいお巡りでもいるのか、後部座席から一言、聞こえてきた。


 時計を見やる。
 確かに時間は指定しなかったが、それにしても遅すぎる。
 解きかけのクロスワードが載っている医学雑誌をテーブルの上に投げ、クラウスは弾みをつけるとソファから立ち上がった。
 二日酔いもこの時間になればどうということはなくなっている。
 玄関を一瞥するがウォレンが来る気配は一向になく、大きくため息をついてキッチンへと向かった。
 これだけ待たされているのだ。コーヒーの一杯や二杯頂いても文句は言われないだろう。
 今朝方ウォレンが挽いていた豆の袋を取り出し、次いでコーヒーミルを探す。
 ふと、医療設備の整っている階下から足音が上がってき、やがてそれが居間にやってきた。
「こんな時間に下で何してんだ?」
 息子の質問に、ん、とアンソニーが顔を上げる。
「いや、ちょっとね」
 言いつつも顔を背けるアンソニーに、クラウスが怪訝な表情で無言を返す。
 夕食までは普通な様子だったが、どうもここ小一時間の父親の行動が不可解だ。
 手の動きを止め、記憶を手繰り原因を探る。
 ウォレンの到着が遅いことに気を取られていて気がつかなかったが、食後にかかってきた一本の電話がどうも怪しい。
「……『時間外診療』か?」
「んー、まぁ、ね」
 濁しながらアンソニーは冷蔵庫を開き、ミネラルウォーターを取り出した。
 何も珍しいことではない。
 モーリスからの依頼で時折仕事をしているアンソニーの姿は、クラウスにとっては小さい頃から見慣れているものだった。
 だが正直なところ、続けて欲しくない、というのが本音である。
 惨事がアンソニーの身にまで及ばないという保証はない。これまでにそのような経験はないが、これからもないとは限らない。
「頻度は落ちてるよ」
 クラウスの心の内を察してか、顔を上げればアンソニーがその穏やかな目を向けていた。
「さ、お前はもう家に帰ったら? 明日は朝が早いんでしょ?」
 先ほどからそれとなく促されていることには気づいているが、クラウスはそれを流すように腕時計に視線を落とした。
「いや、もう少し――」
 言いかけたところで、1階の診療所の裏口のほうのベルが鳴った。
 コップを置いてすぐさま階下へ向かうアンソニーの横顔が真面目なものへ変わる。
「お前は帰りなさい」
 行きがけに残された言葉と声の調子に違和感を覚え、クラウスがアンソニーの背中に疑問を投げかける。
「親父?」
 コーヒー豆の袋を近くに置き、遅れてクラウスもまた階下へと向かった。


 肩を貸すから、という声に聞き覚えはなかったが、それに断りを入れる声には聞き覚えがあった。
 まさか、と思いつつクラウスは階段を下りる足を急がせる。
「突然で悪いな」
「いや、アレックスから連絡はきてたから、準備はできてるよ」
 こっちに、と誘導するアンソニーの姿が壁に隠される。
「歩けてないじゃないか」
「歩ける」
「無理するなよ。肩貸すって」
「必要ない。お前はもう戻れ」
「でも――」
 続く廊下を足早に過ぎれば、会話の主が前方に確認できる。
 まさか、が当たった。
「ウォレン?」
 強い疑問のトーンでクラウスは呼んだ。
 ウォレンが振り返り、足を止めたついでに壁に背中をもたれかけさせる。
「クラウス?」
 何だ帰ってなかったのか、と続けようとして朝に彼と交わした会話を思い出す。
「――あー、悪い。忘れてた」
 言いつつウォレンが数瞬目を瞑る。
 話がある、と言われていたが、先の一件で他の案件が頭の中を支配していたため記憶の隅に追いやられていた。
「忘れてたって――……」
 ウォレンに近づきながら、クラウスは耳に入ってきた言葉をそのまま鸚鵡返しに紡いだ。しかし、後が続かない。
 ただ、一見しただけで分かる怪我の具合に、手のひらから胸にかけてぞっとした鋭い痛みが走った。
「……お前……」
「またの機会でいいか?」
 確認されるが、クラウスには何のことか一瞬見当がつかなかった。
 互いの思考の焦点がずれていることが分かる。
 今はそれどころじゃないだろ、と返そうとしたが、この状態を平然と受け止めているウォレンが理解できず、咄嗟に言葉が出てこない。
「ウォレン」
 アンソニーに促され、ウォレンは顔を彼に向けると背を壁から離した。
 手を貸そうとするリンの力は借りず、手術用の一式が揃っている奥へと去っていく。
 予期していなかった状況に呆然としていたクラウスだったが、途中で我に返り、慌てて後を追った。
「親父、俺も手伝う」
「だめ」
 間髪入れずに返ってきた拒否に、クラウスが足を止める。
 アンソニーの声音がいつもと違うことに対し、リンもまたクラウスの隣で立ち止まった。
 アンソニーが振り返って後ろの2人に向き直る。
「ここから先は私が請け負うから」
 断固とした口調と表情で制止の手を広げる。
「俺だって手術の経験くらいある」
「知ってるよ」
「身内だろうが平気だ。やれる」
「いや、そういう問題じゃないから」
 空間内に引いた、見えない一線を踏み越えようとするクラウスに待ったをかけ、後ろへ下がるようにアンソニーが促す。
「おい親父――」
 クラウスが言葉を続けようとした矢先、奥から派手な音が届いてきた。
 3人ともに音の源へ視線を投げる。
 何が起こったのかすぐに察し、アンソニーの脇をすり抜けてクラウスとリンが奥へと向かった。
「ウォレン!」
 開けたドアの先、床の上に倒れているウォレンの姿を見つけ、駆け寄る。
 彼の隣、黒く重たそうな物が、散乱した医療器具に紛れて床の上に横になっていた。
 この家には存在しない代物だ。所持していたのはウォレンに違いなかった。
 二度目の衝撃に動作が一瞬止まる。が、クラウスは今見たものを意識的に思考から排除し、集中すべきところに注意を払った。
 屈みこみ、声をかけるがウォレンからの反応はない。
 体温の冷たさに嫌な緊張を感じるものの、息はまだある。
「おい、足を持て」
 人の気配に指示を出せば、リンが了解の意を示す。
 手術用にアンソニーが用意した寝台は近い。
「3で行くぞ」
「分かった」
 掛け声に合わせて持ち上げ、寝台の上にウォレンを下ろす。
 相変わらず、意識はない。
 直ちに処置に取り掛かろうと、クラウスが部屋の中を見回す。
「クラウス、リン」
「手伝う」
 耳に入ってきたアンソニーの声は流し、クラウスは手を洗うため、室内に設けられている水道のほうへ向かった。
「僕も何か」
 彼の行動に倣ってリンも足を動かしかける。が、
「君たち」
 というアンソニーの諭すような口調にクラウスとリンが足を止めて彼を見た。
「帰りなさい」
 ドアを示し、アンソニーが命じる。
「親父――」
「2人とも明日は仕事でしょ」
「関係ないだろ」
「問答無用」
 強くきっぱりと告げ、歩を進めて2人を誘導する。
「さ、行った行った」
 半ば強制的に2人を室外へ押し出し、アンソニーはドアを閉めた。
 背中を押されて追い出された後、振り返ってドアノブを捻ってはみるものの、鍵がかけられたらしくドアは開こうとはしなかった。
 手を離し、ため息をついてクラウスは一歩後退する。
 暫時の静寂が流れる。
「……大丈夫かな」
「……心配はねぇよ。多分」
 視線の先はドアに固定したまま、クラウスは呟かれた問いに答えた。
 父親の腕は知っている。自分の応援がなくても大丈夫だろう。
 隣でドアの向こうの様子を窺っているリンもまた、尋ねはしたもののアンソニーに任せておけば安心だと感じていた。
 揃って深く息を吐く。
 ドア越しに感じられるアンソニーの気配のほかは、いたって静かな空間だった。
「で――」
 十分な間を置いた後にクラウスが短く切り出す。
 隣にいるリンが彼を見上げた。
「――誰だお前?」
 リンを見、クラウスは先ほどからなんとなく引っかかっていた疑問を口に出した。
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